よみがえれ、美しい日本 | 日本のお姉さん

よみがえれ、美しい日本

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◎塚本三郎の「今を斬る」 民の声がなぜ届かない  
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賑やかではあるが、静かな街の中を、時おり轟音を立てて黒い車が走り抜ける。彼等は共産主義反対と中国政権の非道を叫ぶ。流す歌は、昭和維新(青年日本の歌)である。歌の趣旨と、掲げる日の丸は、日本人として否定する何ものもない。それなのに、街の人達にとっては何か違和感がある。本当ならば彼らに向かって拍手を送っても良いのにと思うことさえある。流す歌の三番まで述べてみた、三上卓 作詞作曲

一.汨羅の渕に波騒ぎ    二.権門上に傲れども   三.噫呼人栄え国亡ぶ   
  巫山の雲は乱れ飛ぶ     国を憂ふる誠なく     盲ひたる民世に踊る 
  溷濁の世に我起てば     財閥富を誇れども     治乱興亡夢に以て
  義憤に燃えて血潮湧く    社稷を念ふ心なし     世は一局の碁なりけり
 失礼な言葉だが、黒い車は愛国運動よりも、市民に対する威圧的示威運動にみえる。彼等に問題があるとしても、今日の時局、政局に対して余りにも無関心な市民の態度を憂い、昭和のはじめ、日本の政党政治の未熟と堕落が招いた悲劇を思い出す。昭和の動乱—政党政治の未熟さが、大衆の我慢の限界を超えていた。

五・一五事件—この時期の日本は、ふたつの動因があった。
その一つは、日本を取り巻く危機感である。東からはアメリカが、西からはソ連が迫っている。これを何とかしなければ日本は危うい。それが国家改造という危機を煽り立てた。

もう一つは、大川周明や北一輝等の反資本」:¥「\@_主義、反権力のイデオロギーである。 兵士の故郷である農村が疲弊し、農民は娘を売らなければ食ってゆけない状況に、義憤を感じた人達。そこから政財界の粛清、日本政治の刷新をめざした事件が相次いだ。昭和七年五月十五日、国家改造を説く日蓮宗の僧侶・井上日召の一人一殺主義。それによる国家改造をしなければ国民を救えない、と血気盛んな若者達が、日本を蝕む現況を取り除こうとした。「国民よ!天皇の御名において君側の奸を屠れ」と。海軍の三上卓中尉を中心に、時の犬養首相官邸へ上がり込み首相を射殺した。この事件では、犯人に対して同情が集まり、憂国の志士とみて、減刑嘆願書は三十五万通に達した。

二・二六事件—昭和十一年二月二十六日、東京市内は三十年ぶりの大雪で真っ白。麻布の第一師団の歩兵第一連隊と第三連隊、そして赤坂にある近衛師団歩兵第三連隊の一部中隊に非常呼集がかけられた。下士官、兵一千四百名は、大雪の降りしきる中を「完全武装に実弾」、「一日の携帯食」を持って、襲撃目標に向かった。相手は、
一.岡田啓介首相官邸 危うく難を逃れる  二.鈴木貫太郎侍従長官邸 重傷
三.斉藤実内大臣官邸 惨殺        四.渡辺錠太郎陸軍教育総監私邸 惨殺
五.!)橋是清蔵相私邸 惨殺    六.牧野伸顕前内大臣湯河原邸 危うく難を逃れる

昭和天皇はこの事件に対して激しい怒りを示し「断乎討伐」を主張された。この二つの事件には、陸軍大学校とか海軍大学校を出て、出世コースに乗った将校は一人も加わっていない。当時は、日本男子の一割も中学校へあがっていない貧しさであった。
出世コースに進むのは、ほんの僅か。当時の風潮としては、ある程度挫折感、嫉妬心が芽生え、そこに左翼的思想が忍び込む余地があったかもしれない。北一輝、大川周明などの思想、即ち、天皇中心の社会主義プログラムが生まれた。それは明治維新と比べて、昭和維新の志士と自負する情念があり、彼等青年将校には良心の呵責はなかった。天皇を惑わせる「君側の奸」を除くのだという正義感が中心であった。民主政治を評して、ギリシャの哲学者アリスト・テレスは、「三悪政治」と述べた。二千年昔のことである。(イ)愚民政治 (ロ)堕落政治 (ハ)数による暴力政治と。

