頂門の一針 | 日本のお姉さん

頂門の一針

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拉致を招いたカーター
━━━━━━━━━━渡部亮次郎

Jimmy Carter アメリカ合衆国39代大統領 1924年10月1日生まれだから83歳でも元気だ。大統領在任は1977年1月20日 ー1981年1月20日だったか
ら我々(園田外相時代)のカウンターパートは国務長官 サイラス・ヴァ ンス(在任1977-980年 弁護士)だった。カーターは1953年の父親の死に際し海軍を退役しピーナッツ栽培農家になった。牧師でもある。1960年代から生まれ故郷のジョージア州の州議会議員を2期務めた後、州知事に当選。1971年から1975年までジョージア州の知事を務めた。

1976年の大統領選挙に民主党候補として出馬し、最初は「ジミーって誰 のこと?」と揶揄される程知名度が低かった。しかし在韓米軍引き揚げ を公約するなどウォーターゲート事件(ニクソン共和党大統領)により 疲弊した政治の刷新を求めるアメリカ国民に巧みにアピールし現職のジェラルド・フォード大統領を破って一般投票の50・1%を獲得し勝利した。

在韓米軍の引き揚げの公約は大方の喝采を浴びたが、単に国際情勢に無 知だった故の空約束と就任後に気付いて路線を少しづつ修正して行った。しかし、これが北朝鮮による日本人大量拉致を惹き起こしたという指摘がある。事情に詳しい関係者によれば、北朝鮮の金日成国家主席は韓国から米軍が引揚げるなら、韓国を攻めて統一をなし遂げることに愈々現実味が出てくる。そこでアイディアとして、日本人に仕立て直した北朝鮮人をあらゆる方法で南に入国させて、韓国の混乱を惹起する。韓国の内部崩壊したところを衝くというわけ。

そのためには「教育者」として日本人を大量に拉致するとして、カーター発言の直後から拉致作戦を開始した。平和ボケした日本人には無い着想。警察も気付かないまま拉致は「粛々」と続けられたのである。カーターにこれを指摘した人はまだいない。北朝鮮は日本人を相当数、拉致したものの在韓米軍は「引揚げ」ではなく「削減」に留まったことから大作戦は中断、今日に至っているわけだ。

CIAの規模削減による情報収集能力の低下や、急速な軍縮を進めたことに よる軍事プレゼンスの低下などを招きイラン革命やその後のテヘランの アメリカ大使館占拠及び人質救出作戦「イーグルクロー作戦」に失敗。
アフガニスタン侵攻 (1979)を許したことなどから、共和党などから、 「弱腰外交の推進者」とたたかれることになった。

大統領任期中は、「人権外交」を標榜しながら大した果実を得られ大統 領職を退いてから世界を驚かせる外交手腕を見せたこの事から「数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した」と2002年にノーベル賞平和賞を授章した。

しかしその反面「史上最強の元大統領」、「最初から"元大統領"なら良 かったのに」と、国内外のマスコミに揶揄された。1979年には、前々任者のリチャード・ニクソン大統領による中華人民共和国との国交樹立政策を受け継ぎ、反対が強い中華民国と断交し、共産主義国家である中華人民共和国を訪問し国交樹立した。

ここに至るまで、既に国交正常化の上に日中平和友好条約まで結び終え ていた園田直外務大臣はヴァンス国務長官に盛んに米中国交正常化促進 のネジを巻いていた。胡錦濤が来日に当って「井戸を掘った人」として田中真紀子と共に園田の遺族を引見したのはこの理由もあった筈だ。カーターはアメリカの航空事情を変えることを目的に、航空会社設立の自由化と、国内路線の開設、料金設定の自由化などを盛り込んだ航空自由化政策「ディレギュレーション」政策を導入した。

この結果、目論見どおりに航空会社間の競争が盛んになり、運賃の低下 が実現することになり格安航空会社の勃興を生むきっかけとなった。
しかし同時に大手のうち、パンアメリカン、トランスワールド、イース タンは競争に耐えられずに消えていき、皮肉にもこの政策の推進を後押 ししたデルタ航空などの他のアメリカ国内の大手航空会社の衰退にもつ ながったと言われている。1979年6月、サミットでの来日時に夫人と共に六本木の焼き鳥店に入った。表面上は「ふらりと」、「お忍びで」訪れたように報道されたが、実際には大使館側の予約であり、その場に居た客も「仕込み」のサクラであった。文中敬称略。 2008・05・15
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永年の「悪習」の果て
━━━━━━━━━━毛馬 一三

「裏金問題」で大揺れに揺れている大阪市で、新たに「職員の不正行為」が明るみに出て、懲戒免職を含む計121人が大量処分されるという事が起きた。公務員としての「倫理感」はここまで堕ちているのかと非難の的の大阪市だ。「裏金調査」で同総額が6億4130間円に達したことが表面化した時、平松邦夫新市長は事態の深刻さに動転。報道陣の詰問に答え、その背景を、「前例を踏襲する職場風土と倫理感の欠如」が職員間に介在するためだと指摘した。

ところが今回発覚した不祥事も、まさしく新市長の想定通りのことで、 業務現場で長期にわたり繰り返されていた「不正行為」そのものだった。大阪市は「裏金」決着を前に、急遽この処分の方を先行させたのだ。さてその処分だが、最も重い懲戒免職の対象者は、建設局の出先・東南公営所の40才の技術職員。勤務中に負った怪我が完治したにも拘らず、「リハビリのため」と称して、03年4月から07年10月まで4年半にわたって1209時間、勤務中に職場を1人抜け出し、近くの公営プールで泳いでいた。

