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☆ 終戦のドサクサ ―by 江藤一市さん
終戦を知ったのは、旧満州の奉天(現在の瀋陽)近くの新民屯と

いう村落で、丁度、第十一遊撃隊という、所謂艇身斬り込み隊

を編成中であった。鉄道・発電所・道路・橋梁などの破壊・爆破、

司令部・通信設備など、中枢施設への潜入・襲撃などの特殊

教育を受けた。将校、下士官百名ほどが基幹要員となって、

五百人ほどの現地召集兵とで一個大隊を編成予定で、既に

司令部からは召集令状が発令され、八月十六日には入隊

予定であった。兵器、弾薬、被服、糧秣の受領も完了、

入隊兵の到着待つばかりであった。

ところが思いも寄らぬ終戦。若し入隊兵が来たら即時召集

解除、各自帰郷させよとの上層部からの達示があった。

その際には、被服、糧秣は自由に持ち帰らせて良いとの

指示があった。

なにしろ六百名が優に一ヶ月は保てるだけの物資。それは

膨大な量で、接収していた小学校の校庭に野積みにされて

いた。終戦を知らずに応召してきた者、知ってはいたがとても

信じられず確かめに来た者など様々。三百人ぐらいは来た。

――【召集解除】
達示どおり、各人持てるだけの被服、食料を与えて帰らせる

ことにした。さてそうなると人間の欲とは恐ろしいもの。

勝手に持って帰って良いというので、誰も彼も着れるだけ

着込む、持てるだけの物を持つ。如何に満州とはいえ、

八月は未だ暑さの真っ最中。それにも拘らず冬物まで

着込むのだからその苦しさは並大抵ではない。毛布など二枚

も三枚も畳んで背負う。無理もない、内地ほどではなかった

にせよ、満州といえども物資の欠乏は甚だしく、殊に砂糖

などは、余程でなければ手に入らないような状況だったの

だから・・・。

――【荷物強奪】
そんな風にして除隊。これで無事帰宅できたら良かったの

だが、世の中そう旨くはいかない。既にその時には、

日本軍の敗戦を知った満州国軍の蜂起、中共軍の進入、

朝鮮居留民は大韓民国の旗を立てての暴動化、

奉天市内などは大混乱に陥っていた。各地方の住民も

既に暴徒と化していた。その中に、持ち切れぬほどの荷物を

持った日本人が出ていったのだからただで済むわけがない。

忽ち荷物は強奪され、身ぐるみ剥がれて放り出される。

それはまだ良いほうで、中には抵抗して大事な命を

落とした者、重傷を負った者、拉致されてどうなったか

判らない人も多数いたという

これは、略奪に遭い、パンツ一枚でほうほうの態で逃げ帰って

救いを求めてきた人達の話だった。逃げ帰った人達は、

もう二度と部隊を離れる勇気もなく、ずっと行動を共にする

ことになった。

――【逃亡計画】
さあ、こんな事態になったらお先真っ暗。私は仲の良かった経理下士官二人と相談、三人で逃亡の計画を立てた。私が入隊前に住んでいた鞍山[あんざん]=昭和製鋼所という製鉄会社があった)があまり遠くなく、そこまでなら三人行動を共にすれば何とか行き着けるだろうという自信があった。----中の一人は満州語が頗る堪能だった。鞍山まで行けば、兄、姉も居るし、知人も沢山居るので何とかなると考えた。
さて、そうなると何よりも金。何とかして逃走資金を各人五千円ぐらいは準備せねばと申し合わせた。しかしその頃の下士官の俸給が三十円程度。ひと口に五千円というが容易な額ではない。

――【逃亡資金】
そこで我々は、野積みしてある物資を持ち出して金に換えることにした。それが悪い事だなどとは別に思わなかった。この物資をこのまま置いておいも、どうせ暴徒化した住民に持ち去られるのだし「金の作れるのはその人の才覚だ」ぐらいにしか思わなかった。

太車[ターチョ]と呼ぶ大型の二輪車に、米、砂糖、味噌、醤油、被服類などを積み、馬に挽かせ、各人拳銃を腰に、小銃には弾丸を込めた完全武装で村へ向かった。現地でも物資の窮乏が甚だしいので、すぐ人が集まって来た。

