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『隠されたクスノキと楠木正成(一)』
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■ まえがき
いよいよ五月二十日に『隠された皇室人脈 憲法九条は

クリスチャ ンがつくったのか!?』が講談社+α新書より

発売される。前著 『最新アメリカの政治地図』(講談社現代

新書)から四年振りとな る新著は、皇室周辺のクリスチャン

人脈を取り上げた内容となって いる。

新著の特徴として第一にあげられるのは、現実主義者と

しての昭和 天皇像を浮き彫りにしたことである。極めて

戦略的にキリスト教と の接点を持とうとしたことから見出した

のだが、この背景には昭和 天皇の他宗教に対する八百

万的な共生と寛容の宗教心もあったはず。
生物学者として南方熊楠とも交流があった昭和天皇は、

自然の中に 神々の息吹を感じ取っていたのかもしれない。

昭和天皇は歴代天皇の中でも皇室祭祀に熱心であり、

侍従長として 傍らで見てきたのが終戦時の首相を務めた

鈴木貫太郎である。鈴木 は、天皇の身を案じ、最後まで

無条件降伏に反対した阿南惟幾陸相 に対して、「あれほど

までに天照大御神をあがめ、神武いらいの歴 代の皇霊を

まつり、八百万の神々に祈る天皇が、たとえ戦争に敗れ
たりとはいえ、神々の加護もなく、悲運に遭うはずはない

のではな いか」と諭したとされる

(『聖断』半藤一利、PHP文庫)。

実際には、この鈴木や吉田茂らが中心となって、昭和天皇

の戦争責 任訴追回避のための憲法九条を生み落とした。

いわば憲法九条は 「皇室を救い出す」ための究極のトリック

だったとする見方を打ち 出したのが、第二の特徴である。

第三の特徴として、新著はクリスチャンたちを極めて好意的に

取り 上げている。残念なことに、日本ではまだまだクリス

チャンに対す る偏見が残っており、そうした書籍も数多く

見かける。日本のため に生涯を捧げたソヴェール・カンドウ、

今上天皇の家庭教師として 知られるエリザベス・グレイ・

ヴァイニングらを取り上げたことで 、こうした偏見が少し

でもなくなれば幸いである。

カンドウ神父はフランシスコ・ザビエルと同じくバスク人、ヴァイ
ニング夫人の父はスコットランド出身である。古の記憶が残る

自然 豊かなバスク人やケルト人の神話や伝説にも日本と

共通するアニミ ズムや妖精やトリックスター、それに巨樹

信仰も存在する。ここに 人種や宗教を超えた永遠不変の

真理があるはずだ。

彼らが書いた本をほとんどすべて取り寄せて読んでみたの

だが、残 念なことに、現在の日本人より、クリスチャンである

彼らの方がは るかに繊細な自然観を持っていた。八百万の

神々に導かれて日本に やってきたのではないかと思える

ほどである。

今、右手を眺めると、繊細さとは程遠い人たちが毎年夏に

なると靖 国神社を取り囲んで大騒ぎしている。彼らとて、

そのルーツを辿れ ば、せいぜい明治維新まで。たかだか

一四〇年の歴史に過ぎない。
さらに中央から左方面に目を向けると、戦後の米国依存を

忘れられ ない人たちが根無し草のように右に左に揺れて

いる。中には極めて 西洋的な地球温暖化などという訳の

わからぬ大号令に振り回されて いる人もいる。

ヴァイニング夫人が今から四十年近く前の一九七〇年に

書いた 『天皇とわたし』を開いてみよう。彼女も日本に来る

まで「人間が 自然を支配し、征服し、それを利用するという

西洋的な考えを吟味 せずに受け入れていた」と告白する。

ところが彼女が目にした日本 人の自然観は異なっていた。

日本の土着宗教は、恐怖からではなく感謝の気持に発する

穏やか な感恩の自然崇拝であった。地震や、津波、火山の

爆発、台風、火 事、洪水のように、自然の災害がさまざまな

仕方で襲う国で、人び とが自然を恐れたり宥めたりするの

ではなくて、その恵みと美しさ に感謝するのは驚くべきこと

である。大木や、高い岩山には小さな 社が祭られ、その前

では祈りが唱えられたり、花や食物が捧げられ たりする。

