頂門の一針(5月10日の記事)
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脂汗を流す中国首脳部
━━━━━━━━━━加瀬 英明
2001年7月に台北で日台の会議が行われた時に、日本側の基調講演を依
頼された。私は「今日はまず、よいニュースをお知らせしたいと思います」と前置きして、「先週、国際オリンピック委員会が2008年の夏期オリンピック大会を北京で開催することに決定しました」といった。台湾側出席者がこの愚か者め、という表情を浮べた。私は「これで全体主義国がオリンピックを主催するのが、3回目になります。第1回はヒトラーのナチス・ドイツが1936年にベルリン大会を行いました。その9年後に、ナチス・ドイツは崩壊しました。2回目はブレジネフ書記長のソ連が、1980年にモスクワ大会を催しました。その9年後に「ベルリンの壁」が倒壊して、ソ連が解体しました。私の説が正しければ、中華人民共和国は2017年までに崩壊します」というと、全員が立ち上がって喝采した。8月に、北京大会が開幕する。私にとって四年ごとに巡ってくるオリンピックは、オリンピックが発祥した遠い昔の古代ギリシア時代に、自転車や、柔道や、野球や、銃や、テレビ、携帯電話がなかったことを思い出す機会となってきた。しかし、今年の北京大会は見物(みもの)が増えた。本来、オリンピックは政治にかかわってはならないはずだが、北京大会は壮大な政治ドラマとなりつつある。
開会式で行進する選手の中にチベットの小旗を振ったり、観覧席の外 国人の中にダライ・ラマ14世の肖像がプリントされたTシャツを着た者 がいたら、どうするのだろうか。中国は2008年のオリンピック大会を、興隆しつつある「中華帝国」を全世界に誇示し、中国を称えるために誘致したのだった。聖火リレーは行くところで、中国に対する抗議の嵐をひき起こしている。聖火はチベットや、新疆ウィグル自治区も通ることになっている。聖火が北京に到着するまで、胡錦濤主席をはじめとする中国の最高幹部たちは、脂汗を流さねばなるまい。本番の大会と同じほど、手に汗を握るスリルがあるというものだ。
それに、中国国民のなかにも独裁政権に対して、観光施設や、ビル、工 場用地のために先祖伝来の土地を奪われた農民や、すさまじい環境破壊 のために住む土地を追われた住民など、数億人もの不満を昂じさせてい る人々がいる。
中国の発表によれば、2006年に全国で6万件以上の暴動が発生した。日本であったら、5千件も暴動が起きた勘定になる。聖火リレーから大会まで、テレビによって中継されることになる。それでも、テレビでは見えないものがある。世界新聞協会は日本新聞協会も加盟しているが、全世界の新聞に「今回のオリンピック大会では、見ることができないことがあります」という見出しのもとに、1ページ意見広告を載せるように要請している。この広告は中国で体制を批判した30人以上のジャーナリストが、不当に投獄されていることに、抗議しようとするものだ。新聞記者だけではなく、おびただしい数にのぼる人々が政権の機嫌を損ねた罪によって、牢獄につながれている。中国の指導部は8月8日の開会式が近づくにつれて、焦燥感を昴めてゆくこととなろう。
中国は人類の歴史で、最後の植民地帝国である。
20世紀は植民地帝国が解体した世紀だった。第1次大戦によって、連合 国に対して敗れたカイゼル皇帝のドイツ帝国――アフリカからアジアま で領土を持っていた――と、ドイツと同盟して敗れたトルコ帝国が解体 した。それまでトルコ帝国はアフリカ北部からペルシア湾岸まで支配し ていたのに、広大な領地を失った。
第2次大戦は大日本帝国、イギリス、フランス、オランダ、イタリア、 ベルギー、スペイン、ポルトガルをはじめとする植民地帝国を解体した。冷戦が終わると1991年に、ソ連という大帝国が崩壊してしまった。
今日、地上に残っている最後の帝国が、中国だ。満族の国である満州、 モンゴル族の内蒙古、新疆、チベットをはじめとする地域は、中国の固 有の領土ではなかった。
これから、中国はどうなることだろうか?
