メイル・マガジン「頂門の一針」 1087号
ようちゃん、おすすめ記事。↓
□■■□ 杜撰な沖縄集団自決:加瀬英明─□■■□
昭和20年4月にアメリカ軍が沖縄に上陸して、日米両軍が
激戦を展開した時に、日本軍が沖縄住民に集団自決を
「強要」したということが教科書に記載されていたのが、その
証拠がないことになると、文科省が介入して集団自決に
「関与」したという表現に改められた。その是非をめぐって、
論争がたたかわれている。
何とも、奇怪なことだ。このような政府と文科省に、教育とい
う国家の大事を委ねてよいものだろうか。
それよりも、どうして住民の集団自決の議論を沖縄に限定
するのか、私には理解できない。
アメリカ軍は沖縄に上陸する10ヶ月前の昭和19年6月に、
サイパン島に来攻した。
サイパン島には20,000人の邦人住民が、居住していた。
アメリカ軍が来攻する前に、老幼婦女子の内地送還が
実施された。
しかし、第1船のアメリカ丸、第2、第3船の千代丸、白山丸
がアメリカ潜水艦によって撃沈されたので、中止された。3回
の疎開船とも、生存者がなかった。
サイパン島の面積は、東京23区の4分の1弱に当たる
185平方キロである。
わが軍はアメリカ軍が上陸してから、31日間にわたって、
他のアメリカ 軍を迎え撃った島嶼と同じように敢闘したが、
武運つたなく島を敵手に委ねた。
南雲忠一長官以下、高級将官が自決した後に、残存していた
将兵と、在郷軍人、警防団員、青年団員などの邦人を合わせ
て、3,000人あまりが最後の突撃を行った。
多くの邦人女性が迫るアメリカ軍を前にして、最北端のマッピ
岬の断崖 から、母は乳児を抱いて、あるいは親族や、友と
手をつないで、南の海へ身を投げた。集団自決だった。
アメリカ軍が海上から、望遠レンズを用いて撮影した、痛まし
い動画の映像がのこっている。悲劇のマッピ岬は今日、
「バンザイ・クリフ」 (クリフは断崖)と呼ばれて、知られている。
サイパン島を訪れる日本人観光客がかならず訪れる、不謹慎
なことだが、 観光スポットの1つとなっている。
だが、沖縄住民の集団自決については、「日本軍による
強制」とか、 「関与」を問題にしてきたのに、いったい同じ
集団自決であったのに、 どうしてサイパンにおける邦人住民
の集団自決が取りあげられることが ないのだろうか。
年末に、イギリス人の畏友が新年の休暇のために、
『ネメシス 日本と の戦い 1944―45年』(マックス・ヘイス
ティングス著、ハーパース・ プレス社、ロンドン)と題する本を
送ってくれた。
「ネメシス」はギリシア神話の復讐、あるいは天罰を降す女神
である。
対日戦争を1944年から克明に記録した、674ページにわたる
大著である。 著者はイギリスでよく知られた、歴史作家である。
沖縄本島には、1200隻の艦船に分乗する17万人のアメリカ
軍が来攻した。
わが軍と陸海空において、凄惨な血戦が繰りひろげられた。
先の本から 引用しよう。
「一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなこと
が起こった。 とくに沖縄戦がそうだった。
(アメリカ軍兵士の)クリス・ドナーは、こう記録している。
『地面に15歳か、16歳と思われる、少女の美しい死体が
横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり
両脚を開 いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けにすると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、
何回にもわたっ て強姦されていた。日本兵の仕業であるはず
がなかった』
しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から敵に
よって狙撃さ れて、倒れた。
その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
兵たちが口々に、『あのビッチ(女)を撃て!
