【チベットの哀しみ】挑発に怨念噴出
【チベットの哀しみ】挑発に怨念噴出
産経新聞2008年3月22日
中国のチベット族居住地域で騒乱が続発している。チベット自治区の区都ラサだけでなく、四川省など近隣の各省に住むチベット族も中国当局とぶつかっている。チベット族はいま、なぜ、このような行動に出ているのか。チベット仏教最高指導者、ダライ・ラマ14世のアジア・太平洋地区担当初代代表を務めたペマ・ギャルポ桐蔭横浜大学法学部教授(54)は21日、産経新聞に対し、中国共産党の支配下に入ったあとのチベット族の悲惨な境遇を振り返りながら、今回の騒乱に至る経緯などを、以下のように説明した。
ペマ・ギャルポ桐蔭横浜大教授
≪チベット族釈放要求≫
今回の騒乱は3月10日から始まった。1959年、ダライ・ラマがインドに亡命することになったチベット決起(動乱)からちょうど49年にあたるこの日、ラサでは僧侶たちが平和的にデモを行った。それが、死者99人(チベット亡命政府発表)を生む騒乱に拡大した。
中国の温家宝首相はダライ集団が背後で糸を引いた「計画的」な騒乱と主張している。だが、報道された映像をみると、僧侶は素手で店を壊したり、石を投げたりしていた。計画的であれば何らかの武器を持っているはずだ。むしろ、当局側の挑発行為があり、民衆が興奮したのが事実だろう。
3月10日のデモは毎年、中国国内のチベット族、海外のチベット人亡命者で行われている。だが、今年はこれまでのデモと違う点が3つあった。
昨年10月、ダライ・ラマは米議会から「議会名誉黄金章」を受章した。チベットでは祝賀会が全土で行われたが、この際、多くのチベット族が当局に逮捕された。今回のデモは拘束されているチベット族の釈放を求めることが目的のひとつだった。
≪五輪を政治利用≫
今年開催される北京五輪のため、中国政府がチベットを「政治利用」していることに対する抗議の意味も強い。聖火リレーがチョモランマ(英語名エベレスト)を通過するのはチベットが中国の一部であることを誇示するためだ。チベット人にとっては、それぞれの山に神がいる。山に登られること自体、抵抗がある。五輪のマスコットに使われているのはチベットの動物であるパンダとチベット・カモシカだ。チベットにおける植民地支配を正当化するために、オリンピックを政治の道具にしている。
ラサまでのびる青蔵鉄道の開通により、チベットへの「経済的侵略」が明確になってきたことに対する反発もある。鉄道開通によりコレクターらが文化財である寺院の骨董(こっとう)品や床の石などを買いあさっていく。だから、中国人の店が抗議対象になった。
また、チベットは希少金属などの鉱物資源も豊富だ。鉱物資源は青蔵鉄道で運ばれているともいわれている。鉄道は軍事的な目的も大きい。中国はソ連解体時、ミサイルを列車に乗せる技術を入手したといわれている。
中国政府は五輪開催が近づいてから問題が起きるより、3月10日のタイミングを使って、捕まえるべき人を捕まえようとしたのではないか。そのために、平和的なデモに対して挑発的な行為に出て、騒乱を引き起こしたと考える。
中国政府は暴動のシーンを発信することで、「仕方なく騒乱に対処するのだ」との印象を世界に与えようとしたのだろう。だが、チベットには観光客がいた。IT(情報技術)も発達していた。中国が伝えようとしたことと異なる事実が世界に流れた。
≪雰囲気一転≫
私は53年6月、現在の四川省の甘孜(ガンズ)チベット自治州で生まれた。父はもともとは藩主ということもあって、51年に北京政府と結んだ条約に基づいて、県長にもなった。中国側は、私のことを「藩主の子」と呼んでかわいがってくれた。家に毛沢東、劉少奇、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの4人の写真が掲げられていたのを覚えている。人民解放軍の兵士たちも一生懸命、人を助けたり、私にもあめ玉をくれたりしたことがある。
ところが、それがある日、雰囲気ががらりと変わる。子供でも、毛沢東の写真に、傷を付けたりして喜ぶようになった。
私の村では水道がないので、水を川からくんでくるのが、女の子の日課になっていたが、中国軍に届け、乱暴されたことが何回かあって、それがきっかけで、摩擦が起きた。そこで村民が立ち上がった。
■中国指導部 決断の時
■交渉相手 ダライ・ラマだけ
