安倍晋三が「福田首相を支える」狙いを読み解く。(じじ放談)
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▼安倍晋三前首相が「首相特使」としてドイツ訪問。安倍晋三が「福田首相を支える」狙いを読み解く。(じじ放談)
福田康夫と安倍晋三が所属した清和政策研究会
福田康夫と安倍晋三が所会)は、安倍晋三の祖父岸信介派を源流とする。その一部を継承し発展させたのが康夫の実父福田赳夫であった。「清和会」2代目を襲名したのが晋三の実父安倍晋太郎元外相である。その後、清和会会長は三塚博→森喜朗→小泉純一郎→森喜朗→町村信孝と継承され、2007年9月から、町村信孝官房長官、中川秀直元幹事長及び谷川秀善の3人の代表世話人による集団指導体制になっている。事実上のオーナーは最高顧問の森喜朗元首相で、2008年3月に安倍晋三前首相が「相談役」として復帰した。創業者(福田赳夫)と2代目(安倍晋太郎)の息子同士といっても、特別に親しい訳ではない。思想も信条も対極にあるほか、「優柔不断で調整型」の福田康夫と、「言行一致・中央突破型」の安倍晋三は性格も正反対だ。重なる点はほとんどない。安倍晋三が「自己免疫不全」の大腸炎が悪化して突然降板したため、ブルペンで肩慣らしもしないでボンヤリと野球を観戦していた福田康夫に急遽「リリーフ役」が回ってきた。福田康夫は「青天の霹靂」という意識であったろうが、反面「にんまりした」はずである。誰でも「総理・総裁になりたい」と思っているが実現する可能性は万に一つもない。それが「棚ボタ」で転がりこんできたのだから笑いが止まらない。以後の経緯は周知のとおりだ。政局優先の民主党、リーダーのいない民主党に振り回され「日銀副総裁」を決めることもできない。本人も「忸怩たる思い」であろう。
第1.安倍前首相を「首相特使」として活用する狙いを読み解く
4月17日付け日本経済新聞は「安倍前首相、19日に訪独」と題する以下の記事を掲載した。
「安倍前首相は19日から4日間の日程でドイツを訪問し、メルケル首相と会談する。福田首相の特使として首相の親書を手渡し、7月の主要国首脳会議(洞爺湖サミット)での協力を要請する。」「首相の特使」といえば、清和会最高顧問の森喜朗元首相が有名である。たびたび諸外国を訪問している。起訴休職中外務事務官佐藤優によれば「森喜朗はロシアのプーチン大統領と昵懇の間柄で信頼関係を築いている」由である。ロシアとの折衝は「森喜朗特使の線でいこう」ということになっているのかもしれぬ。
ドイツのメルケル首相は「中国のチベット人弾圧問題にいち早く抗議し、北京オリンピックの開会式出席を取りやめた」人権保守派の政治家である。ダライ・ラマ14世と会談して激励しているから、北京から嫌がられている。EU各国首脳への影響力も大きい。フランスのサルコジ大統領も「中国とドイツの板挟み」で右往左往しているのではなかろうか。安倍前首相は、我が国でダライ・ラマを支援する数少ない政治家の一人である。先般、ダライ・ラマが訪米途中に短時間立ち寄った時、安部夫人が面談した。安倍前首相とメルケル独首相は思想・信条が近い。そこで、首相特使として「安倍前首相に白羽の矢が立った」のかもしれぬ。その仕掛け人が福田首相自身か、安倍前首相と思想・信条が近い町村官房長官か、又は清和会最高顧問の森喜朗であるかは不明である。いずれにせよ、「安倍前首相を主流派に取り込む狙い」と見て間違いあるまい。福田康夫側から見ると「安倍前首相が麻生太郎と組んで反主流活動を活発化させることは好ましくない」というべきであるから、これを牽制すべく、「安倍前首相には首相特使という任務を背負ってもらおう」ということではないか。民主党に翻弄され、麻生太郎が「反主流色」を顕示しはじめている現在、福田政権は倒壊寸前である。安倍前首相が麻生太郎と組んで「反主流色」を強めたならば、政権維持が困難となる。ここは「麻生太郎を抑え込む」ためにも、安倍前首相を福田政権の協力者的立場に留めておく必要があるという狙いであろう。