また、諭旨免職になったのは、同じ建設局の出先・南部下水道管理事務 所の47才の主任。胴回りが肥満してマンホールの中で汚水内作業が出来 ない48才の部下を、ほかの職員同様の作業に従事したように書類を改竄、43日分、3万3110円を不正に受給させていた。「肥満」の部下に金銭的便宜を図るという、聞いた事も無い当に珍事だ。

さらに、信じられないのは、停職2ヶ月の処分を受けた41才の健康福祉局 の係長。「年次休暇より取りやすかった」として、06年3月から07年6月 の間に、妻の両親、祖母2人、おじ1人、おば3人が亡くなったことにして、12回の忌引休暇を取ったもの。忌引休暇の不正取得での処分対象者は、この係長の他に4人いる。

以上、今回の不祥事の処分の内訳は、懲戒免職1名、諭旨免職1名、停職3 ヶ月3名、停職2ヶ月2名、停職1ヶ月6名、停職10日17名、減給16名、戒告 18名、戒告・注意57名―合わせて121人となる。この不祥事は、08年2月大阪市建設局の出先・十八条下水道センターの37才の職員が、カラ残業の協力を拒んだ同僚を暴行し逮捕されたことが発端。

これを機に市が全職員を対象に出勤状況などを調査した結果、この不祥 が発覚した。この暴行事件が無かったら、平松新市長を震撼させるこの 「悪行」の露呈はなかったのだから、なんとも皮肉な話だ。

「前例を踏襲する職場風土と倫理感の欠如」が、一連の不祥事の諸因だ と市長は述懐するが、なぜその「悪習」が改善されないのか。大阪市の 関係者に聞くと、「永年引継がれて常態となっているものを、良くない という認識があっても、職場で改めるにはどのような立場であろうとも、それなりの勇気と決断がいる」と、中々取り組めない訳を明かす。

たしかに接待、内輪の慰労会など大規模浪費の節約などは中止されるな ど改善はすすんでいる。しかし市長選挙に絡む支援団体への配慮や各区 役所と繋がる市民団体への支援は、事実上健在。また市政関係者への冠 婚葬祭の支出金のプールが「裏金」として確保されてきた実態は、今後 一挙になくなるとは思えない。

まして今回発覚した職員同士の互恵の構図である、架空時間外労働、出 退勤時間の不正操作、架空出張などの不正行為は、調べればまだ出てく るだろうと、市関係者はいう。となれば、この永年の「悪習」を無くすのにはどうすればいいのか。やはり初の民間出身の新市長が、勇断を以って職員の意識改革に臨むことに期待するしかない。今、大阪府の財政改革に反対意向を恰好良く主張している平松邦夫新市長だが、それより足元の市政改革に本腰を入れて貰いたいのだが、どうだろうか。(了)          
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「従軍記者」事始(2)
━━━━━━━━━━━平井 修一
日清戦争の当初は、記者の従軍についての規律・規則も「何分にも初め
てのこと」(岡本綺堂)でほとんどないに等しかった。記者のいでたち
も様々で、白木綿の帯を締めて日本刀をぶち込んでいる者、槍や仕込み
杖を持っている者もいる。軍隊がどこまで保護してくれるか分からないし、非戦闘員とはいえ自衛のために支那兵と戦うことも覚悟しなければならないため、厳重に武装していた。

規律・規則が不明確なので、配属部隊も記者も戸惑うことが多かったよ うだ。「部隊の待遇がまちまちで、非常に優遇するのもあれば、邪魔者扱いにするのもある。記者の方にも、おれは軍人でないから軍隊の拘束を受けない、といったような心持もあって、めいめいが自由行動をとるという風がある。軍隊の方でも余りやかましく云うわけにもいかない」明治37(1904)年、38年の日露戦争になってようやく従軍記者規則ができた。
・従軍記者は大尉相当の待遇を受ける。

・軍隊の規律に一切服従する。

・携行武器はピストルのみ。

・社名を記した腕章をつける。

・1社につき1人のみ。

などと決まった。「1社につき1人のみ」とはずいぶんと厳しいが、イチローやゴジラ松井の取材みたいに大報道陣が部隊にぞろぞろついてきたら足手まといになることこの上ないので、制限せざるを得なかったのだろう。それにしてもこれはかなりのハードルだ。「こうなると画家も写真班も同行することを許されないわけです。これには新聞社も困りました。画家や写真班はともあれ、記者一人ではどうにもなりません。(部隊が)別々の方面へ向かって出動するのに、一人の記者が掛け持ちをすることはできません」上に政策あれば下に対策ありで、新聞社はこの難問をコロンブスの玉子で乗り越える。「羽織ゴロ」と言われるくらいの海千山千ぞろいだから、やがて抜け道を探し当てた。

自社から一人の従軍願いを出し、従軍しない小さな地方新聞社の名義を
借りてさらに何人かの許可を得るという方策だ。岡本綺堂の「東京日日
新聞」(現・毎日新聞)ではすでに一人は決まっていたので、彼は「東
京通信社」の名義で許可を得た。「陸軍側でもその魂胆を承知していたのでしょうが、一社一人の規定に触れない限りは、いずれも許可してくれました。それで東京の各新聞社も少なきは二、三人、多きは五、六人の従軍記者を送り出すことができたのでした」

日本陸軍には外国人記者も従軍した。その最初が英国人写真家、ハーバ ート・ジョージ・ポンティングだった。ポンティングは米国の雑誌の特 派員という名目で第一師団に従軍した。彼は「この世の楽園・日本」と題する、こちらが恥かしくなるほどの“日本最高、クールジャパン大好き!”という著書を残しており、その中で重要な取材をしている。(つづく)