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■ Japan On the Globe(548)■ 国際派日本人養成講座 ■
国柄探訪: アインシュタインの見た日本

・アインシュタインが日本で見たもの、それは人びとが
慎み深く和して生きる世界だった。
■1.アインシュタインの感動■
大正11(1922)年11月17日、アインシュタインを乗せた日本郵船の北野丸は、瀬戸内海を通って、神戸港に近づいた。フランスのマルセイユを出てから、1カ月以上の船旅だった。瀬戸内海の景色について、アインシュタインはこう記している。

私の好奇心が最高潮に達したのは、「北野丸」が日本の海峡を進むとき、朝日に照らされた無数のすばらしい緑の 島々を見た時でした。[1,p140]景色ばかりでなく、その時に同乗していた日本人船客らの態
度も、アインシュタインを感動させた。しかし、いちばん輝いていたのは、日本人の乗客と乗組員全員の顔でした。いつもは朝食前にけっして姿を見せたことのない多くの華奢なご婦人たちは、一刻も早く祖国を 見たいと、ひんやりとした朝風も気にせず6時ごろにはいそいそと甲板に出て、楽しげに歩き回っていました。私はそうした人々を見て深く感動しました。日本人は、他のどの国の人よりも自分の国と人びとを愛 しています。・・・[1,p140]
これが、アインシュタインの40日以上に渡る日本滞在の始まりだった。

■2.「神秘のベールに包まれている国」■
アインシュタインの来日は、改造社の山本実彦社長からの招待によるものだった。山本氏(改造社)から日本へ招待いただいた時に、私は 数ヶ月を要する大旅行に行こうとただちに意を固めました。それに対する私の説明しうる理由というのは、もし私が、 日本という国を自分自身の目で見ることのできるこのチャンスを逃したならば、後悔してもしきれないというほかありません。私が日本へ招待されたということを周囲の人びとが知ったその時、ベルリンにいた私が、あれほどまでに羨望の的になったことは、いまだかつて、私の人生の中でなかで経験したことはありませんでした。というのも、われわれにとって、日本ほど神秘のベールに包まれている国はないからです。[1,p140]
当時の日本を限りない愛情を込めて西洋に紹介したのは、ラフカディオ・ハーンであった[a,b]。アインシュタインはハーンの著作を読み、日本への期待を抱いていた。来日後、彼は次のような手紙を親友に認めている。やさしくて上品な人びとと芸術。日本人はハーンの本で知った以上に神秘的で、そのうえ思いやりがあって気取ら ない。[1,p117]
当時のヨーロッパは、第一次大戦が終わったばかりの荒廃した状態だった。多くのヨーロッパ人は、現代西欧文明の精神的な行き詰まりを感じていただろう。それに対して日本はいまだ「神秘のベールに包まれている国」であった。

■3.熱狂的な歓迎■
11月17日に神戸に上陸したアインシュタインは、京都で 一泊。翌朝、東京に向かった。朝、9時から夕方7時まで雲ひとつない空の下、展望車 に乗って東京まで汽車旅行。海、入り江を通過。雪に被われた富士山は遠くまで陸地を照らしていた。富士山近くの日没はこのうえなく美しかった。森や丘のすばらしいシルエット。村々は穏やかで綺麗であり、学校は美しく、畑は入念に耕されていた。・・・東京に到着! 群衆に取り囲まれ、写真撮影で凄まじいフラッシュを浴びた。無数のマグネシウムをたく閃光で完全に目が眩む。[1,p17]この情景を翌日の大阪毎日新聞は大きな写真入りで、こう伝えた。

東京駅で人びとが絶叫----「アインシュタイン!」「アインシュタイン!」「万歳!」怒濤のごとく群衆が博士に殺到し、東京駅は大騒ぎとなった。日本人の熱狂ぶりを見て、 駅に博士を出迎えたドイツ人関係者らは喜びのあまり目に涙を浮かべる人さえいた。[1,p19]
この熱狂的な歓迎について、アインシュタイン自身こんな談話を残している。私の生涯に、こんあことはありませんでしたよ。米国に行った時も大騒ぎでしたが、とてもこんな赤誠はありませんでした。これは日本人が科学を尊ぶためでしょう。ああ愉快だ、心からうれしい。[1,p17]

