竹島「密約」のあった時代 渡部亮次郎
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竹島「密約」のあった時代
━━━━━━━━━━━━渡部亮次郎
韓国人のビジネスマンが日本語で「竹島密約」という本を
書き7月を目途 に東京の出版社「草思社」から出版する。
韓国が「独島」と称して両国 間で領有争いが収まらない
「竹島」について「共に領有を主張しない」 という密約が
あったことを喝破する本である。
日本政府代表を務めた佐藤内閣国務大臣河野一郎。
その河野氏を担当し て事情を知る記者は私1人になって
しまった。著者ロー・ダニエルさん の突然の来訪を受けて、
事実を改めて回想する次第。7日夜、江東区内 で一献
酌み交わす予定である。
ダニエルさんの書き上げた本の「プロローグ」を基に話を
進める。
「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月に「日韓基本条約」
が正式に締結される5ヶ月前、河野一郎国務大臣と
丁一権韓国国務総理の間に結ばれた秘密の取り決め
を指す。公式に明らかにされた事は無い。
端的に言えば、日韓の国交正常化のために領土紛争を
永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。
直接かかわったのは日本では河野一郎、宇野宗佑衆院
議員(後に総理)、嶋元謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、
韓国では丁一権、金鐘珞(金鐘泌元韓国総理の兄)。
さらに密約を了承した佐藤栄作総理大臣と朴正煕大統領の
計7氏。この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘
元総理大臣で、2年前の2006年6月のことだったという。
ダニエル氏は驚きを以って裏づけ取材に奔走、
事実を確認した。
いくら当時の河野番でも、宇野氏と毎晩のように呑んだ仲の
私でも知ら されなかったこと。おそらく中曽根氏も後に総理
になったが故に知った 事実であったろう。「河野派を除名
する」と河野氏に嫌われていたのに、河野氏の急死に
救われた経緯があるから。
密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に
第14代大統領に就任した金泳三氏が「倭(日本)の奴らの
悪い行儀を直す」と公言して「わが領土独島」に新たな
接岸施設を作り「密約」を無視して問題は今日に至る。
元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ
講和条約では竹島 ・独島は、日本が韓国に返還すべき
領有権の中に含まれていなかった。
これを外交の「敗北」と受け取った当時の李承晩大統領は
日本では「李 ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、
その領域の中に竹島 を入れた。ここから竹島・独島の
領有権争いが本格化した。
しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって
政権を奪取し た朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治
維新」をなすためには両国関 係の正常化と日本からの
資金導入は不可避だった。
そのためには韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない
朴氏と朴 氏の姪の夫でもある金鐘泌(韓国中央情報部長)は
新しい日韓外交の幕を 開けた。そこでまず1962(昭和37)年
11月に池田勇人内閣の外務大臣大平正芳氏と金鐘泌氏と
の間に「大平・金メモ」が作成され、残るは竹島・独島の
帰属問題となった。
とはいえ金鐘泌の失脚、日本側の窓口大野伴睦自民党
副総裁の死去で交 渉のエンジンは冷えた。そこで登場する
のが河野一郎氏である。池田総理の懇願で大野後継を受諾。
代行は元秘書で衆院議員に当選してきたばかりの
