《Web熱線 アジアの街角から》
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体験回想録 ▽▼ by リー将軍さん(70才男性)
☆ 1980チベット偵査旅行記(2) ―――2008/05/19
1950年3月~9月まで半年の突貫工事により、康定からカンゼまでの自動車道路が完成した。従来あった獣道を拡幅して補給活動を容易にしたものである。ーーー30数年後に私達の四輪駆動車が通った道ではないがら、その実状は分からない。1950年10月、人民解放軍は、中国側が主張するラサの東方100キロまでは中国の領土だ、との説に従い3方面より金沙江(通天河、長江の上流)を渡りチベット領内に突入。
主力は昌都への総攻撃であるが、318号線の理塘から芒康[マルカム]の側面攻撃もおこなう。あと一ヶ所は分からん・・・白玉[ペユル]あたりから長江を渡河したのか?中国お得意の人海戦術でなく 4~5万の3~4個師団の兵力だったらしい。カンゼまでの軍用道路は建設したが、それから先はチベットの馬車道をラサまで使用するつもりなのである。昌都[チャムド]では、住民兵数千人が抵抗を試みたが、1日の戦闘で制圧されカムの地方総督アボ・ガワン・ジメクは人民解放軍に降伏する。邦達[ホムダ]も一瞬にして制圧された。
そして10日後には、中国軍はラサ東方100キロまで進んでいる。まったくの無人の野をいくが如き快進撃である。・・・昌都からラサまで1000キロ以上あるんじゃないかな?先頭部隊はトラックで進むにしても、兵站拠点のカンゼからラサ東方100キロの地点まで、1日に150キロ~160キロ進まなくてはならぬ・・・後は歩兵部隊の行軍である・・・中国とチベット国境には、通天河=長江の上流)瀾滄江=メコン川の上流)怒江=サルウイン川の上流)があり、我々の四輪駆動でもそれを渡るは大変だった。
水際作戦で守る気さえあれば、1ヶ月程度の防衛はどうにでもなったはずだ。その間にインド軍の支援がラサに入るのを待てばよい。ダージリングまで鉄道もある。あとは道路を利用してシッキム地方のカントクからヒマラヤ越えに亜東[アモ]に出れば、ラサまでは300キロもないだろう。1500キロ~1700キロも進まなければならん中国軍より、兵站線では問題ないぐらいインドが有利である。ーーー昌都では多くの人に聞いた。邦達でも聞いた。
1日の戦闘というより、チベットの守備隊は1日中逃げ回り、追いつめられて降伏したとの話であります。ーーーチベットの民は平和民族であり、1841年にカシミールや、1855年のネパールらの小国の侵入でもその進駐を許したような戦争とは無縁の存在である。
かって大国の唐を圧した吐蕃の勢威は、ラマ教の普及とともに消滅した。宗教は発展したが、国家形態はアヤフヤなものになってしまったのではないだろうか?1750年に清朝の乾隆帝が、チベットを完全保護国化するが、このチベットのダライラマ支配体制は、1842年にモンゴルの首長グシリの支援のもと、ダライラマ5世が当時内乱中であったチベットを統一、聖俗両界の最高権力者となり、一種の神権国家を樹立するが、
そのモンゴルは、7年前の1635年には後金=後の清朝)に併合されておりチベットはいわば、清の孫分に当たる。清朝の1644年~1750年を通して、チベットと中国の関係はチュ・ユン=ラマ宗門と清王室壇家?)の関係であり、18世紀中から20世紀までは、チベットが中国隷属下と見るのが正しいであろう。1908年に、清はチベットを侵略した。もうフラフラの状態でいつ倒産するか分からない清朝に侵略される・・当時のチベットの弱体が分かるであろう。このときの出兵は、ダライラマ支援ではなく、チベットに清朝主権を確立し、チベットに浸透しつつあった英国勢力を駆逐するためであった。
清軍がチベットに進駐し、1910年に、清朝によるダライラマ廃位の計画を知ると、ダライラマはチュ・ユン関係の終結を宣言した。この侵略に対する抵抗運動は、ラサ周辺のダライラマ勢力圏内でおこなわれた。1912年に中国本土で清朝が滅亡するや、チベットと清は、ネパールの調停のもと、中国軍はチベットより撤退、ダライラマ13世は1913年にチベットの独立を宣言した。私も「独立は独立」とは思うが 徳格や昌都、波蜜[ポーミ]らで現地の人々に聞いた話では、どうも独立国家として国を守る体制にラマ教チベットがなっていたかどうかもいささか心許ないのである。
