中国当局、チベット地区を軍事制御 | 日本のお姉さん

中国当局、チベット地区を軍事制御

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▼中国当局、チベット地区を軍事制御(大紀元日本3月21日)
【大紀元日本3月21日】チベット自治区の首都ラサ市で多くの抗議デモが3月10日に発生したと同時に、チベット亡命政府が拠点としているインド北部のダラムサラにおいても、平和的な抗議活動が行われた。14日、ラサで大規模な抗議活動に対して、国当局は大量の解放軍を派遣し武力鎮圧を行った。これまでの情報によると、死者はすでに100人に達しているという。チベット精神的最高指導者のダライ・ラマ14世も国際社会に対して、調査に介入するよう呼びかけた。 ロンドンに本拠を持つ「チベットを救出する団体」のスポークスマンのホウィティカイス氏は、中国当局は西部地区において、軍隊を大幅に増員し、チベット地区にパラシュート隊まで派遣したことが明らかになった。抗議活動が始まってから、中共当局はすでに1万人の軍人・警察を派遣し、軍隊が道路を遮り検査しており、個々の民家の中にまで立ち入りし検査を行った。抗議する人は直ちに逮捕される有様。情報によると、成都軍区はすでに1級ないし戒厳状態に入り、チベットへさらに兵隊の派遣を行っているという。評論家らは、ラサ市に現れた武器装備から判断し、中国当局は人民を鎮圧するためにすでに精鋭部隊を派遣していると分析した。チベット人権民主運動情報センターによると、16日に四川省ガパ県の格爾登寺の数千人の僧侶を読経の時間帯に寺に閉じ込めるために、当局は大量の武装警察を派遣し催涙弾を発砲したという。また、香港のケーブルテレビがラサから発した情報によると、16日午前、6台の戦車を先頭に、200以上の軍用車両や1万人以上の軍人・警察がラサ市内の八角街、大昭寺、布達拉宮一帯において、検問所を設け、チベット人抗議者を見つけるために、民家に立ち入り検査を行ったという。情報によると、八角街付近のチベット住民は自宅から出ることが禁止されており、郊外のチベット人も軍隊が主要道路に検問所を設けているため、市内に入ることはできないという。封鎖された地区内の住民は外出が禁止され、市内の電話や通信も遮断されているため、地元でなにが起きているのか分からないという。
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▼チベット事件の本質:暴動ではなく、暴政への抵抗(大紀元日本3月21日)
【大紀元日本3月21日】中国チベット自治区の首府ラサで3月14日以来発生したチベット人抗議事件は周辺の四川省や青海省、甘粛省などのチベット族自治州にも広がった。中共当局によって厳しく報道管制した中国メディアは一方的に事件を「暴動、騒乱、動乱」と称して、政府側は「チベット独立を唱える内外の分裂主義者による陰謀」としてチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世を批判した。一部の海外メディアは真相を究明せずに、中共当局の報道をそのまま引用し、中共当局の虐殺を「騒乱」「暴動」への鎮圧と報道した。 しかし、事件の本質は中国民衆が中国共産党(中共)の暴政に対する抵抗であり、中共当局が言う「暴動」「騒乱」ではない。

中共は1950~51年、朝鮮戦争の中、「チベット解放」という大義名分でチベットの侵攻と占領を行った。その後、チベット自治区として今日にいたっている。
 チベット人は一貫して中共の占領に抵抗してきた。ピークが59年の「チベット動乱」。中国共産党は徹底的な弾圧を加えた。富裕層や地主ら銃殺あるいは生き埋めにし、僧侶を撲殺、焼殺するなどして、動乱を鎮圧したという。多くのチベット人がインドに逃れ、ダライ・ラマ14世もヒマラヤを越えての亡命の旅が始まった。歴史を振り返って見ると、中共当局が言う「動乱」「暴徒」の意味を解読できる。六四天安門事件の被害者、民主を求める学生さん、官僚の権力濫用によって耕地を奪われた農民、住宅を奪われた市民、及び各種政府政策の被害者となる陳情者達、これらの人々は基本的人権を守るために、努力している。彼らの中国当局への抗争は自由、民主、人権を求めるものであり、尊敬されるべきだが、実際は中国当局に「暴徒」とされ、行った活動が「暴動」「反乱」「騒動」「動乱」とされている。 中共当局の報道は殆どこのように嘘を書いている。嘘の報道をそのまま転載されて、真相は消えてしまう。中国の非人道的な現実と真相を伝えることは国際社会と国際メディアの役割だ。真実を伝えるため、中国共産党の嘘を引用しないことが第一歩だ。

