突然変異型政治家「小泉純一郎」は、なぜ面白いのか? | 日本のお姉さん

突然変異型政治家「小泉純一郎」は、なぜ面白いのか?


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▼突然変異型政治家「小泉純一郎」は、なぜ面白いのか?小泉純一郎の性格・行動傾向を読み解く。(じじ放談)
小泉純一郎の政策に賛同する者も批判する者も、小泉純一郎の軽佻浮薄な言動に共感する者も、嫌悪を感じる者も、小泉純一郎が「気になる存在」であることに異論を唱える者はおるまい。利権と政略が渦巻く我が政界において、これと一線を画した稀有な存在が小泉純一郎なのだ。あの民主党びいきで自民党嫌いの立花隆も小泉純一郎を「面白い政治家」とみなしていた。

小泉純一郎の一筋縄ではいかない「分かりにくさ」は、例えば、中国や韓国並びに我が国政財界の強力な反対を押し切って靖国神社参拝を強行したり、ブッシュのポチと罵られながら、米国追従外交を貫き通すなど「頑固一徹」さを示したかと思えば、道路公団民営化のように、途中でやる気を失って「投げやり」になる等、行動に一貫性がない。郵政民営化法案に反対した長年の同志を切り捨てる代り、ホリエモンを持ち上げて見せた。切り捨てられた長年の同志も「小泉純一郎の手の内が読めなかったのではないか」と同情したくなる。YKKといわれた長年の朋友加藤紘一が森喜朗首相(当時)に造反した時は「森喜朗を徹底して支え、朋友加藤紘一の謀反を潰した」こともあった。要するに、小泉純一郎という男は「行動の予測を立てにくい」のだ。

イラクに自衛隊を派遣する件に関する国会答弁で、民主党の岡田代表(当時)だったか、「イラクのほぼ全土が内戦状態にある。自衛隊を派遣する場所は戦闘地域ではないか?非戦闘地域である根拠を示せ」と食い下がったことがある。小泉純一郎は即座に「自衛隊を派遣する地域は非戦闘地域です」といった。非戦闘地域に自衛隊を派遣するのではなく、自衛隊を派遣する地域は(自動的に)非戦闘地域になると開き直った。これは明らかに詭弁である。だが、「これ以上追及されない」論理ではある。小泉純一郎は、自らの発言が「詭弁である」ことは分かっていたはずだ。だが、小泉はブッシュとの約束を守るために「ウソも方便」「詭弁も答弁」を繰り出したのだ。最近、小泉純一郎は日経プレミアシリーズから「音楽遍歴」という文庫本を出した。中味は音楽遍歴とオペラの話題が中心で、推薦するほどではない。オペラやプレスリーに興味がない筆者がなぜ購入したかというと「なんぞ、面白いネタでも書いてないか」と思っただけで他意はない。この本で筆者の目にとまった点が一つだけあった。「ウソをつき通す男の美学」という以下3点の内容である。(文章を短くするため若干要約した。・・筆者)

「歌舞伎<勧進帳>こそ日本のオペラ」という箇所で「(弁慶が)主君(義経)をかばうためのウソと知りながら、<疑って悪かった>とする(関所の代官)富樫の心情に、日本人は心打たれる。真心のこもった<ウソ>というか、<真実のウソ>に感動する。

さらに、「忠臣蔵も<ウソ>がポイント」という箇所で、大石内蔵助は討ち入り前日、浅野内匠頭の夫人を訪ねた。夫人から「いつ討ち入りしてくれるのか?」とせっつかられたが、内蔵助はスパイが潜入しているかもしれぬと用心して「討ち入りなど全く考えていない」とあえてウソをいう。夫人は内蔵助のあまりのふがいなさに怒り席を立ってしまう。内蔵助は内匠頭の仏前に手を合わせ、討ち入り血判状を置いて寂しく帰途につく。要するに、本心を語りたくても語れないつらさに耐えることが男の美学である・・・。

さらに、「砂の器」という映画がある。警察がピアニストで出世している加藤剛の父親を捜しだす。父親は(らい)療養施設に入っている。警察が加藤剛の写真を見せ「これがあんたの息子だな」と尋ねる。父は息子に会いたいのだが、また自分の病気が世間にわかったら息子に傷がつくと思って「しらねえ」とウソをつく。この場面は非常に感動的だ。

