カルマパ17世の大航海…中共を揺さぶる同時外遊(東アジア黙示録)
ようちゃん、おすすめ記事。↓
▼カルマパ17世の大航海…中共を揺さぶる同時外遊(東アジア黙示録)
ベルリン2万5,000人大集会参加、英皇太子との会談…法王猊下の欧州歴訪に中共が神経を尖らせる中、若き指導者カルマパ17世が国際デビュー。中共による暗殺未遂、神秘の亡命劇とは…5月19日、ベルリンのブランデンブルク門前は、雪山獅子旗などを手にした大勢のドイツ人で埋め尽くされた。その数、実に25,000人。大規模なフリー・チベット屋外集会である。「ここは正に、ベルリンの壁が武力ではなく、市民の平和運動によって崩壊した場所です」かつての冷戦時代、東西ベルリンの境界に設けられた特設ステージ。大群衆の前に姿を現したダライ・ラマ14世法王猊下は、そう述べて武力に頼らない問題解決を強調した。登壇の瞬間、参加者はチベット国旗のカラーを模した黄色・青・赤・白のバルーンを空に放った。巧みな演出だ。大集会を主催したのは、年季が入った独のチベット支援組織。アジア地域の市民運動とはレベルが違う。ベルリン市民は法王猊下を華やかに迎えたが、独政府首脳は躊躇いがちだった。昨年の訪独で会談し、中共を激怒させたメルケル首相は外遊中。シュタインマイヤー外相やケーラー大統領は、中共の反発を恐れて接触をキャンセルした。首脳が弱腰姿勢を示す中、独り気骨を示したのがウィチョレクツォイル開発相だった。
【対話問題で中共側を揺さぶり】
ウィチョレクツォイル開発相は、大規模集会に先だって市内のホテルで法王猊下と公式に会談。いきなり、対シナ経済支援の凍結を表明して中共を激高させた。ウィチョレクツォイル開発相は、中道左派のドイツ社会民主党出身。会談に慌てた同党幹部は「個人として会った」と説明したが、開発相はそれも一喝する。「私は政府の代表として会談した。人権問題の当事者との対話は、開発政策の本来的な課題。策を弄する事は、チベットの人々や法王に失礼だ」堂々たる主張である。しかし、これが欧州のリベラルの自然な姿である。人権抑圧を見逃して独裁政権に媚を売る社民党など極東にしか存在しない。今回の法王猊下の欧州歴訪は、5月16日の独ボーフム講演から始まったが、やはり前回と異なり、メディアも盛んに報道。その中、公共放送ZDFからインタビューを受けた際の発言が波紋を広げた。
「来月、公式対話が行われる」
5月初めに深圳で開かれた形式的な対話は、あくまでも非公式だった。第7Rではなく、6.5R。6月に公式対話が開かれれば、第7回目となる。中共側の発表を待たず、スケジュールを明かしたのだ。揺さぶりである。更にこの発言を追って18日には亡命政府のスポークスマンも中共側から「正式対話を行いたい」と要請があったと公表。6月の第2週に開催される見通しだが、公式対話が開かれても“時間稼ぎ”に終わり、実質的な進展は期待できない。そして21日には、この対話に絡んで驚きの発言も飛び出した。
【水面下で開会式招請の動きがあった…】
「対話でチベットの自治について真の進展があった場合、私自身が北京五輪に行く用意がある」
5月21日、英国会議事堂で開かれた記者会見で法王猊下は「正式な招待は受けていない」としながら、出席の可能性を示唆した。建設的な対話、チベットの状況の改善、長期的な解決策の決定…などの条件が付きだが、意外な発言だった。実は5月12日ごろ、あるインド紙が「中共側が五輪に招待」という記事を掲載して噂になっていたのだ。情報の出元は、台湾国在住のチベット亡命政府高官だという。これも揺さぶりである。
中共外交部の報道官は22日、慌てて会見で反発したが、なぜか「招請話」については具体的に否定しなかった。また香港の「中国人権民主化運動情報センター」も21日、中共当局が2月の時点で五輪開会式に招請していたと伝えた。それによると、中共高官が法王猊下の親族を通じて打診したのだという。パスポート発給問題なども話し合ったとされ、妙に具体的で生々しい。実際に2月までに水面下の動きがあったのかも知れない…ちなみに、この親族とは恐らくアムドで生家を守る甥である。しかしチベット大虐殺以降、生家は厳しい監視下に置かれ、甥は軟禁中だ。大弾圧を繰り広げる中での開会式招請はあり得ない。もし、開会式出席となれば、これまで一方的に非難してきた中共当局の理屈は更に破綻する。すでに亡命政府は僅か2ヵ月で“テロ集団”から「正式な対話相手」に変わっているのだ。中共のプロパガンダに洗脳されたシナ人たちも、そこでは矛盾に苦しむだろう。
