頂門の一針
小沢氏の東京鞍替え出馬説
━━━━━━━━━━━━古澤 襄
6月に入ったら小沢一郎氏の選挙区・岩手4区に行って3日間ほど滞在 する。10年以上も前のことになるが、親戚の北島!)男沢内村会議長から 「沢内村で岩手中部地区の村議会議をやるので、中央政局の話をしてく れないか」と頼まれた。小渕内閣の頃である。
総選挙となるとこの村議たちが、それぞれの贔屓筋を担いで手足となっ て選挙運動に精をだすので、その底辺の人たちと話をするのも面白いと 思って引き受けた。郷里の沢内村では親戚・知人が小沢派、反小沢派で 分かれているので、うっかり政治の話をすることも出来ないでいた。
もともとこの地域は志賀健次郎、椎名悦三郎が強かったところである。
北島議長は椎名派で無所属、父と新町小学校で机を並べた佐々木吉男元 村助役は志賀派で自民党、親族の高橋賢碧祥寺責任役員は小沢派で新進 党と入りみだれているから厄介である。
平成8年の総選挙では新進党の小沢氏が、この村から1616票を獲得した。小沢一郎の村後援会長だった高橋賢氏が「投票総数の55・7%でげす」と意気軒昂だった。一緒に高橋宅に行った佐々木吉男氏は、やたらと元気がなかった。
しかし次の選挙頃から様相が変わってきている。小沢票が減りはじめて、自民党票が増えて逆転した。もともと旧社会党や共産党の票が強い地域でもある。佐々木老が「自民党から抜けないでいて良かった」と言うようになった。こんな地域だから政争が激しいところだと感じていた。中央政局のナマの話を取材していたら「年内にも小沢自由党と連立を組むことになるかもしれない」と耳よりの話が入ってきた。
「野中広務が猛反対するだろう」と言ったら「小渕のために自分の感情 を殺す芸当ができる男よ」・・・。旧田中派を割って出ていった小沢氏 に対しては、残された小渕派に一番反発がある。その小渕派筋の新情報 だから面白いが、半信半疑というところであった。
村議たちを相手の講演だったので、気楽に「半年後には自・自連立が出 来るかもしれない」と飛ばしたら、予想外の反響があった。講演後、盃 を持った村議たちが行列をなして私のところにやってくる。
地方の小さな村社会で小沢だ!反小沢だ!と角をつき合わせていること に、地域の人たちが疲れていたのである。新聞もテレビも自・自連立な んて、どこも言わないが、本当ですか・・・という声が真剣味を帯びて いる。こういう空気は中央にいては分からない。
小沢氏は次の総選挙では、岩手四区から東京12区に鞍替え出馬するとい う噂が中央では飛び交っている。東京12区は公明党の太田昭宏代表が立 候補を予定している。
自公連立のため自民党は候補者擁立を見送る可能性が高い。そこに小沢 氏が立てば、東京の25選挙区に与える影響が大きい。
9月の民主党大会で年内選挙に備えて小沢再選の方向だという。片や自 民党は、それを見た上で福田総裁に代わる新総裁を選出して、10月国 会の冒頭解散、11月総選挙を狙っているという。
今のところ支持率が低下している福田首相の下で選挙を戦うのは自民党 にとって不利。窮余の一策として人気の高い麻生太郎首相、日本で初の 女性宰相となる小池百合子首相、玄人受けのよい与謝野馨首相などが取 り沙汰されている。
人気が選挙結果を左右する。その意味で小沢氏の東京への選挙区の鞍替 えは、小沢・太田決戦の恰好の図式になって話題を呼ぶかもしれない。 すでに選挙をめぐる心理戦は始まっている。
さて地元の岩手4区では鞍替え出馬説をどう受け止めているのだろうか。自民党は敏感にこの空気を読んでいる。小沢氏の秘書を20年も勤めた元衆院議員を自民党から立候補させることに成功している。手の内を知り尽くした手強い相手だから小沢氏も慎重にならざるを得ない。鞍替え出馬は不発に終わると私はみているのだが・・・。
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茄子の花と母の言葉
━━━━━━━━━渡部亮次郎
