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3 ナチの黒人迫害
20世紀までに、ドイツはアフリカにいくつか植民地を持つに至っており、ドイツ領東アフリカではドイツ人医師達が遺伝学的な実験を住民に対して行ったという指摘がしばしばなされています。当然、アフリカ人のドイツ本国への若干の流入がありました。また、第一次世界大戦でドイツが敗れると、フランスがラインラントを占領しますが、フランス領のアフリカ人も多数占領軍に交じっていました。このため、ドイツの女性との間に数百人の混血児が生まれます。 ヒットラーは『わが闘争』の中で、彼らのことを「ラインラント私生児達(Bastards)」と呼んでいます。ナチスが政権をとると、1937年までにアフリカ人との混血児はことごとく断種・不妊手術を施されます。 先の大戦が始まるまでには大部分の黒人や上記混血児は逃亡しますが、残った人々は全員収容所送りになり虐殺されました。(以上、http://
4 反省していないドイツ
以上、余り知られていない、ナチスドイツによるホロコースト事例をご紹介しましたが、ユダヤ人迫害にせよアフリカ人迫害にせよ、決してナチスドイツの「病理」がもたらしたドイツ史における逸脱現象ではないのであって、18世紀末から19世紀初頭以来、ドイツの大部分の考古学者や歴史学者が抱いたところの人種差別的歴史観(コラム#2106)という「生理」の論理的帰結であった、という点を、この際強調しておきたいと思います。 ホロコーストがドイツの「生理」であったということは、しばしば、先の大戦における蛮行について反省も謝罪もしていないと非難される日本と対比して語ら れるところの、十二分に反省し謝罪しているドイツ、という物語もまたフィクションに他ならない、ということです。
・イスラエルの歴史学者のマルガリット(Gilad Margalit)博士の言(http://
。8月26日アクセス)の言うところに耳を傾けてみましょう。
先の大戦末期になり、敗戦間近になると、ドイツ人達はホロコーストについて集団的罪悪感を抱くようになった。ところが、その後連合軍はドイツの都市に戦略爆撃を行うようになり、1945年2月の13日と15日に行われたドレスデン爆撃だけで約35,000人が死んだ。ドイツがやらなかった無差別爆撃という罪を連合国は犯したとドイツ人達は受け止め、ホロコーストに対する罪悪感を無差別爆撃の犠牲者意識で相殺しようとした。つまり、「アウシュビッツ=ドレスデン」というわけだ(注2)。(注2)5,500万人もの人々を死に至らしめたナチスドイツは可及的速やかに打倒する必要があったのであり、連合軍が無差別爆撃を行ったことはやむを得なかったのではないか、という発想はドイツ人達には求め得べくもない。
戦後になると西独では、敗戦後東欧から何百万人ものドイツ人が追放されたのは連合国の合意によるものであったというのに、これをもっぱらソ連のせいにし、追放によってドイツ人が受けた苦しみとナチスがユダヤ人を強制収容所送りにしたことに対する罪悪感とを相殺しようとした。つまり今度は、「ナチス=ソ連」というわけだ。 他方東独では、上述した「アウシュビッツ=ドレスデン」論が更に深められていく。今や西独もその一員となった西側が、東独を含むところの東側に対し、究極の無差別爆撃であるところの核兵器攻撃をかけようとしている、というのだ。1960年代中頃になると、ホロコーストに対する罪悪感が再びドイツ人達の間で高まる。アンネの日記が出版されたり、ナチスの戦争犯罪人達の裁判がフランクフルト で1963年から65年にかけて行われ、大々的に報道されたからだ。 その結果ドイツ人達の間で、ユダヤ教徒になったり子供にユダヤ人の名前をつ けたり、イスラエルを訪れてキブツに参加したり、といったことがはやった。しかし、大多数のドイツ人はホロコーストに対する罪悪感から逃れるために、ヒットラーとナチスの中核メンバーだけに罪をなすりつけ始めた。東独では何と、ドレスデンの墓地に無差別爆撃を受けたドイツの都市7つと強 制収容所7つを意味する14の石柱を建てた。(ドレスデンの石柱とアウシュビッツの石柱は向かい合わせに建てられた。)
そして、この場所で毎年記念式典が行われるようになったのだ。 西独では、「ナチス=ソ連」論と「アウシュビッツ=ドレスデン」論が綜合され、1952年から、第一次世界大戦及び先の大戦並びにナチスによる全ての犠牲者・・ユダヤ人、ドイツ人、一般市民、兵士等ありとあらゆる犠牲者・・を追悼する式典が毎年行われるようになっていた。 この式典は、ドイツ以外でドイツ兵士の集団墓地のあるところ、例えばパレスティナのナザレ、でもナチス時代の軍人やSS要員等の臨席の下で行われた。ドイツ統一以降も引き続きこの式典は、行われている。 ドイツ統一によって唯一変わったことと言えば、ドイツ・ナショナリズムが復活したことだ。 ドイツ人達は、統一によってついに先の大戦が完全に終わったと感じ、もはやポーランド人やロシア人に気兼ねすることなく、もちろん賠償までしてやったユダヤ人にも気兼ねすることなく、ドイツだけの観点から過去の歴史を語ることができるようになったと思うようになったのだ。
