頂門の一針 (文化大革命は毛沢東の仕業  シナの「易姓革命」序章  「従軍記者」事始) | 日本のお姉さん

頂門の一針 (文化大革命は毛沢東の仕業  シナの「易姓革命」序章  「従軍記者」事始)

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文化大革命は毛沢東の仕業
━━━━━━━━━━━━渡部亮次郎

1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中共8期11中全会
(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)での「中国共産党中央委 員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革 命の定義が明らかにされた。だが実態は、失脚者毛沢東が引き起こした権力奪回闘争であった。大躍進政策の大失敗により国家主席を辞任して以来、危機感を深めた毛沢東が、劉少奇国家主席やトウ小平らから権力を取り戻すために仕掛けた大規模な権力奪還闘争に過ぎない。略称は文革(ぶんかく)。
「政治・社会・思想・文化の全般に渡る改革運動」のはずが、実際には ほとんどの中華人民共和国の人民を巻き込んだ粛清運動として展開され た。結果的に約1,000万人以上((異説では3,000万人))と言われる大量虐殺とそれに伴う内戦へと発展、国内は長期間にわたる混乱に陥った。始めは毛沢東指示の下、国家主席劉少奇からの政権奪還を目的として林彪の主導により進められた。林彪の毛沢東暗殺失敗に伴う国外逃亡時の事故死後は、毛夫人江青ら「四人組」に率いられて毛沢東思想にもとづく独自の社会主義国家建設を目指したが、実質は中国共産党指導部における大規模な権力闘争に大衆を巻き込んだ大粛清であった。
共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家な どの資本家層が、さらに学者、医者などの知識人等が弾圧の対象となっ た。尖兵実働隊が紅衛兵(男女)だった。その後弾圧の対象は中国共産党員にも及び、多くの人材や文化財などが甚大な被害を受けた。これによって中国の経済発展は20年遅れたと言われている。一般の革命とは一線を画すクーデターだった。1966年から10年にわたって吹き荒れた中国の政治混乱の背景には、
(1)1949年の中華人民共和国の建国以来、中国の社会主義建設が不調であったこと (2)建国の指導者毛沢東が政治的に失脚していたこと(3) 中ソ 対立など国際的な社会主義運動の対立 などがある。

1965年11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇『海瑞 罷官』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した 京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。

1966年5月北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶 元梓以下10名を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の 壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。

8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らの文化革命 小組がそれに代わった。文化大革命について最もはっきり述べているの は1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。

江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四 人組は実は毛沢東を含めて「五人組」であったとすべきだろう。

原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼 ばれる団体を結成し、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大 を続けた。実権派(「走資派」とも呼ばれた)と目された!)(トウ)小平や劉少奇などの同調者に対しては、徹底的な中傷キャンペーンが行われた。批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが日常的に行われた。実権派とされた者は三角帽子を被らされ町を引き回されるなどした。吊し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉!)、儲安平らは自ら命を断った。極端なマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした

毛沢東の1927年に述べた「革命とは食事に客を招くことではなく、上品 で温順でつつましやかなものではない。革命は暴動だ。一階級がもう一 つの階級を打ち倒す暴力なのである」という言葉がスローガンとなって 多くの人々を動かし暴力に走った。だが、中華人民共和国政府はこの事 に対する、明確な説明あるいは謝罪を行っていない。
1973年8月から1976年まで続いた林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する 運動は後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引き摺 り下ろそうとする四人組側の目論見で行われたものであった。
毛沢東は「日本共産党も修正主義打倒を正面から掲げろ」「日本でも文 化大革命をやれ」と革命の輸出的な意見を述べた。日本共産党は「内政 干渉だ」として関係を断絶した。その後1998年に日本共産党と中国共産 党は「誤りを誠実に認めた中国共産党側の態度」によって32年ぶりに関 係を修復した。

評論家の大宅壮一は幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れているようす を「ジャリタレ革命」と批判した。この最中の1972年9月、田中角栄首相 は特別機で北京入りし、日中国交正常化を成し遂げた。同行した私は天安門広場に残された佐藤前政権非難のたて看板多数を目にした。北京は敗戦直後の東京を想像させた。チップは取るはずが無いという日本外務省の説明は嘘。ソヴィエトの建てたホテッルは湯が出なくて苦痛だった。そうした矛盾を何とかしようと周恩来首相やトウ小平は現実路線を採ろうとしていたが、毛沢東は修正主義として非難。世の中を知らぬ青少年に倒させようとしていたのである。トウは「下放」されていて現れなかった。1976年には、文革派と実権派の間あって両者を調停してきた周恩来、この混乱の首謀者であった毛沢東が相次いで死去し、新しく首相となった華国鋒は四人組を逮捕した。翌1977年8月、中国共産党は、1966年以来11年にわたった文革の終結を宣言した。 1981年には四人組と林彪グループに対し、死刑から懲役刑の判決が下された。

