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ようちゃん、おすすめ記事。↓

原因はテロの警戒では?
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
    平成20年(2008年)5月20日(火曜日)
     通巻第2192号  
大地震の影に隠れたが、聖火リレーの温州市内で爆弾テロ
 五輪聖火行事を三日間停止、もう一つの原因はテロの警戒では?
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5月16日のことだった。
中国国内をひた走る聖火リレーは浙江省の南、温州市にさしかかった。
市内を走行中のバスが突然爆発し、16名が死亡するという事件がおき た。先々週も上海で公共バスが爆発し、二十名余が死亡した。いずれも真相は藪の中であるが、おそらく反政府テロであろう。北京中央は被災から1週間も経った18日に、「聖火リレー」を一旦中止し、3日間の喪に服するとしたが、予定されていた聖火リレーは温州と同じ浙江省の寧波であり、21日再開を前にしてテロを警戒しての特別体制つくりにあるのではないか。
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(読者の声1) 四川大地震のお見舞いがてらパンダは辞退しよう
チベット亡命政府への義捐金の送付先が分かりました。以下の通りです。
    口座名: 自由チベット協議会
    郵便振替口座: 00180-7-36566
    代表者: 酒井信彦(さかいのぶひこ)
なお「自由チベット協議会」には、ペマ・ギャルポ先生や、「チベット
問題を考える会」の代表・小林秀英師も関与されている。(S生)

(宮崎正弘のコメント)長野の聖火ランナーに「抗議」したチベットか らの亡命者タシィ氏(台湾籍)は長野県警に20日間もの不当勾留のあと 15日にようやく釈放されました。罰金など80万円でした。 タシィさんは、抗議した相手が福原愛という卓球選手ということを知らず、その後、胡錦濤が来日したおりに卓球をしたと知って、「それはカル(業)でしょ」と記者会見で答えた。チベットの困った人たちを助ける募金に協力したいとおもいます。読者の篤志家の皆さんも、是非、ご協力下さい。

♪(読者の声2)貴誌通巻第2190号の貴見にこうありました。「地理的に海南島の南端に(引用者補足/中国海軍が)海軍基地を新設したことは、台湾海峡だけの問題ではない。南シナ海全域をにらむ海洋権力の出現である」。この重要な指摘の意味するものが、首相や防衛相に伝わることを願います。四川省地震は中国国内の問題ですが。(SJ生)

(宮崎正弘のコメント)海南島といえば北の玄関、海口にはホンダの偽
バイクをつくっていた大工場があり、南へ200キロのあたりが、例の 中国版ダボス会議を行うボーアオです。日本の総理が行くのはここまで。記者団もボーアオで会議取材のあと一日くらい足を伸ばして南端の三亜へ行けば、海軍基地の写真くらいスクープできたのに!

♪(読者の声3)こんな重要な記事があります。読み逃した人が多いと思いますので、読売新聞から引用します。 (引用開始) 「17日付の香港英字紙サウスチャイナ・モーニングポストが報じたところによると、四川大地震の被災地を訪問する中国の胡錦濤・国家主席ら指導者に対し、被災者から、訪問歓迎のため救出作業が中断するなど貴重な時間の浪費につながると反発の声が出ている。学校倒壊など甚大な被害を受けた四川省北川チャン族自治県では、胡氏が16日に訪問した際、人民解放軍兵士らが胡氏を出迎えたため、捜索・救出活動が2時間にわたって完全に中断したという。同県の元中学教員は同紙に対し、「救助隊は学校の門付近でしか作業しなかった。胡氏に同行のメディアが気づいて、写真を撮るようにするためだ」と怒りをぶちまけた」。(2008年5月18日00時30分 読売新聞)。宮崎さんがしばしば指摘されるように、軍は、功名争いで派遣されており、救出には力が入っていない様が読み取れます。  (UU生、茨城)

(宮崎正弘のコメント)香港の老舗名門英字紙「サウスチャイナ・モー ニング・ポスト」といえば、嘗てはイギリス資本。親中派の華僑に買収 されてから北京より路線が激しかった。この記事は、記者たちの日頃の鬱憤晴らし?それにしても被災者の神経を逆なでしているのは事実でしょう。胡と温の被災地行脚は愛国キャンペーンと同時に党内権力闘争です。
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南機関とミャンマー
━━━━━━━━━古澤 襄