■4.「6時間におよぶ講演に聴衆が酔った」■
11月19日には、アインシュタインは長旅の疲れをものともせずに、慶應義塾大学にて6時間もの講演を行った。読売新 聞はこう伝えている。6時間におよぶ講演に聴衆が酔った----慶應義塾大学での日本初の講演は内容は「特殊および一般相対性理論について」。1時間半から3時間の講演後、1時間の休憩をはさみ、講演が再開され8時半に閉会。実質6時間の長講演にもかかわらず、2000人以上の聴衆は一人として席を立たず、アインシュタインと通訳石原純の一言一言に静粛かつ真剣に聞き入っていた。理屈が理解できる、できないにかかわらず、皆アインシュタインの音楽のような声に酔いしれたという。[1,p20]
その後も、東京帝国大学での6回連続の特別講演、東京、仙台、京都、大阪、神戸、博多での一般講演などが続いたが、どの会場も盛況で、千人単位の聴衆が集まり熱心に聞き入った。アインシュタインがいかに分かり易く説いたとしても、これだけ多くの一般的な聴衆が、相対性理論をよく理解し得たとは思えない。東京駅での熱狂的な歓迎、そして講演での熱心な講態度は、何が原因だったのだろう。

■5.「外国の学者に対する尊敬の念」■
12月10日、京都に戻ったアインシュタインは、講演後、京都御所を訪問し、「御所は私がかつて見たなかでもっとも美しい建物だった」との感想をもらした。中庭からは即位式用の椅子がある即位の間が見えた。そこには約40人の中国の政治家の肖像画があった。中国から実のある文化を日本にもたらしたことが評価されたためである。
外国の学者に対するこの尊敬の念は、今日もなお、日本人のなかにある。ドイツで学んだ多くの日本人の、ドイツ人学者への尊敬には胸を打たれる。さらには細菌学者コッホを記念するために、一つ寺が建立されなければならないようだ。嫌味もなく、また疑い深くもなく、人を真剣に高く評価する態度が日本人の特色である。彼ら以外にこれほど純粋な人間の心をもつ人はどこにもいない。この国を愛し、尊敬すべきである。[1,p95]

「外国の学者に対するこの尊敬の念」は、日本人の伝統だが、近代西洋科学への尊敬はまた格別の念があった。富国強兵は、世界を植民地化しつつある西洋諸国から国家の自由と独立を護るための日本の国家的課題であった。そして経済力にしろ、軍 事力にしろ、その根幹は近代西洋の科学技術にあったからだ。そしてアインシュタインこそ、その西洋近代科学の最高峰を 体現する人物であった。当時の日本人が、彼を熱狂的に歓迎し、その講演に陶酔したのは、「外国の学者に対する尊敬の念」と いう伝統と共に、近代西洋科学の国家的重要性を国民の多くが感じ取っていたからであろう。

■6.「微笑みの背後に隠されている感情」■
日本は明治以降、ヨーロッパに多くの留学生を送り、西洋近代科学を学び取ろうとしていた。アインシュタインは来日前から日本からの多くの留学生と出会い、ある印象を抱いていた。われわれは、静かに生活をし、熱心に学び、親しげに微笑んでいる多くの日本人を目にします。だれもが己を出さず、その微笑みの背後に隠されている感情を見抜くことはできません。そして、われわれとは違った心が、その背後 にあることがわかります。[1,p140]日本滞在中、講演と観光の合間を縫って、アインシュタインは多くの日本人と会った。長岡半太郎や北里柴三郎ら日本を代表する科学者、学生、ジャーナリスト、そして一般家庭の訪問まで。そして「微笑みの背後に隠されている感情」が何かに気がついた。
もっとも気がついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。我がドイツでは、教育とい うものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのことと思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多くのぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるのです。[1,p141]全世界の植民地化、そして1900万人もの死者を出したと言わ れる第一次大戦は、この「熾烈な闘い」の結果であろう。

