日本よ、こんな中国とつきあえるか・台湾人医師の直言
日本よ、こんな中国とつきあえるか・台湾人医師の直言
全編を連載、転送転載自由
著者 林 建良
【一言】私はなぜ「日本よ、こんな中国とつきあえるか」を書いたか?
「日中友好」という呪い
「日中友好」という言葉ほど滑稽なものはありません。あの言葉の本当の意味は、日本が中国に友好的でなければならないという片務的な義務のみで、その逆は成立せず、実際も存在しません。
「日中友好」は中国が日本にかけた呪いなのです。その強烈な呪いで、日本は中国に従順的でなければならないように操られています。それだけではなく、道徳的にも常に中国より下位にならなければいけません。そして、中国に永遠に貢がなければなりません。
不思議なことに、日本人がこの呪いから脱出しようとしません。それどころか、その呪文を大声で唱え、布教さえしているように見えます。小泉総理の靖国参拝中止を求める経済同友会の声明はまさにその象徴です。
この不思議な現象を日本に来てから二十年近く眺め続けましたが、このままでいいのかとの思いでこの単行本を書きました。日本語で出した初めての単行本です。読んで頂ければ幸いです。
林 建良(りん けんりょう)
平成十八年七月十五日
第1章 台湾から見た中国及び中国人、
お人好しの日本人に中国人の凄さは理解できない
1,中 国人はすべてお金に換算して考える
2,本当は恐ろしい「医食同源」の思想
3,「愛国」という中国人の仮面
4, 臓器移植は中国政府と軍のおいしいビジネス
5, 千島湖事件でわかった中国人の残忍性
6、SARS問題で露呈した中国人の欺瞞性
7、中国人民解放軍は「核兵器を持つ暴力団」だ
第2章 台湾人から見た日本及び日本人
争いを避けたがる日本人に平和は守れない
1,日本人は中国のペットになりたいのか
2,台 湾で教えられた正反対の日本像
3、孫文と辛亥革命に対する日本人の大いなる誤解
4、木を植える日本人と木を伐る中国人
5、きれいに死のうとする日本人と死なないようにする中国人
6、博学にして無知な日本人
7, 未だ滅びぬ日本人のサムライ精神
第3章 台湾人から見た台湾及び台湾人
台湾は中国の一地方にすぎないと自ら教育する矛盾
1、台湾人は漢民族ではなかった
2、台湾人と中国人の対日観の決定的違い
3、中華民国はシナ共和国であって台湾ではない
4、靖国を政治ショーの舞台とするエセ台湾人
5,台湾の大和魂・高砂義勇隊
6,靖国問題で台湾を反日国家に仕立てる中国の陰謀
7、中国人が台湾に押し寄せる日
第4章 悪の元凶・中国帝国主義はこう潰せ
真実を中国人に教えれ中国は内部崩壊する
1、 中国への甘い期待を捨てろ
2、アジアの覇権をめぐる日本・台湾 VS中国の戦い
3,中国に情報開示を要求せよ
4,中国のデーターを検証せよ
5、真実を中国人に知らせれば中国は崩壊する
6,中国には人権問題を突きつけろ
第5章 台湾の独立は日本の国益につながる
1,反日派を助け、親日派を挫く日本
2,国民党政権なら台湾は中国に傾く
3,台湾併合で日本は中国の属国と化す
4,台湾の将来は台湾人が決定する
5、日本は核武装を決断すべきだ
6,日本再生の鍵は台湾の独立支持
7、日台共栄圏の構築せよ
あとがき 台湾は日本の生命線-日台共栄をめざして
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日本よ、こんな中国とつきあえるか・台湾人医師の直言
全編を連載、転送転載自由
著者 林 建良
出版 並木書房(2007年7月出版)
まえがき
日本は誤解されている。日本人は中国や台湾をよく理解していない。
このことについて日本人が自覚していないか、自覚していながら何もしないかのどちらかのように、台湾人の私には見える。これでいいのかとの思いが、私の中に日増しに強まっていた。そこでこの本を書き、愛する日本に捧げたい。
日本に心理的にも地理的にも近い台湾人でさえ日本像を正しくとらえていないことを、日本に来てから痛感した。日本統治時代を経験した戦前世代の台湾人は日本に対して一種の文化的郷愁を持ち、そのフィルターを通して日本を想っている。一方、私のような戦後世代の台湾人は学校で中国人と同じ目線に基づく反日教育を受け、歪んだ日本観を持っている。
