頂門の一針
ようちゃん、おすすめ記事↓(ようちゃんの意見付き。)
三重野総裁の再評価
━━━━━━━━━原野 辰三
世界第2の経済大国である日本は、総理大臣がいながら総理
不在の様な 状況が続いている。チベット問題に言及する事も
出来ないばかりか、欧 米諸国が、サブプライム・ローン問題で
混乱を極めていると言うのにで ある。日本は、失われた10年
のバブルの崩壊で、国内経済はガタガタになり、今尚その
後遺症から脱皮できず、中小企業は自力再生もままならず、
原油高の追い討ちで仮死状態に近い状況に立ち至っている。
そう言う状況の中で、一部の大企業はこの機に便乗しリスト
ラの大義名 分で公然と正社員を減らし派遣社員に切り替え、
人件費を低く抑えたま ま放置している。その典型が、
ワンサイド・ゲームの一人勝ちでわが世の春を謳歌している
世界のトヨタを初めとする日本の優良企業、これが今日の
日本の真の実態である。
日本政府は、バブルが崩壊して歳入が減っているにも拘らず、
切り詰め るべき歳出は垂れ流しのまま放置しながら、
機に便乗して消費税は上げ、医療費や福祉の国民負担は
増やし、弱者救済の政治は切り捨て御免を断行している。
その場限りの政策を続け、目に見えない様々な負担は国民
に押し付け、役人の失政は棚に上げたまま、役人天国の
お手盛り行政を恣にしている。道路特定財源を廃止して
いいとは思ぬが、問題はその使い途であろう。国民の目の
届かないところで、勝手気ままに使い放題を続けてきたこと
にある。こんなことでいいのだろうか?
折りしも、1割負担になったばかりの医療費が、またまた
“3割負担” に逆戻りするとの報せが届いているが、国民は、
余りにも“おとなしす ぎる”と言わざるを得ない。“おなしい”
とは、大人しいと書くのか、音無しと書くのか、温和しいと
書くのか、馬鹿げたことで怒りを抑えるしかないが、朝令暮改
の政府の無策には、呆れるのを通り越してため息が出る
ばかりである。
バブルを崩壊させた元凶とも言うべき第一級の売国奴は、
誰が何と言っ ても、当時の三重野元日銀総裁であった。
しかし、そもそものバブルを 呼び込んだのは、歴代内閣の
元総理以下の金融の舵取りをしてきた閣僚 や、代々の
日銀総裁達、更には、政府と連帯責任のある旧大蔵省の
金融 担当者達であった。最後の土壇場の引くに引けない
状態で“火中の栗”を拾わされたのが三重野元日銀総裁で
あったことを考えれば一抹の同情も禁じえない。
しかし、短期間に立て続けに実施した金利の引上げは無謀の
誹りを免れ ないが、追い討ちの最後の引上げは日本経済を自
殺に追い込んだものと 言わざるを得ない。かくしてバブルは
崩壊し、長く暗い失われた10年が始まったが、何れにしろ、
バブルの崩壊は起きるべくして起きたのもので、言い換えれ
ば、日本経済の緊急手術であったと解釈する事も出来よう。
当時の筆者は、バブルの崩壊で積年の血と汗と涙の結晶の
様な苦労も水の泡となり、多くの投資家同様に大打撃を
被った一人であるが、名前そのままに先の見えない三重野
元日銀総裁にはやり場のない怒りを覚えていた。
維新前夜なら“天誅の血祭り”にしたいと思った程だった。
しかし、冷静に考えればバブルはいつかは崩壊するもので
あり、当時の 日本は国全体(国民も含む)が米国の扇動に
乗せられ、バブルの中で泡 踊りを踊らされていたのである
から、謂わば自業自得の結果であり、国 民も皆同罪で
あったと大いに反省せざるを得ない。現在もその後遺症を
引きずっているが、そんな状況の中で、世界中の金融界を
震撼させ、世界経済を大混乱に陥れているのが、正体不明に
近い厄介な問題の米国発“サブプライム・ローン”である。
米国は、自ら原因を作り出し、その被害を最小限に留め様と
目論み、確 信犯的に証券化して世界にばら撒いた結果、
ブーメランの様に自国の首 も絞めているのが現在の実態で
