自決があったのは沖縄だけではない!byOJIN
自決があったのは沖縄だけではない!byOJIN
また沖縄で米兵による婦女暴行事件が発生して、
毎度変わらぬステレオタイプの反応が報道されています。
夜中のあんな時間に、水商売でもない高校生の女が
繁華街をウロウロしているというのもどうかと思われる行動
ですが、買物に出るという場合もあるでしょうから、
それはさて措いても、
外人であろうが日本人であろうが、夜中に見も知らぬ“男”の
誘いにノコノコと随いていく・・・そんなバカ女が、起るべくして
起した事件を、待ってました!と政治的に利用する
反日日本人ども!
頭カラッポのバカ女と、反日日本人どものことを書いても
胸クソが悪くなるばかりですが、
ーーーところでその、沖縄だけが何故?と
ーーー感じているのは OJIN だけではなかったようです。
「加瀬英明氏」―― 杜撰な沖縄集団自決論 ――
昭和20年4月にアメリカ軍が沖縄に上陸して、日米両軍が
激戦を展開した時に、日本軍が沖縄住民に集団自決を
「強要」したということが教科書に記載されていたのが、
その証拠がないことになると、文科省が介入して、集団自決
に「関与」したという表現に改められた。その是非をめぐって
論争がたたかわされている。
なんとも奇怪なことだ。このような政府と文科省に、教育という
国家の大事を委ねてよいものだろうか。
それよりも、どうして住民の集団自決の議論を沖縄に限定
するのか、私には理解できない。
アメリカ軍は、沖縄に上陸する10ヶ月前の昭和19年6月に、
サイパン島に来攻した。サイパン島には2万人の邦人住民が
居住していた。アメリカ軍が来攻する前に、老幼婦女子の
内地送還が実施された。
しかし、第1船のアメリカ丸、第2、第3船の千代丸、白山丸が
アメリカ潜水艦によって撃沈されたので中止された。
3回の疎開船とも生存者がなかった。
サイパン島の面積は、東京23区の4分の1弱に相当する
185平方キロである。わが軍は、アメリカ軍が上陸してから
31日間に渡って、他のアメリカ軍を迎え撃った島嶼と同じように
敢闘したが、武運つたなく島を敵手に委ねた。
南雲忠一長官以下、高級将官が自決した後に、残存していた
将兵と在郷軍人、警防団員、青年団員などの邦人合わせて
3千人あまりが最後の突撃を行った。
多くの邦人女性が、迫るアメリカ軍を前にして、最北端の
マッピ岬の断崖から母は乳児を抱いて、あるいは親族や友と
手をつないで、南の海へ身を投げた。
集団自決だった。
アメリカ軍が海上から望遠レンズを用いて撮影した、
痛ましい動画の映像がのこっている。悲劇のマッピ岬は
今日「バンザイ・クリフ(クリフは断崖)」と呼ばれ知られている。
サイパン島を訪れる日本人観光客が必ず訪れる、不謹慎な
ことだが、観光スポットの1つとなっている。
だが、沖縄住民の集団自決については、「日本軍による
強制」とか「関与」を問題にしてきたのに、いったい同じ
集団自決であったのに、どうしてサイパンにおける邦人
住民の集団自決が取りあげられることがないのだろうか。
年末にイギリス人の畏友が、新年の休暇のために
マックス・ヘイスティングス著『ネメシス 日本との戦い
1944―45年』ハーパースプレス社、ロンドン)と題する本を
送ってくれた。
「ネメシス」はギリシア神話の復讐、あるいは天罰を降す
女神である。対日戦争を1944年から克明に記録した
674ページにわたる大著である。著者はイギリスでよく知ら
れた歴史作家である。
沖縄本島には、1200隻の艦艇に分乗する17万のアメリカ
軍が来攻した。
我が軍と陸海空において凄惨な血戦が繰りひろげられた。
先の本から引用しよう。
┌--------
一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが
起こった。特に沖縄戦がそうだった。(アメリカ軍兵士の)
クリス・ドナーはこう記録している。
「地面に、15歳か16歳と思われる少女の、美しい死体が
横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、
やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けにすると、少女の左乳房を銃弾が貫いていたが、
何回にもわたって強姦されていた。
日本兵の仕業であるはずがなかった」
しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが丘の上から敵に
よって狙撃されて倒れた。その直後だった。
赤児を抱きしめている日本女性に遭遇した。
兵たちが口々に「あのビッチ(女)を撃て!
ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!」と叫んだ。兵がいっせいに
射撃した。女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって
立ち上がると、手離した赤児のほうへよろめきながら進んだ。
兵たちはさらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった。
└--------
~~~~~~
ビッチというのは、メス犬という意味で、
売女(ばいた)という意味があります。アメリカでビッチと
呼ばれたら、ほっぺたを叩いて怒ってもいいぐらい
酷い言葉です。
昨日、買った本は、ベトナムの人がアメリカ軍がいたときの
思い出を日本人が聞いて書いている内容でしたが、
その人が2人のアメリカ兵を、助けて家に入れてやったのに、
その家の7歳と8歳の幼女たちを強姦して、逃げたのです。
幼女たちの股が裂けて血だらけだったそうです。
ベトナム人は怒ってゆっくり歩いて逃げていくアメリカ兵を
追いかけて銃で撃って殺したそうです。
ベトナムの村の女たちも、怒り狂っていたそうです。
でも、そのベトナム人はベトコンとして、捕まって拷問され
たそうです。助けてくれたベトナム人の幼女を犯すなんて、
最低なヤツラだね。日本の女性もビッチと呼ばれて
殺されたんだなあ。アメリカ兵がむちゃくちゃをするから、
誇り高い日本の女性は自ら死を選んだのです。
沖縄だけ、そういうことが起こったのではない。
今の日本人女性は、たとえ、そういう目に会っても死には
しないと思う。誇りが無くなったのではなく、今は、
どんなことがあっても、生き続けた方がいいという教育に
なっているから。
襲う方が悪いんだから、トラウマになって後から苦しんで
でも、とにかく、生き抜かないと!by日本のお姉さん
~~~~~~
アメリカ軍は戦闘中に、しばしばこのような残虐行為を働いた。
こうした戦慄すべき事実は、目撃した住民によって我が軍
戦線の背後にいた住民に伝わったはずである。
ヘイスティングスは本書のなかで、アメリカ兵が日本人を
人間だと思わなかったので、故国への土産(スブニール)として
日本人の頭蓋骨を蒐集したが、ヨーロッパ戦線において、
ドイツ兵については、頭蓋骨をそのように扱うことはなかった
と述べている。
日本人の頭蓋骨を飾り物として珍重したのだった。
私はこれまで、アメリカ人による太平洋戦線の記録のなかで、
アメリカ兵が残虐行為を働いたという、多くの記述を読んで
いる。
教科書の沖縄戦中の住民の集団自決についての記述から、
アメリカ軍の存在がなぜなのかすっぽりと抜けている。
沖縄戦はいうまでもなく、アメリカ軍が沖縄に侵攻したことに
よってもたらされた。なぜアメリカ軍が不在なのか。当然
アメリカ軍が「関与」していたはずである。
教科書の執筆者や文科省の担当官は、沖縄住民が
アメリカ軍を恐れていたことに頭が回らなかったのだろう。
どうしてアメリカ側の記録を調べる熱意が欠けていたの
だろうか。杜撰[ずさん]なことだ。
教科書は正確な記述を期さねばならない。
サイパン島が失陥した12日後に、アメリカ軍はテニアン島に
来攻した。
テニアン島には、15000人あまりの邦人住民が居住して
いた。ここでも、一般邦人は国軍によく協力して勇戦した。
沖縄と同じように、男子住民も祖国の弥栄を祈念して最後の
突撃に加わった。そして、多くの婦女子が自決した。
└──────────「メルマガ頂門の一針より引用」
サイパン島もテニアン島もそうですし、満州・樺太・千島、
ウカウカしてたら北海道や東北地方の北部も、蹂躙される
危機一髪の瀬戸際にありました。
樺太や千島なんか、日本が降伏した3日後に襲われ、
抗戦することもできずに殺されていったのですから、
潔く自決することができた人々よりもさらに悲惨とも
いえるでしょう。
樺太で、列車を利用して突撃し
てくるソ連軍・・・その列車の
機関車の前部に
日本軍の弾避けにと全裸で
括りつけられていた日本婦人は
..生きていたのか既に死んで
いたのか・・・・‥‥‥ 沖縄の人々よ!