【敬称付き呼称でも不逞シナ人が集結】
猊下の訪問先に大勢の信者が駆け付ける一方、欧米では3月以降、棒回しのシナ人騒乱と同様に、これまでにない不穏な現象が起きていた。4月22日、ニューヨーク州のコルゲート大で5,000人を集めて猊下が講演した際、会場の外には虐殺支持派のシナ人留学生100人が集結。「チベットでの暴力を止めろ」などと意味不明のシュプレヒコールを繰り返した。そして今回の訪独でもバンベルクの講演会場近くに、巨大な虐殺紅旗を持ったシナ人が出現。またベルリンの2万5,000人集会では、不逞シナ人どもが遠巻きに集まり、奇声をあげたという。未だに雪山獅子旗と赤旗の乱戦が続いているようだが、そこには中共当局の混乱も見え隠れする。
中共指導部の法王猊下へのオフィシャルな態度は、シナ棒回しの際と微妙に変わってきている。福田を横に置いた屠殺鬼・胡錦濤の共同会見がターニング・ポイントだった。屠殺鬼・胡錦濤は会見で、法王猊下をラマの尊称付きで呼んだ。それまで中共当局は「ダライ集団」という表現で一貫していたのである。ラマとは高僧を意味する。これは大きな変化だった。ただし、この表面的な変化も中共の詐術だ。歩み寄りの姿勢を見せる時にこそ慎重に対処した方がベターだ。ブッシュ大統領などは、呼び捨てにしていた金正日に敬称を付けたり、また呼び捨てに戻したりと忙しい。かなり適当である。赤旗を持って妨害に現れたシナ人の姿が、中共の本音だ。連中は決して自発的ではなく、中共大使館の息がかかっている。恐らく、英国でも不逞シナ人集団が出現するだろう。ロンドンを訪れた法王猊下は22日、クラレンス宮に招かれてチャールズ皇太子と会談、植樹を行った。91年の初会談以来、チャールズ皇太子は力強いチベット支援者であり続け、今回も内外に共感を示した格好だ。23日にブラウン首相と会談した後も、5月末まで英国で講演が続き、6月には豪州で重要な宗教儀式、講演を行う。相変わらず今年も過密スケジュールである。その一方、もう一人のチベットのVIPが遂に国際デビューを果たした。
【侵略の現状を知る若き指導者の登壇】
5月17日、ニューヨークにチベット密教の若き指導者が姿を見せた。カルマパ17世である。カルマパ・ラマはパンチェン・ラマに告ぐチベット第3位の活仏で、指導的な役割を担うキーパーソン。細かく説明すると、チベット密教カルマ・カギュー黒帽派の管長の地位にある。
2000年初頭のドラマティックな亡命から8年を経ての本格的な国際デビューだ。その国際舞台登場は、余りにも突然だった。チベット亡命政府は5月14日にカルマパ17世の訪米を発表。翌日には、インドを離れて米国に旅立った。スケジュールは、遥か以前から決まっていただろうが、チベット大虐殺で国際非難を受ける最中での訪米だ。中共は面食らったに違いない。カルマパ17世は、中共による暗殺の危機から逃れた生き証人でもあるのだ。今回の訪米は講演活動を目的としたもので、6月初めまでコロラド、シアトルなど米国内を巡る。17日のNY講演では、大勢の聴衆を前に、ジョークを飛ばして会場を沸かす一幕もあったという。実に、意外な印象だ。筆者は亡命から間もない頃にインド北部でカルマパ17世の説法を聴き、カタを授かる機会を得た。10代半ばだったカルマパ17世は厳しい表情を崩さず、重々しい口調で語っていた。ちなみに亡命後のカルマパ17世が暮らすギュトー僧院は、マクロードガンジ(上ダラムサラ)ではなく、ダラムサラの街近郊にあって、増築途中だった。現在は立派な大僧院が完成していることだろう。ユーモアを交えて語るのは、法王猊下の一般講演の特徴だ。写真で見る限り、仕草もどことなく似ている。その一方で、中共を真っ向から批判する力強さも持ち合わせている。訪米直前の5月9日、インド北部に入った毎日新聞の記者が、カルマパ17世のインタビューに成功した。これまでメディアから質問を受けることは殆どなく、世界的なスクープ取材だった。
