金融機関の不良債権と国家民族の盛衰
ようちゃん、おすすめ記事。↓日本の進路★0395★080405★
金融機関の不良債権と国家民族の盛衰
★ 表題: 金融機関が不良債権を抱え・不良融資先に何故
騙されるのか、直ぐ騙される国家民族の将来は非常に暗い 
                  丸野内三 m00573@yahoo.co.jp 
◇ 米国その他世界の銀行・証券等の金融機関が、目先の高い利率に幻惑され(内容を吟味せずに高配当だけを切望して)、サブプライムローン等の劣悪債権を買い込み保有し、金額確定不能(40兆円以上?)に達する巨額の評価損を抱えるに至っています。 
 日本の大手銀行6グループの場合、米国程ではないものの、2008年3月期決算において、サブプライムローン等の関連損失を、7000-8000億円計上する見込みと言われています。 
(注) 日本の大手銀行6グループ: 三菱UFJ・みずほ・三井住友・りそな・住友信託・中央三井トラスト 
◇ 新銀行東京(東京都が主要株主、通称・石原銀行)の場合、経営基盤の脆弱な中小零細企業へのいい加減な融資(貸金)が、異常とも言える程、多量に焦げ付きました。開業以来の累積損失が1016億円に達し、資本金等の「自己資本」1189億円を、殆ど全部食い尽くした(浪費した)と申せます。 
◇ 金融機関の経営陣・融資責任者(融資担当の部課長ら)・審査部門・融資担当者等は、本来金融(融資・金貸し)のプロであるべき筈です。ところが、そのいずれもが、命を賭けた「本来の融資」(金貸し)を経験しないで、机上の学習だけて、仕事に従事しています。 
(注) 本来の融資: 自然発生的・原始的な融資(金貸し)形態。自分自身或は自分達の資金(カネ)、自分自身或は自分達が命を賭けて調達(借金)して来た資金(カネ)、自分自身或は自分達が資産(不動産等)を担保に差し入れて調達(借金)して来た資金(カネ)、これらを元手に、融資(金貸し)をやっている場合。 
◇「本来の融資」であれば、自分或は自分達が貸した債権(融資金)が焦げ付けば、その分は、自分或は自分達自体が、直接的に損害を被ります。正に食うか食われるかの「真剣勝負」が連続します。屁理屈や学者の理論よりも、死線をさまよった「経験と勘」(第六感・ニオイ)が重視されます。 
◇ 金融機関等のサラリーマン(経営陣・融資責任者・審査部門・融資担当者等)は、たとえ学校・研修等で、金融論・銀行論・会計学・経営学等を学習し、実践的な教育(ゼミ・討議等)を受けたとしても、所詮、自分自身に、死命に及ぶ事態を前提としておりません。 
◇ 生死を賭けた「真剣味」(責任感)が、完全に欠落しています。「植木等の無責任映画」(そのうち何とかなるだろう)程ではないにしても、やはり、「他人事」の域を超えておりません。 
◇ 社会保険庁にしても・新銀行東京にしても、誰も本当の責任を取らない、つまり「無責任時代の落とし子」と言わざるを得ません。このようにして、金融機関が不良債権・不良融資先に、コロッと騙されるのであります。 
◇ 官庁・社会・金融機関が、上記の如きいい加減な管理・責任体制を続けていれば、当該国家・社会・民族は、地盤(信念)のしっかりした国際金融資本等の海外勢力によって、早晩、解体され消滅して行く命運にあると申せます。 
(日本の進路、No.0395、金融機関が不良債権を抱え・不良融資先に何故騙されるのか、直ぐ騙される国家民族の将来は非常に暗い、完) 
■ Japan On the Globe(542)■ 国際派日本人養成講座 ■ 
人物探訪:白洲次郎(下)~ 日本復興への責任と義務 
「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々 
の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務を私は感じる」 
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 
■1.「吾々が招いたこの失敗」への「責任と義務」■ 
 戦後の日本に関して、白洲次郎はこう書いている。 
 吾々(われわれ)の時代に馬鹿な戦争をして、元も子も 
なくした責任をもっと痛切に感じようではないか。日本の 
経済は根本からの立て直しを要求しているのだと思う。恐 
らく吾々の余生の間には、大した好い日を見ずに終わるだ 
ろう。それ程事態は深刻で、前途は荊(いばら)の道であ 
