頂門の一針 第1200号 (重要です。)
東京大空襲がきょう
━━━━━━━━━ 渡部亮次郎
「東京大空襲」と言った場合、特に、規模が最も大きい1945年
(昭和20 年)3月 10日に行われた空襲を指す。
大東亜戦争に行われた空襲の中でもとりわけ民間人に大きな
被害を与えた空襲として知られている。
当時はTVが無い。新聞も極小さかった。小学校(国民学校)
4年生。東京 なんて知らないから、そこで何万人も死んだ
なんて全く知らないで育っ た。やがて空襲は秋田にも
やってきて敗戦となった。
空襲を行ったB-29戦略爆撃機3月10日の大空襲は、日本の
中小企業が軍需 産業の生産拠点となっているとして、市街地
と市民そのものを攻撃対象 に行なわれた低高度夜間爆撃
である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第 313、第314の
3個航空団が投入された。
1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始
された。B-29 爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による
爆撃は、午前0時7分に深川 地区へ初弾が投下された。
深川の三業地と芸者衆が全滅した。その後、城東(江東区)
地区にも爆 撃が開始された。午前0時20分には浅草地区
でも爆撃が開始されている。
火災の煙は高度7000mまで達し、秒速20mと台風並みの
烈風が吹き荒れた。
東京大空襲でB-29は日本の貧弱な防空能力を見越し、
殆どの機銃と弾薬 を降ろして通常の約2倍、6tの高性能
焼夷弾を搭載していた。
投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した
集束焼夷弾E46を 中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾や
エレクトロン焼夷弾などであり、 投下弾量は約38万発、
1,700tにのぼった。当
夜は低気圧の通過に伴って強い北西風が吹いており、
この強風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。
警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉
出来ず空襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは
初弾投下後の3月10日午前時15分)。
「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入した。
まず、先 行するパス・ファインダー機が超低空でエレクトロン
焼夷弾を投弾して 閃光で攻撃区域を本隊に示し、爆撃機編
隊も通常よりも低空で侵入して 発火点を包囲するかたちで
集束焼夷弾E46を投弾した。
狙い撃ちの攻撃で、着弾は高高度爆撃よりはるかに精密に
なった。後続 編隊は早い段階で大火災が発生したため、
非炎上地域に徐々に爆撃範囲 を広げたが、火災による
強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の投下 予定地域
ではない荒川周辺まで広げた。このため、火災範囲は更に
拡が った。 折からの北西の季節風(空っ風)が火勢を煽り、
延焼を拡げた。 東京近郊の飛行場に配備されていた夜間
戦闘機隊が迎撃に向かったが、猛火による猛烈な上昇気流
と煙により迎撃は困難を極めた。やがて火災の煙と灰で
各飛行場は離陸が困難になった。
これら複数の要因が重なり被害が拡大。8万人以上(10万人
以上とも言わ れる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸
に及び、東京の3分の1以上 の面積(約40平方キロメートル)
が焼失した。
焦土と化した東京の下町。この時使用された焼夷弾は日本
家屋を標的に した物であり、ドイツがロンドンを空襲した際に
不発弾として回収され た物を参考に開発された。
当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。通常、航空爆弾
は瞬発または0.02~0.05秒の遅発信管を取り付けることで、
爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。
しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバー
キルとなる。そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」
が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。
火災から逃れるために、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート
造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模があまりにも
