フライングタイガース(飛虎隊フェイフートゥイ)
フライングタイガースとは、日中戦争の時に、アメリカが
よこした義勇軍で、飛行機に虎の絵を描いていたそうだ。
テレビで、日中戦争の生き残りが証言していたが、
日本兵として汽車に乗って移動していると空から、
フライングタイガースが機関銃で攻撃してきたそうだ。
気が付けば、さっきまで生きていた両隣の日本兵が死に、
ひとり置いて次の日本兵が死に、またひとり置いて、
次の日本兵が死に、機関銃の弾の間隔どおりに、
日本兵が死んでいたのだそうだ。
フライングタイガースは、アメリカ軍が最初から日本を敵だと
見て戦争に参加していたという証拠で、義勇軍といいながら
国民党に武器を与え訓練し、日本との戦争に勝つよう
指導する機関で、日本軍はこの軍団に相当苦しめられたようだ。
それぐらいしか知らないのでウィキで検索してみた。↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日中戦争の勃発
~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成20年(2008年) 3月12日(水曜日)
通巻第2122号 号外
ゴールデン・ウイーク特別企画
~~~~~~~~~~~~~~
上海・武漢・長沙・南岳・衝陽・蕋江・鳳凰・?陵・常徳・広州を巡る9間のツアー。残席僅かです。催行は決定、応募はまもなく締め切ります! 「中国愛国基地」なるものの実態を、この眼で見学します。
@旅行期間:4月26日(土)~5月4日(日)
@旅行費用:¥258,000(二人部屋の場合のお一人料金)
(昨年は中国歴史・愛国主義教育基地を北京・延安・西安・重慶・上海を巡り、中国共産党の歴史認識を見聞しました。コラムニストの高山正之さん、評論家の宮崎正弘さんも参加しました)。
@日 程:下記の通り。旅行ポイントも併せてご覧下さい。
食事内容には細心の注意を致します。
お問い合わせ:日本エアービジョン!) 担当:浅田 均
電 話:03-3538-2071
メール:hito-yoshi5@coffee.ocn.ne.jp
第2回 中国歴史・愛国主義教育基地探訪
~上海、武漢、長沙、衡陽、蕋江、鳳凰、常徳、広州~
月日曜都市間移動日 程食宿
014/26土東京~上海~武漢JL791便(0940/1205)にて上海浦東国際空港へ。
着後、国内線航空便にて武漢へ。
夕方:天河空港出迎え、市内へ直行。□□夕武漢
024/27日武漢~長沙午前:湖北造船所へ、中山艦修復教育センター(中山艦残骸、中山艦史料館、記念碑など)見学、中山公園(国民政府第六戦区受降堂旧跡、受降記念碑)、解放公園(ソ連空軍義勇隊烈士陵園)見学。
午後:辛亥革命博物館見学、武昌駅見送り、T101番汽車(1555~1916)にて長沙へ。
夕方:長沙駅出迎え、夕食、ホテルチェックイン。朝
昼
夕長沙
034/28月
長沙~南岳午前:岳麓山風景名勝区(愛晩亭、陸軍七十三軍抗戦陣亡将士公墓、清風峡作戦指揮部旧跡と湖南省会警察記念堂=第九戦区司令部、長沙会戦碑、陣亡将士名録碑、砲台塹壕遺跡)、麓山忠烈祠など見学。
午後:天心閣見学、専用車にて南岳へ(国道144キロ3時間)。朝
昼
夕南岳
044/29火午前:南岳衡山見学(見所内専用車にて南岳忠烈祠抗日陣亡将士総神位:蒋宋官邸、地下道、防空壕など、南台寺、祝融峰:標高1289.80メートルなど)見学。
午後:祝聖寺、南岳大廟見学。朝
昼
夕南岳
054/30水南岳~衡陽~蕋江午前:専用車にて衡陽へ(国道48キロ1時間)、岳屏公園(衡陽抗戦記念城)、陸家祖屋(衡陽保衛戦記念館)見学、続いて邵陽へ(省道122キロ+国道40キロ3時間)。