小泉純一郎は筆者と同年代である。戦後の右肩上がりの時代を共有してきたといってよい。小泉純一郎が列挙した上記の3点については筆者も同じ感想を持っている。60歳代以上の日本人が共有する情念かもしれぬ。


第1の問題:世間や他者の目を意識して役割演技を行う行動傾向
「ウソを貫く正義」というのは、欧米人には理解しにくい観念であろうと思っていたが、小泉によると「オペラ<椿姫>にもウソが軸の場面がある」という。人間社会のさまざまなシガラミの中で、「誠意を尽くす」ためには、「ウソをつく以外に方法がない」という場面があるということだろう。事実を正直に言ってしまえば気は楽なのだが、それでは誠意を貫くことができない。ジレンマを乗り越え、敢えて「ウソを選ぶことに価値を見出す」という心理がある。


第2の問題:世間や他者の目を意識して「役割」を演じることの意味
世間のシガラミ、会社の上下関係、得意先との人間関係など複雑な人間模様の中で生活している民衆は、自ずから「役割演技」を行っている。だが、それは円滑な人間関係を保持するためであろう。日常生活場面では「ウソを貫いて誠を尽くす」場面がたびたびある訳ではない。「ウソを貫いて誠意を尽くす」ためには、徹頭徹尾、自己を対象化しなければならない。つまり、自分を手段として徹底して軽く扱かうことができなければならぬ。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」なのだ。自分を対象化して「徹底して軽く扱う」という心理作業は、自分の外に、もう一人の自分を持つことを意味する。「軽く扱われる自分」と「軽く扱う自分」だ。「複眼思考ができる自分」と言い換えてもよい。


第3.役割演技に終始すると「軸」がぶれる。漂流する危険がある。
役者が、時々の役割に従って「いろいろな役回り」を演じるならば、見た目は華やかであっても、「拠って立つ基盤」を見失う危険がある。根なし草になる危険が高まる。小泉内閣の5年半を振り返ってみると、郵政民営化、対米追従及び靖国参拝以外は中途半端に終わったと評価されている。民族主義を鼓舞する言動をとるかと思えば、朝鮮総連傘下の金融機関に1兆数千億円の金融支援を行うなど一貫性がなかったとも指摘された。戦略なき「出たとこ勝負」の傾向がなかったとはいえない。小泉純一郎は「国民大衆に演技して見せている」うちに、次第に拠って立つ基盤を掘り崩し、漂泊したのではあるまいか。小泉自身は「一貫した行動をとっている」と考えていたかもしれぬが、根なし草になっていたのではあるまいか。

第4.政治家の性格・行動傾向から見た類型

劇場型・・・観客(民衆)の目を意識して、派手な立ち回りをして喝采を浴びることを狙う。度外れたパフォーマンスを繰り出す。筆頭は小泉純一郎、次席が麻生太郎と小池百合子ということになろうか。いずれも、民衆の視線を意識している。見ていて飽きない面白さがある。

利権と権力追及型・・・観客(民衆)の目は気にとめない代り、業界や団体(労組)の反応を読んで政治を行う。筆頭は小沢一郎、次席が中川秀直、古賀誠、二階俊博、興石東というところか。

唯我独尊型・・・自己の政治信念を貫けばいずれ国民大衆は理解してくれるという特徴がある。筆頭は安倍晋三と岡田克也で、いずれも衆議院・参議院選挙で大敗した。次席が平沼赳夫、中川昭一、前原誠司ほか。

風見鶏型・・・政局の風向き次第で、言うこと為すことがくるくる変わる。筆頭は森喜朗と鳩山由紀生。次席が谷垣禎一、菅直人、亀井静香あたりか。

特徴なし型・・・政治信条を持っているのかいないのか、周囲の圧力に押され右往左往、足場が定まらない。筆頭は福田康夫。その他大勢。


第5.民衆が期待する政治家像
宮崎県の東国原知事、大阪府の橋本知事などが面白い。地方の行財政改革に目の色を変えて取り組んでいる。テレビなどメディアを使って行政や議会をガラス張りにして情報公開しているのもよい。政治家たるもの「必死の形相で仕事をしている」姿を国民大衆に示し続けるべきであろう。政治家たるもの「勇気と決断」そして「言行一致」という役割を演じ切る覚悟を示し喧伝すべきであろう。当面は次善の策として「麻生太郎」であろうが、遠くない将来、宮崎県東国原知事や大阪府橋本知事が地方での実績を背負い、国政を率いてくれるのではないかと期待する次第である。