年内政治スケジュールを発表いたします。 (罵愚と話そう) | 日本のお姉さん

年内政治スケジュールを発表いたします。 (罵愚と話そう)

ようちゃん、おすすめ記事。↓

▼年内政治スケジュールを発表いたします。 (罵愚と話そう)
内閣総理大臣の指導力というのは、閣僚のくびをすげかえる人事権と衆議院の解散権によってうらづけられている。ヘラへラ笑っているばかりで、なんにもしない福田総理は国民の支持率20%台に突入目前で、おさき真っ暗が、だれの目にもはっきりとしてきた。この状況で、内閣改造も衆院解散もできないとなると、このさきのスケジュールは読めてくるわけで、総辞職して9月の党大会で麻生さんが後継総裁の指名をうけて、総選挙。民主党も9月に党大会があるんだが、こちらは小沢一郎の続投で、選挙戦突入だ。どうやら、年内の政治スケジュ スケジュールは読めてくるわけで、総辞職して9月の党大会で麻生さんが後継総裁の指名をうけて、総選挙。民主党も9月に党大会があるんだが、こちらは小沢一郎の続投で、選挙戦突入だ。どうやら、年内の政治スケジュールの大まかなところは、このあたりできまりだと思う。

さらにつけくわえれば、選挙結果にかかわらず、選挙後に小沢一郎は辞任して、民主党はあたらしい党首で再出発なんだろうが、こちらの新党首は予想がつかない。選挙結果といきがかりから政界再編の可能性も、もちろんちいさくはないのだが、こればかりは偶然や密室の談合が複雑にからまっていて、素人の想像力を超える。
ただし、わたしたち素人が〝からだのみ〟する政界再編成は、それをはばむ左右両極の守旧派によって…もうちょっと具体的には民主党の菅直人や旧社会党や社民党の残党など、自民党ではいまの党四役に代表される道路族、社労族、郵政族、農政族などの族議員は水面下で暗躍するだろうから、おそらく理想どおりにはならないだろう。政治理念と政策によって、政治勢力が区画される時代は、永久に来ないのかもしれない。
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 ▼真日本主義・政教分離原則 (罵愚と話そう)
「そのまんま東国原知事を出演させる「オーラの泉」の危うさ」について
あるいは、まったく反対に、現在、あるいは近未来の日本は政治や行政や司法の根底となる部分に宗教的、民族文化的な価値観が求められているのかもしれない。

中世のヨーロッパのキリスト教社会では領主や王様の領土、領民に教会の牧師さまが課税したり使役した。教会が王権に介入したわけだ。絶対王政の時代にうつり支配権を回復した王様がつくったのが政教分離原則だった。市民革命によって政権は革命政府に移っても、政教分離原則は、かれらにも便利で利用価値があったから、引き継がれた。事情は社会主義革命が起きた地域でもおなじだった。政教分離原則は、民主主義のたまものではない。中世から引き継いだものだ。日本人が誤解している政教分離原則の誕生秘話だ。

つまり、政教分離原則はキリスト教社会が生み出した、宗教からの政治介入の防衛策だった。日本の歴史でも、たとえば仏教の圧力を排除しようとして、遷都したようなことがあったが、目的はおなじだ。畢竟、教徒の支持を得ようとすれば、宗教は政治に介入して支配しようとする。政治の側からすれば、未然防止策として政教分離原則は便利な道具だ。
55年体制とか戦後民主主義と呼ばれる、戦後の日本を支配してきた政治体制の外見は、自由主義と社会主義の対立構造だったのだが、そのどちらもヨーロッパのキリスト教徒の発明品だったから、双方が政教分離原則を共通ルールとして遵守していた。戦後の日教組教育では、ここの経過をくわしく説明すると、大部分が非キリスト教徒である日本人を「祈伏」(しゃくふく)できないから〝はじめに政教分離原則ありき〟で、ここからさきに疑問をもつことを禁止する教育方法を採用した。

ちょっと脱線するが子供の「なぜ、ひとをころしちゃぁいけないの?」の疑問に答えられない大人社会が話題になったことがあるが、日教組教育の現場としての教室では、おなじように「なぜ平等なの?」「なぜ自由なの?」「なぜ人権なの?」などの疑問は禁句だ。こんな利発な質問をして、日教組の組合員を困らせる子供は、教室から抹殺される。戦後民主主義とは原理主義的に、民主主義を祭壇にまつりあげて成立している。民主主義は神聖にして犯すべからずだ。戦後教育が二代、三と重なって、教師や校長先生が戦後世代になってしまえば、日教組の組織そのものは崩壊しても、宗教的信念としての戦後民主主義は再生産されて健在だ。反対に、疑問をもつ利発な子供は根絶された。

