四川大地震16日(随時更新) (福島香織) | 日本のお姉さん

四川大地震16日(随時更新) (福島香織)

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▼四川大地震16日(随時更新) (福島香織)
■死者が5万人にのぼるとみられる空前の大災害となってしまいました。今朝は夕刊処理後、献血しようと(針こわいけれど)、王府井にいったのですが、午前9時半にはすでに、予約受付がおわっていました。朝5時から並んでいた人もいるそうです。通州という郊外から、バスで来た女性もいました。大学を卒業したばかりで仕事がみつからず、無職なのに100元もネット銀行を通じて募金したそうです。福島が上海留学していた98年当時は、やっと売血が禁止になったものの、まだ無償献血なんてとんでもない、という時代だったので、こんなふうに我先にと中国の普通のひとが献血に走る日がくるとは、感慨深いです。しかも、電車の乗り降りすらきちんと並べない人がまだ多いのに、献血ではきれいに並んでいるんですよ。募金熱にしろ、献血熱にしろ、今までの中国人のイメージはやはり変わらざるを得ないという感じです。

■大災害は人々の価値観や人生観を根底から覆すきっかけになります。ひょっとしたら、中国はいま価値観の大転換、大革命を迎えようとしているのかもしれません。

■さて、日本の救援隊が現地入りしたのに続き、シンガポール救援隊が成都に向かいました。台北の救助隊もきょう、現地に入るときいています。デッドラインはすぎてしまいまいたが、奇跡の生還があるやもしれない、という希望をすてずに国際救援の成り行きを見守りたいと思います。

■青川の現場からの情報によると、日本の救援隊が瓦礫の下の母子3人救出です。しかし夜になって現場に照明がなくなり、作業が停止しています。照明を用意するのは中国側であったという約束であったと、聞いてますが、いずれにしろ、事前の打ち合わせが甘かったもよう。.夜明けまで作業が再開できない、ということはあるのでしょうか。目の前に救える命があるのに、救援隊のもどかしさとあせりが想像されます。すでに作業が停止してから3時間がたっています。

■救援隊が現場に入って、解ってきたことは実は中国側は、被害状況がまだぜんぜん把握できていないということ、基本的な救援のノウハウがわかっていないということ、のような気がします。もちろん、私は現場にいないので、まだ確かなことはいえませんが、最初に連れて行かれた現場は瓦礫の上に土砂が厚く積もっており、救出作業にかかる前に、この土砂を重機で取り除かねばならないというと、3日かかる(?)と答えられて、唖然とさせられたとか。それで別の現場に移動したのです。

■それに続いて、照明の問題。すでに7、8時間ロスしており、日本側にしてみれば、この時間に何人か救えたかも、といらだっているようです。しかし、それでも、救援隊は使命をまっとうする、と心を強くしている、と現場にいている人(同僚ではない)から聞きました。しかし、中国を知るひとなら、こういった、現場の混乱は当初から想定されていたことでしょう。そういう状況だからこそ、外国の支援が必要だといえるのでしょう。ただ、懸念するのは、当初生きていた母子が、結局こういうロスで、救えなかった場合、双方の国民感情がどちらの方向にいくのか。とにかく今は、助かってほしいと祈るばかりです。
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▼「ねんきん特別便」始末(1)(国民年金の花柳な生活)
この日記を読んで下さる方のうち果たして何人が「ねんきん」を考えているだろうか。年金は気が遠くなる様な未来の事と思う人が大部分であろう。
年金の事など考えた事もない人もいるに違いない。それで良いのである。かつては私もそうだった。若いうちから「老後」の心配などしなくて良い。それよりももっと広い視野で考えなければならない事が山程ある。ところが昨年来、何かと言うと「年金」「ねんきん」で、もっと大事なものが陰に隠れてしまった様な気がする。それにつけてもこの国に蔓延る官僚政治は1日も早く打破しなければならない。来るべき総選挙には政党など関係なく、役人任せでない本当の政治が出来る人を選ばなければ・・・・と、私は「ねんきん特別便」を見た時、唐突にそう考えた。