自然科学も、社会科学も日進月歩で、遂に月の世界にも人間が足を踏み入れる今日。それなのに、「人間の心」は余りにも幼い。個人の行動も、家庭生活も、政治社会も、今日に至って、なお進歩発展したと言い得るのか。人間には、旺盛な欲求が在り、豊な感情があり、そして爽やかな理性も在る。それを、程良く調和させることが、生きる智慧であるはずだ。その欲求と感情を悪用、利用して止まないのが、三悪政治ではないか。昭和の動乱は、その三悪が見せつけられた。 それでも民主政治には、未だ救いがある。

民衆が悪政に苦しむとき、次の選挙には、自らの力で改めることの出来る機会が来る。血を見ずに改められる、希望の持てる制度である。そこが、独裁政治と異なっている。血を出さなければ改められない中国の「易姓革命」に優る。それが民主政治である。今日の日本の政治は、あの悲しき、昭和維新のような血を見ず、希望の政局となり得るのか。

民の声がなぜ届かない!
小泉純一郎は、あたかも国鉄民営化の成功をまね、郵政を民営化させ、より健全化させる大改革だと、庶民の感情に訴えた。神経戦と表現の巧みさで衆議院選の勝者となった。小沢一郎は、郵政民営化によって招く、一部の欠点を大げさに取り上げ、その上、衆議院総選挙での、小泉前首相のやりすぎ「刺客の差し向け」等を逆に訴え、憲法の不備を利用し、政権争奪の策士となって、野党に君臨している。

安倍晋三は、国家の基本を体得した、稀にみる度胸ある為政者とみえ、それが与野党に警戒され、特に天下り禁止の実施で陰険な官僚に不安を与え、足下を掬われて自滅した。安倍首相に立ち向かった壁は巨大で根が深い。そして辿り着いたのが福田政権である。自民、民主それぞれ、日本の国家はおろか、両党内にも、共に操舵室に人が居ない。他の連中は専ら党利党略、あるいは派利派略を睨んだ党内政争に巻き込まれている。自民党に「統治者の気迫」が失せていて、ただ権力にしがみつく妄執だけが残っている、官邸の主人公である福田首相に当事者能力が全くない。雇われマダムで、そこに座っていてはいけない人が座っている。ほとんど死に体になっている総理大臣に対して、誰も辞任、あるいは解散を突きつけ、実行させるところまで追い込めない。冷戦構造下であれば「サミット花道論」つまり死に体の総理でも、三ヶ月や四ヶ月、そのまま続けさせてもよい。しかし、今日の日本では到底そんな政治的停滞は許されない。                                          
(中西輝政、月刊誌WiLL六月号一部引用) 
 日本人は、日本人としての価値観や心意気などを忘れて、アメリカ人化しています。加えて、ほとんど過度にといってよいほどに、アメリカに依存しています。我が国は事実上のアメリカの被保護国だと言われる有り様です。中国に対しては毒入り餃子のような、あんな簡単な事件についてさえも物が言えない。その中国との間で、争点になっている尖閣諸島は沖縄県下にある。東シナ海もいわば沖縄の前方に広がる。自立国家としての自信を持たないでいる日本のなかでも、とりわけ地理的に重要な拠点として存在する沖縄に、日本の自治体としての想いがうすいとすれば、それは容易ならざることなのです

日本人は真の意味で、もう一度日本人にならなければならないのです。そして我が国わが国民を守り、日本の価値観で立つ姿を国際社会に示さなければならないということです。日本の価値観こそが、中国の歪な価値観や、時にダブルスタンダードに陥りがちなアメリカの価値観よりも優れていることを示していく必要があるのです。

(櫻井よしこ、月刊誌正論六月号台湾についての一部引用)
日本には、国を憂うる、まともな政治家が居ないと、嘆く人が多い。居ないのではない政治の舞台へ出て来られない仕組になってしまった。
三つの課題
第一の問題は、議員の資格を得なければ政治の席に就けない。
衆議院が小選挙区であるから、残念ながら、まともな政治家は出にくくなってしまった。投票の過半数を得るには、反対者が出るような政策は提言されにくい。政治は大所、高所に立つ発言が必須であって、反対者が出ることは止むを得ない。誰もが賛成する政策は、政治ではない。