ともあれ、キリスト教社会の政治権力にとっては必需品の政教分離原則なんだが、その日本への適用となると、話はだいぶ変わってくる。もちろん、ターゲットが新興宗教だったり、仏教だったりすれば、それなりに意義はあるのだろうが、戦後民主主義がえらぶターゲットはつねに 皇室だ。神道に政教分離原則を適用しようとするから、戦後民主主義の政教分離原則は〝いかがわしいもの〟になる。まず最初に、いままで話してきたようにキリスト教社会での政教分離原則は、宗教から政治への干渉を禁止する。ところが、この国では、神道の教祖さまである 皇室が、はやくから政治的権力への関心を捨ててしまっている。需要がないのに無理やり供給する。必要がないのに無理やり発明する。のっけから無理があるのだ。

明治憲法下の皇室尊崇は、宗教側からの政治介入ではなく、権力側からの宗教利用だ。国家神道がその代表的な実例だが、あれは宗教が政治に働きかけたものではなくて、政治権力が宗教を新設して利用したものだ。
まったくおなじことが、戦後もつづいていて、最近の話題の映画『靖国 YASUKUNI』の話題にしても、それを製作者側からみるにしても、街宣右翼の側からみるにしても、かれらの行動は靖国神社に利用されたものではなくて、反対に靖国神社を利用したものだ。宗教が政治に干渉しているのではなくて、政治勢力による宗教の政治的利用だ。日本の政教分離原則は、キリスト教徒のそれとは、主客が転倒している。結論として、平和憲法に記載されている政教分離原則は、この国の政治風土のなかでは有害無実だ。

どうして、こういうことが起きたかを、もうすこし説明すると、この国の特殊な成り立ちにいきつく。バチカンの法王は、キリスト様とは縁もゆかりもないひとりの信者にすぎないし、ヨーロッパの王様は、国民としての民族の成立にはまったく関係ない征服者の子孫にすぎない。宗教と王室と民族のあいだには、相互にまったく他人の関係なんだな。王様の代わりに民主主義的な、あるいは社会主義的な革命政権が居座っても、この無関係の関係は変わらない。似たような状況は、支那にもあって、つぎつぎに興っては倒される支那の統一王朝は、それが現在の共産党政権になっても、宗教や民族とは一致しない。革命思想というところでは、キリスト教の社会と支那は共通している。政権は宗教に統治権を委任されたという仮想現実のなかで…あるいは社会主義の場合はその政治思想によって正統性を確保していて、実社会を支配する統治政権としては宗教からの干渉を排除する必要があるから政教分離原則を手ばなせない。

たとえばイスラエルのように、民族そのものが神から選ばれた選民思想のパラドックスとか、アラブのようにマホメットの子孫によって統治されているというフィクションが成立する国では、政教分離の必要はうすらぐ。政治が宗教の影響をうけながらも、政策の立案や選択を民主的に実施することは可能だ。これらの国では…かつての敗戦までの日本でも、それを模索したり、採用している。敗戦後の日本は、ふたつの民主主義によって分割統治された。キリスト教に支配された自由主義的な民主主義と、マルキシズムに支配された社会主義的な民主主義だった。ふたつをあわせて、あるいは分割状況そのものを戦後民主主義と呼べば、戦後民主主義が政教分離原則を必要としていたのである。この国の長い歴史のなかで摂関政治や院政や幕府の時代があって、そのつど政治権力は権力者に委任されたが、政治的権威は皇室から離れることはなかった。いまの民主主義政治も、かつての摂政・関白や征夷大将軍とおなじ、一時的に権力を委任された政治制度だと考えれば、政教分離原則は無用の長物となる。