繰り返しになるが私が厚生年金に加入した経緯から始める。 肺葉切除の手術をした私はその時の輸血から血清肝炎を患い、治療が長引いて退院した時は20代の半ばを越していた。その前後の事は何回も書いているから省略するが、就職したのは昭和35年。職場は個人商店に毛が生えた程度の電気屋だった。現在の様な大型家電量販店が出現する前の時代で、全国の至る所に小さい「電気屋」があった頃である。私が入社したA電気商会はその中では大きい方の店だった。本店と4支店で従業員は最も多かった時で19名。営業部のほか、電気工事部とテレビサービス部があり、私はテレビ技術者として就職したのだった。

入社した翌年ー昭和36年の4月に国民年金法が施行され、法人や従業員5名以上の事業所は政府管掌の厚生年金に加入する義務が生じた。私は株式会社A電気商会の厚生年金に加入したのである。昭和42年、「株式会社A電気商会」は名称を「A電化株式会社」に改めた。社名を改めたのは経済の高度成長とともに求人難となり、止めて行く若い店員の代わりを募集しても応募者は0と言う事態になったからである。若者に嫌われる理由の一つは古臭い店名であった。曲がりなりにも法人だから社名の変更には面倒な手続きがあったと思うが、社員の我々にとっては名乗る時につい昔の名前が出て困った事があるだけで、何時の間にか慣れてしまったからその記憶も薄れていた。「ねんきん特別便】で古い記憶を呼び起こされたのである。■「ねんきん特別便」始末(2)8国民年金の花柳な生活)

加入記録の誤りは丁度この社名変更の時期に重なる。社名は変っても加入者は変らず引き続き掛け金を払っていた事は当時の経理担当者が証言している。若し掛け金がS社会保険事務所に届いていなかったとすると、送金を取り扱った京都銀行のミスになるがそれはあり得ない。考えられるのは矢張り社保庁のミスだ。間違いや記入漏れがある場合の対応を詳しく知る為に「ねんきん特別便専門ダイヤル」に電話する。聞こえるのは鳴り渡るベルの音だけで、漸くつながったと思うとテープの音楽が流れ、時折「暫くお待ち下さい」と案内が入る。電話は全国の事務所の空いた回線に繋がる様になっているらしいが何処も満員なのだろう。

これでは事務所に行くのも1日仕事だと思ったが修子が地元の事務所に連絡して空いている時刻を聞きだした。それによると終了間際が一番空いており、ドアは7時半まで開いているという。15年ほど前、老齢厚生年金特別支給の手続きに行った頃は午後5時にならないうちにシャッターを下ろしていたから大変な変り様である。夕刻6時過ぎに社会保険事務所を訪れると大勢の人が犇めいていた。先ず眼に飛び込んだのは「ねんきん特別便の方は5,6時間待ちになります」という大きな張り紙である。この時間に残っている人の中には昼過ぎに来た人もいるのだ。広い事務所の中は大勢の係員が次々に客をさばいている。

辺りがすっかり暗くなって人影もまばらになった頃私は呼び出された。簡単なやり取りの後、給料の明細書を取り出すと若い係員はびっくりした様子だった。何しろ彼が未だ生まれていない時代の記録なのだ。コピーさせてくれと言って彼は席を離れたが、暫くして席に戻ると「こういう資料があるとホントに助かります」とにこやかに言った。しかし、次にさらりと言ってのけた係員の言葉に私は仰け反ったのである。「この先は専門の係りが古い資料を探して調べますので、結果は6ヵ月後にお知らせします」6ヵ月後! 老い先短い年寄りに6ヶ月と言う時間がどれほど重いものか分かっているのか。私は後期老人組では「若手」だから未だ良い。棺桶に片・・・いや、もっと歳を取った方が半年後に変らず元気で暮らしているという保証はないのだ。冒頭に「官僚に政治を任すな」と言ったのはこの事である。
【予 告】「ねんきん特別便」始末 完結篇   12月15日掲載 乞御期待。