おすすめ記事4
ようちゃん、おすすめ記事。↓
日本の進路★0386★080309★住基ネットを廃止すべき
★ 表題: 住基ネット合憲判決を下した、最高裁の金銭感覚及び対外勢力への配慮が極めてお粗末、住基ネットを廃止すべき
佐藤ライザ qx1x@104.net
◇ 最高裁は2008年3月6日、住基ネット(住民基本台帳ネットワーク)に関する判決を、大阪高裁・金沢地裁の違憲判決を覆す形で、個人のプライバシー権を侵害するとは言えず、「合憲」としました。
◇ その理由は、
1、秘密性の高い情報が入っていない(住所・氏名・生年月日・性別・11ケタの住民票コード・変更履歴の6情報に過ぎない)。
2、住民サービス向上や事務効率化の目的で使われる。
3、情報漏洩(ろうえい)等のシステム上の欠陥が認められない。
4、意図的な(悪意の)漏洩や目的外利用には、刑罰・懲戒処分がある。
◇ 住基ネットは、高価な設備投資を必要として構成されており、毎年の維持コストも、馬鹿にならない金額であります。にもかかわらず、住基ネットを活用している住民の割合は、僅か1-2%程度に過ぎません。
◇ つまり、「費用対効果」が極めてゼロに近く、日本の逼迫した財政事情を勘案すると、「ムダな投資の極み」と言わざるを得ません。これは、最高裁判事の金銭感覚が、学童や幼児以下であると暴露しており、かかる高級公務員の存在自体が、日本の財政悪化の大きな要因であります。
◇ 住基ネット導入の根底的な陰謀は、「闇の勢力」等の海外グループが、日本を乗っ取って完全支配した暁に、国民(住民)に番号を付けて、奴隷化するための悪意の準備行為であると、気が付く必要があります。最高裁の判事には、目先の法解釈(憲法判断)に拘泥し、将来を見通す力量が完全に欠落しています。かかる連中は、結果的に「反日売国奴」に転落していると申せます。
◇ 現状では上記の6情報のみで、不動産登記簿に比較しても非常に少なく、活用(悪用)する価値は殆どゼロであります。しかしながら、住基ネットにあらゆる情報(学歴・職歴・犯罪歴・病歴・婚姻離婚歴・発言歴・思想信条宗教・祖先=ルーツ情報・金融資産等)を追加して行けば、日本民族を奴隷として管理するのに、好都合なデータベースが、労せずして出来上がることなります。――理由1関連―
◇ 利用価値が、住民票取得・旅券申請・国家資格受験・年金受給者の現況確認等に限定されており、非常に多くの国民として、必要度が極めて低位の水準に留まっています。しかも、住基ネットを導入した地方自治体で、人件費等のコストダウンになったところは、皆無であります。――理由2関連―
◇ 住基ネットは、全国各自治体の関係者が極めて多いために、一人でも悪意の人間がおれば、機器(コンピューター)を如何に整備しても、全国ベースで簡単に情報の漏洩が発生します。現状でも、住基ネットカードの不正取得・情報の流出が、既に数十件単位で相次いでいます。――理由3関連―
◇ 如何に罰則を強化しても(たとえ死刑を加えても)、多額の報酬を提供されると(例、ガンで余命幾ばくも無い公務員なら1億円以上の金銭獲得によって)、悪事(情報漏洩)を働く違反者が必ず出て来ます。――理由4関連―
◇ 結論として言えることは、「住基ネット」は、憲法云々問題というよりも、日本の財政悪化を阻止するため、また日本民族の奴隷化準備に反対するため、断固として直ちに全面的に撤廃すべきであります。
(日本の進路、No.0386、住基ネットを廃止すべき、完)
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
人物探訪 :国作りは人作り ~ 山川健次郎(上)
会津の白虎隊士・山川健次郎が多くの人々
に助けられて、エール大学を卒業するまで。
■1.「会津の少年を書生に使ってくれるよう」■
「秋月先生、こたびはつらい戦争をされましたなあ」と奥平謙
輔は言った。「無残きわまりない戦争でした。女子供も武器を
