頂門の一針
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百花斉放百家争鳴
━━━━━━━━ 渡部亮次郎
1956年5月2日、毛沢東は最高国務会議で「共産党への
批判を歓迎する」 として、「百花斉放百家争鳴」を提唱した。
百花斉放とは様々な文化を 開花させるという意味であり、
百家争鳴とはたくさんの意見を自由に論 争するということ
である。
毛沢東がこのような運動を始めた理由は過去さまざま論じ
られてきたが、定説は無い。毛沢東が自らの権威が揺らい
でいると考え、劉少奇、トウ小平らの力を削ごうとしたため
とも言われている。
あるいは作家のユン・チアンは、百家争鳴運動は始めから
毛沢東が反対 派を炙り出すための巧みな罠だったと断定
している。渡部亮次郎も同じ 意見である。
百花運動は党中央宣伝部長の陸定一らが担当し、国内の
知識人の参加を 呼びかけたが、それまでの弾圧などの
影響であまり盛り上がらなかった。
人民の大半は「罠」を感じたのである。
そこで1957年2月27日、毛沢東は「民主的諸政党」の代表者
や中国共産党 の幹部による最高国務会議を招集し、
改めて中国共産党に対する批判を 呼びかけた。
さらに1957年3月6日から13日にかけて全国宣伝工作者
会議でもさらに中 国共産党に対する批判を呼びかけた。
これ以後、知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に
出始めるようになり、時がたつにつれてその批判は強烈な
ものに変わっていって今度は毛沢東を慌てさせた。
知識人たちは共産党が中華人民共和国を支配することに
こともあろうに 異を唱え始め、毛沢東の指導力まで公に
批判するようになった。
当初、批判の場は「大字報」と呼ばれた壁新聞と、「座談会」
と呼ばれ た小規模な集会に限られていた。これは、
批判の声に呼応して民衆が蜂 起を企てることがないように
との配慮であった。運動の中で、ある教授は憲法を紙くず
同然だと批判した。別の経済学者は共産党主催の公開
批闘会が投獄されるよりもひどいものだと主張した。
劇作家は「芸術に対する『指導』は必要ない。だれがベー
トーベンを指 導できるのか?」と述べた。共産党幹部の
1人は「朝鮮戦争を始めとす る外国への援助のばらまき
をやめよ」と述べた。
「工業生産高のような情報さえ国家機密にしている現状を
改善せよ」と 要求する者もいた。挙句の果てに、党の
機関紙である人民日報も党を間 接的に批判するように
なった。
百家争鳴運動は地方でも行われた。内蒙古大学のある
教授は「モンゴル 民族は固有の文化を持っており、
むやみに漢化すべきではない」と主張 した。逆に言えば、
これまで周辺の占領地では、この程度の発言も許さ れて
いなかった。
1957年5月15日、毛沢東は批判続出の事態に危機を感じ、
新聞に対して党 の批判とあわせて「右派」に対する批判も
行うように奨励し、党中央宣 伝部長の胡喬木に対して
「右派」を批判する準備を行うように命じた。
ただしこの時毛沢東は「右派らは有頂天になっている。まだ
釣り上げて はならない」(つまり「しばらく泳がせておけ」)と
述べているこのこ とからして「罠」説が優勢になる。
1957年5月23日、北京大学の学生の一人が教員学生集会
で「胡風など中国政府に捕らえられている作家は、
人民政府の矛盾の犠牲になっている」と批判した。
1957年6月8日、人民日報は「右派分子が社会主義を攻撃
している」とい う毛沢東が執筆した社説を掲載した。
1957年6月19日、人民日報に毛沢東 が2月27日に行った
演説を「転載」したとされる記事が掲載された。しかし、
掲載された記事は毛沢東が行った演説を改変したものだった。
記事は2月27日に行った党に対する批判を奨励する演説
ではなく、その批判に様々な制約を付けたものだった。
これによって党を思い切って批判した知識人たちは毛沢東に
よって社会 主義政権破壊を画策した「右派」というレッテル