知り合いの産経新聞外信部記者田北真樹子さんが5月14日付で社会面に 執筆した「人」欄によるとブラジルの空軍司令官に2007年2月、初めて日 系人が就任、インタビュー記事が載った。「お母さんの言葉はナスの花と同じ。千に一つの仇(無駄)も無い」この人はサイトウ・ジュンイチさん(65)。青森県出身の父と香川県出身の母との間に1942年、サンパウロ州ポンペイア市で誕生。15歳の頃からパイロットを目指す。「無理だと思っていたが、働きながら士官学校に通う。今でも思い出す母の言葉がある。私たちは稲穂のようにならなくてはいけない。伸びれば伸びるほど頭を垂れなさい」
<謙虚さは多民族国家のブラジルには無い価値観だ。むしろ足を引っ張 られる。だが、謙虚であり続けたから、250人の同期との出世レースに勝 ち抜いて昨年、空軍トップに立った自分がいると自負する。今年、ブラ ジルに日本人が初めて移住してから100周年を迎えた。
「お母さんの言葉はナスの花と同じ」。ナスの花と親の意見は千に一つ も仇がない、とのことわざを用いて母に感謝する。「残念ながら両親が生きている間に司令官就任を見せることが出来ませんでしたが、私が空軍トップになったことをどこかで見ていて、誇りに思ってくれているでしょう」。
「日本もブラジルも防衛を重視しています。だからこそ、常に準備をし ていなければいけません。防衛が必要になったとき、そこでミスがあれ ば、元に戻すには何百年もかかりますから。>(田北真樹子)感激してメイルを出したら田北さんからさらに感激的な返事が返ってき た。<サイトウさんの取材は久しぶりに日本人でよかったと思わせくれ
るような取材でした。取材後、自分自身が洗われた感じになりました。日本人のいい部分が凝縮した方なんです。ある意味、ブラジルで現代の日本と接していないことがよかったのかも、と、これはこれで情けなくなるようなことを考えさせられましたが・・・。
サイトウさんが「ぼくのおとうさん、おかあさん」と言うんですが、そ の言い方が本当に愛情に満ちていて、よかった。わずか20分の取材でし たが貴重な経験をさせていただきました。>
親の意見と茄子(なすび)の花は千に一つの仇(あだ=無駄)は無い。 「故事 俗信 ことわざ大辞典」(小学館)によれば、茄子の花は、咲け ば必ず実をつける。それと同じように親の意見(=諭し)もすべて子のた めになる。親の意見は聞くべきである、ということ。
同じようなことで「親の意見と冷酒(ひやざけ)は後に効く、というの があるが、若い人たちは日本酒を飲まないせいか、この諺も知らない人 が多い。記事によればサイトウさんの日本語は滅多に使わないが堪能の 由。
それにしても敗戦後は日本人が忘れてしまった日本人の真心をブラジル の2世が持ち続けていることに感動した。私は私の母を思い出して胸が ふさがった。母は3年前、98でポックリ死したが、郷里の施設での急死だった事もあって死に目には遭えなかった。
その母が私の子供のころ「ご飯は字のとおりたった1粒作るにも1年と 八十八の手間がかかっている。大事に食べなけりゃいけません」、と諭してくれた。ところが反抗期だったので「1粒なら田圃に落ちている」と口答えしたところ、母は黙ってしまい、会話は途切れた。サイトウさんの話を読んで、突然、このことが甦った。「馬鹿につける薬は無い」沈黙の意味をやっと知ったのである。涙した。2008・05・15
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従軍記者」事始(1)
━━━━━━━━━━平井 修一
我が国の明治以降の「従軍記者」の歴史を調べている。なぜ「従」軍記者なのか。記者なら激動の歴史の瞬間を自分の目で、体で体験して読者に伝えたい、後世に記事を残したい、できれば歴史に名を残したいと思うのが本能で、戦争は生死をかけた極限状況で戦われるから、記者にとってもそれは波乱万丈の「歴史の瞬間」で、恰好の取材対象になる。ロバート・キャパ(享年40)は「崩れ落ちる兵士」の写真で永遠に名を刻んだ。戦争取材に武者震いするのが記者魂なのだ。
<ロバート・キャパ(Robert Capa, 1913年10月22日 - 1954年5月25日)
は、20世紀の代表的な報道カメラマン。本名はエンドレ・エルネー・フ