そのとき前線で敵軍と対峙していた人々も、銃後にあって
支えていた人々も、同じだったのではないのですか?
数の問題ではありませんが、あなた方は、
ーーー軍の命令で自決させられた!と吠えているよう
ですが、
内地の空襲で..広島長崎の原爆投下で..何十万の人々が..
自決よりもっと不本意な状況で死んでいかなければなら
なかったか、に、、思いを致したことがあるのですか?
ーーー自分たちだけが軍の命令で自決しなければならな
かった哀れな犠牲者・・・それでは、
覚悟を定めて自決された方々をも冒涜している、ことに
なるのではないのか?
満州の曠野で、
┌──────────
ーーーソ連軍が急追してくる。さらに現地人たちが匪賊の
ように襲ってくる。
軍の根こそぎ動員によって屈強の者がいないと分かると、
それまで親しんできた満人の友さえも加わり、暴徒となって
日本人難民に波状攻撃をかけてくる。
屈強の男無く武器も無い開拓団は、それでも、レンガや鍋、
釜を割っては投げつけ応戦する。十五、六歳の少年達まで
が斬り込み隊となって戦い、最後には全員が自決した。
この老人のグループは、祖国日本は降伏したに違いないと
の考えに至る。そのことがいっそう絶望的な気分を蔓延させ、
誰もが無慈悲になり、疲労困憊した者や負傷者を置き
去りにするようになっていく。
取り残された場合には、やがてソ連軍の攻撃や現地の
暴民によって皆殺しにされることを知って、逃れようと
皆は必死の思いで歩き続ける。
何度も何度も暴民や武装匪賊の襲撃に遭遇し、すべてを
奪われ乞食以下となった日本人の行列に、中国人が
「子供を売ってくれ、女の子は500円、男の子は300円で
どうだ」と声をかけてくる。
それは執拗そのものだったという。
そして、最も悲惨だったのは子供たちだ。
多くの子供が力尽きて野垂れ死していった。
こうして疲れ果て、絶望した開拓団の集団自決が、
8月20日を過ぎた頃から始まる。
守ってくれるべき軍隊もなく、包囲されて脱出の望みを
絶たれた人々にとっては、最後に残された選択肢は死だけ
となる。人は忍耐の限度を越えると、生きていることも
苦痛になるのでしょう。
8月25日午前4時過ぎ、満州東部のある開拓団では、
夜明けの空を震わせて自決の銃声が響き渡る。
一足お先に‥‥‥‥と、子を両手に抱え、または胸に
抱きして、涙で顔をグシャグシャにしながら引き金が
引かれていく‥‥‥‥。
妻を‥子を‥親を‥知人を‥
火葬場と決められた馬小屋は、絶え間なく銃声が続き
屍が折り重なってゆく。
読経が低く流れるなか、泣き叫ぶ子を抱き抱えた母親も、
目を血走らせて銃声の中へと消えていく。
└─────「満州回顧録:満州開拓団の惨」より
http://chinachips.fc2web.com/repo1/015012.html
そのときは沖縄だけではなかったのだ!
どうして、沖縄だけが声高に叫ぶんだ?
沖縄は恥を忘れた自虐想妄の民なのか!
沖縄ばかりでなく、民間人の住む地域で戦場となったのは、