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異聞シベリア抑留記 ▽▼ by 江藤一市さん
☆ 武装解除、ウラジオから日本? ―――― 2008/03/17
――【武装解除】
帰国のため集結したのは奉天工業大学。八月も末頃であった。
敷地周辺はソ連の戦車、装甲車などでものものしい警戒態勢
だった。
それまで自衛のために許可されていた小銃、銃剣、拳銃など全部
提出を命じられた。
将校の佩用[はいよう]していた軍刀は勿論、双眼鏡、地図、
磁石、カメラ、小型刃物に至るまで全部出すように達せられた。
どうせソ連軍に没収されるものならと、学校の井戸に投げ
込んだ品物も相当あった。
なかには十人程で組んで、軽機関銃一挺、騎銃五挺を密かに
持ち出し、これに油脂をたっぷりと塗布、桐油紙を厚く巻いて
満鉄沿線の空き地を掘り起こし、地中深く埋めた組もあった。
何の目的だったかははっきりしないが、恐らく隙があったら逃亡
しようと考えていたのだろう。現に夜間逃亡を企て、張り巡ら
された鉄条網を乗り越えようとして警戒兵に発見され、制止を
聞かず銃撃されたことも三度ほどあった。
――【部隊集結】
集結した部隊は、一個大隊五百人、三個大隊千五百人を一個
軍団として編成された。更に、一個大隊を五個中隊に、
一中隊を五小隊に細分し、各隊にそれぞれ隊長をおいた。
中隊長には元将校、小隊長には元下士官を充てたのであるが、
階級章を外してしまうと、もう一般人と変わりない。といっても、
軍歴の長い人は習慣で○○中尉殿、○○隊長殿と呼ぶのは
なかなか改まるものではない。
軍歴の浅い者は直ぐ入隊前に戻って、○○さん、○○君と呼び
合えるが、古い連中はそうはいかない。相変わらず○○古兵殿、
○○班長殿だ。
だが、言葉と動作、行動は別。以前のような尊敬、遠慮、畏怖
などは薄れたことは確か。若し以前のような上官風、古兵風を
吹かせようものなら、若い連中が黙っていない。そのことは上級
者自身も感じ取っているので、言葉遣いまで変わった。
――【新兵の逆ビンタ】
なかにはそれが理解できなくて、揉め事になることも度々
あった。」昔のように顎で使おうとして新兵に反抗され、逆
ビンタを食った下士官もいた。もっともその新兵は、今でいう
暴力団、昔のやくざの若頭と知らなかったから・・・。
集結地では、特に仕事といってある訳でなく、時々何人かの
使役を出すぐらいで、各自自由な時間を過ごしていた。
それぞれのグループで囲碁、将棋、花札トランプなど思い思い。
また別の集まりでは故郷の自慢話など。なにしろ全国各地
からの寄り合い所帯なので、珍しいお国言葉も飛び出して
話は尽きない。
とにかく、間もなく日本に帰れる、家族に会えるという喜びで
一杯。ただウキウキと日をおくった。
――【乗車・満ソ国境まで】
武装解除され、ソ連軍の指揮下に入り、千五百名が一団となり
「ニッポンへの帰還」を信じ切って、三十五輛ほど連結された
有蓋貨車に詰め込まれ、奉天の皇姑屯駅を出発したのが
昭和二十年九月十五日だった。
みんなの顔は晴れ晴れとして、敗戦の暗さなど微塵もなかった。
考えてみると我々の部隊は、直接戦闘に参加したわけでない
ので、敵に襲撃されたということもないし、戦友を目の前で死な
せたという体験もしていなかったので、それ程痛切に戦争を
感じていなかったのかも知れない。
一貨車に六十人ぐらい乗り込んだように記憶している。とにかく
二段装置の寝床とはいっても、筵[むしろ]の上に毛布一枚
敷いただけ、十分手足を延ばせるだけの余裕はない。横になる
と寝返りもままにならない状態。
手足が隣に触れたり、重なったり、寝言、鼾、歯ぎしりと実に
賑やかなもの。神経の細い人にはとても耐えられないものだった
だろう。だがそんなことは問題でなかった。ただ、永く離れている
故郷へ帰れるという喜びに満ち溢れていたから・・・。
――【逃亡者再編入】
列車は二、三時間も走ると停車、列車にトイレの設備がない
ので用を足す為である。一斉に下車すると、見渡す限りの
大平野に向けて(チン)砲列を敷く。
自動小銃(俗称マンドリン)を構えた十数人のソ連警備兵に監視
されながら用足しをする。実に壮観だった。それにしても、一般
避難民の輸送には婦女子も居ただろうが、男はともかく女性は
随分困るだろうなと後で話したものだった。
~~~なにしろ監視兵の視界から離れることは許されなかった
のだから。
この時間を狙って逃走を企てた者もあったらしい。現地から応召
した者で、ある程度勝手も判り、言葉にも不自由しない者が試み
たのだが、全然人家のない大平原、到底生き延びることは難しい。
我々より先に通った列車から逃亡した者が三名、救助を求め編成
に組み込まれたこともあった。
――【食事の心配なし】
昼間は食事より他に何もやることがない。どの貨車も盛んに花札、
トランプを使っての賭博が大流行。なかには元幹部の威厳を
保とうとして見向きもしない人もいたが、そんな人は皆に相手に
されないので、そんな人同士集まって雑談に耽ったり、持っている
本を読み耽ったりしていた。
各人、俸給の何ヶ月分かを纏めて支給されていたし、前回書いた
ような方法で各人かなりな現金を所持していた。なかには負けが
込んで無一文になる者もいたが、食事は一日三度、キチンと
出されているので何も心配はない。
――【一般人も無事帰れるか】