第2.安倍前首相が「首相特使」を引き受けた背景を読み解く
「洞爺湖サミット」を成功させることは福田政権にとって最大の外交課題である。それ以上に、我が国の国際的地位を高めるために重要な政治課題である。であるから、安倍前首相が「我が国の総力を上げて成功させるべきだ。」と考え、「協力を惜しまない」と申し出た可能性はある。福田康夫としても、英独仏訪問を断念せざるを得ない状況に追い込まれているから、安倍前首相の申し出を「渡りに船」と考え、助太刀をお願いしたのかもしれぬ。
以上は「国益を第1と考える政治家」の基本的スタンスというべきであるから、不可解なことは何もない。小沢一郎の如く「おのれの野望を実現するためには、国益を損なう行為でも平然と行う」という方が異常であって、真面目な政治家は「国益第1」で考えるものだ。「それだけか?」という疑問がわく。政治家というのは「転んでも、ただでは起きない人種」というから、建前のウラに本音が潜んでいることがないとはいえない。
安倍前首相は、清和会に復帰するに当たり、さんざん悩んだはずである。「派閥を超えて、さらに自民・民主の枠を超えて活動すべきか?」、それとも「清和会に復帰して足場を固め、自民党最大派閥清和会を拠点にして政治的影響力を広めてゆくか?」と悩んだはずだ。派閥横断型組織を立ち上げたならば、清和会内安倍シンパ数十名が脱会するかもしれぬ。他の派閥でも、次々と分裂が始まるかもしれぬ。その場合、現在派閥が担っている「相互扶助的・運命共同体的」役割を誰が担うのか?自民党が分解するおそれがある。危険がいっぱいだ。という訳で、安倍前首相は「暴走行為を避け、安全運転で行こう」と決め、清和会に復帰したのではあるまいか。「当面、福田政権を支えながら、拠点を確保し拡大する路線」を選択したのではあるまいか。今回の「首相特使に指名されたこと」は想定の範囲内といえるかもしれぬ。
第3.福田政権は「森喜朗と安倍晋三の2頭立て馬車」に変質するか?
主流派(伊吹・古賀・谷垣・山崎・二階・高村・津島ほか)である派閥会長は森喜朗が抑え込む。反主流派に転換する危険性が高い(麻生・甘利・渡辺・中川昭一・菅・鳩山邦夫ほか)に対しては安倍晋三が影響力を行使する。清和会2大巨頭の役割分担で、自民党の混乱を鎮めるという戦略であろうか。
仮に、森喜朗と安倍晋三が役割分担して福田内閣を支えるならば、両者が福田政権の命運を握ることになる。福田康夫が森喜朗と安倍晋三の意向に反する政策を打ち出すことが困難となる。外国人参政権や人権擁護法など問題の多い法案は「塩漬け」となる。
当初、福田首相は「安倍色を一掃する」動きを示していた。公務員制度改革にも不熱心で「官僚依存体質」と揶揄された。道路特定財源の一般財源化問題でも、道路族の重鎮である古賀誠や二階俊博の意向を尊重していた。ところが、福田首相は最近、「公務員制度改革と道路特定財源の一般財源化」に熱意を見せ始めた。これらは安倍内閣の重要な政策の柱であった。現在は民主党が熱心である。福田康夫の急旋回は、「民主党の反対が怖い」という理由で、民主党路線に歩み寄ったと考えることもできる。その結果「安倍内閣の政策を継承する路線」に舵を切り替えたと見えるだけかもしれぬ。最近、福田総裁・総理実現に汗をかいた利権派の古賀誠、山崎拓及び二階俊博の表情から笑いが消えた。「殿(福田)、ご乱心」と怒っている様子でもある。安倍前首相が福田首相の出身派閥「清和会」で一定の影響力を持ち出したとする。福田内閣は徐々に「安倍前首相への依存を深める」と仮定する。そうなると、福田内閣は、安倍前首相に依存することなしには政権維持が困難となる。
第4.空席である「清和会・会長」は安倍晋三で決まりか?