中国の経済発展には、目を見張らせられる。世界人口の5分の1にしか 当たらないのに、急速な経済発展のために、中国は今日、世界のセメン ト生産の半分、鉄鋼生産の3分の1、アルミ生産の4分の1を呑み込ん でいる。この10年間だけで、石油と大豆の輸入をとると金額にして23倍 も増えている。それでも、中国がはたして経済「発展」をしているのかというと、疑問がある。発展は向上を意味している。中国の「経済発展」はすさまじい大気汚染と、水質、土壌汚染をひき起こしている。中国は全世界から、石油、鉄鉱石、銅をはじめとする資源を貪欲に買い漁って、輸入している。
そのかたわらで、地下水を汲みすぎたために、湖水や川が枯渇するよう になって、全国の砂漠化が進んでいる。ところが、きれいな空気と水は 輸入することができない。
今日の中国は中華人民共和国と呼ばれるが、1949年に建国されてから、60年にわたって1度も自由な選挙を行ったことがない。中国共産党が力づくで支配してきた国である。いつまで、このような支配が続くことになるのだろうか? 先輩のソ連は1922年に生まれたが、69年後に消滅した。中国は先輩のソ連よりも、長く保(も)つものだろうか?
歴史を振り返ってみると、フランス革命も、ソ連を生んだロシア革命も、経済が停滞していた社会が経済成長を始めたことによって、社会が流動化し、それまでの箍(たが)が緩んだために、ひき起された。中国の開放経済が、それに当たることになるのだろうか。(2008.5)
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安倍氏だけ得点稼ぐ
━━━━━━━━━ 阿比留 瑠比
来日中の中国の胡錦濤国家主席は8日、中曽根、海部、森、安倍の4人の 首相経験者と、河野衆院議長、江田参院議長とそれぞれ会いました。そ の内容はあえてここではくどくど書きませんが、国際社会が行方を注視 しているチベット問題に直接言及したのがこの中で安倍氏だけだという のは何とも寂しい。でも、それが日本の政治の現状なのだと思います。
また、安倍氏がチベットだけでなく、ウイグルの人権問題に関しても触 れたことはよかったと思います。
安倍氏から話をふられた胡主席自身は、日本に留学していて中国に一時 帰国した際に、国家分裂を扇動したとして当局に逮捕され、もう11年に なるというウイグル人、トフティ・テュニアズ氏のことは知らなかった ようです。でも、安倍氏に無事の釈放と日本への帰還を求められ、胡氏が「正しい法執行が行われているか調査する」と述べたのは大きいと思います。外務官僚の一人も「あれはよかった。さすが安倍さんだ」と喜んでいました。
中国のような国では、トップの機嫌を損ねかねないはこういう話は、な かなか上げられないのでしょうね。でも、今回の件を受けて胡氏が「あ の件はどうなっているんだ」と下問すれば、今度は担当者は慌てて動き 出すでしょう。
これがトフティ氏の釈放につながるといいのですが…。ただ、このウイ グルに関する部分は、8日の夕刊各紙の関連記事を見ても載っておらず、 省かれてしまったようです。チベット問題は3月14日以降、マスコミの大きな関心事項となりましたが、ウイグル問題はまだマイナー扱いされているようです。まあ、これから徐々に確実に浸透させていかなければなりませんね。改めてそう感じました。さて、胡主席が4人の首相経験者と会った朝食会は、ホテルニューオータニで開催されました。会食後、海部氏は記者団に「朝食はここの和食だったが、(胡氏は)非常に食欲があった。われわれと同じくらい食べていた。さすがにおかわりはしなかったが」と話しました。そこで、関心がある方もいると思いので、朝食会のメニューを紹介します。
御献立
小鉢 鰻ざく 春菊胡麻和え 竹の子と新若布の煮浸し
刺身 鮪づけ 自然薯掛け
中皿 出巻玉子と大根おろし
焼物 銀鱈西京焼 しし唐土佐煮
煮物 蟹ひりゅうず 丸茄子 ぜんまい 小芋 おくら
御飯 お粥 又は 白御飯 香の物 薬味 ザーサイ のり
佃煮 松の実
汁 十三湖の蜆汁
水菓子 マンゴー
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デヴィ・スカルノ
━━━━━━━━『ウィキペディア』