あろう。坂本九の歌ではないが、上を向 いて唾を撒き散らし
たのが米国金融業界自身であれば、身から出たさび と言う
べきである。幸いにして日本は、国家経済を揺るがす程の
大きな被害を被っていない様であるが、その経済的影響は
ボデーブローの様にじわじわとい効いてくることを覚悟して
置かねばならないだろう。
現状では、サブプライム・ローンの影響が軽微であるとは言え、
これは 日本の金融業界が賢明だったからではない。ある
意味で偶然の結果とも 言うべきもので、近年の日本の金融
業界には、サブプライム・ローンに 手を染めるだけの余裕が
なかっただけで、謂わば成行きに近い結果の賜 物であると
見るべきである。何故なら、三重野元日銀総裁が金融(金利)
政策を時間を掛けて慎重に進め、綱渡りであっても、バブルを
“ソフトランディング”させ、崩壊を食い止めていれば、それ
以後の日本経済の破綻は緩やかなものとなり、失われた
10年は回避できたはずである。さすれば日本経済の回復も
早く、今日の様な低迷状態ではないだろうと考えられるから
である。
即ち、20年前に遡り、バブルが崩壊せずに日本経済が堅調な
状態を維持 していたならばと仮説を立てて、今日の状況を
推測すると、果たしてど んな状態でサブプライム・ローンの
問題に直面していただろうか?
日本の金融業界は、恐らく、政府も民間も報じられている様な
“軽微” な被害状況で難を遁れる事ができていたとは考えら
れない。
日本経済が、バブルが崩壊する前の状態、或いはそれに近い
状態で近年 まで続いていたと仮定すれば、日本は国を挙げて
護送船団を組み、金融 機関は米国債は無論のこと、米国が
押し付ける“金融商品=サブプライ ム・ローン”に群がり、
無防備と言ってもいい程の危機意識を欠如させ たまま、麻薬
の様な“サブプライム・ローン証券”の優良顧客となり、
バブル時の数倍の規模で不良債権を抱え込み、のっぴきなら
ぬ緊急事態 になっていたであろう事は間違いない。従って、
今回の底なし沼の様な“サブプライム・ローン証券”の及ぼす
被害は、最小規模で考えても、日本経済を根底から崩壊させ
る程の大きな被害となっていたであろうことは想像に難くない。
内閣は吹っ飛び、金融機関は軒並み破綻し、ハゲタカファンド
の餌食となり、完膚なきまでに打ちのめされる結果を招来して
いたであろう。
バブル当時の日銀総裁は、一時は“昭和の鬼平=長谷川平蔵”
とまで賞賛 されながら、バブル崩壊の引き金を引いたと同じ
“金利政策の大失敗” のために、任期終了とともに表の世界
から消え、ついぞその名前すらも 聞かないが、現在の状況に
置き換えて考えて見た場合、バブルの崩壊は、転ばぬ先の
杖と同じで、怪我の功名の荒療治であったのかと、見直しの
再評価をしなければならないのではあるまいか。それにしても、
日本の政治家の能力の拙劣さは、サブプライム・ローン問題
以上の深刻度を増幅させている 。
1党独裁がいいとは言えぬが、2大政党論は日本にそぐわ
ない。
国政を機能麻痺に追いこみ、不毛の議論を氾濫させるだけ
ではないのだ ろうか。
政治家の能力が、あまりにも低過ぎると言うに尽きるが・・・
米国の大統領選の予備選をCNNで見ながら痛感するのは、
党の指名を 獲得するためだけでも、実に一年にも及ぶ遊説
活動をフルに展開し、更 に、本選の戦いに挑み続けなければ
ならない。
心身ともに健全である事が絶対の要件であり、それ以上に、
頭脳明晰で あることはもちろんのこと、過去の実績に加え、
言動も国益に沿う正義 感に溢れた立派なものでなければ
ならず、並みの能力か、それ以下では、初めから候補者に
なる事すらもできない。日本の大衆政治家とは大違いである。
それに引き換え、我が国の総理大臣はと言えば、全くその気
もなかった人が、あっという間に“総理の椅子”に座っている。
言語も不明・意味も不明の記者会見で毎日お茶を濁し、悩み