大きいため、火災旋風が至る所で発生し、建物に炎が滝の
ように流れ込み、焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息死
する人も多かった。
また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、
翌朝の隅 田川は凍死・溺死者で川面が溢れていた。
逆に、東武伊勢崎線沿いに内 陸の春日部・草加方面へ脱出し
生存した例が散見される。3月10日は日露戦争の奉天戦の日
であり、陸軍記念日となっていた。日本戦争継続の気力を
削ぐため、あえてこの記念日が選ばれたと言われて いる。
3日後の3月13-14日に大阪大空襲が行われた。
3月以降も東京への空襲は容赦なく続けられた。3月10日に
次いで被害の 大きかったのは5月25日で、470機が来襲し、
それまで空襲を受けていな かった山の手が主な対象になった。
死傷者は7415人、被害家屋は約22万 戸の被害となった。
3月―5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また、
多摩地区の 立川、八王子なども空襲の被害を受けている。
その後、空襲の矛先は各 地方都市に向けられていく。
1944年11月24日にヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮により
はじめられ た本土空襲は、軍需工場、製油所などの目標
地点のみ攻撃するピンポイ ント攻撃であったが、思わしい
効果が上がらなかったため、翌年の1945 年1月21日に
カーチス・E・ルメイ少将と交代した。
「軍需工場の労働者の家や使用する道路、鉄道を破壊する
ことが効果的 だ。」というヘンリー・H・アーノルド大将の意を
受けたルメイは、大規 模な無差別攻撃を立案、その手始めに
東京を選んだ。 ただし、かなりの リスクを背負っていた。
それは、
(1)燃料節約のためB29は編隊を組まないで、単独飛行に
したこと。コー スを外れる危険性があった。
(2)低高度(高度7千~8千フィート)からの焼夷弾を投下する。
日本上空 の強い風を避け、目標を絞りやすいが、対空砲火
や日本の戦闘機の標的 になりやすい。
(3)爆撃の効果を上げるために搭乗員を減らしてまで、焼夷弾
の搭載量を 増やした。迎撃に遭遇しても反撃できなかった。
というもので、猛将とよばれたルメイも一睡もせずに攻撃隊の
返事を待 っていたという。「この空襲が成功すれば戦争は
間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ。」
「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのである」
とルメイ自身証言している。
これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため、
全国各 地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が
犠牲となった。
建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃であるが、実際に
は多数の民間 人(非戦闘員)が犠牲になっており、
戦争犯罪ではないかとの指摘も強 い。しかし日本政府は、
サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を 放棄している。
戦後1964年(昭和39年)に日本政府は、日本本土爆撃を含む
対日無差別 爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将に対し、
航空自衛隊の育成に貢献 したとの理由で勲一等旭日章を
授与した。
近年では、戦勝国政府に対する極端な擦り寄りではないかと
言う批判の 声もあるが、真珠湾空襲に大きく関わった
源田実は当時この勲章授与を 賞賛した。しかしルメイは後年、
「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」と
述べている。ルメイの前任者ヘイウッド・ハンセル少将は
高高度からの軍事目標への精密爆撃にこだわった故に解任
されている。
無差別戦略爆撃は、原爆投下も含めてアメリカ大統領たちの
選択であっ たと言ってよい。もっとも、同じアメリカ軍内でも
チェスター・ニミッ ツ元帥などはルメイをあからさまに批判して
おり評価は分かれている。
身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀る震災
慰霊堂に合わ せて納められ、現在は東京都慰霊堂になって
いる。慰霊堂では毎年3月10 日に追悼行事が行われている
ほか、隣接する東京都復興記念館に関東大 震災及び
東京大空襲についての展示がある。
東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願う