を貼られた。知識人の 粛清運動である反右派闘争は、
この時から始まった。粛清だ。毛沢東はソ連を重視しこれに
先立ち56年ごろからは中国独自の社会主義の建設を
となえるようになった。その代表的なものが58年に開始され
た全中国農民の人民公社化と大躍進運動であるが、
結局失敗する。
59年に国家主席の座を劉少奇に譲る結果となった。
しかし毛は「不断の革命」を唱えて1966年に文化大革命を
発動し、紅衛 兵らを動員、劉少奇ら反対派の追い落としに
成功した。とはいえ71年の林彪事件後、文革は終息に
むかって毛沢東の指導力も低下、死の直前には、周恩来
追悼に端を発した、反文革・反毛大衆運動とでもいうべき
天安門事件(第1次)がおきた。
また、毛沢東の死(1976年)後、晩年の彼をささえた江青
(妻)ら四人 組はことごとく失脚、投獄された。しかし中国
で自由な言論が許されることはないことは、大方のご承知の
とおりである。2008・05.01
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澄んだ星空にスパイ衛星
━━━━━━━━━━━ 古澤 襄
愛犬バロンが何を勘違いしたのか夜中の3時半に起こされた。
2階の廊 下の窓は網戸にして開けてあるが、夜中でも寒く
なくなった。夜空に星 が輝いている。本ばかり読んでいると
近眼になるので、時折、星空をみ た方がいいと子供の頃に
教えられた。
横浜に18年住んだが、星空をみた経験がない。空気が
澄んでいないと美 しい星空が眺められない。それが
利根川を渡ったこの地に住んで15年経 ったが、よく星空を
観るようになった。都心と温度差が2度はある。
空 気が澄んでいる。
ロマンチックとは縁がない私なので、星空を見ながら世界の
”偵察衛星”のことを考えてしまう。”スパイ衛星”ともいう。
軍事目的の人工衛星だから、宇宙空間から地上・海上を
見下ろして、敵戦略目標の動きや活動状況・位置を画像
情報として入手する。
未来の戦争では偵察部隊や斥候部隊の必要がなくなると
アメリカの雑誌に 出ていた。偵察衛星の画像データをほぼ
リアルタイムに入手して、個々 の戦闘現場での作戦立案に
使われるというわけだ。
テレビ・ゲームの様だと半信半疑でいたが、イラク戦争では
まさしく ”偵察衛星”が大活躍している。いずれは最前線の
兵士の1人ひとりに まで専用端末で、リアルタイムの情報が
届けられるそうだ。
だが、行き過ぎた近代化軍隊は、コスト高で破綻するのでは
ないか。だ いたい”偵察衛星”そのものがカネがかかる。
冷戦時代のアイク政権下 でアメリカの”スパイ衛星”を立ち
上げ、ソ連も追従した。コストを考 えていたら戦争に負ける
という軍事優先論が米ソを覆った時代である。
専門家によると地上の目標物を鮮明にとらえるために、
”スパイ衛星” は他の衛星よりも地上に近い低軌道を飛ぶ
必要がある。あまり低くなる と大気圏に落下するから、小型
ロケットの噴射によって軌道を修正する 技術も必要になる。
アメリカのKH(キーホール)最新型衛星は、500km-600km
の通常の軌道 高度から、必要に応じて150kmまで降りて
きて撮影を行なっているという。この衛星の解像度は世界
最高レベルに達している。こんな高性能の”偵察衛星”を
持てる国は、アメリカぐらいしかないであろう。
そのアメリカですら”偵察衛星”は予算の制約で、新規開発
を控えてい る。カネがかかるので、現用の”偵察衛星”を更新
期限を過ぎてもギリ ギリまで使っているという。
カネがかかる”偵察衛星”だから、ロシアは早々と開発競争
から脱落し た。中国は”偵察衛星”を破壊するミサイル技術
をむしろ進めている。
比較的、地上に近い低軌道を飛ぶ”偵察衛星”だから、
破壊技術にはカ ネがかからない。
軍事目的の”偵察衛星”だが、戦争放棄の日本では”情報
収集衛星 (IGS)” として、2003年3月に打ち上げを開始した。
現在運用中の衛星は、解像度1m級の光学衛星2機と合成
開口レーダ衛星 2機の計4機。安全保障だけでなく大規模