トウが復活して1978年8月、日中平和友好条約が締結され、日本の資金と 技術が驚異的な経済の改革・開放を可能にし、今日の北京オリンピック を可能にした。だが、全体主義国のオリンピックはいずれも9年後に国を 滅亡させたと不気味な分析を突きつけられている。1981年6月に中共11期6中全会では、文化大革命は「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」としている。文化大革命期間中の中華人民共和国では大学が1972年頃まで閉鎖され、再開後も入学試験は行われず、青年は農村に下放された為、専門知識を持つ人材の育成は大きく遅れた。

1954年生まれの中華人民共和国前駐日大使の王毅ら、中華人民共和国の 指導的人物に若い世代が多いのもこれが原因である。紅衛兵、吊るし上 げられた人の相違を問わず現在の中国を無批判に評価している人物は少 ないと推測される。公式コメントでは、「わが党が犯した最大の過ちである」と認識、謝罪し、毛沢東についても、「七分功、三分過」と言う!)(トウ)小平の発言が公式見解のようだ。2006年5月、文化大革命発動から40周年を迎えたが、中国共産党から「文化大革命に関しては取り上げないように」とマスコミに通達があった為に、中華人民共和国内では一切報道されなかった。この様に「文化大革命」に関しては中華人民共和国内のマスコミにとって触れてはいけない政治タブーの一つとなった。

紅衛兵は、「赤は革命の色であるから赤信号で止まるのはおかしい。赤 信号で進んで青信号で止まるべきだ」と主張した。この案が却下される にあたっては、なんと周恩来が動いたとの説もある。他にも、「道路の右側を通行するのはアメリカ帝国主義的であるから左側通行にすべき」との主張もあったが、帝国主義においてアメリカの先生的存在であるイギリスが左側通行との理由で取り止めになった。 当時まで粛清されずに生き残っていたかつて富農や官僚だった者が批判・迫害され、吊し上げや殺害が盛んに行われた。ついには毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞すら出た。 旧思想・旧文化の破棄をスローガンとする紅衛兵らにより、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたという。

1967年、劉少奇夫人の王光美はピンポン玉のネックレスを首からかけさ せられブルジョワと非難された。寝室に毛沢東の肖像を飾っていた新婚夫婦は「主席の前でセックスをした」と非難された。夫婦は「その時は電気を消していた」と反論した。毛沢東に忠誠を捧げる意味から、「毛沢東語録歌」にあわせて踊る「忠の字踊り」が強制され、踊らなかったら列車に乗せてもらえないことがあった。また豚の額の毛を刈りこんで「忠」の字を浮き上がらせる「忠の字豚」が飼育された。

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シナの「易姓革命」序章
━━━━━━━━━━━平井 修一

北京五輪への国際社会の非難は、四川省大地震で隠蔽された。シナが今 度は同情される側に移って、中共は内心ほっとしているのではないか。
後は救援活動、復興活動において、「為政者としてシナには中共が必要 なのだ」ということを内外に強くアピールできれば「災い転じて福とな す」と思っているだろう。

大躍進や文革で3000~4000万人が死んでも頓着しないのが中共で、「核 戦争で 1000万人が死んでもいい、我が国は人口が多すぎる」と毛沢東は 豪語したそうだが、地震で5万人、10万人死のうが「貧乏人、厄介者、暴 動予備軍が死んだだけ」であり、中共にとってはほとんど痛痒を感じて はいまい。

中共にとって人民は抑えつける対象であって、人民はいつ中共に反旗を 翻すか分からない潜在的不穏分子なのだ。餓死しようが災害で死のうが 共産党の支配に影響しない限りは「関係ない」というのが、そもそもの 共産主義なのである。

ビルマの政権がサイクロンで国民がひどい目に遭っていても平気なのと 同様に、中共も本心は平気の平左だ。政権に悪影響を及ぼさないように 適当に救援活動をし、それを大々的にプロパガンダに利用しているだけ である。

「自分は被害者だ、一所懸命に救援をしている、国際社会の支援も受け 入れている、だから五輪を開催する資格はあるし、政権の正当性もある のだ」というわけである。

人民を圧殺する暴力組織が中共の人民解放軍と警察で、拷問と射殺はお 手の物だが、人民救済なんてやったこともなく、大いに戸惑っているの ではないか。兵士や武装警察隊にとって被災者は赤の他人だから同情を 向ける対象ではない。

「幹部がエエカッコシーをするために俺らが苦労させられる。んったく、面倒くさい、埋もれた奴らはもうそのまま死んじまえばいい」と思っているだろう。

共産主義には血も涙もなく、あるのは政治的な打算である。事件を政治 的に自分に有利なほうへ利用する。あくまでも自分のためで、人民のた めなんて思わない。共産党による、共産党のための、人民の統治なのだ。「人民のため」などと思ったら胡耀邦や趙紫陽のように失脚させられる。