Dewi Sukarno、1940=昭和15年2月6日―)は、東京都出身のタレント、コメンテーター。本名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)、旧姓(日本名)は根本 七保子(ねもと なおこ)。一時
期、インドネシアの故 スカルノ大統領第3夫人(4人の夫人のうちの第3 夫人)であった。2008年5月現在68歳。旧 東京市麻布区麻布霞町出身。父や兄は霞町界隈の大工であった。結婚後ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノと同大統領から命名される。名前の由来はサンスクリット語で「宝石の聖なる女神」という意味である。スカルノ大統領失脚後、フランスへ亡命。社交界で活躍。その後、数年はインドネシアに戻り石油事業家等を経て、ニューヨークへ移住する。その後は日本に帰国。現在のタレント活動等に至る。「デヴィ夫人」の愛称でバラエティ番組等に出演。その歯に衣着せぬ発言が話題になった。
現在もセレブ・ご意見番として芸能界で活躍中。
芸能活動以外には、主催チャリティパーティの慈善活動や国際問題、政 治的意見にも精通する。大統領夫人時代に親交があった北朝鮮の拉致問 題や餓死問題にも意欲的に活動。日本の拉致被害者援助や120トンの米支 援を行っている。株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役。
東京都立三田高等学校定時制部を中退後、赤坂の有名高級クラブ「コパ カバーナ」のホステスとなる。1959(昭和34)年に、インドネシアへの 日本政府の開発援助に伴い、東日貿易の秘書として、スカルノ大統領の もとに送り込まれた。
総合商社の日商岩井からスカルノへの「夜のプレゼント」というような 意味があったといわれている。この一件に当時昭和のフィクサーである 児玉誉士夫が関わっていたとされ、児玉は巨額の謝礼を得たという。
スカルノ当時の日本外交や資金援助の取り付け等をスカルノ大統領は非 常に重要視していた。1962(昭和37)年にスカルノと結婚。4人の夫人の 内の第3夫人になる。しかし、日本の家族である実弟が彼女の立場を理解できずに悩み、それが一因で自殺したと言われており、それを伝え聞いた彼女は「何時までも心を離れない悲しいトラウマになっている」と告白している。
スカルノとの結婚以降は、インドネシアへの経済援助(ODA)や、日本へ の資源輸出などに積極的に関わった。しかし3年後の1965(昭和40)年9月30日に起きた軍事クーデター、いわゆる9月30日事件でスカルノが失脚。かわりにスハルトが大統領となった。デヴィ夫人はインドネシアの日本大使館に亡命を希望したが、国際立場上の理由で断念。スカルノ大統領の第二夫人を除く夫人は皆、大統領の許を離れ逃げ切った。デヴィ夫人はフランスへと亡命し、そこでも上流階級に属す。(スイス銀行に財産を隠していたと噂された所以である)。フランス社交界では数々のロマンスを経験、数回の婚約発表が取りざたされたが結局、再婚はなかった。スカルノ大統領との子供で長女のカリナ・スカルノは現在すでに外国で結婚している。
スカルノと来日した時には、大映スターであった本郷功次郎とのロマン スが発覚。それをスカルノが止めたというエピソードがある。
スカルノの他界後には度々、来日。当時の津川雅彦とのロマンスは有名 で週刊誌のインタビューにおいても、恋人同士であることを堂々と告白。「津川さんの素敵なところは臭い台詞でも平気で女性を褒めることが出来る、日本人離れしている点」といった趣旨発言をしてもいたが、その恋も長続きしなかった。スカルノは、クーデターを予期し以前よりインドネシアからスイスへ巨額の資金を確保していたと囁かれるが、インドネシアから正式な財産の受け取りはないという。
つまり、1970年のスカルノ死去時にスカルノ家ならびにインドネシア政 府から財産の相続の権利や子供のスカルノ一族としての地位などを喪失 し、第三夫人としての資産は与えられなかったという噂もあるが、実際 には遺産が与えられたという説もある。その後のインドネシア政府の方針転換により、第3夫人としての遺産分与が行われた。上流階級スタイルの口調と、歯に衣着せぬ直言・苦言はしばしば物議を醸し、川崎麻世の愛人と報道された女性や野村沙知代に名誉毀損で訴えられた裁判では、それぞれ敗訴している。美川憲一やマリアン・和田アキ子とも犬猿の仲。2008・05・08