 1959年チベット人の抗争
1959年10月、中国共産党が解放軍4万人を派遣し、8千人のチベット人自衛軍を破って、チベットを占領し、その後、チベット問題をめぐって17条の合意を結び、チベットの自治を確定した。しかし7年後、中国共産党は全国範囲の社会主義化改造を始め、チベット自治は瓦解し始めた。
社会主義化改造されたチベット、人々が貧しくて、個人財産など殆どない。しかも、食糧もないため、飢え死した人は続出、一家全員餓死したケースは稀ではない。 1958年、生活が苦しいチベット人は各地で反抗を起こした。1959年、当時共産党のトップ毛沢東氏の指示によって、銃殺が始まった。多くのチベット人は共産党軍隊に殺害され、当時の自治政府官員(民選官員)も逮捕された、チベットの自治はここで終焉を迎えた。同年3月10日、ダライ・ラマは10万のチベット人を率いて、インドへ亡命、インドで亡命政府を設立した。 これは北京の言う1959年の「チベット武装反乱」、実際には中国共産党によってチベットへの武装侵略である。

 経済面:資源略奪
「中国共産党の統治は、裕福なチベット人の生活を貧乏の窮地に追い詰めた」と今のチベット人の生活を一語でまとめられる。過去十年、中国当局は物産と資源を略奪のため、チベットへの資本投入を増大しつつある。しかし、チベット人の生活は少しも改善されなかった。利益はごく少数の人のところに集中している。 統計によると、1955年~1985年の間に、チベットから内陸へ輸送した材木は地球を13周めぐることができる。鉱物資源に対する過剰採掘はチベットの生態バランスの破壊を招いた。チベット地区にある湖の半数はすでに消えた。草原の砂漠化は広い範囲で深刻化している。

 文化面:信仰破壊
信仰の破壊はチベット人への致命傷となった。チベット仏教はチベット人の精神の支えである。僧侶は現地政治、経済、文化に強く影響力がある。無神論を主張する中国共産党は、これらのすべてを破壊対象にした。調べによると、チベット地区に寺は当時4573基、僧侶は合わせて28万人だったが、共産党に占領された現在、寺は僅か553基しか残っておらず、僧侶は6900人である。信仰以外にチベット文化も破壊を免れなかった。チベット亡命政府1980年の推定によると、チベット地区に現在チベット人が633万人いるのに対して漢民族人は750万人いる。つまり、チベット地区のチベット人の数は非チベット人の数より下回った。
人口だけではなく、文化の漢民族化も進んでいる。高校以降の教育は標準語のみで行われている。現在多くのチベット人は既にチベットの民族言語を使えなくなった。チベット人にとってチベット仏教の最高指導者「活仏」(ラマ教で、仏・菩薩・聖僧などの転生者と考えられている高僧。ダライ-ラマなど、慣例として、先任の活仏が死ぬ前に転生者の住む場所、特徴と述べ、死後、寺の高僧は言われた場所に行き、転生者を探す。口述した特徴と一致する子供が見つかったら、新任活仏として迎える)の転生と指定も干渉された。つまり、中国共産党治下の「活仏」は共産党の指定でないと認められない。現にダライ・ラマが指定した転生者は中国当局により十年以上軟禁された。

 動乱の裏
国際人権組織の証言によると、抗議や抗争活動があったときに、中共当局はいつも軍人を民衆に装わせ、放火や暴力などを繰り返し、鎮圧の口実を作る。その後、戦車と機関銃は容赦なく無実の民衆に向けられた。抗議や抗争の結果、多くの民衆と僧侶の命が奪われた。中国共産党は、チベット人の経済、文化、政治、宗教、信仰など各方面の権力を剥奪し続けている。3月10日に中国共産党がチベット占領した49周年の際、チベット自治区の首都ラサ及び周辺の四川省や青海省、甘粛省などのチベット族自治州で、抗議活動が相次いだ。中共当局は断固として鎮圧に踏み込んだ。オリンピック直前に世界に注目された重大な人権迫害となった。
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ようちゃんの意見。↓
★中共当局はいつも軍人を民衆に装わせる

(便衣隊=べんいたい=と言うテロリストです)

日本人が戦前、中国大陸でこの便衣隊によって」多数」虐殺

されたのです。それで 日本の満州派兵が決められたのです。

日本国民の安全を守るためです。

だから中国大陸を侵略などしていません。
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▼チベット人スタッフを敵にまわす漢人の統治手法の稚拙

