特許法設立から500年余 今も生きるベネツィア | 日本のお姉さん

特許法設立から500年余 今も生きるベネツィア

特許法設立から500年余 

今も生きるベネツィア

http://doda.jp/e/msn/news/0907.html

3月19日という日は、イラク戦争の開始(2003年)、フォークランド戦争の開戦(1982年)など、歴史上はあまり喜ばしくないものが多い日だ。しかし、特許・知財の分野ではエポックメイキングな日なのである。“水の都”イタリア・ベネツィアで1474年3月19日、世界初の特許法とされる「ベネツィア特許法」が生まれたのだ。

15世紀といえば、イタリア・ルネサンスの真っただ中。フィレンツェをはじめイタリアの各都市国家が繁栄を謳歌していた。その中でも異色の海上都市国家ベネツィアは、イスラム教徒やユダヤ教徒なども多く出入りして、交易が盛んな国際都市。また、当時の欧州では珍しく出版の自由が保証された情報都市であった。

ベネツィアの秘密

そこで生まれた世界初の成文特許法が「ベネツィア特許法」(ベネツィア共和国発明者条例)だ。250語程度の短い法律だが、

(1)新規で独創的な発明の保護、

(2)長期保護(10年間)、

(3)政府機関への特許登録制度、

(4)裁判所の判定による特許侵害者への罰則

――という現代の特許法の持つ基本要素を

一通り備えていた。

もともと、主要産業のガラス工芸品の技術を守ることを想定した法律だったが、金属加工、皮革加工、織物などさまざまな産業を刺激して、ベネツィアの経済を活性化させていった。ベネツィアは、オスマン・トルコが1453年にコンスタンティノープル(イスタンブール)を陥落させたころから軍事力では退潮してゆくが、特許を背景にした経済・文化はますます盛んで、その繁栄はさらに長く続いた。

16世紀末に、フィレンツェからベネツィアへ移り住んだガリレオ・ガリレイにも、馬を使う灌漑用水装置「らせん回転式ポンプ」の特許を取得したという文書が残っている。尚、このときの特許保護期間は、現代と同様の20年間になっていたという。

公開代償の始まり

中世の人たちは、特許という発想にはなかなか至らなかったようだ。技術は“秘伝”であって決して人に知られてはならない。同時代の15世紀から16世紀にかけて活躍した万能の科学者レオナルド・ダ・ビンチが膨大な研究ノートやメモを作っていたことは有名だが、それらは厳重に管理され、彼が存命中は人の目に触れることはなかったという。

そんな中に登場したベネツィア特許法は「公開代償」という画期的な考え方に基づいている。発明をした者に特別の権利(特許権)を与え、代わりに内容を公開させることで、他に知らしめ、これによって産業の発展を促す。近代特許制度の根本となる考え方でもあった。

また、特許法が生まれたもうひとつの背景として人材の問題があった。独自の優れた技術を持つ熟練技術者たちは周囲の国からヘッドハンティングを受け、人材流出が絶えなかったという。ベネツィアは、これを防ぐためにまず厳罰をもって対処したが、それでも流出は止まらない。そこで為政者たちは、発想を変えて、技術者が、技術を公開することで報われる法を制定した。「新規かつ独創的な発明を保護する法を作れば、さらに多くの人が、彼らの才能を活用して、優れた発明品を社会のために創造するだろう」というのがその趣旨だ。

この施策は、優秀な人材をつなぎとめ、さらに新しい才能を開拓することに成功した。手工芸品が、工業製品へと発展していった時代であり、ヨーロッパ中、世界中でもてはやされたベネツィアンデザインを確立することになったのである。

知財に基づく経済繁栄は、自由、安定した政府、権利の保証――その上に成立した。基本は500年以上たっても変わっていないのだ。

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