リードマン (Endre Ern? Friedmann)。ユダヤ系。ピカソら多方面の芸術家たちとの幅広い交際も有名。スペイン内戦、日中戦争、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線、第1次中東戦争、および第1次インドシナ戦争の5つの戦争を取材した。東京で「ライフ」誌から第1次インドシナ戦争の取材依頼を受け南ベトナムに渡る。1954年5月25日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビンにあるドアイタンという陣地に向かう。
午後2時30分ころドアイタンに到着。午後2時55分にドアイタンから1キロ の地点にある小川の堤防で地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。そ の際カメラを手にしたまま死んでいたという。>出典: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』
「政局」は戦争に準ずるから政治記者はその現場を体験したことを生涯 忘れない。政局とは多分血を流さない戦争であり、強烈な印象として記 者には記憶に深く刻まれる。「歴史の証人」なのだ。ところで従軍記者についていざ調べようとしたら、小生の新聞に関する資料は段ボール箱に(カミサンには内緒の写真=あの世へ行く前に要処分物件とともに)入れて納戸に突っ込んでから5年も経ち、その上や左右に段ボール箱が積み上げられたので、もうほとんど小生の体力では発掘できないことになってしまっていた。無惨だが、市井の現実にはそんなことが多いのだろう。
そこで記憶を頼りにするしかないのだが、日本で新聞が急速に普及した のは西南戦争=明治10(1878)年を契機としている。維新の立役者、当 時の最大の英雄、西郷先生(セゴドン)が反政府の狼煙を上げた(事実 は看板に担ぎ上げられた)のだから、国民はこの戦の成り行きに注目し た。当時は速報性のあるマスコミは新聞しかない。
産声を上げたばかりの新聞はチャンス到来と多くの記者を政府軍に派遣 しただろう(西郷軍の兵士の証言には西郷軍への記者の同行は記されて いない)。これが従軍記者の嚆矢(こうし=はじまり)のはずだが、小 生にはそれ以上のことは不明だ。ここまで書いたら、小生の愛読するメルマガ「頂門の一針」主宰者・渡部亮次郎氏から以下の資料が送られてきた。<平井様 ご参考までに平凡社「世界大百科事典」より以下。
従軍記者 じゅうぐんきしゃ war correspondent:戦地に行き,そこから戦況を報道する記者。日本では1874年の台湾出兵にあたり《東京日日新聞》の岸田吟香が従軍したのが最初であるが,軍は〈戦闘は其の謀,密なるを貴ぶ〉として記者としての従軍を許さなかったので,岸田は軍御用の大倉組(現大成建設)手代として従軍した。その戦記は読者に喜ばれ,錦絵にもなった。
1877年の西南戦争には《東京日日新聞》の福地源一郎,《郵便報知新聞》の犬養毅ら4人の記者が従軍したが,このときも記者としての従軍は認められず,福地は参軍本営記室つまり軍の記録係としての従軍であった。軍が正式に従軍記者を認めたのは94‐95年の日清戦争からである。(新井直之 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)>なるほど。この日清戦争=明治27(1894)年になると俄然、資料が豊富になる。作家の岡本綺堂が詳細に証言を残しているからだ。
綺堂は日露戦争=明治37(1904)年当時、上記にも紹介されている「東 京日日新聞」(現・毎日新聞)の記者で、この戦争に従軍しているが、 その10年前の日清戦争が対外戦争における公式の「従軍記者」事始だと、こう証言している。 <「昔の従軍記者」について・・・お話の手順として、まず日清戦争当
時のことから申し上げましょう。日清戦争当時は初めての対外戦争であ り、従軍記者というものの待遇や取締りについても一定に規律はありま せんでした。・・・各社から思い思いに通信員を送り出したというに過ぎないので、直接には軍隊とは何の関係もありませんでした>やがて戦局が激してくると、<朝鮮にある各新聞記者は我が軍隊に付属して、初めて従軍記者ということになりました。・・・陸軍省の許可を得て>続々と記者がやってくるのである。(つづく)