そこで中共のプロパガンダの矛盾を、こう指摘する。「チベットでは強大な力を持つ治安当局が厳しい監視体制を敷いている。どうやって少数派のチベット人が暴力的な活動を起こせるというのか」カルマパ17世は、実際に90年代の過酷な状況を体験している活仏だ。直接、自身の眼で中共の恐怖支配の一部始終を見ている。「インフラは発展したが、チベットの文化や宗教、民族を尊重するという点ではその逆だ」侵略行為の目撃者であるカルマパ17世は、中共当局にとって実に煙たい存在だ。中共当局は90年代末に暗殺を企てていたのである。
【シナ人の暗殺者が忍び寄る…】
「雪国の東、美しい遊牧民の地で、父ドンドロップ、母ロガの元、神秘の法螺貝の音が吹き渡る時、神の子が生まれる」1981年に入寂したカルマパ16世が遺したとされる「預言書」。それに寸分の違いもなく合致した子供がチベット北東部カム地方で見出された。1991年に誕生した遊牧民の子ウゲン・ティンレー。チベット亡命政府は、その男児を転生霊童と認め、中共侵略政府側も追認した。この中共側の措置には、インド国内で転生論争が勃発したことから、内部分裂を引き起こす腹黒い思惑もあった。92年9月の即位式にシナ人高官も参列するなど、中共側も比較的厚遇したという。1189年から歴代カルマパ・ラマが管長を務めるラサ西方70キロのツルプ僧院。カルマパ17世も、そこで学んでいた。しかし、98年に不穏な事件が露見する。ツルプ僧院の敷地内にシナ人2人が侵入。2人は刃物と爆発物を持っていた。取り押さえられたシナ人は暗殺計画を自供したが、中共当局は直ぐに2人を釈放。不信感が広まった。側近の1人は暗殺未遂事件を、こう解説する。「カルマパを傷つけて、その責任をチベットの人々に押しつけようという策略だったことは明らかだ」この事件の後、当局は締め付けを厳しくし、カルマパ17世が信者や面会者と接することも制限。シナ人警備員が境内に入り、監視を強めた。またカルマパ17世側がインド短期訪問を求めていたことから完全な包囲網を敷いた。その中で、あり得ないはずの亡命劇が起きたのである。1999年12月末の“神秘の脱出”は、中共指導部を震撼させた大事件であった。
【14歳の活仏は極寒の雪山を越えた】
2000年1月5日。ダライ・ラマ14世法王猊下の元に、ダラムサラの宿に「極めて地位の高い活仏」がチェックインしたという報せが届く。それが突然現れたカルマパ17世だったのだ。前年の暮れ…12月28日夜、カルマパ17世はツルプ僧院の寝室の窓から屋外で脱出。側近を伴って四駆で国境に向かったという。そして1月3日にインドに入った。だが、この亡命ルートは未だに非公表で謎に満ちている。亡命者の多くが抜ける峠ではなく、ネパールのムスタン南部を通過したとも言われる。しかし、そこは険しい雪山で、欧米メディアはヘリを使ったのではないか、推測する程だ。もちろん、カルマパ17世の脱出を知った中共当局は、ネパール国境などに厳重警戒網を敷き詰めていた。それをものともせず、一行は突破したのだ。これが神秘の脱出と表現される所以である。ただハッキリしているのは、世界中が2000年の始まりに湧いていた頃、カルマパ17世は命懸けの雪山越えに挑んでいたことだけだ。ダラムサラに着いた時、その足は凍傷を負い、手も傷だらけだった。この時、カルマパ17世、14歳。
あどけなさの残る活仏をチベット難民は熱狂的に迎え、亡命劇は欧米で大きく報道された。しかし、その後8年以上、カルマパ17世は露出を避けるかのようにしてメディアに登場することもなかった。かつて中共指導部は、カルマパ17世を植民地チベットのリーダーに据えようと謀っていたが、亡命劇で暗黒計画は脆くも崩れた。今回の訪米を契機に、カルマパ17世は今後徐々に国際的な講演活動を始めるだろう。22歳の活仏は、いよいよ大海原に漕ぎ出す。大航海時代のスタートである。そして中共にとっては現在進行形のチベット侵略支配の真実を知る手強い相手の出現だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▼カルマパ17世の大航海…中共を揺さぶる同時外遊(東アジア黙示録)
