高志さんのコラム 「国民年金の花柳な生活」
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■2008/05/22 (木) 軍艦物語
日本海海戦に参加した艦艇は殆ど外国製だった。ただ、緒戦に敗れ、散り散りになって遁走するバルチック艦隊を追って夜襲をかけた水雷艇は国産だった。帝国海軍がすべての艦艇を自力で建造すると宣言したのは明治44年である。きっかけは日露戦争で最新鋭の戦艦「初瀬」が触雷沈没した時に遡る。同時に戦艦「八島」も蝕雷沈没、一挙に主力艦2隻を失った海軍は対策に頭を抱え、遂に明治天皇の御臨席を仰いで、御前会議まで開いたという。戦争が始まる前に注文して開戦までには就役している筈だった戦艦「香取」「鹿島」も結局英国造船所の都合で間に合わなかった。その為海軍は艦艇のやりくりに最後まで苦しむのである。
こういう事態を防ぐ為に全艦艇を国産にすると斎藤実海軍次官が議会で宣言した時、周囲からは日本の造船技術に疑問を持ち、不安視する意見が巻き起こった。それまでは建造は主としてイギリスの造船所に依頼するが、基本設計は日本でしていた。最後の外注となった巡洋戦艦「金剛」は画期的な設計で、丁度その頃ほぼ同じ大きさの戦艦「ライオン」級を建造中だったイギリス海軍は設計図を見て驚き、急遽工事を中断して「金剛」をそっくり真似て「タイガー」を作った。しかし主砲は「金剛」の14インチに対し13.5インチしか積む事が出来なかった。・・・・これは少年時代繰り返して読んだ「軍艦物語」から得た知識である。多少イギリスを悪く言い、わが国の優秀さを誇張しているきらいはあるが間違いのないところだろう。ただし、戦後の解説は少し異なる。戦後の記述では「金剛」の設計は建造したヴィッカース社となっている。「金剛」は昭和19年11月台湾沖で沈むまで連合艦隊の中で最も活躍した
艦であった。
それにしても維新後の僅かな期間に造船業をそこまで発展させた先人の努力には頭が下がる。航空母艦や潜水艦などの建艦技術は今でも限られた国しか持っていない事を考えると驚嘆すべき事柄なのである。維新前の国民の知的レベルは今考える以上に高かったのではなかろうか。私達は徳川時代は封建制で全てが停滞し、科学分野では欧米に比し大きく遅れていたという様に教えられた。しかし今考えると、これは薩長政府のプロパガンダで、徳川幕府を殊更に悪く貶めていた様に思われる。丁度戦前の日本を総て否定し、悪とする戦後の誤った教育に似通ったところがある。
■2008/05/21 (水) 移民
今年もまた「海軍記念日」が巡って来る。私は毎年、今時分になると血が騒ぐが、こういう人間は最早絶滅に瀕しているのかも知れない。
しかし、国の危急存亡の瀬戸際を救い、勝利を得た歴史を知らない国民を持つ諸外国の例があるだろうか。イギリスではトラファルガーの海戦に勝利した日を盛大に祝う。日本海海戦はそれより更に100年後の近現代の話である。その時既に生まれていた私の母は機嫌が良いと「日本海海戦の歌」を歌う。敵艦見えたり近づきたり/ 皇国(みくに)の興廃ただこの一挙各員一層努力せよと/ 旗艦の帆柱信号上がる・・・・」「三つ子の魂百まで」とは将にこれを言うのだ。母が小学校に入った頃、周囲は皆体験者ばかりで生々しい話も聞けただろうから、歌を忘れないのも分かる。歴史を教えられる事のない今の子供達が何も知らないのは寧ろ当然か。
記録によると明治38年の日本総人口は約4662万人だ。これだけの員数で大国ロシアと戦ったのである。国勢調査が始った大正14年の総人口は59,737,000人で以後順調に増加して、昭和15年には71,933,000人になっている。戦後の昭和22年に臨時国勢調査が行われている。戦禍で多くの人命を失ったが外地からの引揚者も多く、総人口(沖縄を除く)は7千8百万人だった。昭和25年には8320万人と僅か3年で500万人以上も増加している。こうして順調に伸びた日本の人口が国勢調査で初めて1億人を超えるのが昭和45年である。最近俄かに政治課題として論じられる様になったものに定住外国人の参政権付与と並んで「移民」問題がある。確かに国民は老齢化し、相対的に若者が減って人口分布図を見ると明治時代のピラミッド型から今流行のメタボ形に変わっている。
この不足を補う為に移民を推奨しているのだが、目先の利益に惑わされた愚かな考えと言う他ない。帰化の簡略化とともに一つ間違えば国を滅ぼす元凶となる。移民が労働力の確保を目的とするものなら、現在の日本には潜在的に有り余った労働力があるのだ。定年を70才にして更にニートやフリーターをなくすれば事足りるのではないか。これは企業経営者の意識を改め、学校教育を変えるだけで簡単に達成出来る。中でも企業が目先の利益のみを追求し、株主を優遇する「グローバル」現象は楽して儲ける傾向を助長するだけだ。