午後:昼食、続いて蕋江へ(国道282キロ5時間半)。朝
昼
夕蕋江
065/01木蕋江~鳳凰午前:和平園(受降記念坊、受降旧跡:陸軍総司令部、何応欽事務室、記念抗戦勝利展覧館、資料展覧室、七里橋米国街旧跡)、シェンノートと「フライングータイガーズ」記念館(中米空軍作戦指揮塔旧跡・シェンノート将軍記念館、フライングータイ
ガーズ記念館、中米空軍連隊クラブ旧跡)見学。
午後:和平広場散策、龍津風雨橋(トン族建造物)見学。専用車にて鳳凰へ(国道133キロ3時間)。朝
昼
夕鳳凰
075/02金鳳凰~沅陵~常徳午前:鳳凰古城散策。専用車にて沅陵へ(国道140キロ3時間)。午後:鳳凰山森林公園(鳳凰寺=戦時中張学良氏軟禁の地)見学、続いて常徳へ(国道184キロ3時間半)。朝
昼
夕常徳
085/03土常徳~広州午前:常徳公墓(常徳会戦陣亡将士記念坊、七十四軍五十七師団墓地)、河洑国家森林公園(中国軍砦と塹壕遺跡)見学。
午後:徳山公園見学。空港見送り、国内線航空便にて広州へ。夕方:空港出迎え、市内へ直行、夕食。朝
昼
夕広州
095/04日
広州~東京午前:中山記念堂、十九路軍淞瀘抗日陣亡将士陵園(凱旋門、
記念塔など)見学。
午後:JL604便(1440/1935)にて帰国の途へ。朝
昼
□
説明:以上の内容は現地事情により、一部変更する時もあるので、あらかじめ御了承ください。
ご旅行のポイント
中国職工国際旅行社総社日本部
武漢会戦
1938年6月から10月まで、中国軍が武漢防衛のため、安徽、江西、河南、湖北などの省で日本軍に抵抗した戦。
それは戦略防衛段階で規模が一番大きい戦役であり、南京会戦後、国民政府は西南部の重慶に移り、政府機関の一番重要な軍事最高司令部は武漢に残し、武漢は全国の軍事、政治、経済の中心になりました。日本軍は武漢を占領するため武漢を総攻撃し始めました。
日本軍が武漢を包囲したので、中国軍は戦力保持のためには武漢を放棄するしかありませんでした。日本軍は26日に武昌、漢口を占領して、27日に漢陽を占領しました。 中国軍は抵抗して、日本軍の行動を遅滞しましたが実力は如何ともし難く、日本軍は武漢を攻撃占領しました。
しかし国民政府を屈服させる目的を達せられませんでした。
中山艦
中山艦の元の名前は“永豊艦”で、1910年清政府は日本の三菱造船所に建造を依頼、1913年に完成したものです。
艦長さは62.1メートル、幅8.9メートル、排水量は836トン、航行速度は毎時間13 5ノット、主副砲が8の鋼木構造艦。艦尾に“中山”を彫りつけた銅メダルを象眼しています。定員138名。1925年4月13日、広州の革命政府は孫中山先生を記念するために、それを正式に中山艦と命名。1938年10月24日15時、中山艦は長江をパトロールしていた時、武昌の金口水域で、日本の戦機6機と戦闘、1戦闘機は被弾後に中山艦に突入、中山艦と同時に爆発して、薩師俊艦長と25名の将兵は戦死。
中山艦は、仏法を守る運動、中山艦事件と武漢会戦などの歴史事件に遭遇しました。
孫中山先生の不朽の功績を記載するだけではなく、同時に中華民族が勇敢に戦い、愛国主義精神も体現していました。
1997年1月28日、沈没の59年後中山艦は金口水域で引き上げられました。
備考:
中山艦は中国では「一代名艦」と呼ばれるもので、武漢会戦の時、日本軍飛行機の体当たりにより沈没した以外に、爆弾直接命中撃沈という説もある。当時、中日海軍の実力に大きな差があるため、中国海軍の艦艇がほとんど全部内陸の川と湖地帯に避けて、武漢会戦の時、陸軍支援と水雷敷設など作戦行動に参加したが、日本航空兵力の爆撃により全軍壊滅した。
武漢の投降を受け入れる概況