1950年に人民解放軍が侵攻するが この1913年の13世の独立宣言以後37年の期間が経過しているが、チベットは相も変わらずのラマ教の特権階級貴族とラマ僧侶と、完全農奴たるチベット人支配体制のまま。ラマ教神権国家は、思想・哲学の宗教組織ではなく、主[あるじ]たるラマ教と僕[しもべ]たる農奴の統制組織である。チベット農奴は、総てこのラマの僕であり、土地もラマの財産である。
チベット人民は、生活費以外にもすべての生産物がこのラマ所有である、との意味合いを持つ。37年間の近代国家建設の期間がありながら、清朝時代のチベット隷属時代となんら変化しえなかったのだ。1950年の人民解放軍の侵攻に、チベット人民が抵抗らしい抵抗もせずラサまで容易に迎えいれた・・・。チベット人民がヤクに乗り羊に乗り、弓矢でのゲリラ戦に徹すれば、ポタラ宮殿にシナ軍兵5万が到達するには3ヶ月は必要だったであろう。
第二次大戦初期に、近代兵器を擁したソ連の大軍がフインランド軍に敗北した例のごとく、世界の屋根の高原地帯のチベット山岳戦、チベット人に国を守る気概さえあれば、朝晩は身を切るように寒い、そんな人力頼りのシナ兵が容易に進撃できる筈がない。ーーーう~む、私の想像で申しわけないが、波蜜[ポミー]でも聞いた。・・・チベット人はむしろ、「人民の解放」を叫ぶ中国を歓迎したとの見方も成り立つ・・・私らが聞いた現地人の取材は短い限定調査ではあるが、この、貴族からの解放歓迎説が多かった気がするがのう~。ラサではさすが,違ったが・・・地方ではポタラの威勢はあまりないもののように聞きとれたがね~?
最近の、シナのチベット非道弾圧は知らない・・・だが、80年当時我々が聞いた50年代のチベット民衆の話‥‥‥漢人に対する反発はあった‥‥‥ラマ教に対する帰依の信心深さも確かに高かった。だが、特権階級のラマ僧貴族に対する忠誠心があったとは思えない。民に愛国心があるならば、、あの中国の快進撃は説明がつかない‥‥‥。10月25日、中国政府は人民解放軍のチベット進駐を宣言した。
インド政府と英国は、これを侵略行為とする非難の政府声明を発表した。だがそれ以上の軍事支援は行わなかった。両国とも、チベットがこんな簡単に崩壊するとは思っていなかったのではないか?・・・それにより、国家としてのチベットを支える自信を喪失したのではないか――――。
= つづく =
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┃▼▽ 異聞シベリア抑留記 ▽▼ by 江藤一市さん
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☆ アナール収容所にて(6) ――――――2008/05/19
――【作戦成功!】
ちなみに運搬係のノルマは、200メートルの距離だったらトロッコ35台が一日のノルマである。歩くだけで14000メートルであるが、トロッコ1台0.3単位の石炭=ラパートカで120杯)を自分で積んで運ぶのだから100%はとても覚束ない。それに脱線・転覆などもある。今迄力仕事をしたことのない私にとっては、超重労働に思われた。二日程働いたが、ノルマにはとても覚束なくヘトヘトに疲れた。二日目の夜、帰ってからベッドでいろいろ考えた――――。
「このまま今の状態が続けば、何れはバテて病気になる」と。実際炭坑で働き過ぎ、過労、衰弱で診察を受けに来た人を何人も知っていた。
「なにもここでスターリンの為に、身体を犠牲にしてまで働かなければならぬ義理はない」「なんとかして坑内から出て、地上作業のほうに回されるような方法はないか‥‥」と、いろいろ考えた。
ーーーそして三日目、それを実行に移した。
現場に到着してそれぞれの持ち場に配置された。坑内はマッセル(現場監督)が始終見回りに来る。最初の見回りが済んで暫くしてから、持っていた石油ランプを吹き消して真っ暗な中、切羽の前に座り込んだ。
どのぐらい経っただろうか..見回りの灯が近づいてきた。そして座り込んでいる私を見つけると「何だお前は、どうしたんだ?」と声をかけた。私は「ランプが消えてしまったので灯を貸して下さい」(本当は煙草を喫うのでマッチは持っていた)と言うと、自分のランプから灯を移してくれた。まっセルが立ち去って暫くして、また灯を吹き消した。
三十分もすると、またマッセルが回ってきた。「マッセル、また消えてしまった」と灯を貰った。そしてまた前と同じようにして座り込んでいた。三度目にはマッセルの顔色も変わり罵声が飛んだ。「ヘイ[おい]!お前のようなロードリー[怠け者]はニナーダ[要らない]!早速ナチャイリニク[収容所長]に報告してチュリマー[監獄]だ!」と怒鳴りつけると、腕を引っ張って坑外に連れ出された。