目下、町村信孝と中川秀直が主導権を争って鼎立している。どちらかを会長職に就任させれば派閥の分裂は避けられない。という訳で、清和会は「3人の代表世話人による集団指導体制」で分裂の危機を回避した。この措置は緊急避難であって恒久的なものではないから、遠くない将来「会長」を決める必要がある。自民党最大派閥にしてキングメーカーである清和会の分裂を回避するためには、中川秀直と町村信孝が納得する「頭領」を担ぐ以外にない。「棟梁の資格要件」を具備する人物は安倍晋三だけである。安倍晋三以外の人物が「清和会・会長」に就任すれば、清和会の分裂は避けられない。
清和会が長い間「非主流派」で冷や飯を食ってきた原因は、代変わり時に紛争が起きて、造反者を出したからだ。その都度、派閥が弱体化した。1991年の加藤六月、1998年には亀井静香・平沼赳夫ほかが離脱した。派閥継承者選任を巡り意見が対立して分裂するのは清和会の伝統といってもよい。「派閥分裂」は清和会の心理的外傷体験となっている。だから、森喜朗は派閥の分裂を何よりも恐れ「3人の代表世話人制」という緊急避難措置で誤魔化したのだ。だが、派閥の運営を「暫定措置」で先延ばしすることは許されない。
安倍晋三に清和会会長を任せるためには、それなりに実績を積んでもらう必要がある。安倍晋三より当選回数の多い先輩が相当数いるから、彼らを納得させるためには実績が必要だ。安倍晋三は今後「首相特使」その他の重責を担わされるはずだ。そして実績を積めば「水が低きに流れるように」清和会会長安倍晋三が誕生する。清和会の分裂は回避される。以上が、清和会最高顧問森喜朗のシナリオであろう。もちろん、安倍晋三も森喜朗のシナリオを以心伝心で了解していると考えてよい。安倍晋三は清和会を固める一方、中川昭一元政調会長(伊吹派)、甘利明(経産大臣・山崎派)、菅義偉(選挙対策副委員長・前総務大臣・古賀派)ら各派閥の会長代行又は会長補佐との連携を強める。麻生太郎内閣の実現をめざす。さらに、自民党保守勢力を背負って、民主党鳩山幹事長、前原副代表(前代表)ほか民主党保守勢力との連携工作に動き出すことになろう。
第5.小泉元首相と安倍前首相の相克は起こるか?
小泉純一郎は先日、奥田碩前経団連会長をタニマチとする「自民・民主党有志の定例会」を立ち上げた。民主党が前原副代表、仙石由人等、自民党が小池百合子ほかである。17日の日本経済新聞によると、小泉純一郎は16日に大阪市内で講演し「参議院での福田首相問責決議案」を牽制する発言を行っている。小泉純一郎は休養十分、ガソリン満タンで準備も整ったから、徐々に活動を再開した訳である。次回衆議院選挙は「名実ともに天下分け目の決戦」となるから、「歌劇を楽しんでいる場合ではない」と感じ、生来の闘争本能が蘇ったのかもしれぬ。
安倍晋三は小泉元首相に重用されたけれども、思想・信条・生活感覚などで共有できる部分は少ない。だが、後継者に指名され、小泉が残した重荷を背負わされた苦い経験を持っている。小泉も「安倍が郵政造反組を次々と復党させた行為を苦々しく眺めていた」はずである。だが、人間というものは不思議な動物であって「憎い憎いも好きのうち」という言葉があるように一筋縄ではいかない。憎悪という感情は、憎悪する相手の存在を強く意識しているから生まれる。愛情の萌芽といってもよい。関係が希薄なところには愛情は芽生えない。濃密な関係だからこそ、憎悪が愛情に転換する。「いつも」とは保障できないが、時々は起こり得る。