る。然(しか)し吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも 
取り返して吾々の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義 
務を私は感じる。[1,p270] 
 自分たちは被害者だ、軍国主義者に騙された、という風潮が 
支配的な時代において、「吾々が招いたこの失敗」の「責任と 
義務」を主体的に負おうというのが、次郎の生き様であった。 
 昭和21(1946)年4月、戦後初の総選挙で自由党が第一党と 
なったが、社会主義政権誕生を目論むGHQ民政局のケーディ 
スらは、党首・鳩山一郎を公職追放処分にしてまで、組閣を阻 
止した。 
 そこで鳩山や前首相・幣原に推されて、吉田茂に組閣の大命 
が下った。その吉田にも公職追放の手が伸びていた。その情報 
を掴んだ次郎は、ケーディスの対抗勢力であるウィロビー少将 
と必死に掛け合って、なんとかそれを阻止した。 
 首相に就任した吉田は、マッカーサーに会って「日本を赤化 
させるおつもりですか」と迫った。おりしもソ連との冷戦の緊 
張が高まり始めていた時期でもあり、マッカーサーは、GHQ 
内でとくに「赤い」と目されていた局員を大方帰国させる措置 
をとった。 
 米国内では日本を防共の盾とする議論も出てきて、占領方針 
も民主化から経済復興へと力点が移りつつあった。ようやく次 
郎の「責任と義務」を果たす機会が訪れてつつあった。 
■2.経済安定本部次長■ 
 昭和21(1946)年12月、次郎は経済安定本部(後の経済企 
画庁)次長を兼任することになった。半年ほど後に、蔵相・石 
橋湛山が経済安定本部長官兼任となった。石橋も気骨ある人物 
で、GHQ経済科学局の幹部を相手に丁々発止とやりあった。 
しかし、この石橋も任期途中で公職追放となってしまう。 
 石橋は軍部を批判して、満洲を放棄し、朝鮮・台湾を独立さ 
せよ、と主張した人物である。そんな人物までGHQは公職追 
放したのだった。 
 経済・財政面で石橋を頼りにしていた吉田は、経済学者たち 
をブレーンとすることで、事態を打開しようとした。その根回 
しに次郎が走り回った。目をつけた一人が東京大学経済学部教 
授の有沢広巳(ありさわ・ひろみ)である。しかし、教授が政 
府のブレーンになるというのは一般的でない時代のことである。 
有沢は、次郎が何度頼み込んでも一向に首を縦に振らない。 
 そこで次郎が考え出したのが、吉田を囲む週一回の昼食会に 
何人かの著名な経済学者とともに参加して貰う、という方法で 
ある。これにはさすがの有沢も断れず、吉田を囲んでの議論に 
加わった。 
 この席で有沢が披露したのが、傾斜生産理論である。限られ 
た資金・資源をまず石炭の増産に集中し、この石炭を鉄鋼生産 
に集中投下するという方法で、これにより生産が急回復し始め、 
復興の起爆剤になった。 
■3.民主主義も憲政の常道も完全に無視した独裁者■ 
 昭和22(1947)年年頭、深刻な食料事情の中で頻発している 
労働争議やストライキを沈静化させるべく吉田はラジオで国民 
に呼びかけた。しかしその中で「私はかかる不逞の輩(やから) 
が国民中に多数ありとは信じませんぬ」と口を滑らした。これ 
が労働組合などを刺激して、世情騒然となった。 
 GHQ民政局は吉田降ろしの好機と見て、マッカーサーを動 
かし、総選挙を命じた。やむなく吉田は議会を解散して総選挙 
に踏み切ったが、「不逞の輩」発言で支持率が急降下しており、 
片山哲率いる社会党に第一党の地位を奪われてしまった。 
 片山は単独では政権を担う自信がないので、自由党からも閣 
僚を送って貰いたいと申し出たが、吉田はきっぱりと断った。 
「主義主張を異にする両党が連立するのは、政党政治の本領に 
反する」と言って、野に下ったのである。 
 片山内閣で農相となった平野力三は吉田に近い人物だったの 
で、ケーディスは強引に公職追放にしたが、平野派40名の支 
持を失った片山内閣は総辞職に追い込まれてしまった。ケーディ 
スは肝いりの社会党内閣を、自らの強引な追放措置で潰してし 
まったのだった。 
 ケーディスは、その後も政権を野党第一党の自由党に渡さず、 
民主党総裁の芦田均を首相に据えた。ケーディスはいよいよ、 
