頂門の一針 マケイン氏の演説(上)(中)
マケイン氏の演説(上)
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平井 修一
平井の注:私は米国の共和党大統領候補、ジョン・マケイン
氏について、「ベトナム戦争を戦い、捕虜として煉獄に捕わ
れた後に生還し、国民の崇敬を集めており、アジアにおける
信頼すべきパートナーは日本であると、と主張している
議員」というくらいしか知らない。
マスメディアもそれにプラスして「いささか民主党よりだ」と
いうくらいしかどうも報道していないようである。
マケイン氏とは何者か、彼の演説を翻訳する。
(こんなことはマスメディアがやってくれればいいが、一銭の
銭にもならないからちっともやってくれない。NO味噌で体力
もない私が肩こりと腱鞘炎を招来しながら、本来休養すべ
き土日を辞書と首っ引きで英文和訳と格闘するなんて、
ちと理不尽ではあるまいか。
え? 若いときに暴れた罪の償い? ちっとは日本のため
にに尽くせ?
うーん、まあ、それは・・・そう言われればそうだけれど・・・I
need your help! って言いたい気分もどうぞご理解いただき
たいと思う今日この頃です。なお、翻訳していたらマケイン氏
が少々、私に乗り移ってきたので、カッコ内にその言葉を
追加しています)
・・・・
アメリカに対する勤め:ジャクソンビルでの演説。
FL:フロリダ州 2008年4月3日。
(お招きいただきスピーチの機会を設けていただいたこと、
またご紹介いただき)ありがとうございます。
思うに私の人生を振り返りますと、「人生の重要な時」(いわ
ゆる「人生の時という時」)には、私は決まった住所がありま
せんでした(住所不定みたいなものです:笑)。
ここ、フロリダ州のジャクソンビルは、どこよりも私の故郷に
近い土地です。私が出征する前に、私の家族はここで暮ら
していましたし、私が戦争の後、帰って来た街でもあります。
私たちは1974年に再びここジャクソンビルで2年間暮らし
ました。そのとき、私はセシルフィールド空軍基地の
予備役、VA 174の司令副長官、次いで司令長官でした。
ということで、 私がジャクソンビルに帰るときは
いつでも(戦地からの)「帰還」「生還」のような感じがして
います。
ここは私の(北ベトナムでの捕虜生活を含む)予想外の
長い海外任務の間、私にとって格別な土地でした。
この間、ジャクソンビルの善き人々は私が不在中の家族に
気を配ってくれました。
私がいない間、フロリダ州の友人、そしてオレンジパークの
隣人は私の家族を気遣ってくれ、家族は常にその恩恵を
受けていました。
私がヴェトナムにいる間、オレンジパークの我々の隣人の
多くは海軍家族で、とても親切で寛大でした。彼らが
主体となって私の家族を支えてくれました。
我が家の(屋根の補修やペンキ塗りなどの)メンテナンスを
手伝ってくれましたし、私の子供たちをスポーツ観戦へ
連れて行ってもくれました。
必要な助言と支援を提供してくれ、私が生還できるまで、
物心両面にわたり私の家族を支援してくれました。
彼らは私と家族にとってまさに(大きな屋根で庇護してくれ
た)大家族以外の何物でもありませんでした。そして彼ら
の愛情と気配りは、私たちにとって天の恵みであったと
ともに、彼らの素晴らしい人格、品格を示すものでした。
私が最初にヴェトナムに発ったとき、娘のシドニーは
赤ちゃんで、彼女は私を知りませんでしたし、私も同様に
娘を知りませんでした。数年後に戻ると明るくて陽気な
6才の少女が私を待っていたのです。
同じように私もまた、家族と離れた時と、数年後に再会した
ときでは、実は異なる人格でした。すべての面で変わった
というのではないのですが、重要な面で私は変わりました。
戦争という、自我と彼我の区別、(ルールの違いといった)
垣根を突破する極限状況のなかで、(生死、価値観を
含めた)あらゆるものごとが変わっていきます。戦争は
情け容赦のない「掃討戦」です。
偽り、見せかけ、自己欺瞞(それは当たり前)という
ジャングルを通らないと戦争の真実を見つけることはでき
ません。醜い真実もありますし、この上なく美しい真実も
あります。
我々が想像もしていなかったところに美徳を見つけたり、
反対に重大な不正を見たり。そこには他のいかなる前人の
経験もありません。
(戦争が平和のためであるのかどうか?)兵士に考えられる
限りの恐怖とヒロイズムを体験をさせることが平和をもたらす
のかどうか? それは戦争の並み外れた皮肉、アイロニー、
矛盾というしかありません。普通の人生なら一生かかって
知るような体験を短い間に思い知らされるのが戦争だと
私は強烈に感じました。
愛するものを失うと、誰でも「深い悲しみ」というものがどの
ようなものか知ります。そして、子供に人生を捧げるという
大きな喜びがどのようなものかも分かります。
軍人は、「大きな喪失と大きな喜びが同じ瞬間に起こる」
とき、どのような感じがするかについて分かっています。
その痛烈な衝撃は人を変えてしまいます。
(私も変わりました)
ヴェトナムは、私が人生で最も緊密な友情を築いたところ
で、それらの友人の何人かは彼らがとても愛した国に