仏教もまた自然を慈しむことやそれとの調和の教えをも
たらした。それは、東洋に広がっている態度で、その起源が

東洋に あるとされるアメリカン・インディアンが信奉している

態度でもあ る。(『天皇とわたし』エリザベス・グレイ・ヴァイ

ニング、山本 書店)日本から帰国したヴァイニング夫人が

この話をした時、友人達は 怪訝そうな顔つきをして反論した。

「そう言っても、わたしたちは 自然を征服しなければならない

と思います。そのためにわたしたち の文明は進んだのです

から」と。

しかし、ヴァイニング夫人は「土地を荒らしまくり、大気を

汚染 させた結果生じた深刻な問題を抱えた今、わたし

たちはこれまでの 態度を再検討する必要に迫られている」

としながら、、「東洋と西 洋はこの分野で相互理解に向けて

これまで以上に接近しなければな らない」との想いを語る。

 ヴァイニング夫人を感化させた日本人の繊細な自然観。

それは今 も確かに残っているのだが、個々の中に閉じ込め

られたままになっ ている。真の伝統保守としての八百万派を

名乗ることができれば、 日本は再び輝きを取り戻せるので

はないか。深刻な地球環境の悪化 (私は地球環境問題

地球温暖化はまったく別物と考えている)が 叫ばれる今こそ、

我々の神々を解き放つ必要があるのではないか。

そんな想いに駆られて原稿を進めた。私が主催する園遊会

のメンバ ーからも「わかりにくい」との指摘があったが、

『クスノキと楠木 正成』というタイトルに最後まで拘った。神々

の再編をテーマにし た近代日本信仰史的な本を目指し、

キリスト教だけに絞った本には したくなかったからだ。

しかし、出版社側の意向からそのタイトルは二転三転する。

麻生政 権誕生を睨んだ『クリスチャン宰相、麻生太郎の

源流』から、麻生 氏が敗れると『皇室人脈 憲法九条は

クリスチャンがつくったのか !?』となり、最終的に「隠された」

という週刊誌風文句が追加さ れた。

度重なる出版社側の企画変更にめげることなく、『クスノキと

楠木 正成』に関する第一章及び第二章をなんとか残そうと

粘りに粘った のだが、最後の最後に全て削除することが

決まる。代わって、何が 第一章に取り上げられたのかは、

新著を手に取っていただければわ かるだろう。

結局、クスノキや楠木正成よりも、皇室、憲法九条、

クリスチャン 、そして「軽井沢テニスコートの恋の真実」の

方が営業面から売り やすいとの判断によるものだが、筆者

の立場からすると、正直なん とも複雑な心境である。



クスノキから楠木正成への変貌が日本の戦争を支えた

マインドを読 み解くヒントになるのではないかと思えた

だけに、なんとも悔やま れる。そこで、インターネットを通じて『クスノキと楠木正成』を蘇らせる。題して『隠されたクスノキと楠木正成』。そのために、遅れば
せながら公式ホームページまで開設した。

「楠」 と書くことが多いが、広辞苑を開くと「楠」は「南国から

渡来した 木の意」となっている。中国ではクスノキ科の

タブノキ類が「楠」 であり、日本古来のクスノキには、

「樟」を当てるのが正しいよう
だ。「樟脳」の原料としての「樟」である。さらに広辞苑で「

楠学問」という言葉を見つける。「クスノキが生長は遅いが

大木になるように、進み方はゆっくりであるが学問を大成

させること」とある。これに対して、「進み方は早いが学問を

大成させないままで終ること」を「梅の木学問」と言うそうだ。

クスノキは学校の校庭にもよく植えられているが、「楠学問」

のように堅実に成長してクスノキの巨樹のような大きな人物に

育ってほしいと願っていたのだろう。しかし、「教養」という言葉も

死語となりつつある今、生きていくために有利な肩書だけを

求める「梅の木学問」が主流になってきた。

 それでもクスノキは生き残っている。
総合地球環境学研究所の佐藤洋一郎教授が書いた『クスノキと日
本人』(八坂書房)によれば、クスノキの広がる地域は西南日本に
偏り、巨樹もまた西日本に多い。そして、その六〇パーセントは神
社仏閣の境内にあるという。クスノキの巨樹の多くは、神仏を崇め
る人々と共に長い時間を生き抜いてきたのだ。古から、日本人は、

