OJINのメルマガ 《アジアの街角から》
歴史再考 by 竹下義朗さん
☆ 日出づる処の天子は聖徳太子に非ず ―――2008/03/14
某少女コミックに「日出づる処の天子」とかいうタイトルのもの
がありましたが、その中では聖徳太子が「日出づる処の
天子」として登場します。日本史の教科書にも出てくる名文
「日出づる処の天子、書を、日没する処の天子に致す。
恙[つつが]なきや」
大業3年(隋の年号 西暦607年)、時の「倭王」が隋の煬帝
に出した国書の一文ですが、歴史家の多くはこの「日出づる
処の天子」を聖徳太子として紹介しています。
しかし「日出づる処の天子」は、いわれているように果たして
聖徳太子なのでしょうか? 私はそうは思いません。
では、どうして聖徳太子ではないのかを以下に考察して
みようと思います。
なぜ、「日出づる処の天子」が聖徳太子ではないのか?
簡単な事です。「日出づる処の天子」を名乗った人物は「倭王」、
つまり「国王」だったからです。一方の聖徳太子は、
「国王」である推古天皇を補佐する「摂政兼皇太子」。
たとえ実力が「国王」級だったとしても、日本の歴史書
「古事記」や「日本書紀」には「摂政」としか出てきません。
決して、聖徳「天皇」とは書かれていないのです。
そして、もっと重要な事は「日出づる処の天子」の「天子」の
称号です。「天子」というのは「天なる父(天帝)」より地上の
支配権を委託された者のことで「皇帝」と同義です。日本で
「皇帝」と同列なのは「天皇」ですが、では当時の天皇、
推古天皇が「日出づる処の天子」だったのでしょうか?
「日出づる処の天子」は推古天皇か?
これもノーと言わざるを得ません。なぜなら「倭王」の国書が
隋の煬帝に届けられた後、隋は裴世清という人物を「倭国」に
派遣しており、「日出づる処の天子」を名乗った「倭王」とも
会っています。その事は隋側の史料にちゃんと書かれて
います。
さて、裴世清が会った「日出づる処の天子」が、もし推古天皇
だったとしたら隋側の史料にはちゃんと「女王」として書かれ
た筈です。しかし、なんらそのような記載は見受けられません。
三国志の時代から、中国の史料には「倭王」の名前は何人か
登場しますが、卑弥呼や壱与といった「女王」の時は、
きちんと「女王」と書かれています。なぜなら、中国は「皇帝」
「国王」イコール「男性」だからです。
中国の歴史上、女性が「皇帝」「国王」を含めて名実共に
トップに君臨したのは則天武后ただ一人です。
そんなお国柄の中国ですから、相手が「女性」だったとしたら
卑弥呼や壱与同様「女王」と書いた筈です。
では「日出づる処の天子」とは一体何者なのでしょうか?
私は「失われた九州王朝」や「古代は輝いていた3法隆寺の
中の九州王朝」等の著者・古田武彦氏同様、九州の大王
だったと思います。その理由は『隋書』記載の倭国の描写に、
「阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり天に接する者、
俗以て異と為し、因って祷祭を行う」
と書かれているからです。阿蘇山といえば熊本県の阿蘇山
です。まさに九州な訳です。更に、
「倭国は百済[くだら]・新羅[しらぎ]の東南に在り。
水陸三千里、大海の中に於いて山島に依って居る。
魏の時訳を通ずるもの三十余国、皆自ら王と称す。
(中略)其の地勢は、東高くして西下り、邪靡堆[ヤマタイ]に
都す、則ち魏志の、いわゆる邪馬臺なる者なり」
とも書かれています。この記述からすると、倭国の位置は、
百済・新羅、つまり朝鮮南部の東南で、しかも海を隔てた所に
在ったと書かれており、地図を広げるまでもなく、そこには
九州があります。
そして、その倭国は魏志(三国志)の時代から中国とは行き来
があり、首都はヤマタイといい、昔の邪馬台国だというのです。
つまり「倭国」とは、奈良・京都・大阪といった近畿地方を拠点と
した天皇家や大和朝廷とは別の国だった訳です。
最後に「日出づる処の天子」が聖徳太子や推古天皇ではない
という決定的な証拠があります。それは同じく『隋書』の記述に、
┌--------
開皇二十年(西暦600年)、倭王あり。姓は阿毎[アメ=天]、
字[あざな]は多利思北孤[タリシホコ「北」は「比」の誤りか?
