アジアの街角から 1980チベット偵査雑記 | 日本のお姉さん

アジアの街角から 1980チベット偵査雑記

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験回想録 ▽▼     by リー将軍さん(70才男性)
☆ 1980チベット偵査雑記(1) ――――――――――2008/06/02

私は1980年代の初期にチベットに入ったが、べつに行きたくて行ったわけではない。ボスの命令であったから行っただけである。‥‥‥行きたくなかったが‥‥‥仕事ならばしようがオマヘン‥‥‥。
チベットは、文化大革命時の実権派の追放・下放政策から、顕著になりだした漢人のチベットへの移民現象。ーーー特に1559年にインドへ亡命したダライラマ14世らの復権を願い続けられていたゲリラ活動が、74~75年に完全に鎮圧され、事実上チベット独立が粉砕され、チベット領内が沈静化してからは、その移民政策はより強められた。

この、チベット漢化政策の成否の視察であった。今と違い、当時の貧乏国中国が、外国人をチベットに入れて歓迎するは、観光収入を得る旅行者だけである。少しでも外貨を稼がねばならない。だからこの旅行客の受け入れはもう80年代から始まっていた。だが、各国の役人や報道機関を入れるにはまだ国連の人権騒ぎの元となることから中国は嫌がっていた。

だからボスは、‥‥‥外務省情報による役人のラサ入りでは、官製許可の限定取材しかできないから、本当の情報が入らんから「お前らイケや!」である。外務省情報を全然信用しないボスのこと、自分で大金をはたいて調べる気持になったのであろう‥‥‥。

その旅行の動機づくりに、日本企業の中国市場、それもチベットも含むとか?チベット特産品の日本輸入の可能性視察とかの、どうでもええ理由をくっつけてシナ側のゼニ欲しさの根性につけ込んで許可を取ったのであろう。だが、なぜチベットの漢化政策の成功・失敗を知りたいのか?その理由がよう分からんかった――――。
天津から上海までの沿海地方への日本製品の売り込みにもっと精を出さねばならないのに、、沿岸そこのけで内陸部も内陸部、世界の屋根ウラのチベット高原に行かねばならんのか??
ーーーその意味がちーとも分からんかった。だが、もともとこのボスはよう分からんところが多い御仁ですから仕方おまへん・・・それに、年齢と役職に不相応な高いゼセいただいとるから、行け!とゆうとこで命の交換さえなければ行くよりしようがおまへん。

まあ、このボスの背後を思えば‥‥「ま~その~」様あたりが指令元と推察はできるが、、ボスが「俺ひとりの考えや」とゆうから、話はそうせなアカンわなあ~~。親分のそのまた親分は、目から鼻に抜ける政治勘の大天才でした・・チベットにもその眼力は届いていたのであろうや? 先生が常に仰っておられた「他人の気づかないところに常に目を配れ!」との言葉どおり、他の政治家の注意が届いていないこの辺境屋根ウラに、この闇将軍の目はいっていたのであろうと今では思う・・。今から思えば、元「日経連副会長・アラビア石油社長・通産省事務次官」のK氏=日本列島改造論の政策立案者)や「ロッキード謀略論」のもう一人の評論家K氏の言うが如く、

オーストラリアでのウラン開発が、米国ユダヤ資本の逆鱗に触れロッキードで嵌められた角さん・・まだまだ決してウランを諦めておらず、チベットのウランを狙っていたのかも‥‥まさか!?とは思うが、天才角さんのこと、しぶとき角さん、ーーーその本音は分かりゃしませんわーーーだが、この天才とその側近のマンマンの下でいつもコキ使われる八丁掘りの下役同心がおるとうゆうことです。転んでもタダで起きない先生だから・・・。1976年に東京でも旗揚げされた、ダライラマ法王日本代表部事務所の「チベット亡命政府日本代表機関」と、なにか支援のポーズのかたちで選挙宣伝に利用の魂胆なのか?ーーー政治宣伝でも大天才の御人ですからね。それとも中共政府へ駆け引き恫喝の材料、のためのチベット調査なのか?とにかく高度な政治判断は、私のようなペイには窺いしれない・・・だから、あくまでボスの考えでチベットに行かされたとゆうことにしときます。

