国際戦略コラム | 日本のお姉さん

国際戦略コラム

ようちゃん、おすすめ記事。↓ 

日本時代への改革を
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欧米中の問題を見ると、日本が大きなチャンスを得た。

その検討。
           Fより
欧米のサブプライム問題、中国の人権問題・地震に見る

中国の問題
点を見ると、日本の時代が来たと考えられるが、そのチャンス

を生かすも殺すも、日本の改革ができるかどうかに掛かって

いる。
1.中国の問題点
四川地震で温家宝首相は真っ先に現場に駆けつけた。この

行動を取 らないと中国の行政機関・軍や警察は動かない

救援隊を現地に送 らない。行政機関などのトップは共産党の

任命であり、そのトップの評価は市民の評価ではなく、

共産党中央の評価である。このため 、現地トップは中央に

対して、いい顔をして、住民を見殺しにする ことになる。

学校の校舎の崩壊は、鉄筋を使わない「おから工事」で、

それを中 央に知られたくないと行政トップは感じたようで

ある。被害のレベ ルを小さく党に報告している。このように

行政トップは住民を見て ない。

これを食い止めるのは、共産党のトップが現地に張り付いて、

指示 を出すしかない。このため、現地に共産党トップの

温首相か胡主席 が居て指示を出し続けないと行動しなく

なるので、ずーっと現地に 張り付くのだ。

日本では安倍首相が新潟地震で現地に駆けつけたが、

非常に不評を 買った。日本の地方行政トップは住民の生活を

守るために率先して 行動している。その行動を首相は邪魔を

したことになった。首相は 現地の要望を聞き、適切に首相

官邸で指示を出すことであるという。

自衛隊、他県の警察などの広範な機関は首相の指示でしか

動けない。 この指示が遅れたことで、初期行動が遅れたという。

災害時には正 常時とは違い、海外の医師など日本の免許が

なくても診療行為がで きるなど法の運用を変えることが必要に

なる。この指示も首相しか できない。

このように13億人の中国経済は大きいが、人権問題への

対応が共 産党ではできない実体を地震でより鮮明に見せ

付けている。世界が 疑問視する中国がそこにある。

2.欧米の問題
英米国ともに金融業を中心に経済を立て直した。この金融力の

根本 は、住宅価格の上昇で貧乏人まで金を貸し、それを

担保証券化で膨 らましたことと、先物信用取引でのGET

権限で膨大な利益を得て いたことで成り立っていた。しかし、

信用取引は、銀行の信用力が ないと成り立たない。シティ

などはCDO担保証券に深入りして、 その信用力を落とした。

このため、先物取引が危うくなっている。

先物取引の中心は為替であり、その量を多いのはドルが基軸

通貨で あるためだが、それに黄色信号が灯っていることに

なる。しかし、 今、欧米銀行全体が信用力を落としている

ので、サブプライム問題 を起こしていない日本の銀行が一番

信用力があることになっている。

日本の出番が来たのである。TCIや欧米年金運用機関が

日本企業 に改革を提言しに来ている。これは日本企業に

彼らは投資がしたい から提言しに来ているのだ。日本企業は

アジアに入り込んでいるし 、かつ欧米の景気減速にもインド・

中国・東南アジアなどの新興国 群の成長で、利益が落ち

ないと読んでいるためである。

3.日本時代への改革
日本の良さは、欧米中とは違い、何の文化でも受け入れて、

それを 日本化してきた。このため、ハイブリッドな経営行動や

考え方がで きる。しかし、戦後、欧米の考え方が浸透して

きて、その考え方で 日本を考えているが、その限界に達して

いる。欧米の考え方から日 本化へ、その思考を変化させる

ことである。経済優先主義から自然 優先主義、人間優先

主義の日本化を行い、ハイブリットな変革を行 うことである。

今の日本の予算配分は、まだ経済中心主義である。
全体的な日本の予算バランスがおかしい。優先事項に予算を

付けて から、その他の事項に予算を付けるという当然の

発想が不足してい る。日本社会も成熟してきて、西欧と同じ

ような社会福祉型の社会 になるしかない。

また、生命に欠かせないのは、農産物である。この確保も緊

急のテ ーマであるが、農家の減少が続いているのに、

企業の参入をまだ認 めようとしない。

環境問題を考えると、鉄道はモーダルシフトの条件を整備

すること であり、新幹線ではなくて、LRTや架線なしトロリー

バスなど地方都市交通の整備に予算を投入するべきでは

ないですか?