1945年9月18日、中国華中作戦区域の受降官の孫蔚如、湖北省武漢市の受降官員と米国士官に日本軍第6方面軍の司令官岡部直三郎および幕僚は署名した受降証明書を呈して、軍刀を孫蔚如の副官に手渡しました。
武漢市中山公園の「受降坊」の受降碑には「中華民国34年9月18日に孙蔚如は日本の第6方面軍司令長官岡部直三郎および幕僚成員より降伏文を受領する」と記されています。
ソ連空軍志願隊
1938年から1940年5月まで、ソ連空軍志願隊は15回以上の参戦、総計114機の敵機を爆破し、81機を撃墜し、21隻の敵艦を撃沈し、4000数人の日本軍を殲滅して、中国空軍に協力して戦いました。
1941年、独ソ戦争が勃発、ソ連は殆ど援助する能力がなくなり、ソ連空軍志願隊は命令を受けて、1942年に撤退・帰国しました。
その際、ソ連空軍志願隊の作戦武器と装備を中国空軍(国民党)に引き渡して、中国での任務を終了しました。
備考:
1937年11月末にソ連空軍義勇隊が初めて中国に来て、直ちに南京会戦に参加した。武漢会戦の時、ソ連空軍義勇隊も参戦して、パイロットが100余人戦死した。1941年6月の末に独ソ戦争が勃発後、中国から総員撤退帰国した。この4年の間、ソ連空軍から総計3665人(パイロット1091人)と各種飛行機1250機(爆撃機222機)が中国戦場に派遣された。
常徳会戦
備考:
武漢会戦後の大激戦である。1943年11月から1944年1月まで常徳城を中心とする攻防戦の中で、常徳守備部隊の第74軍57師団は師団長以下少数が脱出した外、8000人近く戦死した。日本軍は常徳を占領するも、中国軍大部隊が迫るのを発見し撤退した。
長沙会戦
支那事変8年の中で、1939年から1944年までの長沙会戦は日中双方にとり、兵力は最多、規模は最大、期間は最長の大会戦です(日本軍は66万以上、中国軍100万ぐらい)。長沙会戦は4回のあります。前3回の会戦は中国が勝勝利し、日本軍は10万7千人の甚大な戦死傷者を出しました。
しかし、1944年5月27日の第4回会戦で、日本軍は36万数人を出動させ長沙を攻撃、中国軍は指揮系統の不備で敗戦戦。1944年6月17日、長沙は陥落しました。
備考:
「大陸打通作戦」の時、長沙はただの3日間で陥落、蒋介石は激怒したそうである。
長沙守備部隊の司令官・第4軍軍長に死刑を言い渡した。
衡陽会戦
日中戦争の中で、最もひどく痛ましいのは、衡陽防衛戦です。中国軍は17600数人で、日本軍は5個師団と1個歩兵団、約11万数人。1944年6月23日から8月8日の衡陽陥落まで、47日間続きました。中国軍第10軍は殆ど全滅しましたが、最後まで力の限りを尽くしてました。
衡陽陥落直前、方先覚長官は自決して国恩に報いるつもりであったが、第3師の師長の周慶祥が方先覚長官の名で日本軍に投降してしまいました。
方先覚は援軍がいつまでたって来ない状況に不満でその事実を認めました。
方先覚と日本第68軍司令官・堤三樹男は休戦交渉をして、47日間続いた衡陽会戦はここに終了した。
備考:
方氏は第1、2次長沙会戦と常徳会戦などに参加したことがある。特に第三次長沙会戦で第10軍第10師団を率いて日本軍の19日にわたる攻撃を耐えて、長沙を守り切ったことで、「長沙死守を以って、猛将の名を獲た」という存在であった。衡陽会戦で47日間抵抗し続けたが、結局方氏以下1万2千人が日本軍に投降した。
その後、方氏がその部隊と共に南京政府の軍隊に編入されたが、重慶方面の特務機関とゲリラ部隊の工作で重慶に逃げ帰った。衡陽城を47間守り抜き、日本軍に中国軍にまさる死傷者を出させたことは、当時の中国軍にとって記録的なものだと見られたのである。
今でも方氏の敢闘精神を讃えて、降参する節を言わない傾向があるのである。
蕋江会戦(湘西会戦或いは雪峰会戦という)
1945年4月から6月まで、中国軍は湖南西部地域で日本軍に抵抗した戦争を湘西会戦と言ます。