とって戦い、死んでいきました」と秋月悌次郎は答えた。
時は明治元(1968)年、会津落城の直後、所は越後の水原(す
いばら)であった。二人は8、9年ぶりの再会であった。かつ
て会津藩士・秋月悌次郎が萩を訪れた時、当時19歳の長州藩
士・奥平謙輔が詩文の添削を頼んだのが、縁の始まりだった。
戊辰戦争では奥平は二十代の青年だったが、長州干城隊参謀
として越後攻めを指揮し、戦後はこの地の鎮撫に忙殺されてい
た。そして秋月の身を案じて、手紙を出した。そこで秋月は、
会津落城後、猪苗代に謹慎していたが、密かに抜け出して、越
後までやってきたのだった。
秋月は会津藩主・松平容保の救済、および藩士とその家族2
万人の生計の道を涙ながらに訴えた。奥平は深く同情して、助
力を約束した。
「この際、もう一つ、お願いがござる」と秋月が言った。「な
んなりと申し出てください」と奥平が答えると、秋月は会津の
少年を書生に使ってくれるように頼んだ。
今の会津藩は罪人として謹慎中であり、子弟の教育もままな
らない。藩の再興は次代の少年たちに託すしかない。そのため
には、勉学の場を与えることが必要だ、と秋月は考えたのであ
る。
「なるほど。分かりました。お預かりしましょう」と、奥平は
約束した。これほどの窮地に陥っても、次世代の教育を案ずる
秋月の見識に、心打たれたのだろう。「かたじけない。本当に
かたじけない」と秋月は声をつまらせた。
■2.「かならずや会津のために役立つ人間になるのです」■
書生として選ばれた一人が15歳の山川健次郎だった。山
川家は中流武士の家柄だったが、健次郎の祖父・山川兵衛は
家老にも抜擢された人物だった。父はすでに病没していたが、
家督を継いだ兄・大蔵(おおくら)が若年寄として、存亡の
危機に立った会津藩を支えていた。
籠城の際には、健次郎も城内にいて白虎隊士となっていた。
落城の時に、白虎隊士20名が飯森山で自決するという悲劇
が起きたのだが、健次郎は年少のため城内に残されていて助
かったのである。
健次郎は明治元(1868)年11月13日、雪の降りしきる晩
に、もう一人の少年と猪苗代を脱出した。翌々日、家族が身
を寄せている水谷地村に立ち寄った。
「健次郎ではないか」と母は絶句した。祖父が二人の姉たち
に支えられて出てきて「健次郎か、健次郎か」と涙をこぼし
た。
これから越後に行って書生となることを語ると、二人の姉
はたいそう喜び、「死にもの狂いで勉強し、かならずや会津
のために役立つ人間になるのです」と言った。
祖父は「爺いも年をとった。もうお前には会えないかも知
れぬ。これが形見じゃ」と言って、いつも腰につけている愛
刀を健次郎に手渡した。健次郎は刀を掴んで、泣いた。
祖父は、籠城中でも「いずれ戦争は終わる。そうなれば学
問が大事になるのじゃ」と言って、健次郎にフランス語の勉
強を命じたような人物であった。
健次郎は商人の小姓に扮し、刀はその荷物に隠して越後に
向かった。途中、何度か詮議されたが、なんとか辿り着くこ
とができた。
■3.恩人・奥平謙輔■
健次郎らは奥平のいる佐渡に渡った。当時は賊軍の会津人
は罪人であり、その罪人の子弟を堂々と書生に連れてきたの
である。しかも「会津は立派に戦ったものよ」と開け広げに
語っていた。
奥平は時には健次郎らに、吉田松陰のことを話した。
先生は身分差を一切無視した方であった。人間は皆、
平等じゃと説かれた。ただし怒ると怖い人で、勉強をせ
ぬと紙と筆を奪って庭に投げ捨て、死を恐れずに進むべ
しと怒声をあげた。
やがて、奥平は新潟に戻り、さらに翌明治2(1869)年夏に
は健次郎らを連れて、東京に戻った。東京では健次郎は奥平
とともに、長州藩江戸屋敷の一角に住んだ。
しかし数ヶ月のうちに、奥平は明治政府内での権力争いに
嫌気がさして、長州に戻ることになった。出発の朝、奥平は、
数冊の漢籍と荻生徂徠(おぎゅうそらい)の本を健次郎らに