━━━━━━━━━━━━古澤 襄
6月に入ったら小沢一郎氏の選挙区・岩手4区に行って3日間ほど滞在 する。10年以上も前のことになるが、親戚の北島!)男沢内村会議長から 「沢内村で岩手中部地区の村議会議をやるので、中央政局の話をしてく れないか」と頼まれた。小渕内閣の頃である。
総選挙となるとこの村議たちが、それぞれの贔屓筋を担いで手足となっ て選挙運動に精をだすので、その底辺の人たちと話をするのも面白いと 思って引き受けた。郷里の沢内村では親戚・知人が小沢派、反小沢派で 分かれているので、うっかり政治の話をすることも出来ないでいた。
もともとこの地域は志賀健次郎、椎名悦三郎が強かったところである。
北島議長は椎名派で無所属、父と新町小学校で机を並べた佐々木吉男元 村助役は志賀派で自民党、親族の高橋賢碧祥寺責任役員は小沢派で新進 党と入りみだれているから厄介である。
平成8年の総選挙では新進党の小沢氏が、この村から1616票を獲得した。小沢一郎の村後援会長だった高橋賢氏が「投票総数の55・7%でげす」と意気軒昂だった。一緒に高橋宅に行った佐々木吉男氏は、やたらと元気がなかった。
しかし次の選挙頃から様相が変わってきている。小沢票が減りはじめて、自民党票が増えて逆転した。もともと旧社会党や共産党の票が強い地域でもある。佐々木老が「自民党から抜けないでいて良かった」と言うようになった。こんな地域だから政争が激しいところだと感じていた。中央政局のナマの話を取材していたら「年内にも小沢自由党と連立を組むことになるかもしれない」と耳よりの話が入ってきた。
「野中広務が猛反対するだろう」と言ったら「小渕のために自分の感情 を殺す芸当ができる男よ」・・・。旧田中派を割って出ていった小沢氏 に対しては、残された小渕派に一番反発がある。その小渕派筋の新情報 だから面白いが、半信半疑というところであった。
村議たちを相手の講演だったので、気楽に「半年後には自・自連立が出 来るかもしれない」と飛ばしたら、予想外の反響があった。講演後、盃 を持った村議たちが行列をなして私のところにやってくる。
地方の小さな村社会で小沢だ!反小沢だ!と角をつき合わせていること に、地域の人たちが疲れていたのである。新聞もテレビも自・自連立な んて、どこも言わないが、本当ですか・・・という声が真剣味を帯びて いる。こういう空気は中央にいては分からない。
小沢氏は次の総選挙では、岩手四区から東京12区に鞍替え出馬するとい う噂が中央では飛び交っている。東京12区は公明党の太田昭宏代表が立 候補を予定している。
自公連立のため自民党は候補者擁立を見送る可能性が高い。そこに小沢 氏が立てば、東京の25選挙区に与える影響が大きい。
9月の民主党大会で年内選挙に備えて小沢再選の方向だという。片や自 民党は、それを見た上で福田総裁に代わる新総裁を選出して、10月国 会の冒頭解散、11月総選挙を狙っているという。
今のところ支持率が低下している福田首相の下で選挙を戦うのは自民党 にとって不利。窮余の一策として人気の高い麻生太郎首相、日本で初の 女性宰相となる小池百合子首相、玄人受けのよい与謝野馨首相などが取 り沙汰されている。
人気が選挙結果を左右する。その意味で小沢氏の東京への選挙区の鞍替 えは、小沢・太田決戦の恰好の図式になって話題を呼ぶかもしれない。 すでに選挙をめぐる心理戦は始まっている。
さて地元の岩手4区では鞍替え出馬説をどう受け止めているのだろうか。自民党は敏感にこの空気を読んでいる。小沢氏の秘書を20年も勤めた元衆院議員を自民党から立候補させることに成功している。手の内を知り尽くした手強い相手だから小沢氏も慎重にならざるを得ない。鞍替え出馬は不発に終わると私はみているのだが・・・。
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茄子の花と母の言葉
━━━━━━━━━渡部亮次郎