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05/26 (月) 募金の事情
私の両親はクリスチャンだったので、不信心な私も時々教会へ行った。他の宗教については全く知らないが、キリスト教では必ず最後に「献金」がある。仮に財布を忘れて献金しなくても誰も咎めはしない。次の機会に2回分献金すれば良いのである。赤い羽根の募金が始ったのは何時の頃だったか。高校生だったが、街頭募金の割り当てが学校に来て、2,3年生が街頭に立つ事になった。「それは女子の仕事じゃ、男では金が集まらん」と言い出す者があって、結局女子だけが手分けして日曜日の1日を棒に振ったのである。「男女は同権だけ、男子も出席しんさい」などとゴネる女生徒もいなかった事を考えると我々は良い時代に居たのだなと思う。
私が始めて募金する側になったのは鳥取大火の後だ。もう高校は卒業していたがクラスメートの中に被災者がいたので見舞いを贈る事になった。丸焼けだから何でも良い。大急ぎで趣意書をガリ版刷りにして郵送し、2日後、友人が在宅する頃を選んで市内を回った。半分は学生の身分で懐は寂しいから集まる金も大した金額ではない。中には石鹸や茶碗の物納もある。本当はキャッシュが欲しいのだがそうも言えず、集める事の難しさを思い知らされる体験だった。机を並べている時には気が付かなかった本性も分かる。僅かな金を出し渋るのである。こちらも世間知らずで大義名分を振りかざして献金するのは当たり前に様な顔をしていたが相手にとっては迷惑な話だったろう。入院している時に「赤い羽根」からのプレゼントを貰った事がある。カビの生えた餅とアメリカから送られて来たという中古の背広だった。アル・カポネが着る様な派手な色で、寸法がまるで違う。超LLサイズなのだ。身長2米、胸囲も1メートル以上なければ着こなせない。こういう物を平気で贈ってくる役人仕事に呆れるばかりだった。
涙もろいのか単なるオッチョコチョイなのか、私は直ぐ乗せられるタチである。女房がそれに輪を掛けており、今まで何かあると直ぐに募金に応じていた。国内外で色々の募金に応じた事数知れずだが、海外に送る時はその金が如何使われるかが問題だ。海外のボランティア活動に詳しい人に聞くと援助物資は殆ど助けを必要としている人の許には届いていないという。援助物資には最後まで付き添いが必要だ。そこまでやらなければ本当の援助はならない。モノと一緒に人的援助が必要なのだ。
05/25 (日) ラサより愛を込めて
日本のメディアは何時からチャイナの傘下に入ったのか。テレビも新聞も「四川大地震」で埋まっている。悪いが、もう結構だ。義捐金も程々で良い。相手は世界一の金持ちで、世界一軍事費の多い国である。
災害のニュースを流す方は安直で楽なのだ。題材は幾らでもあるから、そのまま右から左に送信していれば事足りるし、編集によって感動を高める事も出来る。しかし、その分真実は遠ざかるのだ。私自身も少し知識が出来て、この附近は歴史的に地震のない地方である事を知った。唐山地震を考えていたが地図を見て感じる以上に距離は離れている。謂わば地震の安全地帯なのでシナは核施設を建設していた。最初、人的支援の申し入れを拒否していたのはその為であったらしい。被害が大きく、隠し通せぬ程である事が分かって初めて支援を要請したのだ。
シナが隠している所為もあるが、この問題を大きく取り上げたメディアも無く、僅かに新華社通信の《がれきの下に埋もれた放射性物質32個のうち30個を回収した》と《周辺の水質や大気に悪影響はない》という報道だけだが、そんなに呑気なものではないだろう。四川省の向うにはチベット自治区がある。中でも首都ラサは震源地に近いから揺れなかったという事は考えられない。ラサにはユネスコの世界遺産に登録されたポタラ宮をはじめ名勝が数多くあるが、現在如何なっているのだろうか。観光地として、一見立派な高層建築が並んでいたが、あの中に「おから工事」がどれほど含まれているのか。漢族の移民が増えたとはいえ、そこで暮らす人々の大半はチベット族だ。彼等の状況はただでさえ悲惨なのに救援も得られず、深刻な状態になっているのではないかと危ぶまれる。
戦前発行された三省堂の世界地図を見ると「拉薩」には「ラッサ」と読み仮名がふってある。語源の「ラ」は神を「サ」は地を表すという。本来は神の土地なのだ。「薩」は「菩薩」の薩だが、近頃のシナ文字では「サ」は「薩」から「生」を抜いたものになっている。かな文字の無い国というのも不便なものだ。その為に略字を更に簡略化して漢字に含まれる意味を殺してしまっている。逆に漢字を止めて、かな文字だけにした韓国にも弊害が出て来ている様だ。表音だけに用いるならアルファベットで間に合うのである。長い歴史を持つ漢字を捨てたところから国自体もおかしくなってしまったのではないか。