それは1958年ごろだったと思う。逃げながらラサまで行った。何度か、追っ手の中国軍と戦い、村を出た当初は200人の大きな集団だったが、インドにたどりついたときは20人ぐらいになっていた。後から聞いたら、残ったおばあさん2人と兄2人は、餓死したり、射殺されたりしたらしい。
人々の話では、一番つらかったのは、人民裁判で、奥さんがだんなさんを、子供が親を告発したりしたことだという。人民裁判では、殴ったりしなければならなかった。
私の父には、妻が2人いた。つまり私には母が2人いた。年下の母は共産党に非協力的で、騒乱を起こしたうちの一人だ。
その下の母にはそっくりのいとこがいて、(中国軍は)その人を殺し、見せしめにした。下の母を捕まえ、処刑したように見せかけたらしい。
80年5月、パンチェン・ラマと北京で会ったとき、一番つらかったのは刑務所で人としゃべれなかったことだと言った。彼は19年間、独房に入っていたので、私たちと会ったときも言葉がたどたどしかった。
チベット全土では、家族が全員そろっている人はいないと思う。必ず、誰かが犠牲になっている。
≪住職・檀家の関係≫
中国はあれだけ広いのに、北京の時間で国を統一している。チベットと中国は、2時間半から3時間の時差がある。しかし、北京の時間がチベットに適用されているので、チベットではまだ明るいのに、夕食を食べなくてはいけない。これが現実で、いかに北京中心の価値観が押しつけられているかということだ。
チベットの面積は中国全体の960万平方キロメートルのうち、250万平方キロメートル。チベット人居住地域にはチベット自治区とかチベット自治州とか、「自治」という言葉がついている。
チベットは2100年以上の歴史を持つが、チベット人が一番誇りに思っているのは吐蕃(とばん)王朝(7世紀ごろから9世紀中ごろ)の時代だ。チベットが中国にかいらい政権をつくっていたこともあった。
中国とチベットはお互いに、仲良く過ごした時代もある。最も仲が良かったのは、元の時代である。それから、明、清の時代と続くが、この時代はたとえば、ナポレオンが皇帝になっても、ローマ法王の認知と後押しがなければ、国民に対して正統性をもてないように、中国の歴代皇帝とダライ・ラマもそんな関係に似ていた。檀家(だんか)(中国)とお寺の住職(チベット)の関係だった。
檀家が偉いか、住職が偉いかは時代によって違うが、チベット側からすれば、自分たちの方が聖職で偉いと思っていた。こうした関係は1900年代まで続いた。
30年代、チベットには中国の支配が及んでいなかった。その証拠に、日本と中国が戦争したときに、チベット人は中国からかり出されなかった。49年に中華人民共和国が成立すると、朝鮮戦争のどさくさにまぎれ、人民解放軍がチベットに入ってきた。
≪権威、いまだ健在≫
中国政府は、今回のチベット騒乱を押さえ込んで正常に戻ったと言っているが、実際にしているのは、戦車を町に巡回させ、公安当局が疑わしい人物を捕まえることだ。これが世界中に知られれば、波紋を呼び、問題となるだろう。チベット族の運動の火山帯は活発であり、今後、どういうきっかけで何が起こるかは予想がつかない。そうならないためにも、中国政府は一日も早くダライ・ラマと真剣に対話すべきだ。
チベット側に、ダライ・ラマが重視する対話などの穏健路線に不満を持っている人がいるのは事実だ。しかし、最終的にはダライ・ラマに逆らうわけにはいかない。ダライ・ラマの権威は、いまだに健在といえる。
中国政府はダライ・ラマの悪口を言っているが、もしダライ・ラマに何かがあれば、中国政府は交渉相手がいなくなるということを真剣に考えるべきだ。ダライ・ラマの下で問題を解決できれば、後遺症を残さない軟着陸が可能だ。
ただ、中国側との話し合いがうまくいっていないのは、中国指導部のなかに完全に強い人がいないためだ。これまでの話し合いのなかで、かなり具体的な話はできているが、それを実行するには決断が必要だ。その決断ができないから、話し合いを引き延ばしたりするのではないか。
もしかすると、中国指導部は現場の状況を把握していないのかもしれない。胡錦濤総書記(国家主席)は昨年秋の中国共産党大会で2期目を迎えたが、彼が力を持てば、チベット情勢は変わるかもしれない。
『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html
『日本之声』 http://groups.yahoo.com/group/nihonnokoe
(Big5漢文)
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【チベット弾圧】チベット人に扮した中国人警察官がデモ隊を扇動