四川大地震の被害は大きいが、中国は被害状況をオープンにする変化を みせている。国際的な支援を求める一方で「四川を救おう」という愛国 心に呼びかけ、胡錦濤体制の求心力を高める狙いがあるという。北京オ リンピックも予定通り行うようだ。その中国に比してミャンマーの軍事政権は国際的な支援に背を向けている。ミャンマーのサイクロン被害は実態が明らかでない。わずかに反政府系の海外テレビで救出から放置された悲惨な村々の状況がかいまみえるだけである。鎖国ともいうべきミャンマーの軍事政権だが、日本は戦前、戦中からビルマ独立運動を支援してきている。日中戦争で重慶に立て籠った蒋介石軍を支援するため、英米両国はビルマの”援蒋ルート”を作った。ビルマとは英国領だったミャンマーの旧称。”援蒋ルート”は、海路で軍事物資をビルマのラングーン(現在のヤンゴン)に運び、北部のラシオからトラックで雲南省昆明まで輸送する軍事ルート。日本軍は山間部の道路を走るトラック部隊を目がけて、爆撃機を出動させて空爆作戦を行っているが、あまり効果があがっていない。

1941(昭和16)年にビルマ南機関という特務機関が作られた。その目的は英国領からの独立を図るモンゴル系のビルマ族を支援し「ビルマ独立 義勇軍」を建軍することにあった。南機関の機関長は鈴木敬司陸軍大佐。当時のビルマの人口は1941年の国勢調査によれば1600万人。民族別ではモンゴル系といわれるビルマ族が1100万人、カレン族150万人、シャン族130万人、移住したインド人200万人という構成。この民族構成を現在のミャンマー行政区画と比較してみると面白い。ミャンマーは7つの管区(タイン)と7つの州(ピーネー)に分かれる。管区は、主にビルマ族が多く居住する地域の行政区分。州は、ビルマ族以外の少数民族が多く居住する地域となっている。
カレン族はカレン州、シャン族はシャン州に固まっている。先住民であ るカレン族は英国統治下ではビルマ族よりも優遇されたという。山岳民 族だが今では民族独立運動で「カレン民族解放軍」「カレン民族同盟」 で軍事政権と対立している英国の統治下では独立心が強いビルマ族は危険視されていたのであろう。1941年のビルマ軍総数6209名のうち、大部分はカレン族などの少数民族やインド出身のパンジャブ族が占め、ビルマ族の軍人は159名に過ぎないというデータがある。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
ビルマ独立運動は1930年代から始まっているが、ラングーン大学の学生 が主体で、この中からタキン・オンサン(アウンサン)やウ・ヌーらが 出ている。援蒋ルートの爆撃が効果をあげない実情から、日本の参謀本部はこの独立運動に目をつけて、積極的な支援をすることになった。参謀本部付元船舶課長の鈴木大佐が、その任に当たる。偽名を使ってラングーンに潜入した鈴木大佐は帰国して大本営直属の特務機関「南機関」を立ち上げ、バンコクに拠点を置いている。そのうえで独立運動派を密出国させて海南島などで軍事教練を施して武装蜂起の準備をさせた。蜂起の時期は1941年夏。しかし日本は対米英開戦に動きだした。ビルマ武装蜂起よりも「ビルマ独立義勇軍」の設立が参謀本部の方針となり、鈴木大佐は義勇軍の司令官となる。ビルマ人の募兵も開始された。この義勇軍がミャンマー軍事政権の源流となっている。日米開戦後、ビルマから英印軍を駆逐した第33師団はラングーンに入城したが、すでに1万の兵力となっていた「ビルマ独立義勇軍」も続いて入城、ラングーン市民の熱狂的な歓迎を受けている。

1943年に独立したビルマは、バー・モウ首班の下でアウンサンが国防大 臣、ビルマ国軍の司令官にはネ・ウィンが任命された。しかし日本の敗 色が濃くなるにつれて、アウンサンらが離反、ビルマ全土で蜂起してい る。日本の統治下で果たした独立も連合軍の下で白紙に戻った。1947年 にアウンサンが暗殺。
1948年になってビルマはウ・ヌー首班の下で独立。しかし1962年にビル マ国軍はクーデターを決行して、ネ・ウィン司令官が大統領に就任した。ネ・ウィン軍事政権は「ビルマ式社会主義」を唱えて、議会制民主主義を否定している。ネ・ウィンと南機関との関係は緊密で、2002年に死去するまで続いている。非暴力民主化運動指導者、1991年ノーベル平和賞受賞者のアウンサンスーチー女史は、アウンサン将軍の娘だが、軍事政権と対立して幽閉状態に置かれている。ビルマ族だがインドのデリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学び、英国のオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学の学士号を取得。ロンドン大学の東洋アフリカ研究所(SOAS)で研究助手を務め、ニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会で書記官補となるなど華麗な経歴で知られる。西欧化されたビルマ族といってよいだろう。南機関の中にはスーチー女史の父・アウンサン将軍が英印連合軍と呼応して軍事蜂起したことを快く思わない人もいる。ネ・ウィン人気ほどアウンサン人気がない。軍事蜂起の頃から英国の諜報機関と密接な関係ができたという説が軍事政権の内部にも囁かれている。