日本軍は蕋江地区を占領してから、フライングタイガーに打撃を与えるため、蕋江空港を粉砕と同時に、華北、華中の主要な交通幹線を打通させ、第20集団軍の司令官の坂西一良に第116、第47、第34師団、第68、第64師団の各1部を指揮させて、第5航空隊の1部の支援のもとで、それぞれ邵陽、東安各方から湘西に進撃しました。
中国陸軍総司令官の何応欽は蕋江の空軍基地を守るために、第4方面軍、第3方面軍等7個軍、19師を指揮して、米空軍と協力して、日本軍に抵抗していました。中国軍の決戦地域選定が適切であった事で日本の正面攻撃を阻止し、逆に日本軍の両翼を包囲した為、日本軍の4000数人を殲滅して、日本軍を徹底的に打ち負かしました。
備考:
蕋江会戦について
アメリカの軍事援助を受けて、中国大陸における戦局は逆転し始まる作戦と言われている。
日本の戦史では、この作戦のことを「蕋江作戦」と言い、以下のように述べている。
4月中旬から作戦を開始し、5月には敵野戦軍主力を捕捉撃滅し、其の上で蕋江の飛行場基地を覆滅する計画を立案した、支那軍は軽戦の後で退却し、我が軍はこれに追尾して進撃したが、山が深くなるにつれ敵の抵抗は頑強になり、ついに4月25日 宝慶より90KM前後進出した地点で各隊の進撃を止めざるを得ない状況となった。4月末敵は総攻撃に転じた。
米式装備による豊富な火力、密接なる空地協同、果敢な近接戦闘、迅速なる増援部隊の派遣など、従来の支那軍からは想像できないものであった。
第20軍では『支那兵は弱い』とすることの不可能なことを悟っただけでなく、実際の戦場においては局所的には圧倒されるような事態さえも生じた。
即ち、我が軍の第一線の制空権はなく、兵站線は延び補給は続かず、攻撃は夜間に限定され、彼我戦力の格差は開くばかりであった。5月9日作戦中止の命令を下した。
優秀な米空軍と支那軍との追撃を受けて反転する部隊の苦難は著しく、支那大陸始まって以来最悪の戦場離脱行動であった。
支那大陸において全戦全勝を誇った日本軍は、ついに最後の一戦において敗退したのである。
蕋江飛行場について
1938年1月建築され、米、英、ソ空軍が使用。最盛期には進駐同盟国軍隊は10万人、各種飛行機は400機のぼった。極東地方における二番目大きい同盟国飛行場だと言われていた。
抗戦期間中の張学良軟禁経歴
西安事変後、蒋介石は張学良に対する不信から、当初秘密裡に監視、その後公然と軟禁。1936年から、張学良は相前後して浙江奉化、安徽黄山、江西萍郷、湖南チン州で軟禁され、その後沅陵の鳳凰山に移されました。1938年3月から1939年10月まで、張学良の鳳凰山での軟禁は1年8ヶ月でした。
備考:
鳳凰山で、学良は張治中を介して蒋介石へ軍人抗日戦争に参加したい旨の手紙を2回出したが、返事は無くある日、学良が沅陵の町を散歩する時、不意に元部下の旅団長の一人に会った。沅陵あたりに旧東北軍一個旅団が駐屯していたので特務機関がすぐにこの情報を蒋介石に報告、学良は沅陵から貴州省の息峰へ移された。
広州の投降を受け入れる概況
1945年9月16日午前、広州中山記念堂大広間で日本軍広東地区の投降式が行われた。
国民政府の第2方面軍司令官の張発奎上将と日本軍の第二十三軍司令官兼香港総督の田中久一は投降証明書にサインしました。
これは日本軍全体10万数人が中国軍に降伏したことを表しています。
1945年8月、昭和天皇の終戦の詔勅で中国の抗日戦争は終わりました。
(注 この概要は中国の旅行社が作成したものです。念のため)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
残席わずかです。ご希望の方はお早めに御申し込み下さい!