知り合いの産経新聞外信部記者田北真樹子さんが5月14日付で社会面に 執筆した「人」欄によるとブラジルの空軍司令官に2007年2月、初めて日 系人が就任、インタビュー記事が載った。「お母さんの言葉はナスの花と同じ。千に一つの仇(無駄)も無い」この人はサイトウ・ジュンイチさん(65)。青森県出身の父と香川県出身の母との間に1942年、サンパウロ州ポンペイア市で誕生。15歳の頃からパイロットを目指す。「無理だと思っていたが、働きながら士官学校に通う。今でも思い出す母の言葉がある。私たちは稲穂のようにならなくてはいけない。伸びれば伸びるほど頭を垂れなさい」
<謙虚さは多民族国家のブラジルには無い価値観だ。むしろ足を引っ張 られる。だが、謙虚であり続けたから、250人の同期との出世レースに勝 ち抜いて昨年、空軍トップに立った自分がいると自負する。今年、ブラ ジルに日本人が初めて移住してから100周年を迎えた。
「お母さんの言葉はナスの花と同じ」。ナスの花と親の意見は千に一つ も仇がない、とのことわざを用いて母に感謝する。「残念ながら両親が生きている間に司令官就任を見せることが出来ませんでしたが、私が空軍トップになったことをどこかで見ていて、誇りに思ってくれているでしょう」。
「日本もブラジルも防衛を重視しています。だからこそ、常に準備をし ていなければいけません。防衛が必要になったとき、そこでミスがあれ ば、元に戻すには何百年もかかりますから。>(田北真樹子)感激してメイルを出したら田北さんからさらに感激的な返事が返ってき た。<サイトウさんの取材は久しぶりに日本人でよかったと思わせくれ
るような取材でした。取材後、自分自身が洗われた感じになりました。日本人のいい部分が凝縮した方なんです。ある意味、ブラジルで現代の日本と接していないことがよかったのかも、と、これはこれで情けなくなるようなことを考えさせられましたが・・・。
サイトウさんが「ぼくのおとうさん、おかあさん」と言うんですが、そ の言い方が本当に愛情に満ちていて、よかった。わずか20分の取材でし たが貴重な経験をさせていただきました。>
親の意見と茄子(なすび)の花は千に一つの仇(あだ=無駄)は無い。 「故事 俗信 ことわざ大辞典」(小学館)によれば、茄子の花は、咲け ば必ず実をつける。それと同じように親の意見(=諭し)もすべて子のた めになる。親の意見は聞くべきである、ということ。
同じようなことで「親の意見と冷酒(ひやざけ)は後に効く、というの があるが、若い人たちは日本酒を飲まないせいか、この諺も知らない人 が多い。記事によればサイトウさんの日本語は滅多に使わないが堪能の 由。
それにしても敗戦後は日本人が忘れてしまった日本人の真心をブラジル の2世が持ち続けていることに感動した。私は私の母を思い出して胸が ふさがった。母は3年前、98でポックリ死したが、郷里の施設での急死だった事もあって死に目には遭えなかった。
その母が私の子供のころ「ご飯は字のとおりたった1粒作るにも1年と 八十八の手間がかかっている。大事に食べなけりゃいけません」、と諭してくれた。ところが反抗期だったので「1粒なら田圃に落ちている」と口答えしたところ、母は黙ってしまい、会話は途切れた。サイトウさんの話を読んで、突然、このことが甦った。「馬鹿につける薬は無い」沈黙の意味をやっと知ったのである。涙した。2008・05・15
━━━━━━━━━━
従軍記者」事始(1)
━━━━━━━━━━平井 修一
我が国の明治以降の「従軍記者」の歴史を調べている。なぜ「従」軍記者なのか。記者なら激動の歴史の瞬間を自分の目で、体で体験して読者に伝えたい、後世に記事を残したい、できれば歴史に名を残したいと思うのが本能で、戦争は生死をかけた極限状況で戦われるから、記者にとってもそれは波乱万丈の「歴史の瞬間」で、恰好の取材対象になる。ロバート・キャパ(享年40)は「崩れ落ちる兵士」の写真で永遠に名を刻んだ。戦争取材に武者震いするのが記者魂なのだ。
<ロバート・キャパ(Robert Capa, 1913年10月22日 - 1954年5月25日)
は、20世紀の代表的な報道カメラマン。本名はエンドレ・エルネー・フ