満州語の達者な彼が交渉に当たったが、足許を見透かされて買い叩かれる。是が非でも金に換えたい我々、結局それだけの品物で千五百円。各人の分け前は五百円。目標の五千円には程遠い。
後に聞いた話では、馬三頭を五千円で売った者もいたとか、そんなことなら挽
かせて行った馬も車ごと売れば良かったと口惜しがったものだった。

――【物資を換金】
また、軽機関銃を持出して一万円で売り払った豪の者もいたとのことだった。私も医務室に保管してあった薬品類に目を着けた。今は市中ではとても手に入らないサルバルサン=梅毒治療薬、所謂606号)・スルファミン剤=化膿防止、創傷治療剤)モルヒネ・コカイン・パピナールなど麻酔剤を相当量保管していた。それらの薬品を鞄に詰め、拳銃二挺を左右の腰につけ奉天まで出掛けた。正に命懸けだった。何軒かの病院、薬店を回り、持って行った薬品を全部売り払い千五百円ほどの金を手にした。それ以後も何かと売り払い、結局各人三千円ほどの資金ができた。

――【逃亡を保留】
ところがそのうちに、何処か一ヶ所に集結して軍隊を解散、日本に帰るようになるという噂が流れた。そうなると逃亡の計画も揺らぎ始めた。
三人で話し合って、ひとまず見合わせることにした。逃亡を決行しても果たして成功しただろうか? 逃亡していれば、その後に遭遇した抑留とい事実はなかった訳だが、果たしてどちらが良かったのだろうか?

「人間万事塞翁が馬」
今でもどちらが良かったという結論は持たない。
 = この稿 続く=
「日本のお姉さんから」

日本人は危機感を持つと団結するからなんとかなるような気がします。危機感を持って、政治家をみんなが選ぶようになればですが。

明治維新でも日本人は団結した。太平洋の島々や他のアジアの地域のように、西洋の国に日本が植民地にされることを恐れたのです。日本人が恐れて団結したら物事がさっさと進みます。

恐いのは、新聞とテレビしか見ないでメディアに洗脳されたお婆ちゃんやオバチャンです。ちゃんとネットでいろんな情報を調べてくれたらいいけど。この間の選挙でも。マニュフェストなど読まないで民主党に入れた女性は多かったと思います。

気が付けば政治家が全員元外国人だったら、恐い。元外国人でもいいから、心が日本人でないと困ります。

日本は環境立国にならないと生き残れないし、石油以外のエネルギーでなんとかしないと、今後も石油を順調に輸入できるのか疑問です。それに、食料自給率が低すぎる。危機感を持って生き抜かないといけないのです。

だから、チュウゴクが隣から嫌なことばかりしてくるのは、日本国民が危機感を持つのにちょうどいいですわ!チュウゴク人は反日だと、はっきり分かったから。今は、明治維新を起したような人々が必要です。坂本や、大久保みたいな人が出てきてほしい。
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太田述正コラム#2042(2007.9.4)
<韓国のナショナリズムの謎(その2)>
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 日本帝国が掲げていたのは、文明開化(朝鮮語ではmunmyong kaehwa)の東アジア全域への普及という旗印です。
 そのイデオローグは福澤諭吉(1835~1901年)でした(注3)が、何ということはない、文明開化と、現在のブッシュ政権含め、歴代の米政権が、明示的・黙示的に掲げてきたところの、自由民主主義(経済面では市場経済)の世界への普及
、という旗印とは、中身は全く同じです 違うのは、日本は、台湾でも朝鮮半島でも文明開化化することに成功したけれ
ど、米国は、スペインから奪い取って植民地としたフィリピンでも、そしてコロンビアから奪い取って保護国としたパナマでもその自由民主主義化に成功せず(注4)、また現ブッシュ政権は、中東においてその自由民主主義化に悪戦苦闘している点です。