「足彦」タラシヒコ]、阿輩鶏弥[オホキミ=大王]と号す。
使を遣わして闕(隋の都・大興城)に詣る。
王の妻は鶏弥[キミ=王・君]と号す。後宮に女六、七百人有り。
太子を名付けて利歌弥太弗利[読み方不明]と為す。
└--------
とあるのですが、上の二つの文章を読まれて分かる通り、
第一に倭王には「阿毎」という姓=苗字)があることです。
ご存じのとおり皇室には姓がありません。
第二に、倭王は「多利思北孤」という名前だということです。
この名前からはどう転んでも聖徳太子や推古天皇との
関連性が出てきません。
第三に、「王の妻は・・・」のくだりですが、「妻」という以上、
倭王は「男性」です。つまり推古天皇ではあり得ません。
そして最後に、皇太子は「利歌弥太弗利」という名前だと
書かれています。この名前からは、推古天皇の「皇太子」
だった聖徳太子の名前との接点は出てきませんし、
聖徳太子の跡継ぎ「山背大兄王[ヤマシロノオオエノオウ]」
の名前との接点も出てきません。
どうひねっても倭王が聖徳太子や推古天皇だったという証拠
は出てこないのです。ここまでの事をまとめてみると、
1.倭王は「日出づる処の天子」つまり「国王」である
2.倭王は「阿毎」という姓を持っている
3.倭王の名前は「多利思北孤」である
4.倭王には「妻」がいる。つまり「男性」である
5.倭王の皇太子は「利歌弥太弗利」である
6.倭国は朝鮮から海を隔てた東南にある
7.倭国には阿蘇山があり、首都はヤマタイという
といった具合で、読まれてお分かりのとおり、「日出づる処の
天子」はその地位・名前・性別・住んでいた場所等、いずれを
取っても聖徳太子ではあり得ないのです。
= この稿おわり =
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中国ひと口話 by けんさん
☆ 満蒙開拓青年義勇軍 ――――――― 2008/03/14
当時、農村の16才から19才の少年が、満蒙開拓青年
義勇軍の名前で満蒙の僻地で開拓に従事していました。
義勇軍という名前から想像するに、平時は開拓、一旦緩急
あるときは銃も取る屯田兵みたいな役割を期待されたので
はないでしょうか。
10才を過ぎたばかりの子供の私の目から見れば、随分
大人に見えましたが、いま16才の少年を見たら本当に
子供ですよね。
彼等にも甘い運命はありませんでした。血気にはやり強盗を
働いて、公開銃殺された人もいます。これは風説に聞いたの
ですが、まだ血が付いた上着が群集の中に投げられとき、
それを皆が奪い合ったとか。
そんな中で今でも忘れられないのが、宮城県出身の門脇某と
いう青年です。彼は部隊を脱走し中国人の農家に入り、
このまま中国に残り農業を続けると言っていました。
確か龍鳳という部落に近い、親日の富農の家に居ました。
撫順に行く度に気にしているのですが、その後の消息は
分かりません。
混乱の 土地に若者 夢をかけ
= おわり:次をお楽しみに =
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反論記事 by hideおじさん
☆ けんさんの「罵是愛:ODAについて」を斬る
――「罵是愛:ODAについて」
http://chinachips.fc2web.com/repo1/014504.html
けんさんとタカヤンさんの論は、双方納得できる部分があり
ます。タカヤンさんの投稿の中には、不適切と思われる
表現もありましたが、タカヤンさんの言いたいことは理解で
きます。
私は、対中国へのODAについて、日本人の多くは「感謝」して
もらいたくて中国を批判しているのではないと思います。また、
「金を貸しているのだから恩を感じろ」といっているのでもあり
ません。
勿論中国だって、お金を借りているからといって卑屈になる
必要は全くありません。私たちの大切な税金を投入して、
それで日中の友好、相互理解が深まるのであれば、それは
意味のあることですし、それでさらに双方が経済的利益を
享受できるのであれば、有効な使い方といえます。
しかし、相互理解の上で成り立つODAであるわけですから、
イデオロギーの違いとは関係なく相手を理解することは当然
のことでしょう。にもかかわらず表向きの中国の態度が、
「日本の風習・文化を理解しない」、それ以上に、領土問題
を含めて日本の意向を全く無視する、自分の都合だけを
押し付けてくる
これに対して「不合理だ」と異を唱えているのです。
けんさんの仰るように、ODAがあるからといって、それに対して
感謝することを求めることは必要ないことでしょう。国と国は
主従関係ではありませんから、当然といえば当然です。
しかし中国の、日本のODAに対する答が「評価する」
ーーーこれはいったいどういった意味なのでしょうか。
まるで日本は主従関係の従であり、その行いを評価している
とでもいいたげな表現は、到底日本人が納得出来るもの
ではありません。ましてや、
世界各国の協力に対して「評価する」という表現を使っている
ならともかく、日本に対してだけ「評価する」というのでは、
日本は暗に「従」だといわんばかりです。
世界中で、相手に対して「礼」を言う国民は少数派でしょう。
しかし国際関係でいうのであれば、「一定の謝意」を表明する
ことは当たり前の「マナー」です。中国では、礼は言うものでは
ないのかもしれませんが、国際的には非礼であって良い理由
にはなりません。
そこは、中国が勘違いしているといわざるを得ません。
「日中の友好のためになれば」まさにその通りですが、中国は
本音で日本と友好関係を築きたいと思っているのでしょうか?