お問い合わせ:日本エアービジョン!) 担当:浅田 均
電 話:03-3538-2071
メール:hito-yoshi5@coffee.ocn.ne.jp
((( 宮崎正弘の新刊予告)))
黄文雄氏との共著
『世界が仰天した中国の野蛮』(徳間書店、三月下旬刊、予価1600円)
((( 宮崎正弘のロングセラーズ )))
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url?%5Fencoding=UTF8&search-type=ss&index=books-jp&field-author=%E5%AE%AE%E5%B4%8E%20%E6%AD%A3%E5%BC%98
『崩壊する中国 逃げ遅れる日本』 (KKベストセラーズ、1680円)
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=32009305
『中国は猛毒を撒きちらして自滅する』 (徳間書店、1680円)
http://www.business-i.jp/news/book-page/debut/200710130007o.nwc
(書評と申し込み方法 ↑)
『2008年 世界大動乱』 (改訂最新版、1680円。並木書房)
『世界“新”資源戦争』 (阪急コミュニケーションズ刊、1680円)。
『中国から日本企業は撤退せよ!』 (阪急コミュニケーションズ刊)
『出身地でわかる中国人』 (PHP新書)
『三島由紀夫の現場』 (並木書房)
宮崎正弘全著作一覧 (これまでの127冊の著作リストを閲覧できます)
http://miyazaki.xii.jp/tyosyo/index.html
宮崎正弘のホームページ http://miyazaki.xii.jp/
◎小誌の購読は下記サイトから。(過去4年分のバックナンバー閲覧も可能)。
http://www.melma.com/backnumber_45206/
(C)有限会社・宮崎正弘事務所 2008 ◎転送自由。ただし転載は出典明示のこと。
1937年の盧溝橋事件から日本と中華民国との間では急激に
緊張が高まりつつあった。両国との間では戦闘と交渉が
何度も行われたがその結果、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本のお姉さんの補足↓
蒋介石は共産党に捕まってから共産党と仲良くなって
日本に敵対しだした。日本の民間人を数多く惨殺した。
おまけに、ドイツ軍の策士をやとってトーチカや塹壕を掘り
上海市を囲んで日本人を殺す準備にいそしみだした。
そして、上海を襲って、外国人の住む租界も破壊して
日本軍がやったと宣伝した。日本政府はそれまで
下出にでていたが、蒋介石と停戦の交渉をするのを
あきらめた。それで、もう、交渉はしないと宣言した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本は蒋介石の国民政府との交渉を拒否し、中国本土に日本の傀儡政権を作ることを模索し国民党政府とは本格的に戦闘状態(日中戦争)に突入した。戦争は1938年に入ると更に激しさを増し、日本軍による海上閉鎖と航空機による爆撃により中華民国軍の重要な貿易港であったマカオが日本軍により陥落した。日本軍はさらに中国沿岸の港を全て閉鎖し、1938年後半に入ると海上からの一切の補給路の閉鎖に成功した。海上からの補給路確保が困難となった蒋介石は、中国内地の 重慶に首都を移動させ抵抗を続けた。海上補給路を断たれた国民党政府はその補給もフランス領インドシナ(仏印、現ベトナム、ラオス、カンボジア)、タイ王国、ビルマなどから陸路と空路で細々と行うことしか出来なくなってしまった。(この蒋介石政権を支援する援蒋ルートを切断するため、日本軍はのちに北部仏印進駐を実施、日米関係を後戻りできないまでに悪化させた) 1939年に入り日本軍の作戦範囲は小規模となったがその間国民党軍はソ連製の航空機により日本軍の航空機に僅かに損害を与えていた。しかし爆撃機主体の攻撃だったことや1940年の秋ごろから投入してきた日本軍の新型機零式艦上戦闘機の投入により中国空軍の形勢は一気に不利になり、殆どの戦線で活動を停止させられるまでに至った。その後も日本軍の中国侵攻は更に進み、最終的には中国全土の実に1/3まで占領されてしまう。さらに国民党政府の臨時首都としていた重慶にも次第に日本軍の圧力が高まりつつあった。
空軍参謀クレア・L・シェンノートの登場