山や海川や草木岩石もすべて神霊宿るところと信じてきた。

人は巨樹に永遠の時間と生命力を見た。威厳ある姿を畏れ、

神気を感じ祈った。そして、巨樹を育んだ土地に「産土(うぶすな)」

を見ていた。

高知県高岡郡越知町の仁淀川の流れを望むところに「楠神(くす
がみ)」なる地名を見出すことができる。おそらくクスノキを神木
として祀ったことに由来するのだろう。その昔、この集落にあたり
一帯を暗くするほど大きく茂ったクスノキがあったという。ある人
が枝を伐り落とすと翌朝には元どおりになっている。そこで今度は
根元から伐り倒したところ、集落に不幸な出来事が相次いで起こる
ようになった。そのために、人々は祠を作り楠神として祀ったとい
う伝承が残っている(二〇〇四年六月二四日付高知新聞夕刊)。

こうした信仰はクスノキが生い茂る西南日本各地にあった。宗教
などという認識すらなかった時代、巨樹は庶民にとって自然崇拝を
象徴する存在だったのだ。

■「クスノキ」の名を持つ南方熊楠
ここで庶民の「クスノキ信仰」から命名された熊野のクスノキさんに登場していただこう。和歌山県海南市南東部の藤白峠のふもと、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録された熊野聖域の入り口にあたる場所に藤白神社がある。六五八年に斉明天皇が牟婁温湯(現在の白浜湯崎温泉)に行幸した際、祠を創建したのが始まりと伝わっている。

境内社のひとつに樹齢八〇〇年から一〇〇〇年というクスノキの
大木を御神体とする子守楠神社がある。「藤白王子の大楠に籠る(
子守る)熊野の神」といわれたことから子授けの神様として知られ
、子供が生まれるとこの神社を訪れ、このクスノキに祈願して名付
ける人が多かった。 古来、「楠」「藤」「熊」の三文字から一文字
を選んで名をつけると長命で出世するといわれてきた。この神社から二文字ももらったのが南方熊楠である。熊楠は晩年、精神を病んだ長男を毎日このクスノキの幹に触れさせて回復を祈ったことがある。「知の巨人」ですら巨樹の不思議な力を信じていた。

熊楠は一九〇八(明治四十一)年十一月七日から十二月二日にか
けて、本宮への熊野採集旅行を行い、最終日に現在の田辺市糸田に
ある猿神祠に到着する。古くは山王権現社と呼ばれた糸田猿神祠は
、熊楠が一九〇六年にクスノキ科タブノキの朽ち木から新種の粘菌
を発見した場所である。ところが、それから二年後に熊楠が目にしたのは、「神社合祀」の影響で木立が一本残らず消え失せた境内だった。  
熊野の森を愛した熊楠は、無差別な「神社合祀」が自然破壊のみ
ならず土地の歴史を抹殺し、庶民の素朴な産土神信仰の拠り処を踏
みにじるとして、反対運動の急先鋒となっていく。熊楠が命をかけて護ろうとしたのは神社周辺の森だけではなかった。森が生み出すすべての自然と、その土地に住む人間との古からの結びつきを護ろうとしたのだ。研究を通じて触れ合った森や川や海、そこに住む生き物たちすべてを自身に一体化させていたからこそ、熊楠自身の痛みと感じた。

熊野採集旅行から戻った熊楠は、一九〇九(明治四十二)年二月1QAZFVCBQ 的な感覚をも壊し、あともどりできないところに追い込むことになる。(『南方熊楠』原田健一、平凡社)

この熊楠の警告は悲しくも的中する。この手紙が書かれた二年後
の一九一一(明治四十四)年に吹き荒れた南北朝正閏問題によって
、庶民の素朴な美的感覚も愛国心もねじ曲げられ、楠木正成の怨霊
に取り憑かれたかのようにあともどりできない戦争への道を突き進
んでいくからだ。(つづく)
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現代の軍事の変質の続きです( 正規戦争が減少してきた。正規の軍隊と正規の軍隊が国家と国家の信義を戦争で決着すると言う形が 大型巨大な核のために、 近年ではそういう形の戦争は見られなくなってる。
ゲリラを殲滅すると言う戦闘体系に 移行してる。)