■7.「日本人の微笑みの深い意味が私には見えました」■
それに対して、日本人はどうか?日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易に親しくなれるひとつの理由があります。それは、みずからの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特有の伝統があるのです。ですから、性格上おたがいに合わないような人たちであっても、一つ屋根の下に住んでも、厄介な軋轢や争いにならないで同居していることができるのです。この点で、ヨーロッパ人がひじょうに不思議に思っていた日本人の微笑みの深い意味が私には見えました。個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか? 私にはそうは思えません。この伝統が発達してきたのは、この国の人に特有のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっ と優っていると思われる、同情心の強さゆえでありましょう。[1,p142]
「不思議な微笑み」の背後にあるもの、それは「和をもって貴し」とする世界であった。

■8.「自然と人間は、一体化している」■
日本人の「個人の表情を抑えてしまうこのやり方」のために、アインシュタインは日本滞在中も、その心の奥底に入り込むことはできなかった。けれども、人間同士の直接の体験が欠けたことを、芸術の印象が補ってくれました。日本では、他のどの国よりも豊潤に、また多様に印象づけてくれるのです。私がここで「芸術」と言うのは、芸術的な意向、またはそれに準じ、人間の手で絶えず創作しているありとあらゆるものを意味します。この点、私はとうてい、驚きを隠せません。日本では、 自然と人間は、一体化しているように見えます。・・・
この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。かわいらしいのは、小さな緑の島々や、丘陵の景色、樹木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。・・・どの小さな個々の物にも、そこには意味と役割とがあります。そのうえ、礼儀正しい人びとの絵のように美しい笑顔、お辞儀、座っている姿にはただただ驚くばかりです。しかし、真似することはきません。[1,p142]
「和をもって貴し」とする世界で、人びとは自然とも和して生きてきたのである。

■9.アインシュタインの警告■
明治日本が目指した富国強兵は、西洋社会の闘争的世界に、日本が参戦することを意味していた。国家の自由と独立を維持するためには、それ以外の選択肢はなかった。しかし、闘争的な世界観は「和をもって貴し」とする日本古来の世界観とは相 容れないものであった。また富国強兵を実現するために、明治日本は西洋の科学技術を学んだ。しかし、近代科学の根底には、自然を征服の対象として、分析し、利用しようとする姿勢があった。それは自然と 一体化しようとする日本人の生き方とは異なるものであった。西洋近代科学を尊敬し、アインシュタインを熱狂的に歓迎し た日本国民の姿勢は、彼が賛嘆した日本人の伝統的な生き方とはまた別のものであった。両者の矛盾対立について、アインシュタインはこう警告している。たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素 さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。[1,p144]
科学技術の進展から、人類は核兵器を持ち、地球環境を危機に陥れてきた。アインシュタインが賛嘆した人間どうしの和、自然との和を大切にする日本人の伝統的な生き方は、いまや全世界が必要としているものである。
(文責:伊勢雅臣)
━━─━─[太田述正 有料メルマガ]━─━─━
1 始めに
胡錦涛が四川省大地震の被災地を視察した際、人民解放軍や武装警察を整列させているのをTVで見て、違和感を覚えていたところ、「学校倒壊など甚大な被害を受けた四川省北川チャン族自治県では、胡氏が16日に訪問した際、人民解放軍兵士らが胡氏を出迎えたため、捜索・救出活動が2時間にわたって完全に中断した・・・同県の元中学教員は・・・「救助隊は学校の門付近でしか作業しなかった。胡氏に同行のメディアが気づいて、写真を撮るようにするためだ」と怒りをぶちまけた。」という記事が香港英字紙サウスチャイナ・モーニングポストに出ました。

中共当局がこんな馬鹿なことをやらかしたこと、胡錦涛が全くカリスマ性を中共国民の間で持っていないさそうなこと、被災者の間で中共当局への不満と怒りが鬱積している様子であること、「不敬罪」ものの被災者の声がメディアによって取材され中共国内でインターネットで流れた可能性もあること、は衝撃的です。これは、中共体制崩壊が始まる前兆ではないか、と思いました。