その疑念が日本国民の中にあるのです。
中国の言う「友好」とはなんでしょうか?
例として挙げられておりましたが、南京事件について「東京
裁判の不完全な統計によると、という枕詞[まくらことば]が
付く」とのお話でしたが、では何故「侵華日軍南京大屠殺
遇難同胞紀念館」の入り口に「VICTIMS 300000」と堂々と
書かれているのでしょう。
私が見学したときのパンフレットには「東京裁判の不完全な
統計によると」などという言葉は見当たりません。
それに続いて「中国共産党の成果は素直に認めるべきです」
とのお話ですが、何を素直に認めるべきなのでしょうか?
毛沢東も周恩来も言わなかったことを、何故今「素直に
認める」必要があるのでしょうか。
私が、中国での少ない仕事の中で理解できたことは、いつも
「言い訳」と「強弁」だということです。都合が悪くなると
「言い訳」「良く見てみろ、こう書いてあるじゃないか」、
不完全な統計というのも、後だしジャンケンのような
後からの付け足したものと思えてなりません。
これでは「素直に認めるべき」と言われても無理です。
中国と仕事をして相手の言うことを素直に認めたら仕事に
なりません。これは常識で、政治においても同様でしょう。
「60年前」とはいいますが、30年前初めて中国へ行った時、
大変貧乏な生活だったけれども人民にはピュアさと優しさが
あったように思います。「日本人が忘れかけていたものが
中国にはまだある」と思ったものです。
それが今の中国に感じられないのが極めて残念でなりません。
タカヤンさんも仰っておりましたが、日清戦争の賠償金と
ODAの比較はよく例えられますが、全く意味を成さないものです。
賠償金とODAとは全く性質の異なるものです。それを比較して
ODAはどうだという説明は、まるで日清戦争で日本が清国
から不法にお金を強奪したような捉え方をしてしまう危険性を
包含しています。
言わずもがなですが、「賠償金」というのは、当時、敗戦国から
戦勝国に対して行われたものであり「国際法上の正当性」を
有していたものです。「昔、俺から大金をもらったくせに、
今1万円ぐらい借りたからといって偉そうなこと言うな」と
いっているのと同様です。
そうした主張は、個人間では許されることであっても、企業間
ではありえないことです。まして国家間においては、
このようなことを言い出すと関係が成り立ちません。
ヨーロッパなど、ポエニ戦争の時代から遡って賠償を取った・
取られたというようなものです。
お金をことを言い出したらキリがないですが、日清戦争で得た
賠償金は2億両[テール]、その後三国干渉があり、遼東半島
を返却したことによる追加、及び利子を含めて、最終的に
約3億両になったといわれています。
ここで必ず出てくるのが「現在のお金に換算」という表現ですが、
よく聞かれるのが「財政収入から計算して現在の価値では
150兆円」というものです。
ーーーしかし、現在の価値なら150兆円だから、中国への
ODAは多くないとか少ないというのもおかしな話です。
単なるイメージとしての比較であればともかく、参考にしか
ならない数字で現実の金額の大小を判断するのは
間違いです。あくまで「現在の価値で」とするなら、
1両[テール]=銀37.3g
2008年3月現在「銀10g=約677円」=
「1両=約2525円」
賠償金3億両ということは、¥2525X3億=7575億円=
現在の価格にすると、たった「7575億円」の賠償金だった
ということになります。
また、物価指数からみた価格価値でみるなら、日銀で紹介
されている平均物価上昇指数1.09から算出すると、
日清戦争当時の物価と現在とではだいたい1万倍、
ものによっては6万倍の差があります。
1万倍違うとすると、3億両=当時の日本円で4億円)は、
現在の4兆円であり、6万倍違うとすると24兆円です。
このように、何を規準にするかで金額が大きく変わってきます。
150兆円というのが何を規準にして算出されたものか分かり
ませんが、比較するものによってどのようにも解釈できる数字
を元に、ODAの金額がどうのというのは「中国へのODA
金額はたいした金額ではない」という詭弁にしか過ぎません。
まして、「昔、中国から大金をせしめているのだから、
日本のODA金額などものの数ではない」というのであれば、
それはもう、ほとんど暴言でしょう。
第2次世界大戦敗戦後、日本は在外資産の全てを「準賠償」