など全く無 さそうな「お顔」を拝見していると、日本は平和
なのだとつくづく思っ てしまう。本当の平和であるなら不足は
ないが、これでいいのかと不安が頭を掠める。
日本に“明日は在るか”と、本気で心配している一市民。
(仮名)
-------------------
ようちゃんの意見。↓
★その真因は日本人はリーダーシップを執る事が苦手なの
です。「フフフの福田総理の無責任体質・他人事感覚」に如実に
現れてる!封建時代のままの感覚で政府の内閣の意識が
固まってる。お上からの命令通りなら出来る。指示待ち人間は
何も今日 重大な無差別殺人を起こした18歳高校生だけで
は無い。70歳過ぎた老人の日本国の代表たる総理がお手本
を示してる。大学へ進学を断念させられて居ても、自分で幾ら
でも活路は有る。日本では無料で授業料無し、衣食住居費用
も無料、被服の制服から靴まで無料、その上、お小使いが
7万円も支給してくれると言う大学が数箇所ある!
防衛大学、防衛医科大学、防衛看護大学、自治会大學
と高校から直結で行けます、海上保安大學は4年制大學終了
後3年間警察大學も同様です。高校からは短大程度のものと
して、保安学校、(海上保安官9)皇居警察学校とか、
拘置所看守要請学校とか・・幾つも無料の高騰期間があり
ます。 ネットの時代ですからグーグル検索で自分で調べる
事も、図書館でも、本屋での各種資格試験入試問題集などを
読めば 入水資格のための最終学歴やその条件も書かれてる。
自暴自棄で無差別殺人に走るような他人任せの 指示され
ないと何も自分で 判断して行動出来ないなどは 赤ちゃん
でもしない!赤ちゃんの時は親の言葉が分からないし 這える、
動ける事が嬉しくて勝手に暴走して 部屋から飛び出して、
玄関や縁先、階段から転がり落ちるものだそうです。
痛みを覚えてから自分で「だめねー」と言葉を口からだして
止めるそうです。 少々時代より親が怪我を恐れ早手回しして
絶えず見張り、 危険場所に近ずくと直ぐに抱き上げると言う
親が子供をロボット化して親の管理のし易い{良い子」に育て
ると思春期になり自分で考えて行動しようという時期に
立ち尽くすのです!
自己盲我の世界に入り込み、部屋で引き篭ったり、
ニートになる。挙句の果てが無差別殺人にまで暴走する。
浦和市での8人殺傷の引き篭りの青年もです。
今の日本の政治も米国との安全保障で、全く米国意意依存症
です。 (ようちゃんのこの意見は他の記事にもついています。
by日本のお姉さん)
(連合赤軍についてはよど号をハイジャックしたり、浅間山
山荘に立てこもった狂ったテロリストぐらいしか、知りません
でした。以下の記事で、まとめてあるので、何者たちなのか
分かった。犯罪者たちだった。by日本のお姉さん)
「革命ごっこ」の記録
━━━━━━━━━━
石岡 荘十
日米安保条約は、いまや日本の安全保障にとって皮膚のよう
な存在とな
ったが、条約の改訂(’60)と延長(’70)をめぐって、国中が
轟々と 揺れ動いた時代があった。
その時代、学生でありながら条約の延長に鋭く牙を剥いた
若者たちの生 き様の記録ともいえる映画「実録・連合赤軍」
(監督・若松孝二)を観 た。
あれから間もなく40年だから、「連合赤軍」とは何か、いささ
か説明が 必要だろう。
その母体は赤軍派である。当時京都大学生で共産主義者
同盟(ブント) のメンバーだった塩見孝也が、「こんな生ぬる
い運動では70年安保は乗 り越えられない」という危機感
から、関西地方の学生を糾合して結成し た超過激派集団で、
塩見本人が議長におさまった。
警視庁で公安・警備事件担当の記者だった当時のメモを
ひっくり返して みると、赤軍派が公然と名乗って姿を現した
のは1969年9月4日の東京 ・葛飾公会堂での結成大会
だった。
300人ほどが女物のナイロンストッキングを頭からかぶって、