5 終わりに
厚顔無恥、汝の名はドイツ人、と言いたくなりますね。これに比べて何としおらしい日本人なのでしょうか。 いずれにせよ、ドイツはドイツ、日本は日本です。 今後とも先の大戦に関し、ドイツに比べれば物の数ではないとは言えど、日本も反省し謝罪すべきところが少なからずあったことを忘れないようにしましょう。(完)
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1 英国公立中等学校への軍事教練導入
(1)英中等学校における軍事教練
拙著『防衛庁再生宣言』198頁で、「エリート教育の模範例として紹介されることが多いイギリスのパブリックスクールは、・・戦時における将校としての基礎素養を身につけさせる場なのだ。パブリックスクールが男子校であり、ボーディングスクール(全寮制学校)であり、集団スポーツが強く奨励され、かつ軍事教育および教練が必須科目とされているのはそのためである。」と記したところです。(コラム#27でもちょっと触れた。)
さて、イギリス(=スコットランド以外ということ)のパブリックスクールは、日本の中学校より1年7ヶ月早く始まり、高等教育前の5~6年間の教育を行う学校ですが、イギリスでは、このような中等学校(SECONDARY schools)として、パブリックスクール以外の私学のほか、もともとは公立で現在項公立と私立に分かれているところの、入学試験があるグラマースクール(grammar school)と、公立で入学試験のないコンプリヘンシブスクール(comprehensive schools)とがあります。 このうちコンプリヘンシブスクールがイギリスの中等学校全体の9割を占めているのですが、軍事教育・訓練(教練)を陸軍、海軍、空軍に分かれて全部で42,500人の生徒が受けているところ、軍事教練はパブリックスクール等では200校で行われているのに対し、コンプリヘンシブスクールでは60校でしか行われておらず、その生徒の2%しか軍事教練を受けていません。 こういうわけで、英国防省の毎年の軍事教練予算8,200万英ポンドの大部分はパブリックスクール等に投じられてきました。
(2)軍事教練の拡大
このたび英ブラウン政権は、軍事教練を全てのコンプリヘンシブスクールで受けられるようにするとともに、生徒達に軍事教練を受けるように促す政策を打ち出しました。そのため、各校が自前で軍事教練の機会を提供するか、地域の軍事教練に生徒を派遣するかすべきであるとしています。これは、英軍と英国社会の関係のあるべき姿について検討している政府審議会の答申を受けての新政策であり、そのねらいは、若者に規律を植え付けるとともに、英軍に対する認識を深めさせることです。 英校長協会(National Association of Headteachers)は、この新政策を歓迎する声明を出しました。しかし、これはイラク戦争の不人気もあって欠員に苦しむ英軍のリクルート活動ではないのかとする批判が出ています。また、軍事教練には、火器の実射訓練も含まれることから、銃器を使った犯罪の増加につながるのではないかという批判も出ています。
(以上、軍事教練の拡大については、
http://
(4月6日アクセス)、及び
http://
brown-s-backing-school-cadet-bid-91466-20728579/、
http://
-sutcliffe-what-i-learned-during-my-time-in-the-ranks-805774.html?r=RSS、
http://
http://
207.xml
(いずれも4月8日アクセス)、イギリスの教育制度については、
http://
による。)
(3)コメント
反軍、反戦争的観点からの批判が出ていないところが、かつて戦争を生業としていたアングロサクソンたるイギリスらしいですね。
しかし、そのイギリスで、パブリックスクール等での将校教育だけでは、英軍の維持がおぼつかなくなり、パブリックスクール等以外の、エリート教育の場でも全寮制でもない中等学校で、兵士教育を行わなければならないほどの切羽詰まった状況になったというところに、時代の大きな変化を感じます。 これで英国が、プーチン政権下で中等学校において(ソ連時代に行われていた)軍事教練を復活させたロシア(コラム#186)と並ぶ軍事教練国家になるという名誉にあずかる(?!)点も愉快ですね。(続く)