という形で当該国へ放棄してきました。その額は、当時の金額
で3795億円で、この63%=2390億円)が中国に渡され
ています。
それこそ今のお金にしても莫大な金額です。中国は賠償を
放棄したといいますが、準賠償というかたちで物理的なモノを
得ているのです。「日清戦争では賠償金をもらったが
大東亜戦争では払っているだろ」という言い方もできます。
こんな「賠償金を払ったとか大金だったとか」そんなことを
問題にすべきではありません。「昔は昔、今は今」とケジメを
つけて考えなければ、ダラダラとどっちつかずの関係になり、
両国のためになるとは思えません。
お互い、ケジメをつけるために「友好条約」を締結したのです
から、割り切るところは割り切らないといけません。
何の説明で「世界銀行」を例にあげたのか理解できませんが、
日本は1952年から1965年まで世界銀行から融資を受け、
黒四ダム建設、東海道新幹線建設、その他製鉄所などの
建設に使ってきました。
これは別に中国から借りたものではありませんし、
1990年に全てを返済しています。
借りたものは返したという当たり前の話です。
昔日本が借りたから「中国にお金を貸すのは当たり前」
「中国にお金を貸さなければならない」というロジックには
ならないでしょう。
今では、世界銀行の最大の資金供与国は日本であり、
その他に日本社会開発基金を設けており、これにも莫大な
資金を供与しています。一方、アジア開発銀行においても
最大のスポンサーは日本であり、歴代頭取も日本人が勤め
ていますが、この銀行から最大の恩恵を受けているのは
中国です。
貧しい時代、日本は確かに世界からお金を借りました。
しかしそれを全額返済し、現在は貸す側となって発展途上国
の発展に寄与しています。お金を借りたことに対して、
日本は十分責任を果たしているのです。
ですから、借りたことを持ち出して中国への融資の是非を問う
ても何の生産性もありません。ちなみにこの銀行融資は、
中国へのODAの換算には入っておりません。
2007年11月を以って、対中国へのODA「有償資金援助」
は中止されましたが、無償資金援助と技術供与は今まで
通りとなっています。問題なのは、見た目のODA金額は
減るものの、アジア開発銀行から中国へ、今まで以上の
融資が行われることになっており、結局中国への資金供与は
何等変わりはないということです。
融資のルートが変わるだけで、国民の目が届きにくい銀行
経由で融資される。
日本国民を欺く行為としかいいようがありません。べつに
中国に貸すなというのではありません、国民の税金が
使われる以上、国民に分かるようにつまびらかにして
いただきたい。
ホームページの端っこに記載するのではなく、融資金が
どのように使われたのか、それを明確にしなければなりません。
日本のODAは、欧米から「ひも付き」と批判されます。
日本の中に、この利権を貪[むさぼ]る輩がいることは大いに
批判されるべきですが、一方で、当事国から感謝されている
面を忘れてはなりません。「日本は金は出すけど、日本の
企業が仕事を請負い、結局利益は日本が持っていく」と
批判されます。
確かにそういった面はあります。しかし日本は、ODA先に
単純にお金を渡すだけでなく、仕事の仕方も教えている
=技術の供与)ということがあるのを忘れてはなりません。
「欧米は、腹を空かしている人に食べ物を与えてくれたが、
採り方は教えてくれなかった。しかし日本は、食べ物は
くれなかったが採り方を教えてくれた。
どちらが良かったか今になって分かった」
この言葉に代表されるように、欧米は、南米・アフリカに
直接お金を渡したが時の為政者の懐を増やすだけで、
その国民が恩恵を受けることは少なかった。
日本が関わった東南アジアのODAと、欧米のアフリカへの
援助をみると、どちらがその国民のためになったか良く理解
できます。
どちらが経済的に発展したかは、いうまでもないでしょう。
日本のODAは、1950年のタイ国への援助からスタートした
と言われています。最初は戦後賠償・補償という意味合いが
強かったのですが、ただそれだけではなく、日本の技術も
付与し、現地の人間に教え、自立できるように考えていた
ことは評価されるべきです。
ある意味、将来自分のライバルとなるかもしれない国を
作ったともいえるのです。現在の中国に対しても同様です。
お金だけでなく、あらゆる分野での技術協力という名前の