小泉純一郎と安倍晋三の関係は「こんな奴とは別れたいと思いつつ、別れることができない男女関係」の如きものであろう。「他人が相手の悪口を言えばハラが立つ関係」と言い換えてもよい。という訳であるから、仕掛け人が「小泉と安倍の仲を裂いてみるか」と画策しても徒労に終わる。第三者が「告げ口した程度で壊れるヤワな関係」ではあるまい。思想・信条を超越した情念の結びつきであろう。だから、意見の相違は「どちらかが我慢する」ことで決定的対立を回避するはずだ。西洋では「まず言葉ありき」とか「我思うにゆえに我あり」などと理性第1主義的標語を唱える。我が国は「理性よりも情念を大事にする」民族である。「分かっちゃいるけど止められない」スーだラ節の世界だ。自民党の派閥は「思想・信条」で一致するものが結集した団体ではない。つまり理性的な集団ではなく情念を共有する集団なのだ。小池百合子はこれを称して「運命共同体」といった。麻生太郎とは思想・信条がまるで正反対の河野太郎が麻生派に属し「同族のヨシミ」で総裁候補麻生太郎を熱烈応援しているのも情念のなせる業(わざ)である。
という訳で、我が国では何回政界再編を行っても、「右から左まで」の思想・信条を有する国会議員の混成部隊とならざるをえない。情念でグループを構成する日本的精神構造が変わらない限り「保守新党」と「リベラル新党」に分けることはできない。日本型政治の原型は「豊臣が、徳川か」「薩長か、幕府か」という色分けであって、個人の政治意識で集団を構成するようにはなっていないのだ。「まず集団ありき」「情念で結合した派閥ありき」がすべての前提となる。日本型資本主義、日本型議会制民主主義は、西洋の制度に日本的情念を接ぎ木したものであるから、西洋社会から見ると「奇形」に見えてしまう。無理やり「西欧型」の組織を移植しても、我が国の体質に合わないから手術は失敗となる。欧米の「二大政党制を理想型」とみなして、無理やり導入する必要もない。
第6.自民と民主の「ガラガラポン」の政界再編について
安倍晋三の「心の盟友」である前原誠司副代表は政界再編について「自民党に吸収合併される形態の政界再編には乗れない。自民党も分裂し、民主党も分裂する形でなければ・・・」と述べている。民主党幹部の立場としては当然の意見だ。前原誠司は自民党側にも「旧守派の切り捨て」を迫っているのだ。民主党側でも「切り捨て」をやるから、自民党側でも「切り捨てをやれ」というのだ。
確かに、自民党と民主党を「保守勢力とリベラル勢力」に分け、それぞれ大合同することは理念的には正しいといえる。そうあって欲しいと思う。だが、現実の問題として、保守勢力とリベラルという思想・信条で色分けするのは「言うは易く、行うは難し」なのだ。自民党並びに民主党国会議員のほとんどが、黒白をつけにくい灰色なのだ。場面や課題で色を変えるカメレオンだ。
市町村の選挙民は「おらが市町村の代表」という感覚で選んでいる。都市の選挙民は「カッコイイ」とか、「当りが柔らかい」など、保守やリベラルと関係ないことで選んでいる。「支持政党なし」の有権者が増えるにつれ「風向き次第」で国会議員を選ぶ傾向がある。だから、保守とかリベラルといっても、選挙民と契約した立場ではない。国会議員各位の個人的な考えに過ぎない。だから、選挙民にとってはどちらでもよいのだ。一応、主義・思想がありそうに見えるのは、共産主義を信奉する共産党、池田大作を個人崇拝する公明党、そして労働組合の職域代表である社民党ではないか。小選挙区で投票数の過半数を狙う自民党や民主党にとって「保守やリベラル」を看板に掲げたら「落選間違いなし」だから争点化しずらいともいえる。
という訳で、来るべき政界再編は「保守」と「リベラル」では決まらない。民主党では情念に基づく「反小沢か」「親小沢か」が行動選択の基準になる。自民党では、森・福田・古賀・山崎・二階・青木などの「旧守派」対麻生・安倍・中川昭一・菅・甘利・渡邊・石原などの「構造改革派」が選択の基準となる。
加えて、戦争には「不確定要素」がつきまとうから、混乱の最中、何が起こるか分からない。何事も想定通りはいかないというべきだろう。さて、どうなるか。
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▼福田首相のロシア訪問と21世紀の国家戦略のあり方。ロシアは「我が国の自立的外交の切り札」になれるか?(じじ放談)
