北京では、チュウゴク人はみんな、「チベット族反乱分子に手加減無用!」という正義で一致
ぺきんこねたぶろぐ(福島記者)↓
http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/517127/
■チャイナ・デーリー(20日)の1面はイラク戦争開戦5周年の記事写真付きだった。イラクでは市民だけで9万人近く死んでいる。石油の為に遠く離れた中東の国にいって「正義の戦争」をしかけ、大勢のイラク人の血を流した。これが米国の正義なら、ウラニウムの豊富なすでに自国に併合されて半世紀以上たつチベットで、反政府デモを鎮圧して十数人か数十人か数百人が死んだとしても正義だろう?そういいたい気持ちが紙面から匂い立つようだった。
■きのう、私は会見場にいかなかったが定例記者会見で、秦剛報道官が会見でずいぶん吠えたそうだ。「どこの国でも同じことをする」と。それももっともで、どこの国にも民族問題はあり、その弾圧も、正義という名のもとで行われることはありふれている。国際ジャーナリストでコラムニストの高山正之さんもコラム集『サダム・フセインは偉かった』でおっしゃっていたけれど、正義という言葉ほどうさんくさいものはない。そう思うと、やや理想主義におちいりやすい私は、ほんと、落ち込んでくるよ。
■結局、正義はひとりひとりが心の中で信じるものであり、それは他人と尺度と違うことは往々にしてある。中国が「我々は最低限の暴力しか使わず、中国の安寧と秩序を脅かすチベット独立派デモを鎮圧した。これは正義だ」といえば、国際社会が「米国経済がへたりはじめているなか、中国経済が打撃をうけると世界恐慌かも?」と中国擁護にシフトしてくいことも正義なんだ。で、そうなると記者としての私の正義はなにか、と今すごくゆらいでしまう。「ラサで発砲はしていない!」という中国当局の公式発表と、「僧侶が殺された!」という一市民である友人の言葉と、どちらが信憑性があるのか、それすらわからなくなってくる。
■ただ、原点に戻って、記者にとっての絶対正義とは何か、と考えればやはり、「報道・表現の自由」と「人の命」なのである。チャイナ・デーリーの1面写真は「
■北京では、誰一人として、チベット族の境遇に同情し嘆く人をみかけない。(少なくとも表向きは)「中国よ、チベットに高度の自治をみとめろ!」とプラカードをもって抗議を行う漢族もいないのである。みんな、「チベット族反乱分子に手加減無用!」という正義で一致し、中国政府の掲げる正義と完全に一致して「強い中国」を喜んでいる。尺度の違う正義に批判を行うこと、意見をいうことをこの国の人には許されていない。私はその一点について「それはおかしい」と言うときだけ、自分の正義は確かだと感じる。
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恐ろしい漢人たち。
チベット人は殺してもいいらしい。漢人たちには、
おとなしく、デモをしていたチベット人に、発砲して
分かっているだけで140人を殺したチュウゴク政府は正しくて
怒って興奮して家を壊したチベット人は悪なのだそうだ。
でも、暴動は、漢人の警官が扮装して紛れ込んで
やったらしいよ。煽っていたらしい。刀を持った警官が
チベット人の服を来て群集の中に入り込んで
暴れているのをタイ系華僑が目撃している。
(ちなみに、興奮して家を壊している僧侶は素手だった。
刀なんて持ってデモはしませんよ。)
漢人もチュウゴク政府の報道に騙されている。
共産党の仕事は、都会に住む漢人を満足させていれば
それでいいようだ。
少数民族にはしたい放題しているようだ。チュウゴク公安は
暴動を煽って、危険分子をあぶりだして殺せと上から
命令されているのかもしれない。最終的な目的は
「チベット人の抹殺・漢人への文化的同化・無宗教化・共産化」
なのではないか。by日本のお姉さん