2 体制の抱える根本的問題の噴出

 (1)様々な問題の露呈
学校の倒壊が頻発し、死者・行方不明者の三分の一は生徒であり、これは役人と業者の癒着下の手抜き工事のせいであることが世界中に明らかになりました(コラム#2553(未公開))。
同じ理由で、食品の安全、薬品の安全、環境基準が蹂躙されているわけですが、こんなことは中共国民が誰でも知っていることです。
中共の国民所得の6分の1は賄賂だという推計もあります。人民解放軍の将校の階級すらカネで買えるというのです。これは中共の裁判所や治安機関、そしてマスコミがまともに機能していないことと、役人を監視する市民団体が数少なく、しかも弱体であるためです。救援活動も、温家宝首相がただちに被災地入りして陣頭指揮をとったはよいとして、ヘリコプターが遅れて、しかも不十分な機数しか投入されていないために、救援物資の輸送・投下や生存者の安全地帯への避難がはかどっていませんし、倒壊家屋から救出された被災者に施されるべき圧迫症候群(Crush syndrome)治療がほとんど施されていないために死者数が増えていますし、外国の救援隊の受け入れも遅れる、といった不手際が目立ちます。

 (2)情報公開に至った経緯
以上のような事実は、メディアが報道したからわれわれの知るところとなったわけですが、そもそもどうして中共当局は情報公開せざるをえなかったのでしょうか。
かつては大事件のニュースをメディアが勝手に報じることは禁じられていました。炭鉱事故など、どんな大規模なものであっても報じられることすらなかったのです。ところが2005年、ハルビンの500万市民は、当局から理由を告げられないまま、水道水を飲まないよう指示されたところ、川の上流の化学工場で爆発が起きて川が汚染されたという事実がインターネットで流れ、メディアもこの事実を報道せざるを得なくなったのです。つまり、インターネットの普及が中共で情報公開を促しつつあったわけです。

今回の大地震発生の翌日の13日、共産党政治局常任委員会の情宣局は、(1)で上述したような不都合な真実が報道されることを回避するためでしょう、メディア各社幹部に対し、救援活動に焦点をあてて報道すること、被災地に記者を派遣せずに新華社配信記事に拠ること、を(慣例に従い、記録が残らないように)口頭で指示しました。そして14日、胡錦涛主宰の下で常任委員会が開催され、四川省当局に対し、「社会的安定」を確保するように指示しました。抗議行動を抑え込め、ということです。15日までには、警察、軍、地域役人が被害の大きい被災地に外国人記者を中心として記者を入れないための検問を始めました。しかし、13日の上記指示に反し、上海の新聞の2人の記者が空路被災地に一番乗りをし、続々と他の記者達も後に続いた結果、14日には情宣局は、13日の指示を事実上撤回することを余儀なくされます。
大事件に係る新華社による情報独占が公式に崩れた画期的瞬間です。

(注)1889年の天安門事件の時は、なし崩し的に新華社による情報独占が崩れたが、爾後二度とそんなことがないよう、中共当局は腐心してきた。とはいえ、実際には不都合な真実については、インターネット上は流れているものの、殆ど中共メディアは報道せず、もっぱら救援活動をプレイアップした自主規制的報道が中心です。ただし、温家宝首相が転んで怪我をしたが治療を拒んだ、といった従来では決して報道されることがなかったような事柄を報じたメディアが出てきただけでも大事なのです。
 3 今後の展望
1986年4月にチェルノブイリの原発事故が起きたとき、ソ連当局の情報開示が遅れたために犠牲者が増え、国際社会の強い批判を浴びました。グラスノスチ(情報公開)に向けてのソ連の画期的転機は1988年12月に起こったアルメニア大地震の時に訪れます。何万人もの死者が出て諸外国からの援助が不可欠となったため、ソ連当局はアルメニアへの渡航制限を撤廃したのです。外国人記者は、ソ連史上初めて事前に許可を得ることなく取材地たるアルメニアにかけつけ、(先の大戦中を除けばソ連史上初めて)米軍機を含む各国の航空機が援助物資を積んでアルメニアの首都エレバン(Yerevan)に飛び、現地で歓迎されました。それからはあっという間でした。ベルリンの壁が崩壊したのは翌1989年であり、ソ連自体も1991年には崩壊します。こんなソ連の轍を踏まないよう、中共当局は、ソ連とは違って、政治改革(情報公開と民主主義化)を極力後回しにして経済改革(市場経済化)を推進してきたのですが、今回の大震災を契機に、中共にもついに体制崩壊の可能性が出てきたのではないでしょうか。それにしても、大地震の威力は大変なものですね。

 (以上、http://www.nytimes.com/2008/05/18/weekinreview/18taubman.html?ref=world&pagewanted=print(5月18日アクセス)による。)
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