民主主義も憲政の常道も完全に無視した独裁者となっていった。 
■4.ケーディスとの最終決着■ 
 怒り心頭に発した吉田と次郎は、参謀第2部のウィロビーと 
共闘して、ケーディスの追い落としを図った。 
 おりしも、昭和電工が大規模な贈賄を行って、復興金融金庫 
からの融資を引き出している、という疑惑が浮上していた。社 
長の日野原は、前社長が吉田やウィロビーに近い人物だったた 
めに公職追放とし、ケーディスが新たに送り込んだ人物だった。 
 次郎やウィロビーはケーディスの身辺調査を行い、彼にも多 
額の現金が渡ったという情報を新聞に流して、しきりに報道さ 
せた。ケーディスの影響力は急速に低下していった。 
 芦田内閣そのものも、この昭和電工の贈賄事件により、わず 
か7カ月で総辞職に追い込まれた。次郎はウィロビーと共闘し 
て、マッカーサーから、「GHQの総意としては吉田首相で問 
題なし」という確約を得た。吉田は衆議院で多数を得て、昭和 
23(1948)年10月に第2次内閣を発足させた。 
 ケーディスはなおも吉田内閣を潰そうと画策したが、吉田は 
国会を解散して、民意を問うた。翌年1月の総選挙では吉田率 
いる民自党(自由党と民主党の一部が合同)が圧勝し、第一党 
だった社会党は143議席から48議席へと激減、党委員長の 
片山まで落選の憂き目を見た。 
 ケーディスは失意のうちにアメリカに帰国した。こうして日 
本に社会主義政権を作ろうとする陰謀は未然に防ぐことができ 
たのだが、その陰には次郎の奮闘があったのである。 
■5.経済復興のための大抜擢人事■ 
 傾斜生産方式が奏功し、我が国の鉱業生産は戦前の5割程度 
まで回復していたが、GHQ財政顧問として来日したジョゼフ 
・モレル・ドッジはインフレを沈静化するために、復興重視の 
政策を超均衡財政に転換しようとした。 
 次郎は「ドッジ・ライン」と呼ばれる政策が発表された時、 
これまでの努力がすべて水の泡になるのではないかと危惧した。 
ドッジに対抗するためには、経済理論に明るく、押しも強い人 
物を大蔵大臣につけなければならない。そうした人物を求めて、 
次郎は東奔西走した。 
 そして見つけたのが、前大蔵省事務次官の池田勇人(はやと) 
だった。吉田は昭和24(1959)年1月の総選挙で、池田を立候 
補させ、当選すると一年生議員にもかかわらず大蔵大臣に大抜 
擢した。当選回数を重ねた議員から囂々(ごうごう)たる不満 
が噴出した。しかし池田は期待通りの活躍を見せた。ドッジと 
も何度も渡り合って、深い信頼関係を築いた。 
 池田は昭和34(1959)年に首相となるが、天才的なエコノミ 
スト下村治をブレーンとして、10年間でGNP(国民総生産) 
を2倍にするという「所得倍増計画」をスタートさせ、高度成 
長を実現していく。[a] 
■6.「新しい貿易庁を作る!」■ 
 昭和23(1948)年12月1日、次郎は吉田首相から商工省の 
外局である貿易庁の長官に任命された。次郎は以前から、輸出 
産業を育成し外貨獲得を図るために、商工省を改組してもっと 
強力な組織を作る必要がある、と主張していた。そこで吉田か 
ら「じゃあ、お前やってみろ」と言われたのである。 
 商工省は多くの優秀な役人を抱える巨大組織である。それを 
変革するのは、よほどの信念と実行力を持った人物が必要であ 
る。それには次郎しかいない、と吉田は見込んだのである。 
 次郎はまず味方にすべき人物を捜した。そこで目をつけたの 
が商工省物資調整課長の永山時雄であった。まだ若かったが省 
内随一の切れ者として名が通っていた。 
 次郎は永山を呼んだ。ちょうど、永山の方も商工省の事務次 
官から次郎の動向を探るように依頼を受けていたので、敵情視 
察のつもりだった。その永山に対して、次郎にしては珍しく熱 
弁を振るった。 
 今の日本にとってもっとも重要なことは、輸出産業を振 
興させて外貨を獲得し、その外貨でさらに資源を購入して 
経済成長にはずみをつけることだ。ところがこれまでの商 
工省の施策は国内産業の育成が中心だった。これからは、 
貿易行政があって産業行政があるというふうに180度考 
え方を変えていかなければならない。だから、、、 
 と息をついで、一気に言い切った。 
 占領下で動きのとれない外務省も、軍需省の尻尾をひき 
ずる商工省も、ともに潰して新しい貿易庁を作る! 