贈った。健次郎は敵軍の子弟である自分たちにここまで面倒
見てくれた奥平に心底、頭が下がった。
奥平とはこれが最後の別れになった。奥平は明治9(1876)
年に萩の乱の首謀者として捕らえられ、斬首される。その日
以来、健次郎は恩人・奥平の書を自分の部屋に飾り続けた。
■4.「アメリカに留学せよ」■
健次郎は奥平の言いつけにしたがって、越後の大庄屋の世
話になり、その土蔵にある万巻の蔵書を読んで勉強に励んだ。
明治3(1870)年春、会津藩の人々も罪を許されて、斗南藩
(現在の青森県むつ市)3万石として再出発を許された。
斗南藩の兄・大蔵から手紙が来たのは、その秋のことだっ
た。「アメリカに留学せよ」と、夢のような事が書いてあっ
た。
北海道開拓使次官の黒田清隆は「おいどんが思うに若い者
をアメリカに留学させ、そこで学んだ知識と体験を大いに活
かして開拓に当たらせねばならん」と、強引に北海道開拓の
ための留学生派遣を実現させた。そして「北海道は寒い、薩
長の子弟だけではだめだ。賊軍である会津と庄内からも選ぶ
べきだ。反対はおいどんが許さぬ」とぶちあげた。
黒田の要請を受けて、兄・大蔵が健次郎の派遣を決めたの
だった。健次郎は兄がいつも自分のことを考えてくれている
ことに、いまさらながら頭が下がった。そして長州の奥平謙
輔先生がこの事を知ったら、どんなに喜んでくれるだろうか、
と思うと、涙が止まらなかった。
先に長州人・奥平謙輔の恩を受け、今度は薩摩人・黒田清
隆の英断で、米国留学の機会を与えられた。これらの人々に
とって、国家有為の人材を育成するには、薩長も会津もなかっ
たである。
■5.「山川、お前は勉強せねばいかんぞ」■
明治4(1871)年正月元旦、黒田に引率された健次郎らを乗
せた汽船「ジャパン号」は横浜港を出て、一路アメリカ西海
岸を目指した。
健次郎は片言の英語を使って外国人に話しかけ、何でも聞
いた。船員たちはみな親切で、「ボーイ、ボーイ」と健次郎
を呼んで、英語を教えてくれた。
サンフランシスコからは大陸横断鉄道に乗った。煙を吐い
て矢のように走る汽車には、腰が抜ける思いがした。
「山川、お前は勉強せねばいかんぞ。会津人は苦労している
んだ。分かってるな」と黒田は健次郎には特に目をかけてく
れた。健次郎は黒田の言う意味が痛いほど分かっていた。
日本のための留学ではあるが、極寒の斗南で苦労している
会津の人々の期待を健次郎は一身に担っていた。石にかじり
ついてでもアメリカの大学を卒業して日本に帰り、日本のた
め会津のために、何事かをなさねばならなかった。
問題は、何を勉強するか、だった。会津の武士道は立派だっ
たが、兵備は西洋式の薩長に遅れをとった。「これは理学が
足りなかったせいではないか」と健次郎は考えた。理学とは
今日の科学技術のことである。
会津だけではない。日本が西洋列強の武力・経済力に遅れ
をとっているのも、理学が足りないせいである。蒸気船にし
ろ汽車にしろ、すべて科学技術の所産だ。健次郎は決心した。
■6.「いい加減なことをしたら国辱ものだ」■
健次郎が移り住んだのは、ニューヨークから150キロほ
ども北西に入った人口1万人の田舎町ノールウィッチで、そ
この中学校に入学した。日本人は一人もいなかった。
「ケンジロウ、なにも心配することはない」 ハチソン校長
は東洋の島国から来た18歳の留学生を温かく迎えてくれた。
合衆国の地理や歴史、ラテン語、算術などをすべて英語で勉
強するのだから、大変である。健次郎は無我夢中で勉強した。
3カ月もすると相手の言葉を聞き分けられるようになり、半
年が過ぎると会話にも不自由しなくなった。
そんな健次郎をハチソン校長は支え続け、健次郎の個人指
導も買って出てくれた。
1年後の1872(明治5)年夏、健次郎はエール大学付属の
シェフィールド理学校に見事合格した。ハチソン校長は我が
事のように喜んでくれた。
この年の晩秋、わずか12歳の妹の捨松が、日本人初の女