リードマン (Endre Ern? Friedmann)。ユダヤ系。ピカソら多方面の芸術家たちとの幅広い交際も有名。スペイン内戦、日中戦争、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線、第1次中東戦争、および第1次インドシナ戦争の5つの戦争を取材した。東京で「ライフ」誌から第1次インドシナ戦争の取材依頼を受け南ベトナムに渡る。1954年5月25日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビンにあるドアイタンという陣地に向かう。
午後2時30分ころドアイタンに到着。午後2時55分にドアイタンから1キロ の地点にある小川の堤防で地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。そ の際カメラを手にしたまま死んでいたという。>出典: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』
「政局」は戦争に準ずるから政治記者はその現場を体験したことを生涯 忘れない。政局とは多分血を流さない戦争であり、強烈な印象として記 者には記憶に深く刻まれる。「歴史の証人」なのだ。ところで従軍記者についていざ調べようとしたら、小生の新聞に関する資料は段ボール箱に(カミサンには内緒の写真=あの世へ行く前に要処分物件とともに)入れて納戸に突っ込んでから5年も経ち、その上や左右に段ボール箱が積み上げられたので、もうほとんど小生の体力では発掘できないことになってしまっていた。無惨だが、市井の現実にはそんなことが多いのだろう。
そこで記憶を頼りにするしかないのだが、日本で新聞が急速に普及した のは西南戦争=明治10(1878)年を契機としている。維新の立役者、当 時の最大の英雄、西郷先生(セゴドン)が反政府の狼煙を上げた(事実 は看板に担ぎ上げられた)のだから、国民はこの戦の成り行きに注目し た。当時は速報性のあるマスコミは新聞しかない。
産声を上げたばかりの新聞はチャンス到来と多くの記者を政府軍に派遣 しただろう(西郷軍の兵士の証言には西郷軍への記者の同行は記されて いない)。これが従軍記者の嚆矢(こうし=はじまり)のはずだが、小 生にはそれ以上のことは不明だ。ここまで書いたら、小生の愛読するメルマガ「頂門の一針」主宰者・渡部亮次郎氏から以下の資料が送られてきた。<平井様 ご参考までに平凡社「世界大百科事典」より以下。
従軍記者 じゅうぐんきしゃ war correspondent:戦地に行き,そこから戦況を報道する記者。日本では1874年の台湾出兵にあたり《東京日日新聞》の岸田吟香が従軍したのが最初であるが,軍は〈戦闘は其の謀,密なるを貴ぶ〉として記者としての従軍を許さなかったので,岸田は軍御用の大倉組(現大成建設)手代として従軍した。その戦記は読者に喜ばれ,錦絵にもなった。
1877年の西南戦争には《東京日日新聞》の福地源一郎,《郵便報知新聞》の犬養毅ら4人の記者が従軍したが,このときも記者としての従軍は認められず,福地は参軍本営記室つまり軍の記録係としての従軍であった。軍が正式に従軍記者を認めたのは94‐95年の日清戦争からである。(新井直之 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)>なるほど。この日清戦争=明治27(1894)年になると俄然、資料が豊富になる。作家の岡本綺堂が詳細に証言を残しているからだ。
綺堂は日露戦争=明治37(1904)年当時、上記にも紹介されている「東 京日日新聞」(現・毎日新聞)の記者で、この戦争に従軍しているが、 その10年前の日清戦争が対外戦争における公式の「従軍記者」事始だと、こう証言している。 <「昔の従軍記者」について・・・お話の手順として、まず日清戦争当
時のことから申し上げましょう。日清戦争当時は初めての対外戦争であ り、従軍記者というものの待遇や取締りについても一定に規律はありま せんでした。・・・各社から思い思いに通信員を送り出したというに過ぎないので、直接には軍隊とは何の関係もありませんでした>やがて戦局が激してくると、<朝鮮にある各新聞記者は我が軍隊に付属して、初めて従軍記者ということになりました。・・・陸軍省の許可を得て>続々と記者がやってくるのである。(つづく)