「われわれ はーぁ---」と“新左翼用語”をわめきまくる変な
集団だった。
その年、治安当局は日米安保条約の自動延長を翌年に控え、
正月早々東大安田講堂の”城攻め“を敢行、これで学生運動
は急速に沈静化するだ ろう、と肩の力を抜きつつあった。
そのころ、塩見赤軍派議長は、山梨県の大菩薩峠で“軍事
訓練”をする が早朝、山梨県警・警視庁の機動隊に寝込みを
襲われ、53人が逮捕 (‘69.11.5)されて失敗。
併行して、航空機をハイジャックしてキューバか北朝鮮で
本格的な軍事 訓練を受け、日本に帰って革命を実現しようと
計画する。ところが、塩 見は計画実行直前に治安当局に
察知され、東京・駒込のアジトを出たと ころで逮捕される。
その日は一人息子の満1歳の誕生日だった。
が、残る“同志”9人が2週間後(‘71.3.31)、日航機「よど号」
をハイ ジャック、北鮮に飛びこむ。逮捕された塩見元議長の
手帳に「HJ」の 文字があったが、これがハイジャックを意味
すると分かったのは、事件 後のことだった。それから37年、
4人が北鮮で生存している。
塩見がシャバに出てきたのは20年後(‘89.12.27)だった。
その間、「革命は銃口から生まれる」という過激理論のもと、
京浜工業 地帯の労働者や学生で結成した京浜安保共闘
(革命左派)は、米大使館 や米軍基地を火炎瓶で攻撃したり、
各地での銀行強盗や拳銃を狙って交 番を襲ったりするが
拳銃強奪は失敗。
が、71年2月、栃木県真岡市の銃砲店を襲って、遂に、銃と
銃弾を獲得す る。この武装左派集団と赤軍派が地下で
ひそかに接触、ドッキングする。 これが「連合赤軍」だ。
それで、その後、彼らはどうなったのか。
これまでにも、「光の雨」(’01)、「にっぽん零年」(‘02)、「突
入せよ!『浅間山荘事件』」(‘02)などで映画化されている
ほか、関 連の出版物も少なくないが、今回の「実録・連合
赤軍事件」は、当時の 実写フィルムと、無名の役者を使った
どぎついドラマ仕立ての演出画像 を巧みに組み合わせて、
彼らの行動・心理に入り込んで、ドキュメンタ リータッチで
描いている。
若松監督は私と同世代(72)のちょっと太りぎみの男で、
若い時代、い わば赤軍派を頂点(?)とする極左学生運動の
シンパだった。
映画の公開に先立って2月、都内のライブハウスで、ある
フォーラムが開か れた。塩見元議長や若松監督も交え、
若き日の専門用語「路線」と「運 動」の「総括」について深夜
にわたって“極左専門用語”で延々と議論 を交わした。
しかし、言語明瞭、意味不明。これでは今の若い人たちに
理解されるわ けもなく、老人の懐旧マスタベーション大会で
終わった。
いわゆる羽田闘争(‘67)から、浅間山荘事件(‘72)まで、
公安事件 のほとんどを現場で目撃し、取材し、中継リポートし、
ニュース原稿を 書きまくった。その経験からいうと、どう理屈
をつけようと、彼らの理 想・行動は所詮、屁理屈で、現実
離れした「革命ごっこ」に過ぎなかっ た、と私は総括している。
法治国家という建前でいえば、彼らは破壊活動・殺人・
強盗・監禁---破 防法、刑法上の犯罪集団に過ぎなかった。
その動機・思想・目的が”世 直し“だったからといって、正当化
されると考えるのは甘ったれでしか ない。
彼らが自分勝手な高邁な(?)理論を展開して群馬山中アジト
で殺した 12の人柱は、世直しのなんの足しにもならなかった。
彼らはいわば赤軍 派の”鬼っ子“だった。彼らが「銃を持って
立ち向かった」と豪語する 警察機動隊は、権力の心臓部
からは程遠い、じつは手足に過ぎなかった。
大菩薩峠事件に引き続き警察部隊を率い、浅間山荘で被弾、
警視庁公安 部の内田尚孝警部(死後2階級特進で警視正)
ら警察官2人が殉職してい るが、その後、時代は何事も
なかったように進行している。
しかし、映画は、あの時代に何が起きていたのか再確認する