宇野宗佑氏を指名。
韓国側は金に代わって兄の金鐘珞氏(韓一銀行常務)が
宇野氏のパートナ ーとなった。彼が朴大統領には革命同志
であり且つ日本で教育を受けた 日本通であったからである。
この間実質的に両者の連絡役を務めたのが 当時、読売
新聞ソウル特派員だった嶋元謙郎氏である。
嶋本氏は植民地統治時代に「京城日報」の編集長だった
父の下でソウルで 中学校まで通った韓国通だったから
朴政権の日本側コンサルタント役を 務め朴大統領の側近
からは「VIP」と称されていた。このことは河野氏も 認めていた。
宇野、鐘珞両氏の作業は順調に進み、1965(昭和40)年
1月11日、ソウルの 某財閥オーナーの邸で河野一郎作成に
かかる「メモ」が宇野氏から丁一 権国務総理に渡された。
嶋元氏は側でメモを取っていた。
文書は直ちに朴大統領に届けられ裁可を得た。宇野氏は
嶋元氏を伴って 直ちにソウル南部の龍山にある米軍基地
から特別回線を使って河野氏に 報告。
河野氏はそれをワシントン滞在中の佐藤総理に報告した。
「竹島密約」 成立の瞬間、佐藤・ジョンソン声明が発表され
る1日前だった。しかし佐 藤氏は間もなく河野氏を内閣から
追放した。
日韓基本条約は6月22日に調印されたが河野氏は7月8日に
腹部大動脈瘤破 裂のため急死した。67歳だった。韓国では
朴大統領が部下に射殺された。その後、竹島密約文書を
自宅に保管していた金鐘珞氏は身の危険を感じる事件の
ために1980年5月17日に連行される前にメモを燃やした。
メモの作成を日本側では逐一、椎名悦三郎外務大臣に
報告されていたが 韓国側では外務長官は勿論駐日大使に
も知らさなかった。だから文書は 日本にしか残っていない
わけだ。しかも竹島・独島の置かれた政治的現状を見れば
日韓間には「密約を交わせる時代」があった、と悲観的に
回顧する以外に無いのは残念だ。
2008・04・05
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民主党は本当に勝ったのか
━━━━━━━━━━━━花岡 信昭
ガソリン税の暫定税率を巡る与野党折衝が決裂、4月から
ガソリンの値 段が下がった。ここまでは「ガソリン値下げ」を
政局の最大の争点とし てきた民主党の「勝利」のように受け
取られているが、本当にそうなの か。税制を巡る本格的な
「改革論」での勝負が迫られている。
国会攻防の次元で言えば、ガソリン税の暫定税率維持を
含めた予算関連 法案は4月29日に参院送付後60日を
迎え、衆院での再議決が可能になる。民主党は「いったん
下げたものを上げるのは政治的には不可能」として、この
まま暫定税率廃止で突き進む構えだが、そうなると
2兆6000億円の歳入欠陥が生じ、地方財政にも多大な
影響が及ぶことは言われている通りである。
再議決規定は憲法59条で定められている。民主党は
再議決を強行したら、首相問責決議案を参院で可決すると
しているが、問責決議案は憲法にも国会法にも規定はない。
法的拘束力はゼロなのだ。
政治論として、問責決議を受けた首相が参院の審議に出る
ことは許されない、だから政権は立ち往生する、というのが
民主党側の思惑だ。
憲法で定められた規定よりも、法的になんら裏付けのない問責
決議が優 先されるのかどうか。ここは、ガソリン再値上げを
巡る是非論をわきに 置いて、政治のスジ論から考え直す
必要がありそうだ。
この先、怖いものない自民、分裂を危惧する民主,福田首相の
周辺や自民党幹部らは「粛々と憲法の規定を踏まえて対応
すればいい」としている。おそらくは、4月末に与党単独可決と
いうかたちで、衆院本会議での再議決が行われるだろう。
国民新党は暫定税率維持に理解を示しているから、野党内
での対応の乱れが出るかもしれない。
国会はまた混乱することになるが、予算は既に成立しており、
関連法案 も成立するとなれば、与党側としてはもう怖い
ものはない。
極端な話、そのまま何もできずに6月15日の通常国会会期
切れを迎える ことになっても、国政は著しく停滞するが、
福田政権は安泰だ。いずれ かの時点で内閣改造をやって、
国民的人気のある実力者や若手論客らを 閣内に取り込むと