(国際派時事コラム・商社マンに技あり!)
チベット「自治区」という語が語義どおりであれば暴動は

なかった。「自治」がない不幸。中国共産党チベット自治区委員会書記の張慶黎(ちょう・けいれい)氏について3月18日の配信コラムに書いたとき、「自治区」の3文字が苦しそうに きしんだ。

■ あまりに稚拙な統治手法 ■
「共産党はチベット人民にとって親のようなものだから、子らが何を必要としているか常に心をくだいている。共産党中央委員会こそがチベット人民のための真の仏陀である」 昨年この張慶黎(ちょう・けいれい)党委書記はこう言ってのけたらしい。この厚顔無恥には評する言葉がない。3月18日の『ニューヨーク・タイムズ』紙がコロンビア大学のチベット専門 Robert Barnett 氏の話を伝えている。漢人によるチベット支配の頭目である張慶黎書記は強硬路線で、チベットの政府機関で働く者はみな、ダライ・ラマを糾弾する文章を定期的に書かされる。チベットの学生・生徒や政府機関で働く者は、寺院に行くことも禁じられ、宗教儀式や祭礼に集うことも許されない。平成18年から張慶黎氏は「反ダライ・ラマ」キャンペーンを復活させ、僧院での「愛国教育」を強化。僧たちは、チベットの歴史を漢人の立場から講釈する長々とした会合に出席せねばならず、ダライ・ラマを糾弾する言葉を口にせねばならぬ。 あきれる他ない。まともな統治を行うなら、まずは身近のチベット人官僚・スタッフの心を掌握し、社会の権威である僧たちを味方につけるのが基本というものだが、張慶黎氏の統治手法はあまりに稚拙だ。道に外れた傲岸ぶりに報いのなかろうはずがない。

■ ダライ・ラマの意思を曲げて伝えて非難する非
ダライ・ラマは既に1970年代に「チベット独立」というスローガンは取り下げて「ほんらいの意味の自治」を求めてきた。ここ数年は、穏便な協議のための密使を北京へ何度も送っているのだが、北京政権はこれをいい加減にあしらう。そして、あろうことか「ダライ・ラマはチベット独立を叫んでいる」と中国国民むけにウソ報道をしつづけるのが共産党のやり方だ。要はただ、72歳のダライ・ラマの生命が尽きるのを待っているのだ。チベット人のなかでは穏健派に属するダライ・ラマが存命のうちにチベット統治の枠組みの改善を図って次の世代に託したほうが、ほんとうは漢人のためにもなる。いまのダライ・ラマ14世が亡くなれば、チベット独立の声を内側から制することのできる権威は存在しない。燃える独立運動は、現今のチベット自治区のみでは満足せず、四川省の西半分や青海省も「独立チベット」の領域なりという声が主流となり、先鋭化しかねない。

■ 北京は何から改善すべきか ■
3月17日の『ウォールストリート・ジャーナル』紙が社説で中国共産党のために処方箋を書いている。≪北京政権がラサ統治を改善するためにできることは多い。まずは、チベット人に宗教の自由な行使を許すところから始めればよい。漢人のチベット移住に補助金を出すのを止め、チベットの遊牧民を強制定住させることも止めれば、歓迎されるはずだ。ダライ・ラマとの対話にももっと真剣に取り組めば得るところがあろう。いまのダライ・ラマが亡くなったら、その後継者が同じく穏健である保証はどこにもないのだ。オリンピックは中国の進歩の姿を世界に示す場であるはずだった。しかし、北京政府が統治不服従を恐れ強権的な過剰反応をしたため、中国が天安門事件以来ほとんど変わっていないことを世界に見せつける結果となった。≫

■ 福田康夫首相は ■
胡錦濤主席が来日したら、わが首相は例によって飄々と迎えるのであろうが、諷刺の刃を十分研ぎ澄ましておいてほしい。間違っても、にこにこ笑って握手しているところをAP通信やロイター通信の記者に撮られないことである。北京にとって絶対譲れぬ一線は、チベットに中国以外の国の軍隊が駐屯することを許さない、ということのはず。しかし目下の稚拙な強権統治が続き、チベット人弾圧が暴走するなら、何らかの枠組みで第三国の軍隊が平和維持のために駐屯することも必要となる。 必要があっても、とうぶん実現はしないだろうが。