戒厳令の布かれた国民党政権時代、私は大学を卒業するまで台湾無視の完全な中国人化教育を受けた。それは抗日を愛国とする反日教育でもあった。学校の教科書や反日国策映画の中に出てくる日本人は決まって残虐で、狭量で、そして狡猾であった。映画にはちょびヒゲを生やした傲慢な日本人が必ずと言っていいほど登場する。その人物の滑稽さを誇張することで、日本や日本人を最大限に侮蔑するのが映画の目的だったようだ。
しかし、戦前生まれの父が、教科書や映画とは逆の日本人像を私に教えてくれた。それは清潔、真面目、滅私奉公、強きを挫き弱きを助ける、凛々しい日本人像だった。
台湾には「日本精神」(ギップンチェンシン)ということばがある。それは、台湾人家庭で日本人を表現することばでもある。国民党の反日教育に抵抗する気持ちも含まれていたのか、戦前世代の親たちの多くは、日本人すべてが武士道精神を持つサムライであるかのように、子供たちに伝えた。こうして、私の世代では反日の学校教育と親日の家庭教育の狭間で、現実とかけ離れた日本観が生まれた。
日本に来て、日本人ほど生命に対して畏敬の念を持ち、自然をこよなく愛する民族はないのではないかと感じた。日本人は極めてフレンドリーで寛容的で、そして人に自分の主張を押し付けることのないシャイな民族である。外見も内面も清潔で、台湾人からすれば、非常に好感を持てる民族だった。日本人は学校で学んだ日本人像とは全くの正反対の民族だった。
だから、日本に着いた瞬間、いつまでも日本統治時代のことを懐かしんでいる父の気持ちが何となくわかった。父たち戦前世代の台湾人は一所懸命、日本人の良さを子供たちに伝えようとしていたのだ。
ところが、私が経験している日本は、もはや戦前世代の台湾人が懐かしんでいるような日本ではなくなったようだ。今の日本には彼らが憧れてやまない「日本精神」を持ちあわせている日本人は少ない。今の日本には、正義感と冒険心がかなり欠如している。そして、東アジアの平和と安全守ろうとする気概も失っているように私には見える。日本は自国の防衛にさえ責任感と使命感を放棄し、他人任せにしたままである。それ故、見たくないものに目をつむり、思考を停止してしまったかのようだ。
中国という厄介な存在に対する日本の態度は、まさにその典型である。中国は国連などあらゆる場面において、大声で日本の悪口を言いふらしている。それに対して、人の悪口を言わず慎み深い日本は弁解するどころか、ただただ平身低頭謝っているだけに見える。その態度が中国に日本批判の正当性を与え、そのトーンをさらに上げつついろいろ要求し、それに日本が答えるという繰り返しである。
日本の対中国政策は無策に近い。あるいは、まるで中国の宣伝用パンフレットに基づいて行われているとしか思えない拙劣さなのだ。賢いはずの日本人がなぜここまで愚かな対中国政策をとっているのか、私はいつも不思議に思う。つまり、日本は中国人の本質を知らないまま中国と付きあっているのだろう。中国は話せばわかる相手ではないということを、日本人は未だに理解していないのだ。日本人は中国のことを知らない。いや、知ろうとしないと言った方が正しいかもしれない。日本にいればいるほど、そう思うようになる。
中国の本質をわかれば、自ずと日本を含めた東アジアに迫り来る危機を察知できる。そして、その危機を真っ正面から見つめることができれば、国益に準じた有効な対策を取ることができるはずである。
私は中国的教育を受けた一台湾人として、日本の田舎の一町医者として、また台湾独立建国運動の一参加者として、中国、日本そして台湾の本質とそれぞれ抱えている矛盾と苦悩について、募る思いのまま書き下ろした。それが日本と台湾のためになることを祈りたい。
第一章 台湾人から見た中国及び中国人
お人好しの日本人に中国人の凄さは理解できない
一、中国人はすべてお金に換算して考える
■ 中国の文学や芸術は権力者のためだけに作られる
日本人は「和」を大切にする民族である。公の席では他人の悪口を言わないことを美徳としている。また、できるだけ相手の美点を見出そうと努めるのも日本人の特徴である。しかし、こと中国人に関する限り、日本人の見方は往々にして見誤っていることが少なくない。台湾人から見れば、表層的見方が目につく。
個人と個人の関係においてなら、その美徳はおおいに発揮されてよい。しかし、今の中国はとてつもない影響力を持っている。経済力にしろ政治力にしろ、もはや昔の貧しい中国ではない。しかも、中国は日本に敵対心を露にしている。日本を敵と看做してはばからない。それ故に、日本人は中国及び中国人の本質を知る必要がある。