国家の為、世界の為に論ずる正論には、必ず反対者を覚悟しなければならない。 欧米、特にイギリスとアメリカは、「しっかりとした二大政党の組織」が土台にある。日本は政党政治が前述の如く「余りにも未熟」である。従って有為の人材は、選挙戦に立候補を避け勝ちで、識見なき一部の野心家が競っているといっては言い過ぎか。 第二の問題は、マスコミが、評論家としての堂々の論は掲載する。

しかし、政治の舞台での発言の報道は、政党及び議会での地位と肩書きを中心にする「発言の順序」に縛られているから、政治の表舞台には正論を出させない。今日の日本の論壇、特に各月刊誌には、数々の正しい論文が掲載されている。それにもかかわらず、国会には一向に反映されていない。まことに残念なことである。

第三の問題は、現在の国会議員は、これ等有識者の憂国の論を学び、吸収する意志があるかを疑う。非難がましくなるが、現職議員は、国家を論ずる前に、権力を求め、その為には、現在の議席を維持、確保するために、持てる大半の力を尽くして余裕を持たない。

政党政治が未熟であっても、父祖の優れた血筋の人達は、地盤が強固であり、未だ健在で、日本を背負って立つとみられている人達は居る。例えば安倍晋三、麻生太郎、平沼赳夫、与謝野馨氏等ではないか。これ等の人達は、次の出番を待つよりも、一刻も早く日本を覆っている暗雲を吹き払う、より大きな輝きの役を買って出ることが期待される。

政権担当者の無責任と無力化は、それと呼応するかの如く、日本社会は暴力と非常識の髟と化し、凶悪犯罪が続き、世界一の治安を誇った日本社会は急変しつつある。そして、無責任な行動と発言が常態化して、住みにくい日本社会へ堕落し、今日に至っている最早問題点は明らかだ、一日も早く次の課題を如何にして実行させるかだ。
第一に新憲法を創設して、政治家及び指導者に、国家観を確立すること。