ことを目的 として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを
条例で定めた。一連 の空襲による正確な犠牲者数は不明
である。
東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し
平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により
判明した分の犠牲者名簿(1942-1945年の空襲犠牲者)を
納めている。東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。
丸の内付近では東京府庁(東京都庁)と東京駅が空襲を
受けたが、空襲 を免れた区域も多い。これは占領後の
軍施設に使用する予定の第一生命 館や明治生命館などが
あった為と言う。
築地付近が空襲を受けなかったのは、アメリカ聖公会の
建てた聖路加国 際病院があったからだとも言われる。
中央区の佃島・月島地区も戦火を免れ、現在も戦前からの
古い木造長屋 が残っている。3月10日の下町空襲で
甚大な被害を受けた旧・深川区(現 在の江東区)とは
晴海運河を挟んで明暗が分かれた形となった。
ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京
帝国大学付近 も空襲は受けていない。
神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったとも
言われるが定か ではない。また神保町古書店街の蔵書の
消失を恐れた為という俗説もあ るが、米軍はドレスデン爆撃
など文化財の破壊を意識せず(むしろ好んで) 行っている
ことから信憑性は高くない。
皇居は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼
により明治宮殿 (明治憲法の発布式が行われた建物)が
炎上した。このため、松平恒雄 宮内大臣が責任を取って
辞任している。
3月10日、アメリカ軍の損害は撃墜・墜落12機、撃破42機で
あった。
<後の戦犯裁判で、B29の搭乗員を処刑した罪に問われた
岡田資(たす く)中将の法廷闘争を描いた映画「明日への
遺言」(小泉堯史監督)が、 今月1日から全国で公開されて
いる。
リーダーのあり方や無差別爆撃の非人道性を問うた作品だ。
戦争体験者 らにまじって若い観客も目立ち、関心の高さを
うかがわせる。米国の国 際映画祭でも上映され、拍手が
鳴りやまなかったという。
日本と米国の特に若い人たちに、無差別爆撃の戦争責任に
ついて、改め て問い直し、検証してほしい。
>産経新聞「主張」2008・3・9」
太田仲三郎 実業家。3月の空襲で死去。
立花家扇遊 芸人。3月の空襲で死去。
豊嶌雅男 力士。3月の空襲で死去。
古屋慶隆 政治家。3月の空襲で死去。
枩浦潟達也 力士。3月の空襲で行方不明。
吉村操 映画監督・脚本家。3月の空襲で死去。
石井菊次郎 元外交官・外務大臣。
5月の空襲で行方不明。
織田萬 法学者。5月の空襲で死去。
4代目柳家枝太郎 落語家。5月の空襲で死去。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・03・09
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福田も小沢もミスキャスト
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加瀬 英明
日本を福田康夫首相と、民主党の小沢一郎代表の2人が
動かしている。
いや、動かしているといってはなるまい。二2は日本を取り
巻く国際環境 が大きく変わって、正念場に立たされている
というのに、日本をすっかり 停滞させている。
福田首相はまるで総理大臣のマネキン人形のようだ。
「協調、協調」とい う空念仏を唱えるだけで、日本をいったい
どこへ導こうとしているのか、 さっぱり分からない。
福田内閣で唯一つ評価できることといえば、海上自衛隊を
インド洋へ戻し たことだ。日本がアメリカや、ヨーロッパの
友邦諸国と力を合わせてイン ド洋の安全を確保することは、
国益を守るためにどうしても必要なことだ。
日本は長くにわたって「政治小国だが経済大国」だといわれ
てきた。とこ ろが、この10年、日本の表看板であった経済力
を衰えさせるようになって いる。日本は経済政策も、対外
政策も無策で漂っている。
日本は米ソが対決していた冷戦が続いていた間は、「政治
小国」であって も、アメリカがしっかり守ってくれたから、
安穏としていられた。だが、 冷戦が終わってから、日本を取り
巻くアジアの環境が一変した。
冷戦下では中国は脅威ではなかったし、北朝鮮が核弾頭を
持っていなかっ た。
中国が経済、軍事超大国として出現しつつある。
アメリカは中国に幻惑されている。その例として、ホワイト
ハウスを目指 すレースで先頭に立っているヒラリー・クリントン
上院議員が、アメリカ で最も権威ある外交専門誌『フォーレ
イン・アフェアース』に昨年寄稿し て、「米中関係がアメリカに