災害等への対応に備えるとい う目的を付け加えて
「多目的な情報を収集する衛星」と銘打っている。
2006年7月5日の北朝鮮によるミサイル発射実験では、
アメリカの”偵 察衛星”とともに日本の”情報収集衛星 ”も
追尾偵察を行って一定の成 果を出した模様だが、軍事
機密に当たるので公表されていない。
日本の”情報収集衛星 ”については、中国や北朝鮮、
韓国が、その技術 水準を注目しているという。「4基の
”偵察衛星”によって1日に1回 地球の全域を撮影できる
ようになる。
これによりとりわけ北朝鮮など韓半島(朝鮮半島)や中国の
軍事施設など を詳しく監視できる」と韓国の朝鮮日報が
報じたこともあった。
「日本の”偵察衛星”は地球の南北両極を通過する地上
400キロから600 キロの低い軌道を回りながら地上
1メートルの大きさの物体も識別でき る。これは地上の
車両がトラックか乗用車かを区別できる性能」「日本は
2009年には現在の1メートルの大きさを識別できる性能
から、60センチにまで解像度(アメリカは10センチ)を上げ、
監視対象を様々な角度から観測可能な、制御能力を大幅に
向上させた新型の偵察衛星も打ち上げる計画」と他国の
方が、日本の”情報収集衛星 ”に詳しい。
もっとも防衛省は「北朝鮮を常時監視するには4機では足り
なくて,16 機以上が必要だ」という。これだけでも単純
計算でコストは1兆円近く まで膨れ上がってしまうから
高嶺の花であろう。
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香港ドルより強い人民元
━━━━━━━━━━━ 宮崎 正弘
2008.04.17 Thursday - 16:33 by 古沢襄
「こんなこと、あり?」。香港での異変はホンモノに。
人民元が香港ド ルより1割強も強くなっているのは、
現実か夢幻か。
4年前に香港から広州へ入った折、香港で前泊したので
人民元の強さに 驚かされた。公式レートは香港ドル100に
対して人民元が90だが、街では 1対1で流通していた。
10年前まで香港では人民元は流通していなかった。それ
ばかりか、闇の 交換レートはめちゃくちゃなほどに香港ドル
が有利だった。
香港でダミー会社やペーパー・カンパニィを設立する中国
共産党幹部経 営の企業は、人民元をたちどころに香港
ドルか、或いは米ドルに交換し ていた。需給関係からみても、
香港ドルに人気があった。
昨年、やはり香港からマカオへ渡り、珠海―中山―開平―
仏山―広州― 恵洲―深センを回って香港へ出た。
どこでも香港ドルより人民元が強かった。交換レートは
香港ドル100 vs 95 人民元だったが、実質は
100 vs 103 くらいで、人 民元がやや強く、とくに深セン
では、香港ドルを受け取るのをいやがっ た。まったくの
様変わりなのである。
ファイナンシャル・タイムズ(4月17日付け)の報道は上記の
経過を 肌で感じてきた筆者にとっては驚きではない。
同紙は次のように伝えている。香港居住者が、どっと国境を
越えて深 センや広州へ赴き、銀行口座を開設していると
いうのだ。
人民元が年内にあと15%ほど上昇する観測が流れており、
我も我もと 人民元預金に殺到しているのである。「?」。
人民元預金は自由都市・国際金融のメッカでもある香港
で可能である。 現に香港における人民元預金は前年比
40%増加で累積478億元(邦貨換 算で7200億円前後)。
これは銀行預金だけの数字である。それなのに何故、
境界を越えて、パ スポート(香港居住者証)をもって、中国へ
行くのか。
理由は金利差である。
香港での人民元預金の金利は0・8%。中国での人民元
預金の金利は3・8%。過去半年間だけで、人民元の
対香港ドル交換レートは7・7%アップした。公式レートは
香港ドル89-90 vs 人民元 100
1年前と完全に逆転している。すなわち人民元は、年内さらに
上昇せざるをえないという市場の圧力は、香港で現実の
ものとなっているのである 。