第二に教育の!)に、個人、家庭、社会に、倫理道徳と愛国心を徹底させる為、かつて教育勅語に示されていた人倫の道を、日本人の生きる義務として教える。

第三に、青少年に、団体の一員として、「共同生活による生活体験」をさせる。その為一定期間の義務を課して、社会人として育成せしめる。 -------------------------------------
2.松永太郎 
 天皇は、なぜだいじなのか
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 私たち日本の祖先は、長い間、精神的(スピリチュアル)な権威と世俗的(政治的・物質的)権威とを区別(仏教用語で言えば、「分別」)した上で、なおかつ、精神的な権威を世俗的な権威の上においていた。
このことは世界史的にも、まったく類を見ない、進化した形式である。「天皇制」という言葉は、ソヴィエト共産党に指導された日本の「マルクス主義者」たちが、その「制度」なるものを廃止しようと考え出したものであるが、まったく逆に、積極的な意味で使う、とすれば、天皇制とは、今の世界で、もっとも進化した制度・形式である、といえる。
 たとえば、ヨーロッパは、一時的に精神的な権威が上位であるかのように見えたが、その後、世俗的な権威との区別が行われ、その統合(インテグレーション、止揚)が行われることはなかった。
ヨーロッパは、精神的な権威が、フランス革命(「理性が神」)をはじめに、その力を失い、アメリカやソヴィエトのような、この世の地獄を現出するにいたった。ニーチェだのドストエフスキーだのが、描いたとおりである。
それは、世俗的な権威だけが、現世の唯一の権威であり、「力」であるとする思考法であった(過去形であるが、今も続いている)。アメリカやソヴィエトが政治的な体制を異にしていたために対立しているように見えたのは幻であって、その根には、まったく同じ思考法があったのである。今、その末裔に、私たちは、共産党に支配されているチャイナを見ている。チャイナ共産党が言う「自由主義経済的な共産党支配」というのは、簡単に言えば、アメリカとソヴィエトのミックスであり、その根本に「物質至上主義」があるのはいうまでもない。
一方では、その逆に、チベットのように、精神的な権威を、世俗的な権威の上においている社会制度もあった。この制度が、今、民族的にも抹殺されようとしているのは、不思議でもなんでもない。今や、世界のほとんどが、世俗的な権威のみを最高の政治的な権威とする政治体制になったからである。
チベットは、しかし、厳密に精神的な権威と世俗的な権威を分別してはいなかった。そのためチャイナの野蛮な侵略を受けたとき、いかに、その戦士たちが勇猛であっても、なすすべがなかったのである。
日本だけが、精神的な権威と世俗的な権威を峻別した上で、なおかつ、最終的には、精神的な権威に最高位におく、という体制があった。戦国の武将は、家康も秀吉も、自分のなしたことが最終的には「夢」であることを知っていた。いかに世俗的な「夢」が完成されようとも、そのようなものは「露と消える」ことを知っていたのである。それを知っていればこそ、彼らはあのような力を発揮できたともいえる。彼らが知っていたのは、自分には計り知れない(なにごともおわしますかわはしらねども)存在がある、ということである。それよりももっと、大きな権威があり、それをこの世で表しているのは天皇であった。
しかし、天皇には、なぜ、そのような精神的な権威の存続が保証されてきたのであろうか。
それが「儀式」であり、「秘儀」(ミステリウム)である。いったい天皇は、その儀式において、何を祈願されてこられたのだろか、民、すなわち、ほかならぬ、私たちの祖先の安寧であり、五穀豊穣、すなわち私たちを養うものの豊かさである。簡単に言えば、みなが幸いであるように、と祈られてきたのである。このような願いを、何千年も、何世代にもわたって続けられてこられた。それゆえに、私たちは、今、ここにいる。日本語で言えば「おかげさま」ということである。
「祈りの力」ということを、あまり軽んじないようがよい。「自分」を捨ててしまえば、どんなことも、祈ることはかなえられるから(それを「信」という。近代人は、それを「狂信」という。狂っているのはわれわれ近代人のほうであるが)。
いったい、私たちは、何千年にもわたり、ただ、自分を捨て「私たち・日本人」の安寧のみを願うような、そうした家族(聖なる家族=サグラダ・ファミリア)の存在を、今、目の当たりにできるだろうか。世界のどこにも、そんな人たちはいない。それゆえに尊いのである。
私は、このことを早く悟らないと、もはや日本は、早晩、終わってしまう、と思っている。
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ようちゃんの意見。↓
★戦後の日本人が米国留学して一番に驚愕し、文化ギャップを感じた事が、今の日本人がスッカリその当時の米国人の行動・言動様式を踏襲してるのは、これ又驚愕だと私の親戚の叔父さんの発言でした。その当時の日本の青年の抱いた日本人と米国人の言動の違いとは・・・
(僕が始めに驚いた事は、 子供が悪戯した時に、いけない物を使って遊んでたり、いけない場所で遊んでる時に、親が厳しくいけないと禁止や中止を出したり、注意をすると、 日本の子供なら照れくさそうに止めるか、こそこそ逃げ出すか、もじもじと謝るかしますが、アメリカの子供は「リーヴ・ミー・アローン」と言います。=「ほっといてくれ」と言うのです。又「マインド・ユア・ビジネス」とも言います。「余計なお世話」と言うのです。それでも、こっちがしつこく「どうしてそんな事するのか」と訊くと「ビコーズ・アイ・ライク・イト」「好きだからやるんだ」と日本語では開き直りでしょうが、米国では自己主張で通るのです。自分がやりたいか、やりたくないかが、全ての基本になってる。子供の頃からこういう社会を作ってる。デモクラシーとは「ビコーズ・アイ・ライク・イト」の精神を十分発揮できるように作られてる社会だと言う信念があり、そのために自由が必要で皆が平等である理想の尊重だけでは、崩壊するのでは・・)と言ってました。社会の相互が平等であるためには、互いを尊重する事と、協力し合う仕組みとルールと友情が育って無いと、それは個人が互いに相互不信で無関心の 冷たい社会が出来て、犯罪が温床されるし、国家としても弱くなり、災害や犯罪に対抗できないと叔父さんは話していました。本当に今の日本人はアメリカナイズされた人間が増えています。