ベルリン2万5,000人大集会参加、英皇太子との会談…法王猊下の欧州歴訪に中共が神経を尖らせる中、若き指導者カルマパ17世が国際デビュー。中共による暗殺未遂、神秘の亡命劇とは…5月19日、ベルリンのブランデンブルク門前は、雪山獅子旗などを手にした大勢のドイツ人で埋め尽くされた。その数、実に25,000人。大規模なフリー・チベット屋外集会である。「ここは正に、ベルリンの壁が武力ではなく、市民の平和運動によって崩壊した場所です」かつての冷戦時代、東西ベルリンの境界に設けられた特設ステージ。大群衆の前に姿を現したダライ・ラマ14世法王猊下は、そう述べて武力に頼らない問題解決を強調した。登壇の瞬間、参加者はチベット国旗のカラーを模した黄色・青・赤・白のバルーンを空に放った。巧みな演出だ。大集会を主催したのは、年季が入った独のチベット支援組織。アジア地域の市民運動とはレベルが違う。ベルリン市民は法王猊下を華やかに迎えたが、独政府首脳は躊躇いがちだった。昨年の訪独で会談し、中共を激怒させたメルケル首相は外遊中。シュタインマイヤー外相やケーラー大統領は、中共の反発を恐れて接触をキャンセルした。首脳が弱腰姿勢を示す中、独り気骨を示したのがウィチョレクツォイル開発相だった。
【対話問題で中共側を揺さぶり】
ウィチョレクツォイル開発相は、大規模集会に先だって市内のホテルで法王猊下と公式に会談。いきなり、対シナ経済支援の凍結を表明して中共を激高させた。ウィチョレクツォイル開発相は、中道左派のドイツ社会民主党出身。会談に慌てた同党幹部は「個人として会った」と説明したが、開発相はそれも一喝する。「私は政府の代表として会談した。人権問題の当事者との対話は、開発政策の本来的な課題。策を弄する事は、チベットの人々や法王に失礼だ」堂々たる主張である。しかし、これが欧州のリベラルの自然な姿である。人権抑圧を見逃して独裁政権に媚を売る社民党など極東にしか存在しない。今回の法王猊下の欧州歴訪は、5月16日の独ボーフム講演から始まったが、やはり前回と異なり、メディアも盛んに報道。その中、公共放送ZDFからインタビューを受けた際の発言が波紋を広げた。
「来月、公式対話が行われる」
5月初めに深圳で開かれた形式的な対話は、あくまでも非公式だった。第7Rではなく、6.5R。6月に公式対話が開かれれば、第7回目となる。中共側の発表を待たず、スケジュールを明かしたのだ。揺さぶりである。更にこの発言を追って18日には亡命政府のスポークスマンも中共側から「正式対話を行いたい」と要請があったと公表。6月の第2週に開催される見通しだが、公式対話が開かれても“時間稼ぎ”に終わり、実質的な進展は期待できない。そして21日には、この対話に絡んで驚きの発言も飛び出した。
【水面下で開会式招請の動きがあった…】
「対話でチベットの自治について真の進展があった場合、私自身が北京五輪に行く用意がある」
5月21日、英国会議事堂で開かれた記者会見で法王猊下は「正式な招待は受けていない」としながら、出席の可能性を示唆した。建設的な対話、チベットの状況の改善、長期的な解決策の決定…などの条件が付きだが、意外な発言だった。実は5月12日ごろ、あるインド紙が「中共側が五輪に招待」という記事を掲載して噂になっていたのだ。情報の出元は、台湾国在住のチベット亡命政府高官だという。これも揺さぶりである。
中共外交部の報道官は22日、慌てて会見で反発したが、なぜか「招請話」については具体的に否定しなかった。また香港の「中国人権民主化運動情報センター」も21日、中共当局が2月の時点で五輪開会式に招請していたと伝えた。それによると、中共高官が法王猊下の親族を通じて打診したのだという。パスポート発給問題なども話し合ったとされ、妙に具体的で生々しい。実際に2月までに水面下の動きがあったのかも知れない…ちなみに、この親族とは恐らくアムドで生家を守る甥である。しかしチベット大虐殺以降、生家は厳しい監視下に置かれ、甥は軟禁中だ。大弾圧を繰り広げる中での開会式招請はあり得ない。もし、開会式出席となれば、これまで一方的に非難してきた中共当局の理屈は更に破綻する。すでに亡命政府は僅か2ヵ月で“テロ集団”から「正式な対話相手」に変わっているのだ。中共のプロパガンダに洗脳されたシナ人たちも、そこでは矛盾に苦しむだろう。