ジャップ・ウーマン (女)を殺せ!』と、叫んだ。
兵がいっせいに射撃した。女は倒れたが、渾身の力を振り
しぼって立ち 上がると、手離した赤児のほうへ、よろめき
ながら進んだ。
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった」
アメリカ軍は戦闘中に、しばしばこのような残虐行為を働いた。
こうし た戦慄すべき事実は、目撃した住民によって、わが
軍戦線の背後にいた 住民に伝わったはずである。
ヘイスティングスは本書のなかで、アメリカ兵が日本人を人間
だと思わ なかったので、故国への土産(スブニール)として、
日本人の頭蓋骨を蒐 集したが、ヨーロッパ戦線において
ドイツ兵については、頭蓋骨をその ように扱うことはなかった
と、述べている。日本人の頭蓋骨を飾り物と して、珍重した
のだった。
私はこれまでアメリカ人による太平洋戦線の記録のなかで、
アメリカ兵 が残虐行為を働いたという、多くの記述を読んで
いる。
教科書の沖縄戦中の住民の集団自決についての記述から、
アメリカ軍の 存在がなぜなのか、すっぽりと抜けている。
沖縄戦はいうまでもなく、アメリカ軍が沖縄を侵攻したことに
よっても たらされた。なぜ、アメリカ軍が不在なのか。当然、
アメリカ軍が「関 与」していたはずである。
教科書の執筆者や、文科省の担当官は、沖縄住民が
アメリカ軍を恐れて いたことに、頭が回らなかったのだろう。
どうしてアメリカ側の記録を 調べる熱意が、欠けていたの
だろうか。杜撰(ずさん)なことだ。教科書 は正確な記述を
期さねばならない。
サイパン島が失陥した12日後に、アメリカ軍がテニアン島に
来攻した。
テニアン島には、15,000人あまりの邦人住民が居住していた。
ここでも、 一般邦人は国軍によく協力して、勇戦した。沖
縄と同じように、男子住 民も祖国の弥栄を祈念して、最後の
突撃に加わった。
そして、多くの婦 女子が自決している。(2008.2)
トウ小平の沈黙
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渡部亮次郎
<中国共産党中央規律検査委第一書記の陳雲氏ら保守派は
1985年6月、 項南福建省書記(肩書は当時)が、金もうけの
ために国民の健康を危険 にさらす偽薬まで作る郷鎮企業を
野放しにした-と攻撃した。真の標的 はトウ小平氏であり、
改革・開放だった。
陳雲氏は、「資本主義の道を歩む自由派」項南氏の解任を
要求したが、 胡耀邦(こようほう)総書記は「項南書記に
直接の責任はない」とかばっ た。党中央の現地調査でも、
偽薬による健康被害はないとしていた。
しかし、項南氏は間もなく解任されてしまう。項氏はこれに
不服で、ト ウ小平氏に直訴状を送ったが、トウ氏からの返事
はなかった。トウ氏は 保守派の意図を察知し、項南氏を犠牲
にせざるを得なかったとみられている。
(だから)「項南伝」によると、86年9月、項南氏は、「晋江
偽薬事件」 に関する中央規律検査委の「判決」が公表された
直後、トウ小平氏の長 男、トウ樸方(ぼくほう)氏の訪問を
受ける。トウ小平氏の指示で、慰 問に行ったのだ。
この数カ月後の87年1月、胡耀邦総書記も解任された。>
「トウ小平秘録」(産経新聞2008・02・09)
これも同じ理由からである。保守派から自分の身を守るため
には、自分 の分身を平気で斬る、これが資本共産主義中国
最高実力者の最終哲学で あった。
胡耀邦が辞任を強要されたのは1月16日の政治局拡大会議
である。罪状は 集団指導原則に対する違反と政治原則
問題での誤り、つまり「ブルジョ ア自由化」に寛容だったた
め、さらには1983年11月に訪日、中曽根康弘 首相と会談で
独断で日本の青年3千人を招待したことも挙げられた。
11月には胡耀邦の後任として趙紫陽が総書記に選出された。
失脚後の胡 耀邦は会議等でもほとんど発言しなかったと
いわれる。11月、胡耀邦の 後任総書記になったのは
趙紫陽だった。
山崎豊子の代表作の一つである、「大地の子」執筆の際に
胡耀邦が全面 協力を行い、閉鎖的な中国政府各方面に取材
に応じるよう指示を行った エピソードもある。
(出典 文春文庫「大地の子と私」)
1983年11月の中曽根康弘首相と首脳会談、友好関係を築く。
この時の日 中首脳会談で『日中友好21世紀委員会』の設立
に合意。
このとき、背丈の低い胡を都内で見た。それが見納めだった。
これに先立って胡は1978年12月の11期三中全会以後、トウ
小平のもとで 文革の清算と改革開放政策が進められる中、
1980年9月、党主席・首相だ った華国鋒は経済政策や文革
への姿勢などを批判されて首相を辞任。
その後継に趙紫陽が就任していたが、さらに81年6月に華が
党主席も辞任 すると、胡耀邦が党主席に就任した。この頃の
胡耀邦は「天が落ちてき ても胡耀邦と趙紫陽が支えて
