チベットは中国の領土ではない
帝国電網省 ▽▼by 竹下義朗さん
☆ チベットは中国の領土ではない 2008/03/28
原著 1997/02/21
1951年、中国人民解放軍がチベットの首都ラサに進駐、
「チベット解放」を宣言した。チベットの混乱の中、チベットの
政教一致の最高指導者=国家元首ダライ・ラマ14世は、
側近と共にチベットを脱出、インド領ダラムサラに臨時政府を
樹立した。
それから既に46年....果たして46年前の「チベット解放」は
正しかったのか? また、中国政府に反革命分子の総帥と
決めつけられているダライ・ラマ14世とは、いったいチベットに
とってどのような存在なのだろうか?
ーーーまず、チベットの歴史から簡単に触れてみましょう。
チベットは、古くは「羌」などと呼ばれ、その領土も、現在の地図
で言えば、チベット自治区・青海省・甘粛省南部・四川省西部・
雲南省北西部・ブータン・シッキム・ネパール北部・インド北西
部・パキスタン東北部にまで及び、アジアの中央に位置した
大国です。
大チベット地図
http://chinachips.fc2web.com/illust/map/td_tibet_map.gif
古来より中国とは密接な関係にあり、中国の五胡十六国時代
には、中国領内に成漢・前秦・後秦・後涼の四王国を相次いで
建国しています。
629年には、小国に分裂していたチベットをソンツェン・ガンポ
大王が統一吐蕃を建国します。吐蕃はその後、東トルキスタン
の要衝を押さえ、755年唐=中国)に安史の乱が起こると、
混乱に乗じて遂に「唐」の首都長安に進駐します。アジアの
大国「唐」は、国内の反乱と共に「チベットの影」によって衰退
したともいえます。
その後吐蕃は、843年にラテン・ダルマ帝が暗殺され分裂
してしまいます。
現在のチベット文化が形成されたのは、ラマ教=チベット仏教)
が本格的に普及し、チベットの国教になってからのことです。
そして、チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマが、宗教のみ
ならず、政治的にも権威を有し、首都ラサのポタラ宮殿が
事実上の政府になります。
また近世以後のチベットは、吐蕃時代の「武力」による進出
から180度転換し、「ラマ教」による進出を果たします。これは
ある意味では成功し、ネパール・ブータン・シッキム・モンゴルに
ダライ・ラマの権威が及びます。
しかし、これは両刃の剣でもありました。
モンゴルや青海地方の為政者は、度々チベットに進駐し、
ダライ・ラマの権威を背景に「ラマ教文化圏」に影響力を行使
するようになります。その最たるものが満州人の建国した
清朝です。
清朝は、1720年、内陸アジアの大国ジュンガルに占領され
ていたチベットに進駐、ダライ・ラマ7世を首都ラサに入れると
共に、カンチェネとポラネの2人を「宰相」に任命、チベットを間接
統治するようになりました。
1728年には、宰相ポラネが内乱を鎮圧し、清朝から
全チベットの蔵務総理・郡王に任命され、事実上の
「チベット国王」となります。
しかし、1750年、チベットで反清暴動が起こり、ポラネの
子ギュルメ・ナムギェル郡王が暗殺されると、清軍が進駐し、
これ以後、清朝による直接統治の色合いが濃くなりました。
近代に入ると、アジアに欧米列強が進出しますが、チベットも
例外ではありませんでした――――。
インドを手中に収めたイギリスが、1893年、清朝との間に
蔵印条約=シッキム・チベット条約)を調印。更に1903年には、
ヤングハズバンド大佐率いるイギリス軍がチベットに遠征、
翌1904年には遂に首都ラサに侵入、武力にものをいわせて、
ラサ条約を調印してしまいます。
この時ダライ・ラマ13世はモンゴルへ亡命、1910年、清軍が
進駐すると今度はインドへと亡命してしまいます。
チベットに好機が訪れたのは、1912年のこと。
辛亥革命により清朝が滅亡すると、亡命先のインドからイギリ
スの支援を受けたダライ・ラマ13世がチベット本国に帰還、
「チベット帝国」の「独立」を宣言します。
しかし、1951年、中国人民解放軍がチベットに進駐、翌19
52年には人民解放軍チベット軍区が設置され、中国は
「独立国」チベットを廃止し、「チベット自治区」を設置して
しまいます。
しかし、満州の例を見てもお分かりのとおり、チベットは満州人
の国清朝に征服されていたのであって、中国に征服されて
いたわけではありません。
また、辛亥革命の際、清朝からの独立を宣言したのですから、
その地位は孫文の建国した中華民国と対等だった筈です。
つまり、現在のチベットの状況は、満州同様、中国による不法
占拠であり、チベットに進駐した「人民解放軍」は「人民
抑圧軍」なわけです。
「反革命分子」の総帥と決めつけられているダライ・ラマ14世の
地位は、現在も「チベット帝国」の正統な「国家元首」であり、
北インドのダラムサラにある亡命政府は、「独立」チベットを代表
する正統政府なわけです。
先の、ドイツ連邦議会での「チベット決議」が、それを何よりも
物語っているといえます。