【敬称付き呼称でも不逞シナ人が集結】
猊下の訪問先に大勢の信者が駆け付ける一方、欧米では3月以降、棒回しのシナ人騒乱と同様に、これまでにない不穏な現象が起きていた。4月22日、ニューヨーク州のコルゲート大で5,000人を集めて猊下が講演した際、会場の外には虐殺支持派のシナ人留学生100人が集結。「チベットでの暴力を止めろ」などと意味不明のシュプレヒコールを繰り返した。そして今回の訪独でもバンベルクの講演会場近くに、巨大な虐殺紅旗を持ったシナ人が出現。またベルリンの2万5,000人集会では、不逞シナ人どもが遠巻きに集まり、奇声をあげたという。未だに雪山獅子旗と赤旗の乱戦が続いているようだが、そこには中共当局の混乱も見え隠れする。
中共指導部の法王猊下へのオフィシャルな態度は、シナ棒回しの際と微妙に変わってきている。福田を横に置いた屠殺鬼・胡錦濤の共同会見がターニング・ポイントだった。屠殺鬼・胡錦濤は会見で、法王猊下をラマの尊称付きで呼んだ。それまで中共当局は「ダライ集団」という表現で一貫していたのである。ラマとは高僧を意味する。これは大きな変化だった。ただし、この表面的な変化も中共の詐術だ。歩み寄りの姿勢を見せる時にこそ慎重に対処した方がベターだ。ブッシュ大統領などは、呼び捨てにしていた金正日に敬称を付けたり、また呼び捨てに戻したりと忙しい。かなり適当である。赤旗を持って妨害に現れたシナ人の姿が、中共の本音だ。連中は決して自発的ではなく、中共大使館の息がかかっている。恐らく、英国でも不逞シナ人集団が出現するだろう。ロンドンを訪れた法王猊下は22日、クラレンス宮に招かれてチャールズ皇太子と会談、植樹を行った。91年の初会談以来、チャールズ皇太子は力強いチベット支援者であり続け、今回も内外に共感を示した格好だ。23日にブラウン首相と会談した後も、5月末まで英国で講演が続き、6月には豪州で重要な宗教儀式、講演を行う。相変わらず今年も過密スケジュールである。その一方、もう一人のチベットのVIPが遂に国際デビューを果たした。
【侵略の現状を知る若き指導者の登壇】
5月17日、ニューヨークにチベット密教の若き指導者が姿を見せた。カルマパ17世である。カルマパ・ラマはパンチェン・ラマに告ぐチベット第3位の活仏で、指導的な役割を担うキーパーソン。細かく説明すると、チベット密教カルマ・カギュー黒帽派の管長の地位にある。
2000年初頭のドラマティックな亡命から8年を経ての本格的な国際デビューだ。その国際舞台登場は、余りにも突然だった。チベット亡命政府は5月14日にカルマパ17世の訪米を発表。翌日には、インドを離れて米国に旅立った。スケジュールは、遥か以前から決まっていただろうが、チベット大虐殺で国際非難を受ける最中での訪米だ。中共は面食らったに違いない。カルマパ17世は、中共による暗殺の危機から逃れた生き証人でもあるのだ。今回の訪米は講演活動を目的としたもので、6月初めまでコロラド、シアトルなど米国内を巡る。17日のNY講演では、大勢の聴衆を前に、ジョークを飛ばして会場を沸かす一幕もあったという。実に、意外な印象だ。筆者は亡命から間もない頃にインド北部でカルマパ17世の説法を聴き、カタを授かる機会を得た。10代半ばだったカルマパ17世は厳しい表情を崩さず、重々しい口調で語っていた。ちなみに亡命後のカルマパ17世が暮らすギュトー僧院は、マクロードガンジ(上ダラムサラ)ではなく、ダラムサラの街近郊にあって、増築途中だった。現在は立派な大僧院が完成していることだろう。ユーモアを交えて語るのは、法王猊下の一般講演の特徴だ。写真で見る限り、仕草もどことなく似ている。その一方で、中共を真っ向から批判する力強さも持ち合わせている。訪米直前の5月9日、インド北部に入った毎日新聞の記者が、カルマパ17世のインタビューに成功した。これまでメディアから質問を受けることは殆どなく、世界的なスクープ取材だった。