間もなく1989年6月4日の天安門事件から丸9年だ。広場の上空に漂う犠牲 者の魂魄は、チベットの怒りを燃え上がらせ、五輪を恨み、大災害をも たらした。シナの伝統の「易姓革命」かくやという情況で、今は序章に 過ぎず、さらなる騒擾と天災地変をもたらすだろう。

一党独裁と自由主義市場経済は並立するはずはなく、その矛盾を乗り越 えて止揚するのが歴史だと毛沢東は言った。シナは今大きく回天しよう としている。怨嗟に包まれた「政治の祭典」北京五輪は、回天へ向けて のトリガーを引くのだろう。

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「従軍記者」事始(3)
━━━━━━━━━━━平井 修一
日本陸軍に従軍した最初の外国人記者、ハーバート・ジョージ・ポンテ ィング。米国の雑誌の特派員という名目で第一師団に従軍した彼は「こ の世の楽園・日本」と題する、こちらが恥ずかしくなるほどの“日本最 高、大好き!”という日本礼賛の著書を残しており、その中で重要な取 材をしている。

ポンティングはこう書いている。

<あるとき奉天で陸軍大将・児玉源太郎男爵に敬意を表しに行ったが・ ・・彼はすぐに私を自分の官舎に招きいれ・・・「ほら、君はあれをど う思いますか?」と日本語で言った。

見るとそこには近代的な装いをした日本の少女を描いた大きな掛け物が 掛かっていて、それはほとんど等身大であった。・・・「ご覧のように、ここでこんな美人を見ているのでちっとも寂しくありませんよ。別嬪さんですねえ」。そして前よりももっと楽しそうに笑った>

児玉大将の部屋のテーブルの上を見てポンティングは感動する。

<私が今まで見た中でも最高に美しい人形が飾ってあった。約十二イン チ(30センチ)の高さで、驚くほど真に迫って見えた。優美な藤色の着 物を着て、豪華な金色の刺繍を施した帯を締め、宝石に入った可愛い帯 留めから、髪にさした簪(かんざし)に至るまで、日本の婦人が身につ ける服飾のすべてが細心の注意をもって製作されていた。それはまさに 完全な縮小化された日本婦人で、最高の芸術品であった。

「これは私のお守りです。だからどこへ行くときでも一緒です。今まで にもずいぶんと幸運を授けてくれました」と日本陸軍の頭脳として知ら れているこの偉大な将軍は言った。これは児玉大将が祖国の婦人に寄せ る賛辞であった。

彼の言葉を聞いたとき、現代史の上で最大の偉人の一人であるこの勇敢 な将軍の心中の一端を知るという大きな特権に恵まれたことに感激した >

人形や壁に掛けられた絵は、母であり、妻であり、家族であり、そして 祖国を象徴していたのだろう。苦しい戦いの中で「なんのためなのか」 という思いがよぎったとき、将軍は人形を見つめながら「母のため、妻 のため、家族のため、そして祖国のため」と思いを新たにしたに違いな い。

その数日後、ポンティングは幕領昼食会の席で第一師団司令官の黒木為 !)(ためもと)陸軍大将の隣に坐った。維新の前夜、英国艦隊と薩摩軍 は鹿児島湾で交戦したが、黒木大将は18歳で参戦していた。

この話題で盛り上がった後、彼らは「日本の兵隊の勝れた資質、すなわ ち困難を気にせず、忍耐強く、勇敢で、立派な成果を挙げた素質につい て討論を行った」。

ポンティングは黒木大将の言葉をしっかりと記録している。

<日本の兵隊の挙げた業績について話すときに忘れてはいけないのは、 これらの行為を成し遂げたのは決して日本の男子だけではないというこ とです。

もし我が国の兵隊がその母親から、義務と名誉のためにはすべてを犠牲 にしなければならないという武士道の教育を受けなかったら、今日の成 果を挙げることができなかったでしょう。

日本の婦人は非常に優しく、おとなしく、そして謙虚で、これからも常 にそうあってほしいものだと思います。また、それと同時に大変勇敢で もあり、我が国の兵隊の勇気は、大部分、小さいときにその母親から受 けた教育の賜物です。

一国の歴史の上で婦人の果たす役割は大きく、どこの国でも、もし婦人 たちが何にもまして勇敢で優しく謙虚でなければ、真に偉大な国民とは 言えません。兵隊と同様に、日本の婦人は国に大きな貢献をしているの です>

児玉大将、黒木大将の2人が期せずして日本の母を賛美した。母は強し、である。(つづく)