4月26・27日、福田首相は訪ロして、プーチン大統領並びにメドベージェフ次期大統領と会談する。同時に、5月連休中に予定していた英独仏3か国訪問は、国内政治情勢が緊迫するとの理由で中止した。(以上、4月16日付けニッケイネット)
一説によると「7月に開催される洞爺湖サミットの事前打ち合わせ」を兼ねた外遊計画であったというが、福田首相が「外務省の職務を代行」して、サミットの準備を行うのも如何なものか。英独仏は安倍前首相が訪問しているほか「特別のテーマもない」というべきであるから諸事多忙の折、出かけるまでもなかろう。それとも「内閣総辞職が早まる」ことを想定して、退陣前に外遊を済ませておきたいという個人的事情でもあったのかと疑わざるをえない。今回、福田首相がロシアへの訪問1本に絞ったことは正解である。福田内閣時代に日露平和条約の締結まで持ち込むことは困難であろうが、その足がかりをつけておくべきだと思う。筆者が「ロシアとの関係を強化し、日露平和条約を締結すべし」と主張するには理由がある。21世紀の日本が「自立的外交を行い、持続的経済発展を実現する」ためには、ロシアカードというのは欠かせない切り札なのだ。
戦後63年。我が国は「米国の被保護国」であった。下品な言葉でいえば、「米国のメカケ」であった。米国に囲われ、自由を制限された情けない身分であった。常に、御主人様の顔色を窺い御機嫌を損なわないよう気配りを怠ることができなかった。、御主人様の了解を得なければ「外出する」ことも、「自由に買い物をする」こともできない身分だったといっても過言ではない。中国との関係は、一言でいえば「被告人」であった。常に「南京事件」と「従軍慰安婦」を初めとする戦争犯罪を謝罪することを求められた。謝罪しなければ「交際してやらない」と脅迫された。田中角栄、村山富一、河野洋平以来、繰り返し繰り返し「戦争犯罪に対する謝罪」を繰り返してきた。のみならず、中国に対しては無償・有償の経済援助を3兆円以上も強要された。中国は我が国に対し謝罪を求め「被告人と自覚させる」ことで、無担保で莫大な金融支援を引き出すことができた。
戦後63年間。我が国は、米国から「被保護国扱い」され、中国からは「被告人扱い」された。屈辱の63年間であったといってよい。なぜ、かくも無残な国家になり果てたかというと、先の戦争で我が国が敗北したためである。有史以来2000年、初めて異民族の支配を受けた結果である。「真性保守」と自称する人々は「第二次世界大戦当時の我が国の指導者を免罪にしたい」という願望があるように見えるが同意できない。戦争に至った経緯がいかなるものであれ、異民族支配を被った敗戦の指導責任を免じるべきではない。戦争に負けた結果、我が国は63年間も「米国の保護国に堕ち」「中国の被告人に貶められた」訳である。大東亜戦争を指導し、我が国を敗戦に導いた指導者は「我が国の惨めな戦後」にも責任を負うべきなのだ。日本民族を滅亡の危機に陥れ、63年後の現在でも「我が国を半奴隷状態に陥れた」敗戦の指導責任をとってもらわねばならない。靖国神社に合祀され国民大衆の参拝を受けるなど「もってのほか」と言っておきたい。米国と中国は、我が国を「永遠に半奴隷状態に止めておきたい」と願っているはずだ。それが米国の、そして中国の国益にかなうからだ。彼らが「甘い顔をしてすり寄ってくる時」は、「何か魂胆があるのではないか?」と疑うべきだ。「日米同盟」とか「日中友好」とかのスローガンに騙されてはならない。
我が国が「独立国家」として、自立的国家経営を行うためには、「米国の被保護国を脱することと、中国の被告人を止めること」が大前提となる。それなくして、我が国の自立はありえない。我が国が素手で「核兵器で完全武装した米国や中国」と交渉しても話は進まない。交渉するためには「切り札」が必要である。