とってもっとも重要な二国間関係であり、米 中両国が
アジアの平和秩序を構築すべきだ」と主張しているが、
日本に言 及していなかった。
日本の存在が軽くなっている。このままゆけば、日本は
「政治小国」から、 さらに「政治零細国」に転落しかねない。
それなのに、福田内閣は海上自衛隊をインド洋に戻したほか
には、これか ら日本がなすべきことを一つもしようとしていない。
日本の衰勢をどうし て食い止めたら、よいのだろうか。
福田首相も、小沢代表もミスキャストである。そのうえ、小沢
代表は正常 さを欠いている。頭がよいのだろうが、党首として
次の選挙に勝つことに しか関心がなく、小賢しいだけで、
常識を欠いている。
小沢代表は「自衛隊の海外派遣は、国連安保理事会もしくは
国連総会の決 議によって認められた活動に限るべきだ」と、
主張している。国家が何で あるかという基本を、踏み外している。
私たちは自衛隊を日本の主権を守るために養ってきたが、
国際機関でしか ない国連に日本の安全を委ねようというのは、
日本が主権を放棄すること と変わりがない。
仮に日本が周辺事態に見舞われて、自衛隊が日本の領域の
外で武力を行使 しなければならない場合に、国連決議を
取りつけなければ、自衛隊を動か せないといっている。
日本の周囲で周辺事態が発生した場合には、中国が
関与していよう。中国 は国連の意思決定の中枢機関である、
安保理事会の五大国である常任理事 国であるから、
自衛隊の出動を阻むために、拒否権を行使することになろ う。
民主党は与党が提出したテロ特措法案に対して、国連決議
がないかぎり自 衛隊を海外へ派遣することはできないと
いって、立ちはだかった。
日本の存立を国連に預けようというのだから、常軌を
逸している。国連と いえば他のどの加盟国も、政治的に
利用しようとしている機関であるにす ぎないのに、小沢代表は
国連を世界の最高権威として崇めて、その奇怪な 祭壇の
前に拝跪しようとしている。もとより国連は、そのような権威を
備 えていない。
このように国際政治の初歩的な知識を欠いて、無知な人が、
参院を支配し ている野党の舵取りであるのは情けない。
日本が危機に陥った時に、国連が救護に駆けつけることは
ありえない。日 本は国連よりも、同盟国を頼りにするべきだ。
国連が国際機関にすぎない のに対して、同盟国には実体が
ある。日本が今日、中国や、ロシアに対し て一人前の顔を
して応対できるのは、国連のおかげではなく、アメリカが
後ろ盾についているからだ。
1956年にブレジネフ書記長のソ連が、ハンガリーを侵略した。
ハンガリー は国連加盟国だった。ハンガリー動乱として知ら
れている。国連はハンガ リーを救援しなかった。
その13年後に、トウ小平がベトナムを侵攻したが 国連は
動かなかった。
小沢代表は国連決議のもとで、陸上自衛隊を国際貢献の
名分を掲げて、ア フガニスタンに送り込むことを説いている。
だが、アフガニスタンで治安 維持に当たってきたアメリカ軍、
イギリス軍、ドイツ軍をはじめとする諸 国軍が、すでに多くの
戦死者を出している。
それだったら、船の上で参加した方が賢明だ。あるいは
イラクの場合のよ うに、航空自衛隊をクウェートに派遣
しているが、空から物資を運んだ方 がよい。
小沢代表は子供の危険な火遊びをしている。
海上自衛隊が給油した燃料を、アメリカの空母がアフガニス
タンの平和維 持活動以外の目的に使ったといって、騒ぎ
立てている。アメリカは日本の ためにも、「アフリカの角」から、
ペルシア湾岸、インド洋までの安全を 図っているのだから、
めくじらを立てるほうがおかしい。同盟は猜疑心で はなく、
信頼関係によって支えられているものだ。(2008・3)
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報道に欠けていること
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花岡 信昭
]このサイトの基本テーマは「安心」「安全」だ。まさにその
テーマに合致 すると思われるのが、沖縄で起きた「米兵に
よる少女暴行事件」とイージ ス艦「あたご」の漁船との衝突
事故だ。改めて、この2つのケースが何を 問いかけたのか、
総括しておきたい。
双方のケースに共通していたのが、大方のメディア報道の
スタンスだ。
「沖縄」では米兵・米軍側を一方的に断罪し、「あたご」では
自衛隊側が 全面的に悪いという報道ラッシュであった。
とくにテレビのワイドショー はその傾向が一段と強かったよ
うに思う。
断罪された側はいずれも、反論、言い訳ができない立場に
ある。とかくメ ディアはそういう「逆襲が絶対にない相手」に
対して居丈高になる。メディ アの世界に長年いた者としても、
いま必要なのは、常識的判断と沈着冷静 な報道スタンスで
はないかと痛切に感じる。
「沖縄」のケースから見よう。こういう言い方は注意しないといけ
ないの だが、米兵による事件、不祥事、不始末はいまに
始まったことではない。
再発防止には全力をあげてほしいが、「軍隊」というのは、