しかし、研究してみると、そのまま現時点で米軍がお手本とはできないことが分かってきました。非正規戦で最も大切なことは、住民の人心を収攬することですが、英国はマラヤでは飴だけではなく、鞭も駆使しました。共産ゲリラが主としてそれに拠って戦ったところの、何十万人もの支那系住民は根こそぎ「新しい村」と称した収容所に移動させられ、そこで土地を与えられました。
英国はまた、ゲリラを飢えさせるため、住民に対する食糧の供給を制限したりもしました。米は炊いて供給されることもありました。ジャングルに潜むゲリラに届けられるまでに腐ってしまうようにと。それに、マラヤ住民の大半は英国を支持していました。
そして、マラヤは半島であり、境界は比較的容易に管理でき、ゲリラは外からの補給を殆ど受けることができませんでした。
また、英マラヤ総督は、警備活動を軍事作戦より優先し、住民によって構成される部隊を活用したところ、一番肝腎なことですが、英国はマラヤの全権を掌握しており、その上総督は、マラヤにおける軍権と民権の長を兼ねていました。ですから総督は、ゲリラの植民地主義と戦うという主張に対し、住民に英国人と同等の権利を与えることも、更に最終的には独立させると住民に約束することもできたのです。

現在のアフガニスタンやイラクの事情とは随分異なることにお気づきになると思います。このほか、米軍が最も参考にした本は、更に古いけれど、第一次世界大戦の時、アラブ人のオスマントルコに対する叛乱を扇動し、反乱軍とともに戦ったロレンス(T. E. Lawrence)の『智恵の7柱(The Seven Pillars of Wisdom)』でした。
しかも、マラヤでの共産ゲリラとの戦いの頃や、いわんやロレンスが行ったゲリラ戦の頃と現在とが大きく違うのは、米国が、メディアの監視の下で、国際法学者達から詮索されながら非正規軍と戦わなければならなくなった点です。米国が非正規戦ドクトリンを策定する苦労がいかほどのものであったか察するに余りあるものがあります。

 (3)米非正規戦ドクトリンのエッセンス
こうして米軍が策定した非正規戦ドクトリンのエッセンスを、正規戦と非正規戦とを対比しながら、要点をご説明しましょう。
 

  <正規戦>      <非正規戦>

一  近代的(modern)      非正規的(irregular)
二  組織的(organized)     非公式的(informal)
三  高度な(advanced)技術   手近な(at-hand)技術(technology)
四  兵站依存       兵站非依存(logistics-independent)
五  全国(national)志向    地域志向(local direction)
六  一貫した(coherent)教義 即席の(ad-hoc)教義(doctrine)
七  決戦(decisive battle)  襲撃と小競り合い(raids and skirmishes)
八  兵士(soldier)    戦士(warrior)
九 同盟(allies)    共犯(accomplices)
これをご覧になると、おぼろげながら非正規戦のイメージがつかめるでしょう。 若干補足しておきましょう。

一の点ですが、例えば、銃声がした所をめがけて集まれといった具合に、非正規軍は近代的指揮統制抜きで戦うことがめずらしくありません。八の点ですが、兵士とは平時の生活から離れて訓練を受けた戦闘のプロであるのに対し、戦士とは平時の生活をしながら戦う者を指します。この場合、成人男子だけでなく、女性、子供、老人を含め、住民全体が潜在的戦士なのです。長期にわたって紛争が続き、戦士文化が確立している地域においては、小火器を保有し携帯することは必要でありかつ権利とみなされていて、住民の武装解除を行うことは困難です。
九の点ですが、長期にわたって紛争が続き、様々なグループが反目し合っているような地域では、特定のグループと同盟関係を結んで地域の安定化を図ろうとすると、それは他の諸グループからはこの特定のグループの共犯になったとみなされ、執拗な攻撃の対象とされ、かえって紛争が悪化する場合がある、ということです。

 では非正規戦ドクトリンのエッセンスとは何か?
全般的に言えば、正規戦においては、敵よりも高度な装備と組織を整備した上で敵と相まみえ、味方の損害を最小限に抑えつつ、迅速に勝利を収めることを眼目としますが、非正規戦では、決定的な敗北を回避できればそれでよく、場合によっては戦闘には負け続けても最終的には勝利できる場合すらあります。
そこで、非正規軍と戦う場合には、敵に戦闘で勝利することよりも、住民の人心の収攬を目指さなければならないのであって、そのためには、軍事、経済、政治等がよく連携のとれた形の総合的な作戦を展開する必要があるのです。(続く)

http://www.sonoda-yoshiaki.com/
これを読めば、『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつ
くったのか!?』の「まえがき」と「あとがき」に籠めた想いもよ
り一層理解していただけるだろう。それでは、私の本籍地の近くにある「蒲生の大楠」を思い出しながら、クスノキの話からから始めていこう。

■第一章 クスノキと南方熊楠
■日本人にとって「クスノキ」とは何か
 クスノキの漢字は「楠」と「樟」の二つがある。一般的には