手がかりと して、同時に、若さとは何か、今の若者との対比
を考える上での記録と して、一見に値する。
浅間山荘事件へ至る”連続殺人”の主犯である永田洋子(63)
は、死刑 判決が確定し、脳腫瘍を患いながら獄中にある。
山中のアジトを2人で抜 け出して、東京都内で永田と肉体
関係を結んでいたと言われる元塩見の 部下・森恒夫は逮捕
された(’72)翌年の元日、東京拘置所内で首吊り 自殺して
いる。
懲役労働で、20年間、国家に扶養されて生き、出獄した後、
いまだ革命 家を自称している塩身元議長(66)は、「獄中ボケ
が治っていない」と 一部の元同士から批判される中、雑誌、
新聞の原稿料、講演料、本の印 税などで生活の糧を得て
いたが、最近は時給1000円で西武線沿線の大型 スーパーで
駐車場の管理の仕事をしている。(20080325)
なお、映画は「テアトル東京」(新宿)で上映中。
全席指定席です。
ーーーーーーーーーーーー
★☆☆甦れ美しい日本☆☆
5.日本映画「突入せよ! あさま山荘事件」2002 ☆
----------------------------------------------
若松孝二監督が、体制側から描いた映画であり学生側が
描かれておらず憤りを感じて「実録連合赤軍」を制作する
動機となった映画である。
長野県軽井沢町で1972年2月19日から2月28日に起きた、
あさま山荘事件を当時指揮幕僚団として派遣された
佐々淳行の原作を映画化した。
後藤田長官のまさに偽善ともいえる指示「犯人を生け捕りに
せよ。銃の使用は許可を得てからにせよ。」なるまさに
加害者の生命まで配慮する(後藤田は殺して殉教者となら
せてはいけないと言うが)戦後の日本を象徴するかのような
平和主義の無力さが、乱射する犯人たちに石を投げたり
まさに素手で立ち向かう警官の姿に描かれるのである。
観ていて将来の中国や朝鮮の攻撃に対して何も反撃でき
ない今の日本の縮図が、犯人VS警察官として見えるので
ある。
加えて警察庁と長野県警の縄張り争いの醜さ、物事の目的
完遂するよりも面子にこだわる日本の官僚機構は、現在
でもそのままである。
警察官の尊い命が失われたことに対する非難の目、突撃
して人質救出や犯人逮捕にこぎつけても、難癖をつけ
目的完遂への祝福がないマスコミや日本の戦後の病理など、
まことに空しい気持ちが伝わってくる。
この映画は原田眞人監督で役所広司が佐々を演じているが、
映画としてお粗末極まりない。まず極寒下での攻防戦の
緊迫感が若松の映画のようにリアリズムとして観る者に伝
わってこないのである。犯人を絶対悪として体制側から救出
作戦を描くこと自体、僕は若松が言うような異存はないが、
それなら警察官を英雄的に戦う姿として描くべきであり、
余りにも警察官が情けなく描かれている。
つまり日本映画は戦闘場面や銃撃戦を描く素地が戦後の
平和ボケで無くなったいつものパターンの貧弱な例である。
これでは貴重な命を落とされた警察官も報われない。
------------------------------------
━━━━━━━━━━
ベートーヴェンの命日
━━━━━━━━━━
渡部亮次郎
3月26日は楽聖忌として知られるが、これはベートーヴェンの
命日だから である。40過ぎの頃、ボンの生家を訪ねたことが
あるが、休日で入館で きなかった。以下「ウィキペディア」で
「勉強」する。
《楽聖》は他にもバッハやモーツァルト、ショパン、エルマン
(ヴァイ オリニスト)などにも冠される称号であるが、単に
《楽聖》とだけ言っ た場合はベートーヴェンを指すことが殆ど
である。日本では《楽聖》と いえばベートーヴェンが定着して
いる。
ところが、容姿は小太りで身長も低く、黒い顔は天然痘の痕
で酷く荒れ ていたという。表情は有名な肖像画の数々や、
デスマスクや生前ライフ マスクを作っていたこともあり判明