企業の国際化に合わせて、日本国家の国際化が重要に

なっている。
この面では、日本語と日本文化を知る外国人に永住権を

認めること や技術者や留学生の入国枠を増やすことである。

入国条件に日本語 の能力があるレベル以上必要とすれば、

日本語が分かる外国人を増 やせるために、日本企業の

国際化にも大いに役立つことになる。

また、円ベースの先物取引市場を作り、円を国際的な通貨に

して、 円圏を増加させて、日本国債赤字など財政上の問題

を小さくするこ とを目指す。軍事力が無いために経覇権を狙う

ことはできないが、ソフトパワーで世界に貢献することである。

平和な世界を志向する ことが日本文明の役割である。今の

軍レベルをキープして、地震や 災害支援活動やPKOなどの

活動を行うが、これ以上の軍事力を増 やさない。

日本の時代に則した改革をして、世界平和に貢献する日本

文明の役 割を果たしませんか??
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(日本のお姉さんの意見。↓

反日の中国人留学生は日本に入れないでほしい。

問題が大きくなるから。)


『隠されたクスノキと楠木正成(二)』
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■ 第二章 神社合祀と長州閥

■「神社合祀」という名のリストラ策

 そもそも「神社合祀」とは何だったのか。

 神社合祀令が通達されたのは一九〇六(明治三十九)年。

「神社 は国家の宗祀である」という国家原則に従って、敬神

の念を高める との主旨のもと、由緒・財産もなく神職不在で

祭祀が行われていな い神社を廃止、統合、移転させるという

ものだった。 

 神社合祀は地方官吏の裁量に一任され、とりわけ南方

熊楠が愛し 、現在では世界遺産に登録されている三重県と

和歌山県で特に厳し く実施された。規模の小さい村社、

無格社がその対象となった。

 三重県では一八九八(明治三十一)年に府県郷村社および

境外無 格社の合計が六八三四あったものが、一九一六

(大正五)年には 七四三に、同じく和歌山県では、三七八八

あったものが五四六に激 減する(「府県別神社増減表」、

「府県別神社残存指数」参照、 いずれも『蘇るムラの神々』

櫻井治男、大明堂より)。 

 結局、「神社合祀」とは神社システムの大規模なリストラク

チャ リング(再構築)だったのだ。

 神社合祀令は、そもそも西園寺公望内閣の原敬内相の

下で出され た通達である。当初は一町村一社を標準に

まとめようとするものだ ったが、原は強攻策を避け、地方の

実情に合った幅を持たせた運用 に務めた。

当初、熊楠も俗信によって祀られている淫祠小社の駆除

ためには 有効な措置として評価し、歓迎する態度まで示し

ていた。

 ところが、内相が平田東助に代わると、突如、合祀令を

厳しく実 施するようになる。平田は残すべき神社の選定を

府県知事に委ね、 知事は郡長や町村長と組んで、競い合う

かのように合祀を推進した。
その結果、廃社となった神社の鎮守の森は伐採の対象となり、

その 売却によって私服を肥やす官吏や神職までもが現れる。

 さて、ここで原敬、平田東助という極めて重要な人物が登場

して きた。原は賊軍とされた南部藩出身、平田も同じく賊軍の

米沢藩出 身。いずれも明治維新の「敗者」から成り上がった

人物である。

二人が生きた時代は薩長藩閥政治が大手を振っていた。この

薩長閥 、特に長州閥の巨魁にして「藩閥」と「軍閥」の最高

権力者であっ た山県有朋を軸に、二人の人生は全く異なる

道を歩むことになる。

■「平民」原敬と大正史の痛恨事
 原敬は、一八五六(安政三)年に岩手郡本宮村(現・盛岡

市本宮 )で、南部藩側用人の父・直治の二男として生まれ

が、自ら分家し て士族籍を離れ、平民となった。東北地方は

戊辰戦争で朝敵となっ たことから「白河以北一山百文」と

嘲笑され、蔑視される。このた め原は薩長への対抗心から

自らを「一山」や「逸山」と号した。

 一時は立身出世コースから外れるものの、薩摩藩士だった

中井弘 の知遇を得て記者としての道を歩み出す。中井は

薩摩主流と合わず 、官僚よりも文人として活躍していた。

原は中井を生涯の師と仰ぎ 、中井の長女・貞子と結婚する

(後に離婚)。

 政友会総裁にまで駆け上がった原は、「平民宰相」として

日本で 最初の政党内閣を樹立。宿敵である薩長藩閥政治に

終止符を打とう とした。しかし、一九二一(大正十)年に東京

駅で凶刃に倒れる。
前もって書かれていた「位階勲等を固く辞退する」という文言

で始 まる遺書が残されていた。

 原の死後、宮内大臣の牧野伸顕から「伯爵を授けたい」との