1937年代、日本軍の脅威を感じていたこの頃に蒋介石は自国の軍備状況が他国に比べて遅れていることから、外国の新型武器・兵器の購入を行い、さらに外国から数人の外国人軍事顧問を雇い入れ軍備の近代化を図った。盧溝橋事件の数ヶ月前、ルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートもこの時、中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。
着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中国空軍内を視察、その間もシェンノートはいかに迫りつつある日本軍航空隊を退けるかを思案した。そして1937年、それまで爆撃機を主軸に活動していた中国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、承認された。
~~~~~~~
日本のお姉さんの補足↓
アメリカは最初から蒋介石を助けるつもりでいたのだ。
義勇軍と言っても、本物の軍隊ですよ。ルーズベルト大統領の
親友が援助オフィスを作ったのだから、アメリカ政府が
金も、軍事力も、技術も全部与えたんです。
アメリカ軍の中から、選ばれた最優秀なパイロットたちだった
そうですよ。
~~~~~~~
派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、資金融資に関してもフランクリン・D・ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コルコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由して行うといった形をとった。また中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、中国国民党軍が資金を使い部隊を集める形式を取った。1940年の夏にシェンノートは中国空軍増強の目的で優れたパイロットを集めるためにアメリカ合衆国に一時帰国した。
アメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group ,AVG)の誕生
アメリカ本土に到着したシェンノートは早速、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集める権利を与えられ、アメリカ軍隊内で早速パイロットの募集を募った。シェンノートの理想は当然、メンバーは戦闘機乗りであること、飛行錬度は高いことが条件であった。またアメリカの中立という立場から(義勇兵)という形で集められたアメリカのパイロットは計100名。しかし形こそは義勇兵としていたが、実質はアメリカ空軍のパイロットが殆どであった。またパイロット達全員は義勇の目的からアメリカ軍を一旦退役する必要があった。またAVGとしての活動中、パイロット達には下記の条件が与えられた。
- 軍退役後は全メンバーに一時金500ドルを支給
- 中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束
- 毎月600ドルを全てのパイロットに支給
- 月支給プラス敵機を1機撃墜するごとに500ドルを支給
パイロット募集の結果、シェンノートの下にはかつて彼と共に飛んだフライング・トラピーズ(陸軍統括の飛行部隊)のメンバーも数名加わり、それなりにベテランパイロットは揃い始めた。しかしその後は思ったように集まることはなく最終的にはシェンノートが理想としていた基準は落とさざるを得なかった。さらに募集した人員の中には機体の扱いなどには未熟な者も多かった為、中国現地にてメンバーに対し再訓練必要であった。
募集名簿がすべて埋まった時、AVGのパイロットは39州から海軍50名・陸軍35名・海兵隊15名の合計100名で編成された。しかし戦闘機訓練と航空機射撃の訓練を受けてきたパイロットはこの中の僅か1/3しかおらず、むしろ爆撃機の経験者の方が多かった。部隊名は中国軍の関係者からは中国故事に習い彼らを「飛虎」と名づけ、世界からはワシントン中国援助オフィスが設立した「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。
飛虎(フェイフー)の活躍
出発の準備が揃ったシェンノートらAVGのメンバーは民間人としてビルマにむけ5~6週間かけて渡航し、現地にて正式に中華民国軍として兵籍に入った。そしてイギリス空軍からラングーンの北にあるキェダウ航空基地を借り受け、ここをAVGの本拠地とした。残りのAVGメンバーも1941年の11月に到着し木箱で輸送された彼らの戦闘機「カーチス P-40」の組み立てを始めた。シェンノートはまず部隊全体を三つの部隊に分けた。
