ニートについてのエッセイ 「働かない人間は、弁が立つ」by遥洋子
ようちゃん、おすすめ記事。↓ニートについてのエッセイ
(2007年1月の記事です。)ちょっとユニークなエッセイがありま
したのでコピペします。 byようちゃん
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遥洋子の「男の勘違い、女のすれ違い」 働かない人間の理屈
個人を見ていると気づきにくいが、家族でも職場でも、あるひとかたまりの組織を眺めると、あきらかに、働いている人間と、働かない人間がいることに気づく。
私の知人で、大学を出てから50歳の年を重ねてもなお、働かない男性がいる。この場合は、職につかないと言ったほうがいいだろうか。よくしたものでそんな息子がいると、そんなのに限って毎月生活費を渡す母親がついていたりするし、パートでせっせと家計を助ける妻がついていたりもする。
だから、その男性はずっと働かないまま結婚生活を続け、子供も持った。見かねた男性の兄弟は、なにかと仕事をまかせてみたり、店を持たせたりと関与してきたが、そもそも働く意欲のない人間がどれも続くはずもなかった。
という事情はあくまでその男性の周りの人間の言い分だ。本人はまったく異なる事実認識を持っている。
「俺はずっと家族の犠牲になってきた。好きな仕事もできず、兄弟の仕事をずっと手伝わされ、あげくのはてに、老親の面倒まで診させられることになった」と主張する。
しかし、ここで他人の私に突っ込ませていただくと、その男性のいう“好きな仕事”だが、彼がそこにむけてなんらかの行動を起こしたのを私は見たことがない。“老親と同居”というがそれは家賃を払う甲斐性がないので親が建てた家に長年タダで住んでいるだけで、老親の面倒は他の家族がせっせとみているのを私は知っている。
私から見ると、親と妻からもらったお金でずっと楽に生きている50歳男にしか映らないのだが、本人の認識では最大の被害者になるわけだから、なにが事実かは判断しようもない。
これは、意外なことに、引きこもって家で暴れるいまどきの少年にも当てはまる。
私の親戚の甥だ。彼の家族の認識では「母親がパートで稼ぎながらせっかくいい私立学校に入れたのに、勉強についていけずやめてしまった。今では母親のパート代を奪うために暴力を振るい、その金は遊興費に散財している」というものだ。
だがこれもまた、本人の言い分はまったく違う。「親の理想を叶える道具として育てられた。行きたくもない学校に行かされ、人生を踏み誤った。すべて親のせいだ。これからは好きに生きる」というものだ。
これも私から突っ込ませていただくと、“好きに生きる”ことが何故人の金をあてにすることになるのか。好きに生きると言いながら、「朝が起きれない」といって仕事をせず、家から自立もしないなら、これまた、親に金もらって50歳になるケースと近似している。
いずれのケースも、周りの言い分と、本人の認識と、どちらが正しいかは他人からは判断しようもない。おそらく両者の事実認識もまた生涯噛み合うことはないだろう。
しかし、どちらのケースにも共通することがある。
それは、「働かない人間は、弁が立つ」ということ。それぞれに何故自分は働かないのか立派な理屈を持っているのだ。
そのストーリー性が確立されているほどに、他者は「可哀想に」と、金を出す。もしくは、「仕方がない」と金を出す。そして誰もそこから抜け出れず数十年が経つ。これはまるで詐欺商法のスパイラルだ。
そこから脱出する方法は、“理屈を聞かない”こと。聞いたが最後、そのスパイラルに巻き込まれる。
これは、私の職場でもよく見かける光景だ。芸能界にはマネージャーというのがいる。
本来は仕事を取ってきたり営業したり、タレントを売ることで利益を上げねばならない職業だが、よくあるパターンとして「君では売れないんだよ。君が悪いんだよ。君に魅力がないんだ。etc・・・」と1時間でも「営業できない理由」を喋る輩がいる。しかし、そういうのに限って、企画書の一枚でも書いたのを見たことがない・・・。
そして、その理屈を聞いて「仕方がない」と給料を払い続ける経営者がいる。
今の時代、本当に働きたくても仕事がない場合だってある。そういう青年が、家では寡黙に家事を手伝っているのを目撃したことがある。彼の周りでは誰も彼を責める人はいなかった。
要は、働くか働かないか、ではなく、働かないことを正当化するかしないか、のようだ。
仕事しない人間がそこに安住しようとした時、共通して磨き上げているのは正当化するテクニックだ。狡猾な人間ほど家族も含めた組織全員が反論できないまでの、緻密な理論を練り上げる。
その労力と時間を本来の仕事に回せば、正当な収入を得られるのに・・・と私なんかは思う。 ちなみに私はそういう輩と議論はいっさいしない。彼らの技術を磨く練習台になってたまるかと思う。
働かないことを正当化する人間に対して、金を払う人間がいる限り、 それは結局、正当化への報酬となって本人に届く。本人が正当化をやめる理由は、そこにはない。
昔から言われている言葉がある。
「何を言うかではなく、何をするかで人を判断しなければいけない」
聞くから分からなくなるのだ。じっと見れば分かることだってある。