まず、日本人は「中国四千年の歴史」ということで、例えば万里の長城に象徴されるような建造物を思い浮かべ、素晴らしい文化があるとイメージしている。あるいは、李白や杜甫などの漢詩を思い浮かべることで、中国には偉大な文学があると思い込んでいる節がある。このような建造物や詩の中に中国人の心があるのではないかと思い、中国人を美化して、その本質を見誤らせる傾向がある。
ところが、中国の文化というのは、一人の権力者のために作られたものであるということを、まず頭に入れておかなければならないのである。
中国で大家と言われる文学者はほとんどが官僚である。作品は貴族のために、あるいは権力者のために作られるのであり、けっして庶民の心理や社会文化を反映しているものではない。この点が、日本とのもっとも大きな相違点である。中国文化、イコール中国が残した文学や芸術と勘違いしているのが日本人の中には少なくない。
日本人ははっきりした信仰を持たなくても、命のあるものにはすべて霊が宿っていると考え、それなりの信仰心を持っている。いわば「万の神」の存在があらゆる形で日本人の心に宿っている。それ故、日本文化は命のあるものに対して一定の畏敬の念を抱いているし、自然にも畏敬の念を持って対している。
日本人はまた、木や花を大切にして、季節の移り変わりを非常に繊細に感じとり、俳句や和歌を生み出したことに見られるように、庶民のレベルにおいてもいろいろな言葉で表現する。日本人は自然に対する愛着を、そしてその変化を生活レベルで表現している。それは、偉大な芸術でもなければ偉大な文学でもなく、またごく一部の人間しか楽しめないものでもない。
さらに日本の場合は、芸術だけで生きている、作品を作るだけで生きているような芸術家や文学者が存在してきた。もし中国に日本のような芸術家や文学者が存在していたとしても、それはごくわずかでしかない。
そのような日本人の心性に比べると、中国人は信仰心に欠けるといってよい。中国人には命のあるものに対する畏敬の念や、自然に親しむという概念あるいは心性が欠落しているのである。いかにして自然を利用するか、別の命をどうしたら自分の命のために利用できるかという考え方が非常に強い。
その点で、中国人は信仰心のない民族と断言してさしつかえない。中国人は現実的、現世的にものごとを捉える民族であって、万物に対する見方考え方には日本人とかなりの違いがある。
もちろん、中国にも自然を対象とした描写は文学や芸術の中にたくさんある。ただし、日本人が正しく理解していないのは、あのような文学や芸術は権力者のために作られたものであって、けっして一般庶民が楽しむために作られたものではない、ということだ。中国四千年の歴史の中では、庶民とは官僚などの権力者に利用されて虐げられる人々であって、このような作品を楽しむ余裕を与えられてこなかったというのが実情なのである。
中国の庶民は、野生動物にしろ植物にしろ、命のあるものを見ると、まずなにを思い浮かべるかというと、「これは食べられるのかどうか」「換金すればいくらになるのか」ということだけで、いかにして自分のためになるのかと考えるのである。それしか頭にないのである。
■ しつけや挨拶にも「金がすべて」の思想が現れている
では、中国人が現実的で現世的であるとはどういうことかというと、中国人にとって価値のあるものは、すべてお金で換算できるものであって、「金がすべて」ということである。例えば、中国人は新年に必ず「恭喜発財(コンシファーツァイ)」と挨拶する。日本人は「新年明けましておめでとうございます」と挨拶するが、中国人は「恭喜発財」、即ち「儲かるように」と挨拶するのが常である。また、中国人が新年に家の門に張り出す「春聯(チュンリェン)」を見ても、よく見かける文句に「招財進宝(ザォツァイチンバォ)」という言葉がある。つまり「財を招いて宝を入れる」という意味で、これはもっとも一般的な春聯の文句である。
中国人の子供に対する教育では、日本と同じように「よく勉強しなさい」と言う。しかし、その意味は、日本人の親たちが子供に期待しているような「立派な人間になりなさい」とか「社会に役に立つような人間になりなさい」というようなことではなく、中国人の考えでは、勉強しないと「出世できなくなる」「金儲けができなくなる」ということを意味しているのであるまた、子供が出世しお金持ちにならなければ、親が困るからでもある。
「名利双収(ミンリースワンソウ)」という言葉が中国にはある。ここに中国人の考え方の究極的な概念が端的に表されている。意味は「有名になって金持ちにもなる」ということである。そのためになにが必要かというと、権力が必要だと考えるのである。