政治や経済の浮沈とは別の次元で、国民が精神的安定や余裕をものにすれば、民主主義を絶対的な政治制度だなんて誤解しないで、客観的に評価する時代が到来するんだと思う。つまり、ここで冒頭の文章にもどるんだが、現在、あるいは近未来の日本は政治や行政や司法の根底となる部分に宗教的、民族文化的な価値観が求められているのかもしれない。
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ようちゃんの意見。↓
★「聖灰の暗号上下」 帚木 蓬生(ははき・ほうせい)著  新潮社 2007年7月発行 各¥1,500
医師でもある作者の、この本はフランスのローマ法王とフランスのルイ8世との共同謀議で、行われたカタリ派キリスト教徒の 酷異審判とその残虐性を 余すところ無く書いてる。 日本の大学教授がローマ法王により十字軍遠征の 実際を研究課題としてフランスへ国費で短期留学を認められ、ふとしたことからサラセン帝国への遠征。エルサレム奪還遠征と最後の カタリ派という南仏のレモン公爵家の地域に信仰されてるキリスト教カタリ派への 想像を絶する残虐で非道な行為の 実録文書を 次々に発見して その解説を書いてる。オキシタント語と言うピレー山脈のこの南仏独自の言語と、フランス語、ラテン語の 流暢な主人公が公立の図書館の700年前の資料の発見から、 次々に焚書を逃れて隠されていた この異端審判の全貌を記した記録を手に入れる物語ですが・・。」キリストの磔刑や火あぶりとは丸で 異なる。
1本の棒に5人単位で 両手・両足を海老上に 屈ませて縛り付けて、 その間に藁や薪を積み上げて火を放つ。 それも、全体で 何時も数百人単位で、火あぶりを行っていた。それも1200年代から1300年代の前半まで
実に1世紀に渡って・・・。昔のフランス領土は 3つに別れていた。英国領とレモン公爵領と フランス王国領であった。
このローマ法王は相当にナチスなど問題では無い!拷問道具も想像を 絶する。こういう聖職者て悪魔そのものです。
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日本のお姉さんの意見。↓

カトリックは、聖書を一般人に読ませなかったし、

聖書を信じている本物のキリスト教徒を迫害して

殺していたのです。魔女裁判などで、殺されて

いたのは、本物のクリスチャンです。カトリックは、

宗教というより、政治集団です。

ひとつの国家です。神のひとり子で、救い主だとは、

信じていませんよ。カトリックは、世界中のカトリック教会から

献金を強制的に集めているし、献金しない教会は破門

していますよ。ヨーロッパのカトリックは、マリヤ崇拝を

している偶像礼拝の宗教です。聖書をそのまま信じている

教会は、ヨーロッパでも少ないのです。

日本人は、カトリックがキリスト教で、聖書をそのまま信じる

教会は変な教会だと思っているけど、イギリスの

清教徒と、アメリカのファンダメンタルな教会が本当の

聖書どおりの教会で、ちゃんと聖書の預言も信じている

のですよ。カトリックの中には、ちゃんと聖書どおりに信じて

いるクリスチャンもいるにはいるけど、ほとんどのカトリック

教会は、政治団体・慈善団体みたいな社会的な活動を

している超国家的な宗教組織です。

イスラム過激派のアルカイダなども、超国家的な

宗教組織です。

宗教が違うからといって、迫害したり殺したりするのは反対

です。自由と平等が崇高な観念であるのは、間違いない。

チベット人だって、漢人が嫌いなのは分かりますが、

漢人のクリスチャンが宣教師をチベットに派遣したら殺して

しまうので、チベット人だって他宗教を迫害しているわけです。

イスラエルだって、メシアニックジューを迫害しているし、

イスラム教の国では、クリスチャンは教会を建てようとする

妨害される。逆に、民主的なアメリカでは、イスラム教徒は

自由にイスラム教の寺院を建てることができる。

民主的な国では宗教の自由があるが、チュウゴクでは、

チベット人は宗教の自由は無いのでチベット人が

怒っているわけです。宗教活動はすべて政府の管理の下に

行われる。宗教の指導者は共産党員であり、

給料もチュウゴク政府からくるわけです。チベット人は、

それは、宗教ではないと言っているわけです。

宗教や思想がみんなと(大勢と)違うからと言って、簡単に

人を迫害したり殺す国は、民主的では無い国です。

アメリカから戦後与えられた民主主義であっても、今後も

日本は自由と平等のある民主的な国であるべきです。

近未来の日本が政治や行政や司法の根底となる部分に

宗教的、民族文化的な価値観が求められている国に

なっているとしたら、国が決めた宗教や民族的価値観に

そぐわない宗教を信じている人は、やっぱり迫害されるの?