 永山は全身に鳥肌がたった。純粋に国を思う情熱、先例や常 
識をかなぐり捨てた構想の合理性、先進性。この日を境に永山 
は次郎の信奉者となった。 
■7.通商産業省の誕生■ 
 次郎は、永山に「通商産業省(仮称)設置法案」をまとめさ 
せ、翌24(1959)年2月8日に閣議決定に持ち込んだ。就任後、 
わずか2カ月ほどのスピードで、役人たちには反撃の隙も与え 
なかった。 
 商工省からは、せめて名称を「産業貿易省」にしてくれ、と 
言ってきた。国内産業重視の看板を下ろしたくない、という最 
後の抵抗である。しかし、次郎は「貿易より産業が先にきてい 
るような名前はダメだ!」の一言。さらに通産省内のすべての 
局に「通商」という名前をつけさせて貿易重視の意識改革を徹 
底した。 
 同年5月25日、通商産業省が誕生した。貿易庁から引き継 
ぎにきた事務官に対し、次郎は「引き継ぎするものなど何もな 
い。お前らは通産省を貿易庁の後身だと思っているのか。過去 
は振り替えらんでいい。これからまったく新しい行政を始める 
んだ」と言って、一切の引き継ぎを拒んだ。 
 そして通産省の次官や局長には、次郎が目をつけた優秀な官 
僚を配置して、立ち上げを確固たるものにした。その上で、自 
分はさっと身を引いてしまったのが、次郎らしい無私な所であっ 
た。 
 この後、通産省は日本経済の「参謀本部」として高度成長に 
向けて牽引していく。 
■8.「何だこれは! 書き直しだ」■ 
 昭和26(1951)年9月、吉田茂は講和条約に調印すべく、サ 
ンフランシスコに向かった[b]。次郎も顧問として随行した。 
調印式の後には吉田による受託演説が予定されていたが、吉田 
はその二日前に、次郎に演説草稿のチェックを頼んだ。 
 外務省の役人が持ってきた草稿を一目見るなり、次郎は渋面 
を作った。英文だったからである。「日本人は日本語で堂々と 
やればいいじゃないか!」 
 内容も問題だった。占領に対する感謝の言葉が並んでいて、 
まるでGHQに媚びているような文面である。 
「何だこれは! 書き直しだ」 
「ちょ、ちょっと待ってください。事前にGHQ外交部の 
シーボルト氏やダレス顧問にチェックしてもらったもので 
すから、勝手な書き直しなんかできませんよ」 
「何だと! 講和会議でおれたちはようやく戦勝国と同等 
の立場になれるんだろう。その晴れの日の演説原稿を、相 
手方と相談した上に相手国の言葉で書くバカがどこの世界 
にいるんだ!」 
■9.ウィスキーのグラスをあおりながら■ 
 次郎はサンフランシスコのチャイナタウンで和紙の巻紙を買 
い求めさせ、毛筆で書き始めた。 
 懸案である奄美大島、琉球列島、小笠原諸島の返還にも言及 
した。外務省の役人は必死に止めようとしたが、次郎は 
「GHQを刺激するから触れるなだと。バカヤロー、冗談を言 
うな」と一喝した。「小笠原や沖縄の人々の気持ちにもなって 
みろ」という思いだった。 
 草稿は吉田の演説直前にできあがった。長さは約30メート 
ル、巻くと直径10センチほどになった。ぶっつけ本番となっ 
たが、吉田は悠揚迫らぬ態度で読み上げていった。 
 日本の新生を世界に報ずる一大イベントも無事に終わった。 
次郎はマーク・ホプキンス・ホテルの自分の部屋のソファーに 
身を沈めた。早いピッチでウィスキーのグラスをあおりながら、 
次郎は泣いていた。 
 敗戦後、わずか6年だったが、いろいろな事があった。屈辱 
的な憲法改正、赤いGHQ将校たちとの死闘、そして通産省創 
設など経済復興への段取り。 
「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々の子 
供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務」の幾分かは果たせた 
のである。サンフランシスコの夜は静かに更けていった。 
(文責:伊勢雅臣)