「技術供与」、日本の職人、エンジニアが汗水たらして磨い
てきた技術を、現代中国に伝えている。
お金には代えられない「モノ」も渡している、そういうことを
中国に理解してもらいたいのです。
「もらうのが当たり前」とするなら、
それは「乞食根性」といわざるを
得ません。「情けないぞ!中国」
といいたくなります。
「歴史認識=謝罪ではない。ただ認識して謝罪の気持が
生まれることを妨げる必要はない」
まさにその通りで大いに賛同します。ただ、「認識して謝罪の
気持が生まれないこと」を妨げる必要もありません。
中国の歴史認識と日本のそれとは大きく異なります。私は
中国は歴史認識ではなく「歴史利用」だと思っています。
利用するためのものが歴史なのかもしれません。そこには、
日本人が考えるような科学的な根拠も論理性も必要ないよ
うに思えます。
ですから、日本は中国の「歴史利用」に付き合う必要は
全くありません。
ODA・銀行融資、大変結構です。お互いの国民への利益が
あるのであれば、大いにすべきです。しかし現実を見て、
有効に利用されているのか、日本の国益に反することに
使われていないか、そこは冷静に判断しなければならないの
ではないでしょうか。
日本は慈善団体ではないのです。ODAにしろ何にしろ、
私たちの利益になることを優先に考え行動すべきです。
その姿勢を持たない限り、中国はいつまでも
中華思想という物差しでしか計れない国になってしまいます。
それは、中国の発展の為にもならないのではないでしょうか。
~~~~~~
┌──「トッポリーノさん」30代@男性@専門職@近畿
http://chinachips.fc2web.com/repo1/014504.html
┌--------
これはもう既に完全な属国ですわな~~
しかし、どういうメカニズムで本の流通まで妨害をかけられ
るんでしょうか?
東販とか日販のような流通に媚中、屈中連中がもぐりこん
でるんでしょうか?
それにしても、本屋さんから注文がきたら流さないわけには
いかないでしょうに、なんと口実して断るのかな??
└--------
OJIN さんへ
これについてですけれど“中国人の交渉術―CIA秘密研究”
について言えばまず、ネットの AMAZON や YAHOO では
取り扱っていません。
紀伊○屋ーーー「すみません。うちでは無理です。
よその本屋さんでお願いします」と電話で注文した時に
言われました。旭○屋、イズ○ヤでも同様です。
普通と断り方が違うんですよ。
普通は「いつ入荷するか分かりません」とかなんですけどね。
私の言い方が無礼っだったのかなと思い、友人や女房にも
頼んでみたんですが同様でした。
ーーーちょっと怖くなりました。
ただ、私が中韓のことを言っても、以前は心配し過ぎと
取り合ってくれなかった女房、友人の態度が変わったのが
怪我の功名ですかね。(^^) 人を説得するには、こういった
具体的な体験が一番なのかなと勉強になりました。
皆さんも試してみては?(^^)
▼
「(^^) OJIN です(^^)」
しかしほんとに、どういうメカニズムでこうした妨害をかけ得るん
でしょう?
自虐史観思想がまだまだ根強いのか、それとも最後の
悪あがきなのか。YAHOO が扱っていないというのは、
弊誌の発行停止の事実からも推察できるところですが、
AMAZONまで扱っていないというのはどうなんでしょうか?
そんな本を扱うよりメリットのある何かがあるのか、それとも
実際的な実利が(例えば広告などの利益誘導)あるのか、
それとも社内にそういう動きをしている一定の勢力が存在
するのか??
それにしても、大手の書店が軒並みというのは、異様というか
空恐ろしいというか・・・・
ただ「女房、友人の態度が変わった」というのは正に
怪我の功名、人は自分の身で具体的な体験をしないと
なかなか納得しませんから、こういう経験をしてもらうのは
効果があるでしょう。
百「聞」は一「(体)験」に如かず!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本のお姉さんの意見。↓
自由の国、ニッポンで、
大手の本屋が売れない本があるなんて。
どういう闇の勢力が日本を裏から支配しているのでしょう。
日本の本屋は、すでにチュウゴクに支配されているようです。
どうやって、本屋を脅しているんだろう????
“中国人の交渉術―CIA秘密研究”
そんなにヤバイ本なのか????