- 第一戦隊「アダム&イヴ(1st Squadron Adam & Eves)」
- 第二戦隊「パンダ・ベアーズ(2nd Squadron Panda Bears)」
- 第三戦隊「地獄の天使達(3rd Squadron Hell's Angels)」
これら戦隊は部隊的にはお互い作戦は共同で行っていたが各戦隊は頻繁に移動を繰り返したため、部隊同士の接触は少なかった。またAVGパイロット全員のフライトジャケットの背中には中華民国軍を援助する米国人飛行士であることを示す認証が縫い付けられた(右図参照)。これはパイロットが戦闘で不時着などし、基地内への帰還が困難となった場合、現地民に救助を願う証票にもなった。
AVGの目的は蒋介石への援助物資の荷揚げ港であるラングーンと中華民国の首都である重慶を結ぶ3,200kmの援蒋ルート(ビルマ・ロード)上空の制空権の確保であった。この補給線を確保するためシェンノートはある作戦をたてた。それは「防御追撃戦略」といわれ敵爆撃機が目標に到着する直前に迎撃機を発進させ迎撃を行うものだった。しかし後から着任した彼の上官との間では彼らが爆撃機重視の見解に対し、シェンノートは戦闘機重視の戦闘を重視し、激しく意見が対立した。中でも中国戦区の参謀長であったスティルウェル陸軍中将はシェンノートに対し、「航空戦力では敵地上軍には損害は与えられない、爆撃機こそが唯一打撃を与えられる物だ、また戦争に勝利するのは塹壕にこもった歩兵である」と豪語、これに対しシェンノートは「塹壕に篭った歩兵など何処にもいません」と反論している。その後もスティルウェルとシェンノートとの対立は続き、シェンノートが唱える「防御追撃戦略」に対してもほかの戦歴を引用し、否決に追い込もうともさえした。
カーチスP-40ウォーホーク
AVGメンバーが使用した機体「カーチスP-40ウォーホーク」は低速で機動力が乏しく、軍関係者からは全体的に旧式であると非難されていた。このカーチスP-40ウォーホークをAVG向けにアメリカ軍は大量発注を行ったため、合衆国委員会ではこの発注に対し不正調査を行ったほどである。旧式と言われたP-40であるが経験豊富なパイロットからしてみれば扱いやすい機体でもあった。装甲の厚さと燃料タンクの自動シーリングは被弾ダメージを吸収し、多くのパイロットを生還させることが出来たしAVGにとってP-39エアコブラと共にまとまった数を揃えられた機体でもあった。これらの機体には機首の下の部分には北アフリカのイギリス空軍第112中隊の特徴である「サメの歯」をイメージしたペイントが施され、記章にはウォルト・ディズニー・スタジオのロイ・ウィリアムズによりデザインされた虎に翼が生えた記章が採用された。
シェンノートはP-40では空中戦で機敏な運動を行う日本軍の戦闘機に勝てないことを知っていた。そこで高高度から進入し近距離から射撃、一気に降下離脱する作戦を立て、その後再び高高度から攻撃位置を定め、再び降下攻撃を行うこの繰り返し行うことを定めた。この作戦は常に数的に劣勢であったAVGに大変有効な攻撃方法だった。武装に関してもP-40には0.3インチ×4と機首の0.5インチ機銃が装備され、他国の戦闘機に比べ威力こそ劣っていたが防御の薄い日本軍機に対しては有効であった。日本軍航空隊との最初の戦闘
国民党軍の駆逐を目標にタイに基地をおいた日本軍は1941年12月20日から盛んに爆撃機を飛ばしていった。この攻撃を防ぐためシェンノートは第一、第二戦隊をキェダウから北の昆明に移動、護衛機無で飛来してきた川崎製九九式双発軽爆撃機10機と遭遇し戦闘状態に入った。報告はさまざまであったがこの内AVGは5~9機の爆撃機を撃墜し、AVG側は損失1機(燃料切れで不時着、その後大破)という戦果を収めた。これは中国ビルマ戦線において日本軍における初めての作戦失敗となった。
シェンノートはその後現地中国人を使い日本軍航空機の早期警戒システムを作り、もし敵機を見かけた場合、現地人から無線などで敵機の進行コースなどをAVG司令部に連絡する方式だった。この警戒システムは非常に有効で日本軍が到着する前に正確な作戦を立てることができ、またAVG各部隊は適切な場所で迎撃を行うことが出来た。しかしビルマ方面ではこのシステムはうまく働かず、基地が日本軍により奇襲をうけた。 1941年の後半に入るとシェンノートは近くのイギリス空軍(RAF)に対してビルマの首都ラングーンの防衛目的のために第三戦隊「ヘルズ・エンジェルス」を貸し与え防衛させる。この第三戦隊はRAFと共に12月13日に始まったラングーンに向けた日本軍の波状攻撃の迎撃に参加した。合計120機以上の戦闘機と爆撃機によるこの攻撃にたいし、RAFとAVG第三戦隊、合計24機は圧倒的に劣勢であったが10機の爆撃機を撃墜、残りの戦闘機も追い払い(AVG側の損害2機)ミンガラドン及びラングーンの被害を最小限に食い止めた。