子留学生の一人として健次郎の元にやってきた。女子留学生
の派遣も、黒田清隆の発案だった。捨松はアメリカ人牧師の
家に下宿し、そこの娘と仲良しとなって、元気一杯のおてん
ば娘に育っていった。捨松は11年後に帰国し、薩摩出身の
参議陸軍卿・大山巌の夫人となる。
エール大学には何人かの日本人留学生がいたが、皆、日本
の将来は我々が築く、という意気込みで勉強していた。そん
な中でも健次郎は「いい加減なことをしたら国辱ものだ」と、
謹厳な先輩格になっていった。
そんな中で斗南に移住した人々が開墾に失敗し、全国にち
りぢりになっていった事を知ると、健次郎は涙が止まらなかっ
た。
■7.「証文を書きなさい」■
日本政府は多くの留学生をアメリカに送り込んでいたが、
遊び半分の学生もかなりいて、国費の無駄使いであると、日
本国内で問題になっていた。なかなか実態も分からないため、
留学生は成績に関係なく、いったん帰国させる、という乱暴
な結論が出された。
健次郎は窮地に立たされた。学業半ばで帰国するわけには
いかない。そんな時、同級生が「ケンジロウ、私の叔母に会っ
てくれ」と声をかけてくれた。叔母・ハルドマン夫人は大富
豪だという。
夫人は健次郎の身の上を聞くと、「オーケイ、心配しない
で下さい。ただし条件があります」と言った。「どのような
ことでしょうか」と健次郎が緊張した面持ちで聞くと、ハル
ドマン夫人は「証文を書きなさい」と言う。
「はい、どのような証文でしょうか」
「学業を終えて帰国したならば、心を込めて国のために尽く
すことを誓うのです。ケンジロウ、そう書くことが出来ます
か。」
もちろんである。自分は会津のため、祖国のために役に立
ちたいからこそ、必死で勉強しているのである。夫人は、健
次郎の書いた証文を読んで、ニッコリ笑い、健次郎の手を握っ
て「頑張りなさい」と言った。
ハルドマン夫人の援助によって、健次郎はシェフィールド
理学校を優秀な成績で卒業し、さらにエール大学に進んで学
士号を得た。「ケンジロウ、おめでとう」とハルドマン夫人
は誰よりも喜んでくれた。
■8.「死ぬ気で頑張ったな」■
健次郎がアメリカ留学を終えたのは、明治8(1875)年5月
であった。22歳の青年になっていた。わずか4年半で中学
校からエール大学の卒業までこぎつけたわけで、健次郎がい
かに努力したか、がよく分かる。
洋服姿の健次郎を見て母は絶句した。「なんと立派になっ
たこと」と涙ぐんだ。「死ぬ気で頑張ったな」と兄も賞めて
くれた。祖父の位牌に帰国の報告をした。
米国の名門大学の学士号を携えての帰国だったので、就職
先はすぐに決まった。本来は北海道開拓のための留学だった
が、物理学を学んだことで、東京大学の前身・東京開成学校
の教授補に任ぜられた。
■9.健次郎を導き、助けてくれた人々■
健次郎は15歳の白虎隊士から、22歳にしてエール大学
学士となったのだが、それは何人もの人々に導かれ、支えら
れてきたお陰だった。
まずは書生として勉学の機会を与えるよう頼んでくれた秋
月悌次郎、それに応えて長州人ながら賊軍の子弟を世話して
くれた秋月悌次郎、会津人にも留学の機会を与えてくれた薩
摩人・黒田清隆。米国に渡った後、健次郎を支えてくれたハ
チソン校長やハルドマン夫人。
まるで、健次郎の一身に期待を寄せる会津の人々の執念が、
こうした人々を操りでもしたように、次々とタイミング良く
現れては、健次郎を助けてくれたのである。
あるいは、会津の人々の期待になんとか応えようと必死に
勉強する健次郎の姿勢が、そうした人々の助けを引き寄せた
のか。
いずれにせよ、ここから健次郎の教育者としての長い人生
が始まる。健次郎は我が身に受けた恩を何倍にもして、郷里
と国家のために返していくのである。
(次号に続く、文責:伊勢雅臣)
******************************
国際戦略コラム NO.2881 ???