古来から中国では、勉強とは官僚になるためのものであって、科挙(かきょ)制度をみても、勉強して官僚になって権力を手に入れることが最終目的なのである。権力者になれば利益をたくさん得られるし、有名にもなれるという理屈なのである。中国の庶民的な言葉で、学校でもよく教えていることわざに「書中自有黄金屋」「書中自有顔如玉」がある。これは書物の中に黄金の家、即ちたくさんの財産があり、「顔如玉」即ち美人も出てくるということだ。勉強して出世さえすれば、たくさんのお金が入るし、美女をはべらすこともできるという意味だ。
つまり、勉強する最終目的とは、金が儲かり、美女をはべらすような豪奢な生活を手に入れるため、というものだ。これが中国人の究極的な思想なのである。このように至って現実的なのが、中国人の本質なのである。
中国人は、人と会うと、初対面の人であっても平気で収入を聞いてくる。まるで挨拶でもするように「あなたは一ヶ月の収入をいくらもらっているのですか」と聞いてくる。これは、中国人が収入をもって人間の価値を判断するという卑近な例だが、このようなところにも「金がすべて」という中華文化の本質がはしなくも表れている。「神は細部に宿る」という。このような挨拶の文化は日本ではまず見られない。
国家が解体し、経済がすべてとなった感のある日本は「エコノミック・アニマル」と呼ばれた時期があったが、日本人がエコノミック・アニマルならば、中国人はまさに「金の亡者」といってもよいのである。
■ 蒋介石政権が拝金主義を台湾に持ち込んだ
台湾人は五十年間、日本の影響を受けたせいで、中国人的な面は非常に薄くなっている。だから戦後、中国人が台湾を占領したとき、台湾人にとって慣れないことは「金がすべて」という中国人の文化だった。しかし、中国人による占領が長引くにつれて、台湾には汚職文化や「袖の下」文化が行政にも司法にも蔓延したのだった。
蒋介石政権下では司法も、大陸から台湾に逃げ込んだ中国人(外省人)に独占され、よく「有銭判生、無銭判死」と言われた。金があれば生きる、金がなければ死ぬ、ということだ。裁判官にお金を包んでいくことができれば死刑になることはない、つまり裁判に勝てるということで、逆に包めなかったら裁判に負けるということを意味する。
このような中国的なやり方は蒋介石政権が台湾に持ち込んだもので、拝金主義が台湾に広まった原因はこの中国人の文化にあった。もちろん、中国本土に比べれば、台湾の拝金主義はかわいいものだが、拝金主義、金がすべてとする文化、これが中国人の本質なのだ。われわれ戦後世代の台湾人や中国文化に汚染された台湾人なら、よくわかることなのである。
もちろん日本にも「地獄の沙汰も金次第」ということわざに示されるように、お金がすべてを解決するという考え方がある。しかし、お金で解決できないこともたくさんあると考え、お金に執着心を持たない日本人もまたたくさんいるのである。
■ 国の指導者にも値段をつける中国人
では、日本の拝金主義と中国の拝金主義はどう違うのかというと、その違いには雲泥の差がある。レベルが違うといってよい。中国の拝金主義は、命の値段を含め、嘘偽りなくすべてを金で換算する。これは日本人の想像を絶している。
例えば、日本人が中国へ行くと要人に会いたがる人が少なくない。中国の要人と記念写真を撮りたがる人が極めて多い。この仲介をしているのが日中友好協会であるのは周知の事実なのだが、実は要人には相場がある。首相クラスの場合は二百万円とか、その下なら百万円とか相場が設けられているのである。
中国では一国の指導者に相場がある。あらゆる人物に値段が付けられているのである。しかし、このことを日本人はよく分らないようだが、これが中国の本質なのである。日本人が中国と付き合う場合は、中国が表に出している大義名分や歴史認識、文化だの道徳だの、これらはすべてウソであり、単なるひとつの手段であることを認識すべきなのである。
中国人の究極的な価値観、欲望を一言でいえば、権力を手に入れて、名声と独占欲を満たすことに尽きる。欲望の塊というなら、それは中国人なのだ。日本人はこの中国人の本質を敢えて見たくないから目をつぶっているのかどうか分らないが、理解できていないように私には見えるのである。しかし、それでは面と向かって中国と競争することもできないし、中国自身がまともに取り合うこともないと断言しておこう。
(次回の連載は2008年5月5日)