12月の戦闘と加藤隼(はやぶさ)戦隊との死闘
12月13日の戦闘の後、日本本土では大本営による放送が行われた。主演者であった東京ローズはラジオ放送でアメリカ人に対し、二日以内に日本軍航空隊による攻撃を予想させる放送を行った。その言葉どおり日本軍航空隊は2日前より一式戦闘機「隼」を含む多くの戦闘機、爆撃機を出撃させてきたのに対しAVGは12機のP-40を出撃させ迎撃に当たった。この戦闘でAVG側は前回の戦闘経験がものを言い合計25機の戦闘機、爆撃機を撃墜しAVG側の損害は皆無だった。これは一式戦闘機を初めて撃墜し、さらには今まで無敗であった飛行第六十四戦隊(通称:加藤隼戦闘隊)を初めて破った記録となった。 1942年に入るといままで守勢であったAVGは一転攻勢に転じ、タイの日本軍基地に対し平均3~4機で奇襲をかける。この奇襲によりかなりの日本軍機が地上にて撃破されたが逆に日本軍ではアメリカ人を意地でも打倒する決意を固めてしまった。
日本軍は首都ラングーンをその後二ヶ月間に渡って爆撃、日本陸軍によりラングーンが陥落するとAVGは北方400kmに位置するマグウェへの撤退作戦を開始した。その間各部隊は交代で防衛に当たったが、同年3月の日本軍による奇襲攻撃によりマグウェ航空基地も壊滅的状態に陥った。このときAVGの残存戦力はわずか20機、パイロットは40名まで打ち減らされていた。しかし1942年の7月までインドから来る補給隊の航空支援を行い続けた。
AVGフライングタイガースの解散とその後
残存戦力を使い補給線の護衛に徹したがこのころになると物量で押す日本軍を食い止めることはできなくなっていた。ビルマ・ロードも閉鎖され、とうとう補給線はインドからのヒマラヤ山脈越えの輸送「ハンプ越え」しか残っていなかった。
正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって義勇軍の意味はなく、1942年7月3日、軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。解散命令を受託したシェンノートは部隊を解散し残存戦力を中国・ビルマ方面に展開するアメリカ軍第10空軍の部隊で編成された中国空軍起動部隊(CATF)に編入させた。この7ヶ月間に生き残ったAVGパイロットのうち僅か5名はシェンノートと共にアメリカ空軍に復帰、そして残りのメンバーは報奨金を受け取り祖国アメリカに帰るものもいれば、現地に残り輸送機パイロットとして働く者もいた。
AVGフライングタイガースの解散の日、蒋介石の夫人である宋美齢はAVGメンバー全員に対し賛辞を送っている。そして彼らを婦人は「フライング・タイガー・エンジェル」と呼んだ。 AVGは数的に常に劣勢であったにも限らず、敵機撃墜数は当時の空戦史上最高記録を出した。戦闘中32名のパイロットが命を落とし、3名が捕虜となったが最終的に18名のフライングタイガースのメンバーが5機以上を撃墜し、エースパイロットとなった。 AVGの最終戦果は日本軍の航空機を296機撃墜し1000名以上のパイロットを戦死させたとある。 日本側の記録では被撃墜115機、戦死300名となっている。
貨物航空会社フライングタイガース
大戦終結後の1945年に、元フライング・タイガースの搭乗員などにより貨物航空会社であるナショナル・スカイ・ウェイフレイト社が設立され、同社はその後「フライング・タイガース」という社名に改名された。なお、この会社は1990年代まで活動を続け日本にも定期便を乗り入れていたものの、その後フェデラルエクスプレス社に買収され、その名は消えてしまった。
~~~~~~~~~~~~~~~~
日本のお姉さんの補足。↓
日本とアメリカとの戦争が始まる初期からアメリカは
日本人を殺していたのよね。すでに戦争をやっていたわけです。
アメリカと戦争になるのは、もう、最初から決まっていたのかも
しれない。アメリカ側が日本をやっつける気でいたのだから。
戦争に巻き込まれるのは、もう、運命のようだったのかも。
なにが、フライング・タイガー・エンジェルだよ。
日本軍の航空機を296機撃墜し1000名以上のパイロットを
戦死させた。日本側の記録では被撃墜115機、戦死300名
となっているが、アメリカ側の記録の方が正しいかも。
殺した側の方がきちんと数えているだろうから。