あすは自分の 生命をかけなくてはいけないという心理が働く
特殊な組織である。そうし た面での専門家による兵士の管理、
ケアーが重要になる。
そのことを前提として、あえていえば、今回の事件は14歳少女
が夜の8時 半に繁華街で遊んでいなければ、そして、米兵の
バイクに乗るという軽率 な行為をしていなければ、起きなかった
ケースである。
「子どものしつけ」の徹底を家庭や地域、学校に求めることが、
この事件 が残した教訓だろう。重ねていうが、普通に道を
歩いていて拉致されたと いうケースではなかった。
少女側は「強姦」で逮捕された米兵に対し、告訴を取り下げ、
米兵は結果 的に不起訴となった。米兵は「強姦」の事実を否認、
警察当局による証拠 収集や捜査も難航していた。
少女の将来を考えれば、これ以上の言及は避けたほうがいい
のだろう。地 元では「極悪な米兵による被害少女」として知られ
てしまっている。不起 訴となった以上、「強姦事件はなかった」の
だから、周辺は少女の今後を 温かく見守ってほしいものだ。
だが、「反米・反基地」勢力はこの事件によって勢いづいた。
地元の首長 や議会は、普天間返還、代替基地建設の調整を
「さぼる」理由ができた。
これが政治の世界の「いやらしさ」である。
不起訴となったからには、この事件によってぎくしゃくして
しまった日米 関係の修復に努めることが急務だ。
政府関係当局には周到かつタフな事後 処理を求めたい。
関係修復にどれだけの時間を要するか、そこに日米同盟 の
強靭さがかかっている。
「あたご」のケースも複雑だ。漁船の父子が行方不明という
痛ましい事故 だが、横須賀に向かって直進していた
「あたご」と漁船の船団が鉢合わせ してしまった。
メディア報道は「あたご」側の過失を一方的に責め立てている。
防衛省、 自衛隊の対応の遅れも集中砲火を浴びた。そこは
プロ中のプロである以上、迅速、適確な対応が求められたの
は当然だ。だが、今後の海難審判の結果は予断を許さない
ものがある。海上衝突予防法では、船舶同士の衝突を回避
するため、「行会い船」「横切り船」などの状況別に細かな
規定を設けている。
「行会い船」はほぼ真向かいに行き会う場合で、互いに相手
の船の左舷側を通過する、つまり、右側通航を義務付けている。
「横切り船」は互いに進路を横切る場合で、相手を右舷側に
見る船は相手の進路を避けなければならないとし、さらに、
相手の船首方向を横切ってはならない、としている。
つまり、互いの位置関係によって、回避行動が違ってくるの
だ。今回のケースでは、僚船の1隻は右左に蛇行して衝突を
避け、1隻は「あたご」の直前を横切った。海上保安本部が
捜査に全力をあげているが、その結果によっては、これまで
言われてきた構図が変わる可能性もある。
それにつけても思い出すのは、「なだしお」と「雫石」である。
いずれも発生当時は自衛隊側が全面的に指弾された。
新聞社にいて、あのときの興奮状態をいまだに覚えている。
だが、最終的な判決は違ったのである。
1988年7月23日、横須賀沖で海上自衛隊の潜水艦
「なだしお」と遊漁船 「第一富士丸」が衝突、「第一富士丸」
が沈没して30人が犠牲となった。事故当時は「なだしお」側
を責める報道があふれ返ったが、海難審判庁は「なだしお」
の回避の遅れを指摘する一方で、「第一富士丸」にも直前
での左転に問題があったと判断した。
刑事裁判では、「なだしお」艦長、「第一富士丸」船長の
双方に執行猶予付きの禁固刑が下されている。
1971年7月30日、岩手県雫石町の上空で航空自衛隊の
戦闘機と全日空機が衝突、双方とも墜落した。
全日空機の162人が犠牲となり、戦闘機の訓練生は
パラシュートで脱出、生還した。このときも、自衛隊側に全面
的な非があると報道されたが、最終的な構図は違うものと
なった。当時、別の戦闘機で飛んでいた教官と訓練生が
業務上過失致死などで逮捕、起訴されたが、訓練生は無罪、
教官は執行猶予付きの禁固刑となった。
裁判の過程では全日空機側の過失も認定された。戦闘機は
時速840キロ、全日空機は900キロ。全日空機が下側から
追突、水平尾翼で戦闘機の右主 翼を引っ掛けたというもの
であった。
戦闘機よりも全日空機のほうが速かったという事実に驚いた
のをいまだに覚えている。民事裁判は20年近くかかったが、
最終的に過失割合は「国2、全日空1」と認定されている。
昔の資料を改めて点検してみると、メディアの報道姿勢に
基本的な変化が見られないことを指摘しないわけにはいか
ない。「沖縄」では米兵・米軍が、「あたご」では自衛隊側が
「全面的悪玉」として報じられた。「だしお」「雫石」とまった
く同様の構図である。
これも集団的過熱取材(メディア・スクラム)のなせる弊害なの
だろうか。一時的にカーッと血が上ってしまうような報道スタンス
では、事実が見えてこない。再発防止の方向性も危うくなる。
相次いだ2つの事件、事故はメディアにも痛烈な反省を迫る
ものだ。
【日経BP社サイト「SAFETY JAPAN」連載コラム
「我々の国家はどこに向かっているのか」弟100回・3月6日更新】
再掲
★★花岡信昭メールマガジン★★541号[2008・3・8から転載