している。生涯独身。
若い頃は結構着るものに気を遣っていたが、歳を取ってから
は一向に構 わなくなり、「汚れ熊」が彼のあだ名となった。
そうした風体のため、 弟子のチェルニーは少年時代に初め
て会った時、ロビ ンソン・クルーソーを思わせる、という感想
を抱いた。
浮浪者と間違われて逮捕される事も何度も有った。ただ
身なりには無頓 着だったが手だけは念入りに洗うのが常
であった。
性格は、ゲーテに「その才能には驚くほかないが、残念な
ことに傍若無 人な人柄だ」と評されるように、傲慢不遜で
あったとされる。頑固さは 作品にも反映されている。
ゲーテには絶交された。
このように非常に厳しかった反面、実は冗談・語呂合わせを
好んだ。諧 謔性が発揮された作品も幾つも残っている。また
自分も必ずしも楽譜通 りに演奏しないのに、楽譜通りに弾か
ない演奏家には激しい非難を浴び せたという。
日本では、クラシック界の作曲家は「バッハ」、「モーツァルト」
のよ うに原語の発音で表記されることも多いが、ベートー
ヴェンの場合だけ なぜか英語読みが一般的になっている。
ドイツ語では“Beethoven”は「ベートホーフェン」、一般的に
は「ベー トーフェン」と読まれる。だから日本でも明治時代の
書物の中には「ベー トホーフェン(ビートホーフェン)」と記した
ものが若干ある。
しかしなぜか程なく「ベートーヴェン」が浸透した(唯一の
例外は、NHK および教科書における表記の「ベートーベン」
である)。
中国では外来語のvをfまたはwの異音と見なすので、「貝多
芬 (Beiduofen)」となる。
ドイツの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig
van Beethoven、は1770年12月16日ごろ寒村ボンで生ま
れ1827年に死去した。 60歳に満たなかった。
父ヨハン、母マリアの次男。ヨハンは宮廷歌手であったが、
アルコール 依存のために喉を患っており、収入はほとんど
なかった。
だから一家ケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であった
祖父の支援に より生計を立てていた。この祖父が亡くなると
一層生活が苦しくなった。
幼い頃から、ベートーヴェンは父から強制的に音楽の教育を
受けた。父 の目的は、才能を利用し収入を得ることだった。
1778年にはケルンでの 演奏会に出演し、1782年よりクリス
ティアン・ゴットロープ・ネーフェ に師事した。
10代には、父に代わって家計を支えていた。母マリアは父
とは対照的に ベートーヴェンを大切に育てた。ベートーヴェン
の才能が認められ、収 入を得た際には涙を流して喜んだと
いう。
1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンでかねてから憧れ
を抱いてい たモーツァルトに出会い弟子入りを申し入る。
しかし申し入れた矢先に 母が死去し、父と幼い2人の弟の
世話のためモーツァルトに師事すること を断念した。
1792年からウィーンに移住して活動を開始するものの、その
ころ既にモー ツァルトは死去しておりハイドンに師事した。
ウィーンでのベートーヴェ ンはピアノの即興演奏の名手として
名声を高めた。このころに父は死去 する。
20歳代後半ごろからベートーヴェンは持病の「難聴」が徐々
に悪化、後 年には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を
失うという死に等しい絶 望感から1802年には自殺も考えた。
しかし「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる文書を書く
ことによ って、強い精神力をもって自らの苦悩と向き合い、