3km行っては停まり、10km走っては一日停車、丸一日も二日も
動かない日もあったりと、ようやく満ソ国境の町「黒河」に着いた
のは、約一ヶ月後の10月13日だった。
途中何度も、有蓋・無蓋貨車を三十輌も四十輌も繋いだ輸送
列車と離合した。ある小さな駅でなどは直ぐ隣り合わせの線路
にどちらも停車。南のほうへ下る列車は有蓋無蓋が半々ぐらい
で、無蓋貨車にはボロボロの天幕が張ってある。
そしてその中には日本人が乗っている。老人子供、そして女ばか
り。真っ黒に汚れた衣服を身に着けている。老婦人の髪は赤黒く
縺れている。若い女性は皆丸坊主。一見して男か女か見分けが
つかない程、埃[ほこり]と垢[あか]で真っ黒な顔をしている。
「兵隊さーん!」「兵隊さーん!」一斉に声が飛んできた。こちらも
皆身をを乗り出す。
「兵隊さーん!」『おーい!何処へ行くんですか~』「判りま
せーん!」『いつ、どこから来たんですか~』「四日前、北安
[ペイアン]から来ました~」
お互いに、つい先日までは考えもしなかった悲惨な境遇に落ち、
この上は一日も早く故郷の土が踏みたいだけ。
「兵隊さーん、頑張ってねぇ~」『元気でね』「達者でね~」
『皆も気をつけて下さいよ~』「早く日本に帰って下さい」
『ご無事で』「さようならぁぁ」『さようならぁぁ』
お互いに自分たちの苦しみも忘れて励まし合う麗しい光景。
そしてその声を残して北と南に別れていく。南下したこの人達は、
一旦ハルピンか奉天か牡丹江などの大都市に集結して、
逐次帰国の途につくのであるが、それが決して順調にいくとは
限らない。
――【駅はごった返し】
それらの事情は、私達が北上の途中の駅で、日本人の駅員
(終戦と同時に日本人と満人との地位が逆転、それ迄の駅長
も助役も役職を剥奪され、雑役夫として構内の清掃業務など
に就いていた)から聞きもしたし、ハルピンの駅頭でも多数の
集団を見かけた。
少し遡るが、8月20日前後だったと思う。私達五人ほどの
集団で、武装解除前だったので各人拳銃を携帯、騎銃二挺
にも実弾を込め携行、奉天駅まで行った事があった。
駅のホームはごった返し、北満の開拓団や、その他の都市
からの撤退してきた人々が、殆ど着のみ着のまま、疲労
しきった顔でホームに座り込んでいた。
男の姿は全くない。いても老人と女性と子供だけ、所狭しと
そこここに屯している。そしていつ仕立てられるとも知れない
南下の列車を待っている。
――【ミルクも無い】
ことに哀れなのは乳飲み子を抱えた若い母親。ろくな食べ物も
ないので母乳は出ない。空腹を訴える乳児の泣き声もか細い。
粉ミルクの缶を持ってはいるがこれを溶かす湯も水もない。
私達が通りかかると、「兵隊さん..ミルクを作るだけでいいです
から水をください!お願い!」と縋りついてきた。
ーーー私達はそれぞれ水筒を携行していた。
満州では生水は絶対飲めない。隊で沸騰させたものを冷や
して水筒に充填するのである。「ああ、いいよこれを使い
なさい」と水筒二個を差し出した。
その母親は、ぺたりと座り込んで、頭を地面にすりつけん
ばかりにして「ありがとうございます、ありがとうございます」
と、涙を流しながら何遍も何遍も礼を言っていた。
その後どうしただろうか、無事に内地まで帰り着けただろう
か、、その時一緒だった連中と話し合ったものだった。
そんな、南下する列車と何度すれ違っただろうか。あの人たち
は朝鮮経由で、私たちはウラジオから日本へ、と、信じ切って
黒竜江を渡った――――。
= この稿つづく =
いただきましたご意見や感想。
onestoさん」70代@男性@無職@関東
シベリア抑留と聞くと・・・・
9日から大相撲が始まった。TVで大相撲を見ていると、
“XXX モンゴルウランバートル出身”という場内放送が
聞こえてくる。
今の人は、ウランバートルと聞いても何も感じないだろう――――。
私はウランバートルと聞くと、捕虜収容所と“異国の丘”の
メロディーが思い出される。そして歌の歌詞が頭に浮かび、
抑留されていた方々の心情が心にしみる次第。
ーーーモンゴル力士が悪いのではない。
悪の張本人はスターリンである!こともお忘れなく。
「異聞シベリア抑留記」収載ページは ▼ こちら!
http://chinachips.fc2web.com/repo5/53etou.html
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ロシア人は、元日本兵や一般の日本人を
シベリア鉄道を作るために「日本に送り返す。」と騙して
汽車に乗せてシベリア送りにした。その後、奴隷のように
日本人をこき使った。その間に死んだ日本人も大勢いた。
戦争が終わっても、日本人がシベリアで奴隷として抑留されて
いたのに、長い間、誰も助けることはなかった。抑留されていた
日本人たちは、アメリカが口を利いてくれて、やっと帰れたらしい。
何でも、ソ連が北海道をとらない代わりに、日本人を奴隷にしても
いいという話をスターリンと誰かがつけたとかいうウワサもある。
ウワサなので、信じることはできないが、抑留された日本人を
誰も助けなかったのは事実。
ロシア人は見かけは白人っぽいが、どうも常識も無いし哀れみも
無いウソつきで野蛮な民族で、信用できない。白人だから
信用できると思うのも無理があるが、チュウゴク人よりは
常識があってマシだと思う。by日本のお姉さん