いったイメージチェンジでも図れば、内閣支持率をな んとか
維持できるかもしれない。
前回コラムでも触れたように、福田首相がいよいよ支持率
低下でバンザ イするようなら、解散をせずに総裁選を行う
という手もある。民主党と しては、そういう展開だと困る
ことになる。
麻生太郎、与謝野馨、谷垣禎一、小池百合子各氏らの
名前が早くも浮上 しており、そうした顔ぶれで総裁選を
やったら、国民の関心がそこに集 中する。
そう考えると、「ガソリン政局」は民主党が勝ったと見るのは
早計で、 むしろ、9月代表選挙を控えた民主党の党内事情
のほうがより深刻な要 素を秘めている。
上述のような展開で自民党総裁選が行われれば、自民党
のパワーは強化 されるが、民主党代表選の場合、経過に
よっては党分裂の引き金になり かねないのだ。そこが
政局の「アヤ」というものである。
首相提案は年末の税制改正を見据えている
いわれてきた「4月危機」突入後、政治攻防は新たな
ステージを迎えた といっていい。そのキーポイントは福田
首相が3月27日に突然、発表し た「7項目提案」に隠さ
れている。
町村官房長官らが同席せず、伊吹幹事長が「党の了承を
得たものではな い」と述べた記者会見だったが、この
「7項目」はだれがどういう経緯 で作成したのか、詳細は
依然としてナゾだ。
「7項目」の第1項目は、「20年度歳入法案の年度内成立」と
なってい たから、これは実現できないまま消えた。
したがって、この首相提案が いまだに生きているのかどうか
は判然としない。だが、「道路特定財源制度は今年の税制
抜本改正時に廃止し、21年度から一般財源化」という項目の
持つ意味合いを軽視すべきではない。
「一般財源化」は民主党の主張でもあった。民主党がここで
首相提案に 乗っていたら、その後の展開はまた違ったもの
になったのだろうが、
「ガソリン値下げ」を最優先とした民主党はこの首相提案を
蹴ってしま った。金融国会では「政局にしない」という対応が
一定の成果をあげたのだが、そのときとまったく逆の動き方
をしてしまったのである。
年末の予算編成、税制改正は近年にない重要な意味合い
を持つ。基礎年 金の国庫負担を3分の1から2分の1に
引き上げるため、消費税の税率 アップの必要性が出てくる
のだ。
首相提案に「今年の税制抜本改正時」とあるのは、そういう
意味だ。消 費税と道路特定財源、年金財源を絡めた一大
税制改正ということになる。道路財源の見直しは
「田中角栄型政治」からの脱却という歴史的意味も持つこと
になる。小泉元首相が郵政分野に手を突っ込んだのも、
「角福対決」を引きずった同様の意味合いから説明する
向きがあったことを想起したい。
「歳入欠陥はほぼ消費税1%」の意味
消費税は1%で2.5兆円の税収となる。道路特定財源の
暫定財率廃止で生 ずる歳入欠陥規模とほぼ同額である。
そこから「税制抜本改正」は絵空 事ではなく現実的な
意味を持つのだというイメージが鮮明になっていく。
その効果を見過ごすべきではない。
あの時点での首相提案は土壇場でのアリバイ工作であるか
のように受け 取ることも可能だが、今後の改革政策の核心
を提起したということであ るのなら、本格的な税財政
改革論の先行提示として重要な意味合いをは らんでいる。
「ガソリン政局」といった矮小化されたレベルを超越して、
政策論争の スタート台に立ったということであれば、福田
首相の投じた一石は重い。民主党としても政権担当能力を
示す上で、「一般財源化」をキーワードとする本格的税財政
改革の論争舞台に乗るべきであろう。国政を機能不全に
陥らせた不毛の政局攻防はもうたくさんだ。
【日経BP社サイト「SAFETY JAPAN」連載コラム「我々の
国家はどこに向かっているのか」弟103号・3日更新】再掲
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懐かしのビッグアプル
━━━━━━━━━━山堂コラム210
ニューヨークにある国連本部ビルが改築されると聞いた。
外観はそのま ま残るが、土台や骨格を補強し、空調・電気・
給水設備など「全取替え」の大改造で、6~7年(2014年