スーチー女史の後押しをして民主化要求を前面に出す限り、軍事政権は 欧米の支援を拒絶するだろう。EUはようやくそのことに気がついた。
民主化要求はタナ上げにしてサイクロン被害の支援を働きかけるという。現状では最善の判断だと思う。(元共同通信社常務理事)

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「従軍記者」事始(4)
━━━━━━━━━━━平井 修一
日露戦争を挟んだ7年間、英国婦人、エセル・ハワードは薩摩藩主の血を 引く島津忠重公爵とその4人の弟の家庭教師を務めた。

ハワードが初めて会ったとき忠重は14歳で、父が亡くなったために当主 であったが、島津家や薩摩藩旧臣の長老たちが5人の教育のためにハワー ドに白羽の矢を立てた。

在京の英国大使館が推薦したのだ。彼女はドイツ皇帝ウィルヘルム二世 の子供の家庭教師をし終えて英国に帰国していたところを招請された。

ハワードは永田町の屋敷(今の参議院会館のあたり)で、末っ子はまだ4 歳という育ち盛りの5人の若君の教育に全身全霊を注ぐのだが、日露戦争 の頃をこう回顧している(「日本の思い出」)。


<我々の家は道路の角に建っていたので、目の前を戦争に関連した場面 が次から次へ通り過ぎてゆくのが見られた。・・・(人力車に乗った) 負傷者の行列のほかに、戦死者の葬列がほとんど毎日のように通った。

・・・一番記憶に残っているのは、5月のある日曜日の午後に「初瀬」 と「八洲」の両艦の士官と水兵の葬列が通ったときのことだった。日本 の最高の英雄の1人である広瀬武夫中佐の葬儀が行われたが・・・彼の 名誉ある戦死は多くの日本の青年に影響を与えた>

苦闘の末に日本は勝利を収めたが、報道管制を布いたためだろう、戦争 中、多くの外国人特派員は前線に駆けつけることを許されなかったよう で、東京で待機を余儀なくされた。特に連合艦隊が3カ月間、姿を隠した から、その間は特に秘密保持が必要だったのだろう。

外国人特派員はハワードに「何とか手を貸して前線に送り出してもらえ ないか」としきりに依頼した。戦場に行かなければ迫真の記事は書けな い。彼等の欲求不満は高じるばかりだ。在京の各国大使館は彼らの無聊 を慰めるために何度も晩餐会を開き、ハワードは記者の接待係を務めた。

<日本人は彼等の要求を断るのが辛いようだった。大変済まなかったと 私に繰り返して言っていた。しかし、こういうやり方でほんの小さいニ ュースでも隠しておくことができたことが、結局、勝利を得た原因の一 つになったことは確かである>

明治40(1907)年、ハワードは下の3人の若君を引率して朝鮮と中国へ旅 行する(長男と次男は海軍兵学校で修業中と思われる)。島津家には母 親がいるはずなのだが、事情があって別居していたようで、女性家庭教 師を5人の男の子に付けたのは、母親代わりという意味もあったろう。ミ ス・ハワード(当時は独身)は見事に「勇敢で優しい母」の役割を担っ た。


<日本の勇敢な兵士たちがあのように雄々しく戦い、そして死んでいっ た戦場の跡を訪ねることによって、子供たちに自分自身がいかに取るに 足りない存在であるかの意識に目覚めさせ、彼らの前途に横たわる無限 の可能性について心構えをする必要があることを感じさせるとともに、 天皇陛下と祖国と同胞へ奉仕すべき義務を負っていることを深く心に刻 み付けるのが、この旅の目的であった>

貴族の若君を衛生面でも不安な土地に連れて行くのはどうかという反対 があった。

<私はこの旅行が子供たちの人格形成にとって絶対必要であるとの確信 を抱いており、正義は常に勝つという強い信念を持って、これらの忠告 になんら注意を払わなかった>

この毅然とした信念、不屈の闘志、子供への捨て身の愛情には頭が下が る。やはり、母は強し。(つづく)