打診 もあったが、後妻の浅子夫人は頑なにこれを拒んだ。

同郷の浅子は 原の気持ちを理解していたのだ。原が生涯、

華族になることを拒ん だ理由には衆議院議席への執着も

あったようだが、なにより華族制 度そのものが薩長藩閥主義

を象徴していたからだろう。原は薩長へ の反感から、最後

まで「平民」にこだわったのだ。

 この原は、青年期には敬虔なカトリック伝道師ダビテ・ハラと

し て生きた。近代における日本カトリック人脈の原点に立つ

人物だっ た。カトリックらしい現実的な対英米協調路線を

目指し、暗殺され る直前には山県有朋の背後にある軍閥を

抑えにかかっていた。軍国 主義排除のために高橋是清と

共に参謀本部の廃止を考えていた。
山県が死ねば、すぐにも実行に移そうと考えていた。

 しかし、暗殺によって、原は山県より先に逝く。山県は原の

暗殺 から三カ月後に世を去った。元駐タイ大使の岡崎久彦

は、「原が山 県より生き延びられなかったのは大正史の

痛恨事であった」と嘆じ ている(『幣原喜重郎とその時代』

岡崎久彦、PHP文庫)。

原の暗殺があともどりできない道を決定づけていった。

■「伯爵」平田東助と長州閥

 一方、「神社合祀」を推進した平田東助は、一八四九

(嘉永二) 年、山形県米沢市に米沢藩藩医伊東昇廸

(しょうてき)の二男とし て生まれ、藩医・平田亮伯の養子と

なり平田姓を名乗る。東助は米 沢の藩校興譲館で神童と

呼ばれ、江戸に上って大学南校(現在の 東京大学の前身)

を卒業。岩倉具視の欧米巡遊に随行する。

 そのままドイツに留まりベルリン大学、ハイデルベルク大学、

ラ イプチヒ大学で政治や法律を学び、ハイデルベルク大学

では日本人 として初めてドクトル・フィロソフィーの称号を授与

されている。
帰国後、大蔵省などの官僚を経て貴族院議員となり、桂内閣

では農 商務相と内相を務め、大正初めには首相候補にまで

上りつめた。
産業革命の荒波から手工業者を守ろうとしたドイツの協同

組合に精 通し、日本における「産業組合運動の父」とも称さ

れた人物である。

 原の南部藩同様、平田の米沢藩も賊軍とされた奥羽越列藩

同盟に 属していた。薩長閥が牛耳る明治政府にあって、立身

出世には極め て不利だったはず。ところが、ベルリンで

長州閥の青木周蔵や品川 弥二郎と出会い、これを契機に

長州閥の中心に入り込んでいく。

 この背景には山県有朋が深く関わっていた。

 平田は長州閥の母体ともいえる吉田松陰の松下村塾出身

であった 品川弥二郎の養女・達子と再婚する。

この達子は山県有朋の姉・壽 (寿子)の娘である。山県有朋

の養子となる伊三郎、品川の妻・静 子、そして平田の

妻・達子は、いずれも姉・壽の子供。つまり、品 川は妻の

実妹である達子を養女にしていた。こうして、平田は品川
と共に、山県閥の一員となっていった(「山県有朋系図」参照、
『君臣平田東助論』佐賀郁朗、日本経済評論社より)。

 平田は原の死の翌年の一九二二(大正十一)年に内大臣と

なり、 原とは対照的にこの年伯爵に叙せられる。原と平田は、

共に「賊藩 」出身でありながら、政党と藩閥、衆議院と

貴族院、農会(農協の 前身)と産業組合という相対立する

勢力を擁し、一方は平民、かた や伯爵として生涯を閉じる。

山県有朋という存在が二人の人生を大 きく分けたのだ。

 さらに、平田は三井グループとつながりが深く、現在の松下

グル ープの隠れた創始者ともいえる人物でもある。平田の

長男・英二は 日本画家に、英二の長男の平田克巳は三井

銀行から三井物産を経て ザ・ホテルヨコハマの相談役となった。

克巳の弟・正治は東京帝国 大学法学部政治学科を卒業して

三井銀行に勤め、その後、姓が変わ る。

 平田東助の孫にあたる平田正治は松下正治になった。

松下電器産 業創業者の松下幸之助の一人娘・幸子の

婿養子に迎えられた松下正 治は、社長、会長として松下

電器を総合エレクトロニクスメーカー へと育て上げた。また、

正治の実妹である敬子は、三五歳の若さで 松下電工社長

(後に会長)に就任した丹羽正治に嫁いでいる。

 現在の松下電器産業は山県有朋と平田家の血脈によって

支えられ てきたといっても過言ではない。しかも、この

平田東助と三井の つながりこそが神社合祀強行に直結して

いたのである。(つづく)
(注)各資料は下記URLをご覧下さい。
府県別神社増減表 

http://www.sonoda-yoshiaki.com/zu3.jpg
府県別神社残存指数 
http://www.sonoda-yoshiaki.com/zu4.jpg
山県有朋系図 
http://www.sonoda-yoshiaki.com/zu1.jpg