ーーー昨今のチベットとオリンピック、いい機会なので昔話――――。
この視察旅行は、我々の事務所の本業とは関係がないから、事務所の経費では落とせない、、ボスがポケットマネー(金主元は別にいるかも分からんが?)の大金をはたいた。大金とゆうても、日本と物価が違うから50万円ほどであったが。とにかく高給取りの人件費を、タダで、危険手当なしでコキ使えるとゆうのは何よりの利点やわなあ~。 = つづく =
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┃▼▽ 心が元気になる話 ▽▼         by hideおじさん


☆ 南の空の英雄(1)―知られざる日本人の功績 ――― 2008/06/02

私たちは、学校教育の中で先の「戦争」の反省を教えられ、東南アジアの国々から、常に戦争の責任を追求されている思い込んでいる。そして、フィリピンはアジアでも反日的と一般にいわれている。

しかし、この地にフィリピン人画家ダニエル・H・ディゾン氏の発案で建てられた「神風特別攻撃隊」の慰霊碑があることを知る日本人は少ない。残念ながら現在は、ピナツボ火山の噴火により埋もれてしまったが、碑のあったマバラカットには今でも「神風」を知っているフィリピン人が少なくない。

昭和19年10月25日、
関行男大尉率いる「敷島隊」5機が、フィリピンのマバラカット飛行場から飛び立ち、レイテ湾のアメリカ艦隊に突入した――――。
終戦まで、陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、4279名の若い命が散った――――。

戦後の日本では、「戦争の悲劇」の代名詞としてしか語られることのない「神風」だが、その発祥の地であるフィリピンでは、単純に「悲劇」とは語られていない。ディゾン氏は語る。「こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかった。同じアジア人として、このような英雄がマバラカットとアンヘレスで誕生したことを“誇り”に思っています」

氏は続けて「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は世界のあらゆる人種が平等であるべきだと戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する最後の抵抗だったと言えるでしょう」と。フィリピンはスペインの植民地であり、その後アメリカの植民地という苦難の歴史を持っている。

それだけに人々の心に確固たる愛国心を育んできた。だからこそフィリピンの人々は、本当の英雄のなんたるかを知っているに違いない。
フィリピン国歌には、こんな一節がある。「誉れ高い英雄たちの生まれた国を崇めよ」別の慰霊祭が行われた村では、参加した元日本兵が帰途に着く際、地元高校の女学生からこんな声を掛けられたという。

「Brave!=勇敢!」
そして、「あなたたちはカミカゼのパイロットを尊敬しているのですか?」というインタビューに対し、高校生たちは屈託のない笑顔でこう答えたという。「もちろんです。だって彼らはヒーローですから」
何故フィリピンの人々の中に、特攻隊を敬い、その勇気を賞賛する人たちがいるのか、今の日本人は理解できるのだろうか。そして、フィリピン人と同じように彼らを敬う気持を持てるのだろうか。今は火山灰の下に埋もれている「神風特攻隊全戦没者の碑」の最後には、こう記されている。
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カミカゼ特攻は、すべての世界史の記録に例のない壮挙であり、また歴史のあきらかにするところによれば、その背後にあった理念は、正に凡ての国が相互尊重と機会均等の原則に従って、共存共栄を偕[とも]にする世界の秩序と平和の確立をひたむきに願い、その実現のため散華したことです。

フィリピン、カミカゼ記念協会 会長 ダニエル・H・ディゾン
└--------ーーー埋もれた記念碑の周りには、今でも、地元住民からの花の絶えることがないという。 = おわり =