くれる」と!)小平が語るほどの信任を受け ていた。
1982年9月には党規約改正によって党主席制が廃止されて
総書記制が導入 されると、党トップの総書記に就任し、
改革開放路線と自由化路線を打 ち出した。
この頃、胡啓立(政治局常務委員)ら、胡耀邦を中心とした
共青団グル ープが改革派として活躍。
(現総書記の胡錦涛も胡耀邦に連なる共青団 出身である)。
1986年5月には「百花斉放・百家争鳴」(双百)を再提唱
して言論の自由化を推進した。
しかし、9月の六中全会では、胡の政治改革は棚上げされ、
逆に保守派主 導の「精神文明決議」が採択され、胡は保守派、
長老グループらの批判 の矢面にさらされ辞任に追い込まれ
て行った。
その2年後、第2次天安門事件が起き、趙紫陽も哀れをとど
める事になる。
トウがまたも分身を見捨てたからである。1989年4月15日に
胡耀邦が心筋 梗塞のため死去。
胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していった。
五・四運動の70 周年記念日にあたる5月4日には北京の
学生・市民10万人がデモと集会を 行い、六四天安門事件へ
と発展した。
ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言をしたことで、
トウ小平 ら長老の鎮圧路線を妨害するものとされて失脚した
のだ。
それにしても胡耀邦は国民から愛された開明的指導者
だった。長老・保 守グループの批判、さらには!)小平の政治
的引き締めの要求にも応じな かったため最後は解任された
が、中華人民共和国はその大きなツケを天 安門事件として
支払ったことになる。 参考:「ウイキペディア」2008・02.10
軍事・カネよりは政治力
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古澤 襄
信長・秀吉・家康という人物像で、一番、庶民に人気が
あるのは秀吉。
人気がないのは家康といっていい。また強烈な個性の持ち
主だった信長 は、現状改革派から好まれる。
私は独断と偏見で家康を第一にあげる。その理屈をこねて
みよう。
信長は桶狭間の戦いでみせた奇襲戦法、鉄砲を大胆に取り
入れた戦術、 そしてキリスト教宣教師を近づけた開明思想
・・・すべての面で過去の 日本歴史には無かった軍事的な
天才である。合理的な思考の持ち主だと いえよう。
しかし軍事的な天才は、すべての面で優れていたわけでは
ない。旧来の 陋習を破壊する果断な才能に満ちていたが、
それ故に旧勢力から憎まれ た。
力で押さえているうちは良いが、それには限界がある。
軍事力だけで全 国制覇することは出来ない。
秀吉はカネの力で、信長が果たせなかった全国制覇を実現
した。信長の 攻城法と秀吉の攻城法は明らかに違う。小田原
城の包囲攻め、高松城の 水攻めはカネの力がなくてはとても
成り立たない。百姓から成り上がっ た秀吉はカネの力の
信奉者だったといえる。
家康は戦には弱い戦国武将だった。三方ヶ原の戦いで武田
信玄から壊滅 的な打撃を受けている。信長のような軍事的
天才からみると明らかに劣 っている。カネの面でも秀吉の
ような絢爛さがない。もっぱら節約一方 で貧乏臭くケチである。
だが家康の身上は政治力にある。陰湿な腹黒さからいえば
信長や秀吉よ りも遙かに上である。それ故に家康はあまり人
気がない。しかし、一度 権力を握ると政治力こそが強味となる。
私は徳川300年の泰平の世は、そ の政治システムの精緻さに
よるところが大きいとみている。
家康の後の徳川将軍をみると傑出した人物を探すのに苦労する。
バカ将 軍であっても徳川政権が維持できたのは、家康が築い
た幕僚政治にあっ たのではないか。2代将軍・秀忠はバカとは
いわないが、平凡な男。戦 国の世なら滅ぼされる筆頭の武将
ではないか。
大名を窮迫させる参勤交代、外様大名を江戸から離れた
遠隔地に転封し て、その回りを親藩・譜代の大名で固める
監視体制、しかも幕僚たちは 容赦なく斬り捨て、新しい幕僚
を登用することを繰り返してきた。
それによって徳川300年の泰平の世が続いたが、一国平和
主義だったから、 活力を失い明治維新という革命を招いたの
も、政治の皮肉な現実である。
戦後政治の中で秀吉的だったのは田中角栄というのは論を
俟たない。信 長的なのは小泉純一郎と小沢一郎であろう。
ただ家康的なリーダーは、 まだ出ていない。
福田赳夫を家康に比す人もあろうが、スケールが小さ過ぎる。
やはり家 康は歴史に残る政治的なリーダーであった。ポピュリ
ズムからは家康は 生まれない。
2008.02.11 Monday - 08:43 comments(0) trackbacks(0)
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