発行部数 4300部 ???
http://
2008.03.09 ???
******************************
IPS万能細胞について
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
ノーベル賞候補となりうる革命的な研究成果が、日本から生まれた。
それがIPS万能細胞研究だ。 Fより
山中伸弥・京都大学再生医科学研究所教授は、ヒトの皮膚細胞から
ヒト胚性幹細胞(ES細胞)に匹敵する人工多能性幹細胞(IPS
細胞)を作り出すことに成功した。
この成果は、一度分化した細胞の若返りが可能であることを実証す
るとともに、受精卵から作るヒトES細胞が抱える倫理的問題や、
再生医療における免疫拒絶反応の課題をクリアし、自分の細胞で難
治性疾患を克服する、真の意味での再生医療の開発にブレイクスル
ーをもたらした。
人の皮膚細胞に4種類の遺伝子をレトロウイルス・ベクターとして
アデノウイルスを用いた。たったこの4種類の遺伝子が細胞のリプ
ログラミングに欠かせないものなのだ。
このIPS万能細胞研究では米国のハーバード大学とマサチューセ
ッツ工科大学(MIT)、英国ケンブリッジ大学など世界の研究機
関で競争が起こり、再生医療研究の最先端を切り開いていくことに
なる。
また、米国ではブッシュ政権がES細胞研究に研究費を出さないと
いう問題も起きていたが、それも解決した。福音派やローマカトリ
ックもこれには文句を言えない。ということで宗教上の倫理的な問
題もなくなった。
IPS万能細胞とは何か?
受精後の細胞などの万能細胞は、何の機能細胞にでもなる可能性が
あり、神経などの細胞が損傷したときに、その細胞を新しく作り直
すためにその万能細胞を送り込むとその機能細胞が再生する。この
ように万能細胞を特定の機能細胞にすることで、再生医療に大きな
一歩と成っている。
いままでは人の受精卵ES細胞からの再生医療であり、倫理的な問
題があったが、中山さんが発明したIPS万能細胞は人の皮膚細胞
からできるので、その心配がない。
そして、特に有望なのは第1に、世界中に数えるほどしか患者がい
ない「超早期老化症」などの原因不明の超難病。患者のiPS細胞をさ
まざまな組織の細胞に分化させ、普通の細胞と比較して発症原因を
探り、薬剤を開発することができる。
第2に、多数の患者がいるが、心筋や中枢神経などに関わる病気
で、原因究明のための生検(組織の一部を取って行う検査)ができ
ないケース。iPS細胞から心筋や神経細胞を試験管内で作り、原因解
明・創薬に直接利用できる。
第3に、生命科学研究では広くマウスが使われるが、動物愛護の
高まりからイヌやサルといった高等動物の利用は非常に難しくなっ
ている。iPS細胞開発により、実験動物の必要がなくなる可能性があ
るという。これらのことはすぐ手が届くところまできたのである。
また現在、国内外で組織幹細胞を用いた臨床試験が進められてお
り、再生医療は夢物語ではなく、身近に迫った現実的治療法となっ
た。iPS細胞は組織幹細胞に比べて、さまざまな組織へ分化するこ
とができ、より多くの疾患を根治し、より多くの人々を救う再生医
療につながると期待される。
国もこの研究をサポートする方向であり、日本で再生医療を確立し
て複数個のノーベル医学賞を貰おうではないか。
さあ、どうなりますか?