 (注3)朝鮮日報の記事(上掲)は、koreaweb上掲が文明開化や、そのイデオローグたる福澤に言及しているのに、あえて言及せず、代わりに日本の影響下に朝鮮半島で生まれた東洋主義・・東洋の黄色人種は団結して欧米に対抗すべきだとする主張・・という、いわば文明開化論の矮小形態にのみ言及している。 (注4)パナマは、1903年に、パナマ運河掘削を計画していた米国によってその傀儡国家としてつくられた。パナマには米軍が駐留し、1947年には米南方軍司令部がパナマに創設された。この司令部が米本土に移転するのは1997年になってからであり、パナマ運河を挟む米国のパナマからの租借地が返還されるのは、1977
の条約に基づき、ようやく1999年になってからだ。(
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1658062,00.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%8D%97%E6%96%B9%E8%BB%8D   。どちらも9月4日アクセス)
コロンビアを中華民国で、パナマ運河租借地を関東州租借地で、パナマを満州国で、米南方軍を旧日本陸軍の関東軍で置き換えてみていただきたい。
 さて、日本帝国が文明開化を東アジア全域に普及させようとしたのは、やや単純化して言えば、反文明開化国であるロシアが東漸してきていたことから、自らが文明開化するだけでなく、朝鮮半島や支那をも文明開化させることによって、共同でロシアの脅威に対抗しようとしたためです(注5)。(注5)この発想の原型を、横井小楠(1809~69年)に見出すことができることは、以前(コラム#1609、1610、1613で)指摘した。

ところが、朝鮮半島や支那は笛吹けど踊らず、文明開化への歩みが余りに遅々としていたため(注6)、日本は、まず朝鮮半島を保護国化し、次いで伊藤博文韓国統監府統監が暗殺されるに及んで朝鮮半島を併合し、やがて支那に進出して行くわけです。(注6)1884年12月に朝鮮半島の文明開化推進派の金玉均や朴泳孝らがクーデター起こすもこれが失敗に帰した時、福澤諭吉は、「朝鮮は未開だから私たちが彼らを導いて上げるべきで、その国民らは頑固なことこの上なくて武力を使用して
も進歩を助けなければならない」と記した。また福澤は、翌1885年の「脱亜論」(コラム#220)でも、「朝鮮人の無知蒙昧なこと、南洋の土人に譲ず・・支那人の卑屈にして恥を知らざれば・・悪友を親しむものは共に悪名を免る可からず」
と記してる。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/08/27/20060827000002.htm 。2006年8月27日アクセス)
それでは、朝鮮民族観念を援用した朝鮮ナショナリズムとは一体何だったのでしょうか。それは、日本と文明開化に反対する朝鮮半島の反動的勢力が掲げた、人工的イデオロギーだったのです。1931年に朝鮮総督になった宇垣一成(1868~1956年)は、朝鮮ナショナリズムについて、「日章旗の庇護の下、有色人種唯一の純独立国民として生存することは、互いの光栄と名誉として誇りと感じるものであり・・朝鮮人に不服があるように話す輩がいることは、真に不可解この上ないことだ」という感想を記しています(朝鮮日報上掲)。

 それもそのはずであり、日本の統治下で、朝鮮半島は驚くべき経済長を成し遂げ、法的・制度的にも近代化が進んだことは争いがたい事実なのです(注7)。

 (注7)李氏朝鮮末期においてさえ、全国をカバーする統合された市場は存在しなかったし、首都のソウルでも市場での取引は取引全体の約4割にとどまっており、また、地方の特産物を中央に納めさせる貢納制が維持されていた。更に、財政は恒常的な赤字であったというのに、途方もない資金が国王に尊号を捧げたり、宮殿を修築したりする虚飾に使われていた。(
http://www.chosunonline.com/app/ArticleView.do?id=20070402000054  
(4月3日アクセス)、及
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/09/03/20060903000012.html (2006年9月5日アクセス))

最近の研究でも、例えば、朝鮮総督府が1927年に始めたラジオ放送は朝鮮語放送の比重を次第に高め、朝鮮半島の近代大衆文化を創造したし、同じく総督府が1930年代に推進した農村振興運動には、天道教・キリスト教の農本主義者も積極的に参加し、農村の生活環境向上をもたらしたことが判明しています 他方、例えば、1927年に結成された女性運動の組織である槿友会は、朝鮮ナショナリズムを前面に掲げたため、女性解放についてほとんど成果を挙ることができなかった、といったことも判明しています。

 (以上、特に断っていない限り
http://japanese.chosun.com/sie/data/html_dir/2006/08/27/2006082700000
0.html(2006年8月27日アクセス)による。)(続く)