大紀元より転載(3回目の掲載です。すでに読まれた方はとばしてください。)
【大紀元日本3月22日】3月14日にチベット・ラサ市で発生したデモ隊列と中共軍の衝突事件で、タイ華僑の女性が、デモ隊の中にチベット人を装った警察官が刀を手に潜入していたのを目撃していた。ダライ・ラマオフィス宗教事務スポークスマンのヌガワン・ニェンドラ氏が18日、国際ラジオ「希望之声」の記者に対し、明らかにした。この女性は、BBC放送の番組で中国大使館が提供したニュース写真の中に、チベット人に扮した警察官の写真を見つけたという。
当該の女性はラサ市で研究しており、現地の警察官と親しくなりよく派出所に行っていたので他の警察官のことも知っていた。14日、ラサ市でチベット人によるデモ行進が行われ、当時彼女と他の外国人達は八角街の派出所に名義上「保護」のために集められた。その際、警察官が手に刀を持ち、逮捕した人と共に派出所に入って来たのをその目で目撃。その後、その警察官は、チベット人の服を脱ぎ捨て警察の制服に着替えたという。
ニェンドラ氏によると、この女性がもともと警察官の友人であり、当時その近辺は危険であったため多くの外国人と共に派出所の中に「保護」されていた。それは中共が全ての外国人に早く、チベットから離れさせることを決めたからだという。そのため外国人らは「保護」され派出所の中で待たされ、一刻も早くチベットから離れるよう促された。この女性は、こうしたことを目にして、やっと、警察官がチベット人に扮してデモ隊に潜入していたということは人に話してはいけない秘密なのだということを知ったという。
このタイ華僑の女性はこの出来事を見て非常に驚き、これらはすべて人を欺く行為だと思ったという。中国共産党政府は社会の混乱を造り出している。警察が率先してこのようなでっち上げをすることは許されるはずがない。
2日後、この女性は他の外国人と共にラサから離れることを迫られ、ネパールを経由し、インドに到着し、BBCの番組で中国大使館が提供したメディアの写真からチベット人に扮したあの警察官を見つけた。この女性の目撃では、実際は、チベット人に扮していた警察官が人々を煽動していたという。事実が隠ぺいされていることにこの女性は驚いた。
女性は、インドのチベット人亡命組織にこの事を知らせた。17日の集会において、チベット人組織は外部に対しチベット人に扮した警察官の写真を発表した。中国大使館はメディアに対し前後に2枚の写真を提供したが、その写真からはチベット人に扮した警察官は消えていた。
この写真は中国大使館がBBCと自由アジアの声に対し送ったものだとニェンドラ氏は話す。もう一枚の写真にもこの人物は映っていない。テレビ画面にはこの刀を持つ人物は映っているうえに、人を切りつけていたにも拘らず、その後のカメラはこの人物を追いかけていない。全くのでっち上げであることがわかる。ある人がこれらの問題を提出したところ、テレビ画面からも映像が消えたそうだ。
デモ抗議事件で、警察官が暴徒に扮して煽動や濡れ衣を着せるための行為を図ったのは一度だけではない。1989年チベットに深く入り込んで取材を行った中国の記者・唐達献氏は「刺刀直指拉薩――1989年チベット事件記録」という記録を書いている。記録には、当年チベット人が起こした平和デモの数日後、中共当局は多くのスパイと普段着を用意し、市民や僧侶に扮し計画的に状況を盛り上げ、経塔を焼き払い、穀物食糧販売店を襲い、店から根こそぎ略奪し、民衆による物資の略奪を促した。この作戦が成功した後、軍警察は血腥い鎮圧を展開したのであるとされている。
今回のチベット民衆による抗議行動は1989年と似ている。20歳前後の男性のグループが十分に計画を練ったうえで行動を起こしている。まずスローガンを叫び、すぐさま小昭寺の近くに駐車してあった車両に火をつけ、その後周囲の商店に押し入り、商品を略奪したうえ、続けざまに数十件の商店を焼き払っている。行動には秩序があり、歩調も機敏で動作も手練れたものである。小昭寺付近の道路にはすでに大きさが揃った、重さが1、2kg前後の石が用意され、配備された公安や私服警官らが早めに登場。その後、大量の軍警察と軍用車がすぐに到着し、違和感なく発砲し「暴動鎮圧」というシナリオを成功させる。
中国共産党が、再び暴力事件を画策し、チベットの罪なき人々に濡れ衣を着せるのか否か、世界中が注目している。
(翻訳・坂本、編集・月川)