まで)かかるという。この間、国連の事務局・各セクションは
マンハッタンのあちこちに散らばって「借り事務所」で夫々の
執務を続けるとか。
ニューヨークの国連本部ビルといえば、初めての海外取材先(
特派員) であった。懐かしさと思い入れのある場所だ。
1976年だったから今から 32年前。あの箱型の国連ビルが
出来てちょうど24年目の年という計算に なる。
当時、霞クラブ(外務省)詰めの駆け出しの記者。外務大臣に
同行して の「国連総会」取材だったが、政治家もマスコミも
まだ大時代の名残り があって「外遊」は大騒ぎ。
成田はまだで羽田からの出発。その見送りに政治部長・
デスクをはじめ 多くが来た。女房・子供ら家族も見送りで、
そのために自宅へハイヤー 1台を差し回してくるという今では
考えられぬ「大仰な」ものだった。
取材の中身はさておき、「今では考えられない」ことがもう一つ
あった。ニューヨークの滞在中、外務省の随行役人の宿泊費
の一部を、われわれ同行記者団のドネで賄うのだという。
大臣秘書官や北米局長以下キャリアー課員らの旅費・
宿泊費は別。そうでないノンキャリの事務担当者。
同行記者団の取材便宜(電話やテレックスの確保等)や
大臣の内外記者会見のセティング。それらのために外務省
報道課から2人が随行した。その2人の宿泊費が
「役所の規定料金では足りない」のだという。
宿泊したホテルは、今では1泊400ドル以上する「ウォル
ドルフ・アスト リア」。当時はオラの部屋は1泊45ドルであった。
そのノンキャリ2人 の規定の宿泊費がいくらであるかの説明は
あったように思う。が、最終 的にオラらが負担したかどうかの
記憶は定かでない。記憶していないと いうことは負担しな
かったということ。
実はこれ、その後「沖縄サミット」のあと摘発され、外務省を
震撼させ た「マツオ・ロジ担事件」の源流みたいな話。
だから、ちょっと触れて みた。今も昔も、マスコミ各社が
役所から取材便宜供与を受けるのは好 ましいことではない。
1ドル360円時代。その時の取材は予定より期間が延びて
実はオラのドルも最後に底をつき、はたと困った。
羽田まで見送りに来た部長以下への土産(ジョニ黒3本、
洋モク1箱まで)が買えない。
「そうか、見送りに来たのはジョニ黒のためだ・・・」ようやく
気がつ いた。仕方なく恥をしのんで支局まで借りに行った。
あのころ大変な貴 重品だったジョニ黒や洋モク、いまなら
戸越銀座の角のコンビニでも売 っている。この最初のときの
国連取材で「ロシアからの北方領土返還」と「わが国の安保
理常任理事国入り」の日は永遠に来ないことを確信した。
30年経った今もその確信は変わらず。
「海外派兵は国連決議にのみ基づいてやる」というイチ
(民主党代表) の主張がいかに非現実的で国民をバカにし
ているか、いまさら説明する までもあるまい。帰国する前夜、
日本代表部におった康っさん(福田さんではない)が
「TOPLES BAR」なるところへ連れて行ってくれた。
チップは1ドル。
目が点になった。康っさんはやがて国際舞台で活躍、
有名人になる。都 知事選にも出た。カンボジヤ他の紛争地で
テレビに映る勇姿を見るたび に、変わらない彼の秋田訛りの
英語、そしてオラには酔眼朦朧の瞼の向 こうにあったオッパイ
ボロンのあの青春が蘇る。わが懐かしのビッグア プル(NY)・・・
「時差ボケ」というのがこの世の中にあることも、この海外
取材で初め て知った。オラの時差ボケはキツく、年をとるに
つれてさらにキツくな る。時差ボケからこのごろは次第に
「ジーさんボケ」に移行しつつある。(了)
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日本のお姉さんの意見。↓
聖書には、老人はいろんな経験をしているから
大事にしないといけないというようなことが書いてあった。
無料メルマガ頂門の一針は、おじいさんたちが
書いているのだが、昔の日本のことは、おじいさんたちに
聞くしか分からない。おじいさんの話を若い人は、頭に入れて
おかないといけない。無知な人間ほど、弱い存在は無いと思う。
わたしも無知だが、ただいま勉強中。
経験したことは、教えておきたい。