我が国にとっての「切り札」は、ロシア、インド、ブラジル、中東イスラムのカードである。特に、第二次世界大戦の後始末ができていないロシアは「切り札中の切り札」となり得る。スペートのエースとなり得る。ロシアは、現在でもなお米国と対抗できる核超大国である。資源も豊富だ。プーチンの独裁政権で治安も安定しつつある。政治形態としては「国家社会主義(ファシズム)であるが、共産党独裁の中国と比較すれば「まだマシ」だろう。
ロシアとは「北方領土問題」が未解決の懸案事項として残っているが、大局的に見れば本質的な問題ではない。戦後63年間、我が国とロシア(旧ソビエト連邦)は疎遠な関係であった。「腐れ縁がなかった」と言い換えてもよい。つまり、対等平等の相互利得(ウイン・ウイン)の関係を築ける可能性がある。ロシアは資源大国、我が国は高度先進技術国家であるから相互補完関係にある。利害が一致しやすい。ロシアも大西洋同盟(米・加・EU)との勢力圏争いで神経をすり減らしている。我が国を大西洋同盟との交渉の「切り札にしたい」との願望があるはずだ。日本とロシアが組むことで双方とも「切り札を持つ」ことができる。
「ロシアは狡猾な国家であるから信頼できない」という意見がある。「ロシアとの関係は深めるべきではない」という意見もある。筆者の見立てでは、このような意見の持ち主は「日本を米国の被保護国にとどめておきたい」と欲している者か、又は「日本を中国の被告人にとどめておきたい」と欲している者かのいずれかだと思う。つまり、我が国を永遠に「米国と中国の半奴隷状態に留めおきたい」とする米中の手先ではないかと思う。
「ロシアは寝首をかくかもしれず信頼できない」というのは事実である。21世紀の世界は、世界中の国家が「いずれ寝首をかくかもしれない」とみなすべきなのだ。ロシアだけが特殊ではない。米国も中国も、そして親愛なるインドも「寝首をかく」かもしれぬ覚悟をして交際すべきなのだ。甘っちょろい幻想は捨てるべきだ。
21世紀の世界は「新帝国主義の時代」となるから、時々の都合で「敵と味方が入れ替わる」ことが日常茶飯事となると想定すべきなのだ。「合従連衡」が常識となる時代であるから、「親日」とか「反日」という言葉は意味をなさない。だから、「商品をそろえて、なるべく多様なお客さんを相手にする」商売を心がけるべきだ。「お得意さんも、一見(いちげん)さんも」平等に親しく接するべきである。お客をえり好みする場合ではない。多様なお客さんと交わっておれば、景気の変動にも耐えることができる。
07年度、日露貿易は200億ドルを突破した。倍々ゲームで急増中である。さらに拡大して、米国や中国と同程度まで拡大することが望ましい。日露平和条約を締結できれば、ロシア太平洋艦隊やロシア空軍との合同軍事演習を企画してもよい。以上の条件が整った時、日米関係と日中関係は構造的転換を迫られる。米国は我が国を「妾(めかけ)扱い」にすることができなくなる。中国は我が国を「被告人よばわり」することができなくなる。以上、我が国にとっての「ロシアカード」は、我が国が名実ともに独立国家となるために必要不可欠な手札なのだ。ロシアにとっての「日本カード」も、ロシアが大西洋同盟の圧力に対抗する上で必要不可欠なものであろう。特に、英独仏などとの交渉事で優位に立つための「手札」に使える。4月26日から27日に福田首相が訪露する。福田首相の在任期間も長くはないから多くを期待することはできない。ただ、「次へのステップ」をつくってくれればよい。そして、次の内閣が「日露平和条約締結をめざす」という段取りだ。戦争に負け、ひとたび異民族支配を受けたならば、独立国家として再生するのが如何に困難かという証拠だ。我が国を敗戦に導いた大東亜戦争中の指導者の霊に小言の一つでもいいたくなる。先祖が国策を誤ったおかげで子孫は苦労すると。