作戦成功!これで二度と坑内に入らなくて済む。地上作業なら空気も良いし、仕事も楽だ。チュリマーのことは、こんなことぐらいでは入れる筈はないし、若しそんな事態になったら、隊長が何とかしてくれると多寡を括っていたので、大して気にも止めていなかった。果たして、帰ってからも、翌日も何のお咎めもなかった。完全に私の作戦勝ちだった。
――【坑外勤務・グルーシキ係】
坑内に入らなくて良いようになってから就いた仕事は、グルーシキ[積み込み]という、馬車や橇で地方人が石炭[ウーゴリ]を取りに来たときに、ラパートカ[スコップ]で積んでやる仕事だった。このグルーシキは、四人が1グループとなって三交替。この十二名は炭坑小隊とは別個で、監視兵もつかない。
交替毎に、三十歳ぐらいのロシヤ人女性(名前はワーリヤ)が送り迎えしてくれた。仕事の済んだ私達グループを連れて帰ると、交替の四人を引率して炭坑へ帰るのだった。幾つにも積んである石炭の山の、直ぐ近くの三畳ほどの広さの小屋がグループの詰所だった。真ん中に大きなペーチカがあり、小屋の片隅に小さな机と椅子があり、それがワーリヤの定位置だった。三方の壁に添って長い腰掛、我々はそれに腰を下ろして石炭を取りに来る人を待つのであった。取りに来た人は、ワーリヤに何か話し、何かノートに書いているが、代金などはどうなっているのか全く知らない。尤も、総て国営で、何でも国のものであり自分たちのものでもあるらしく、そこのところの観念は私達には理解できなかった。
――【国の物ということは我々の物】
それについてこんなことがあった。
ラーゲル[収容所]の中では麻雀が盛んであったが、炭坑やグルーシキの交替勤務の非番の者達は、夜昼お構いなしで四六時中誰かがやっていた。或る晩十二時も過ぎた頃、夜間巡視のロシヤ人将校がやって来た。
「夜中に騒がしくすると他の人が眠れないではないか。直ぐ止めろ」と、尤もなことを言った。ところがその後がいい。「若しやりたいのだったら俺の言うことを聞け。それに従えば朝までやってもいい」と交換条件を持ち出した。
交換条件は、ラーゲルから余り遠くないところにある建築資材集積所から、木材を運べというのである。「自分が今度家を建てるからそこへ運べ」と言う。「なんだ?それは泥棒ではないか。そんなことをしてもいいのか?」と尋ねると答えが奮っている。「あの資材は国家の物である。国の物ということは我々の物である。俺が家を建てても国家の物だ。だから俺が黙って持ってきてもいいのだ」とのたまう。若しこれが正論なら、なにも夜中に他人を使って運ばせることはなかろうに、と思ったが、別にこちらの腹が痛むわけではなしと条件を呑むことにした。
「ノルマは一人二本だ。五人居るから十本運べ」までは良かったが、その後に続けて「但し誰にも見付からぬようにしろ。若し見付かっても、俺の命令だと絶対言ってはいけない」と、筋の通らぬことを言った。
兎に角、材木一本を二人で担いで十本を運び終わると、朝まで大っぴらに麻雀を続けたことがあった。こんな具合で、物の所有権は一体どんなふうになっているのかさっぱり分からない――――。
――【ホイサッ!ホイサッ!】
話はグルーシキに戻るが、八時間勤務している間に、普通の日は十回ぐらい、夜勤の時などは三台も来ればいいほう。一回積み込むのに十分程なので、実に楽な仕事である。仕事のない時は、集まって馬鹿話をしたり、表に出て辺りを歩き回ったり、巻上機のところへ行って巻上方と話し込んだりして時間を潰した。ワーリヤも退屈らしく、机に俯してウタタ寝をしたり、私達に話しかけたりした。時には家から飴玉[カンフェークト]やパンを持ってきてくれ、それを食べながらいろいろな話をしたり、また私達も日本のことを色々と話したりした。
日本の女性がどうであるか、詳らかに承知していないが、ロシヤ人の女は裏表が実に甚だしい。他にロシヤ人が居る場合には、私達が一寸でも下がかった話をしようものなら、柳眉を逆立てて激怒する。ある時、ナシルカ(箱型運搬器)を二人で運ぶ時、普段のように「ホイサッ!ホイサッ!」と掛け声を掛けて急ぎ足で運んでいた。ところが、突然辺りに居たロシヤ人の女が「オオッ!ドーラク!チョールトイ!=馬鹿者!気違い!」と怒りだしたのである。こちらは、何故怒り出したのか見当もつかないので呆然としていた。
後でロシヤ人の男にそのことを話したら、笑いながらその訳を教えてくれた。ーーー「ホイ」はロシヤ語で..男のイチモツのことだそうだ――――。ワーリヤも、他にロシヤ人が居る時には決してそんな顔は見せないが、相手が我々ばかりの時にはガラリと変わって、結構際どい話しもする。こちらも面白可笑しく話すものだから大いに盛り上がる。
ーーーその内容を書くわけにいかないのが残念・・・・
= この稿つづく =