決して生還できませんでした。私は戦争をとことん嫌悪します。
それは人間に起こり得る最悪のものではないかもしれません、
しかし、それはすべての釈明やら弁明を越えて「悲惨」その
ものです。戦う勇気もある、目的の崇さもある・・・
しかし私は戦争を美化することはできません。たとえどんな
に戦果が得られたとしても、軍人が最も強く心に刻まれの
はとてつもない「喪失感」です。
愚かな者と詐欺師だけが、戦争の情け容赦ない、
無慈悲で、残酷な現実を「いい思い出」などと感傷的に
振り返るです。しかし緊急の武力発動の必要が迫り、その
血の代償を国民に要求するとき、戦争で失うすべての
ために我々は再び三度、涙を流さなければならないの
です。(つづく)
マケイン氏の演説(中)
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平井 修一
アメリカに対する勤め:ジャクソンビルでの演説。
FL:フロリダ州 2008年4月3日。
(承前)
しかし、戦争の動機がいかに輝かしくても、それは戦争と
はどういうものかを定義するものではありません。戦争目的
が純粋であろうが、価値があるかどうかに関係なく、
戦争は我々の理想とはかけ離れたものです。
戦争には、それ自身の真実があります。もしも戦争のなか
で栄光と言えるものが見つかるとすれば、それは全く
異なる概念です。
それは追い詰められた、血まみれで、泥だらけの栄光で、
無情と忍耐を伴っています。乗り越えられないほどの
苦しみ、惨めさ、虐待という、ひどい退廃の中で持続するのは、
品格と愛です。
我々が「我々自身より大きい何ものかに属している」という
のは大きな発見です。
戦争の緊張、混沌、破壊、衝撃の中で、兵士は任務と軍紀
に拘束されます。彼らの義務と忠誠を捧げる対象は、彼ら
の祖国です。彼らは神に対する信仰の中に慰めを発見
します。
しかし、彼らの最も強い忠誠心、強固な絆はなにによるのか。
ともに戦う僚友への忠節であり、祖国を愛することとはその
国の人々を愛することであり、国家の理想に奉じることなの
だと理解し、やがて彼らは脱皮(変身)するのです。
戦争が終われば、兵士は戦争目的の成功に関して最も
大きい評価を得ますが、失敗の責任にはあまり問われま
せん。勝敗はともかくも、兵士は勝利へ向けての苦しみに
ついてのすべてのロマンスとノスタルジアを自分のものと
したいと思うのです。
その過酷な試練から、彼らはわずかな名誉と尊厳を得るの
です。彼らが戦争の凶暴性と損失に耐え忍び、(弾丸の
中で)彼らと並んで立っていた戦友たちから「やつは大した
男だよ、やつは男さ」と評価されたという名誉です。
これが戦争と、それにかかわる名誉と勇気、それについ
ての(私なりの苦い)真実です。私が(ヴェトナムへ)出征
する前は、その戦争の意味は私にとって本当に不明瞭
でした。
(何のための戦争なのかと言う)私の前に出征した兵士の
言葉は言語が貧弱で意味するところは不明瞭、それぞれ
のその場の経験で永遠に書き換えられているような
(わけが分からない)話ばかりでした。
海軍士官学校は、生き生きとした忠実・忠誠、勇気の事例を
もって私に戦争の真実を教えようとしました。しかし私は、
(第2次世界大戦を戦った)私の父の範囲内で戦争を
解釈しました。即ち、「栄光は戦争の目標だが、結局は
それは虚栄心、身勝手な思いでしかなかった」。
私は(出征により)真実を学びました。即ち、己を越えた
ところに大きな任務があるのです。栄光は「思い上がり」
でも「勇猛」のための装飾でもありません。
それは強さ、賢さ、大胆さに対する栄誉でもありません。
栄光は(国に殉ずるといった)己を越えた無私の偉大なる
もの、己を越えた無私の動機、目的、信頼する人々への
誠実な行為に対する名誉です。不運、事故、屈辱に見舞
われたとしても栄光は不滅です。
自分自身の目的や評判、あるいは個人の名誉ために
頑張るということは良いことですが、それ以上ではありま
せん。共通のゴールのために仲間と頑張り、耐え忍ぶこ
とは、最後により大きな満足を得るだけでなく、あなたが
知らなかったかもしれない人生についての何か教えて
くれるかもしれませんし、思いがけずに不屈の精神が身に
宿り、あなたの人生の方向性に影響することもあるでしょう。
私はかつて、自分はどんな艱難辛苦にも十分耐えられると
思っていましたが、捕虜収容所で、そうではなかった、
ということを知りました。私は私を捕えた者を混乱させる
ために、あらゆる個人の資質を利用しようとしましたが、
結局は不十分でした。
しかし、私が持久力の限界に来たとき、戦友と呼べることを
誇りに思う男たちが私を取り戻しに来てくれ、私を介抱して、
再び戦えるようにしてくれました。
私はそれまで以上に「回りに生かされている」ことを知りま
した。それが私を成長させました。我々は(ヴェトナムに
おいて)我々のアイデンティティを消したかった勢力と出会い、
「我々は自由であり、堅く団結しており、そして忍従ではなく、
神の恵みによって我々は自由を取り戻す」を大義に立ち
上がりました。
私は、収監した勢力に対する組織化された抵抗の一端を
担ったに過ぎませんが、そのときほど強力に自由と、
自分は男なんだと感じたことはありませんでした。(つづく)