再び生きる意思を得 て新しい芸術の道へと進んでいくこと
になる。
1804年に交響曲第3番を発表したのを手始めに、その後
10年間にわたって 中期を代表する作品が書かれ、ベートー
ヴェンにとっての傑作の森(作 家ロマン・ロランによる命名)
と呼ばれる時期となる。
晩年は、慢性的な腹痛や下痢など体調の悪化に加え、
甥カールをめぐる 養育権争いやカールの自殺未遂事件が
起こり、苦悩の日々を送っている。
しかし交響曲9番やミサ・ソレムニスといった大作を発表した
前後からの 晩年の作品群はベートーヴェンが到達した境地
の高さを示すものとなっ ている。
こうして名実ともに一流の作曲家となったベートーヴェンで
あったが、 長期間の飲酒癖(とくに質の悪いワインを好んだ)
により肝硬変から黄 疸と肝不全を患って、もはや治癒の見
込みはなくなっていた。
1826年、ベートヴェンの病は命を脅かすほどまでに進行し、
シューベル トなどが見舞いに訪れるなどしていたが、
1827年3月26日、ついに波乱に 満ちた56年の生涯を終えた。
ベートーヴェンが亡くなったとき、ウィーンには嵐が吹き荒れ
ていた。 臨終の床のベートーヴェンは、稲妻が閃きすさまじ
い雷鳴がとどろいた 瞬間に起き上がり、自分の拳を睨み
つけ、目に見えぬ何者かと戦うよう なしぐさをしたかと思うと、
そのまま息を引き取ったと伝えられる。
医学的に見て、肝不全の患者は光に脳過敏状態となり、
大げさに反応す るとされ、ベートーヴェンの場合もそれに
あてはまる。その葬儀は3万人 もの人々が駆けつけるという
異例のものであった。
ベートーヴェンの後の音楽家への影響は甚だ大きい。
彼以降の音楽家は 大なり小なり彼の影響を受けている。
ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、
作品は公式・ 私的行事における機会音楽として作曲された
ものがほとんどであった。
ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係を拒否し、
大衆に向け た作品を発表する音楽家の嚆矢となった。
音楽家=芸術家であると公言 した彼の態度表明は、
音楽の歴史において重要な分岐点となる。
中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番などの
作品に触発さ れた。その後ワーグナーはロマン派の急先鋒
として、音響効果の増大に 成功し、ベートーヴェンの用いた
古典的な和声法を解体し、トリスタン 和音の代表される
和声で調性を拡大した。
一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらも
ワーグナー派に加 わらず、あくまでもベートーヴェンと同じ
音楽形式を用いて作曲をし、 ロマン派の時代の中で古典派
的な作風を保った。
彼を評価する際に、聾者となりながらも音楽家として最高の
成果をあげ た不屈の精神からロマン・ロランをはじめ彼を
英雄視する人々が多く生 まれた。
この考え方により、聴衆や評論家が、ベートーヴェンの恋愛
状態・経済 状態、シンドラーによる逸話を、鑑賞の際に重視
してしまい、客観的な 音楽事象より先に立たせ、ベートー
ヴェンを理解しようとした事は否め ない。
ベートーヴェンは、とかく、神童・天才と呼ばれたモーツァルト
と比較 されるが、モーツァルトが生まれながらの音楽の天才
であったのに対し、 ベートーヴェンは寧ろ努力肌であり、
曲の中に表れるその人間性に惹か れる人が多い。
日本ではモーツアルトよりファンが多いといわれている。私は
その日の 気分によって好みが違い、ベートーヴェンを聴くと
沈む。2008・03・25
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』