そこで中共のプロパガンダの矛盾を、こう指摘する。「チベットでは強大な力を持つ治安当局が厳しい監視体制を敷いている。どうやって少数派のチベット人が暴力的な活動を起こせるというのか」カルマパ17世は、実際に90年代の過酷な状況を体験している活仏だ。直接、自身の眼で中共の恐怖支配の一部始終を見ている。「インフラは発展したが、チベットの文化や宗教、民族を尊重するという点ではその逆だ」侵略行為の目撃者であるカルマパ17世は、中共当局にとって実に煙たい存在だ。中共当局は90年代末に暗殺を企てていたのである。
【シナ人の暗殺者が忍び寄る…】
「雪国の東、美しい遊牧民の地で、父ドンドロップ、母ロガの元、神秘の法螺貝の音が吹き渡る時、神の子が生まれる」1981年に入寂したカルマパ16世が遺したとされる「預言書」。それに寸分の違いもなく合致した子供がチベット北東部カム地方で見出された。1991年に誕生した遊牧民の子ウゲン・ティンレー。チベット亡命政府は、その男児を転生霊童と認め、中共侵略政府側も追認した。この中共側の措置には、インド国内で転生論争が勃発したことから、内部分裂を引き起こす腹黒い思惑もあった。92年9月の即位式にシナ人高官も参列するなど、中共側も比較的厚遇したという。1189年から歴代カルマパ・ラマが管長を務めるラサ西方70キロのツルプ僧院。カルマパ17世も、そこで学んでいた。しかし、98年に不穏な事件が露見する。ツルプ僧院の敷地内にシナ人2人が侵入。2人は刃物と爆発物を持っていた。取り押さえられたシナ人は暗殺計画を自供したが、中共当局は直ぐに2人を釈放。不信感が広まった。側近の1人は暗殺未遂事件を、こう解説する。「カルマパを傷つけて、その責任をチベットの人々に押しつけようという策略だったことは明らかだ」この事件の後、当局は締め付けを厳しくし、カルマパ17世が信者や面会者と接することも制限。シナ人警備員が境内に入り、監視を強めた。またカルマパ17世側がインド短期訪問を求めていたことから完全な包囲網を敷いた。その中で、あり得ないはずの亡命劇が起きたのである。1999年12月末の“神秘の脱出”は、中共指導部を震撼させた大事件であった。
【14歳の活仏は極寒の雪山を越えた】
2000年1月5日。ダライ・ラマ14世法王猊下の元に、ダラムサラの宿に「極めて地位の高い活仏」がチェックインしたという報せが届く。それが突然現れたカルマパ17世だったのだ。前年の暮れ…12月28日夜、カルマパ17世はツルプ僧院の寝室の窓から屋外で脱出。側近を伴って四駆で国境に向かったという。そして1月3日にインドに入った。だが、この亡命ルートは未だに非公表で謎に満ちている。亡命者の多くが抜ける峠ではなく、ネパールのムスタン南部を通過したとも言われる。しかし、そこは険しい雪山で、欧米メディアはヘリを使ったのではないか、推測する程だ。もちろん、カルマパ17世の脱出を知った中共当局は、ネパール国境などに厳重警戒網を敷き詰めていた。それをものともせず、一行は突破したのだ。これが神秘の脱出と表現される所以である。ただハッキリしているのは、世界中が2000年の始まりに湧いていた頃、カルマパ17世は命懸けの雪山越えに挑んでいたことだけだ。ダラムサラに着いた時、その足は凍傷を負い、手も傷だらけだった。この時、カルマパ17世、14歳。
あどけなさの残る活仏をチベット難民は熱狂的に迎え、亡命劇は欧米で大きく報道された。しかし、その後8年以上、カルマパ17世は露出を避けるかのようにしてメディアに登場することもなかった。かつて中共指導部は、カルマパ17世を植民地チベットのリーダーに据えようと謀っていたが、亡命劇で暗黒計画は脆くも崩れた。今回の訪米を契機に、カルマパ17世は今後徐々に国際的な講演活動を始めるだろう。22歳の活仏は、いよいよ大海原に漕ぎ出す。大航海時代のスタートである。そして中共にとっては現在進行形のチベット侵略支配の真実を知る手強い相手の出現だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー