南京大虐殺の真相
【論説】南京大虐殺の真相
時局心話會代表 山本善心
昨年の12月13日、南京市内にある「南京大虐殺記念館」が
再オープンした。
この記念館は中央に「侵略日本軍南京30万同胞大虐殺から70周年
を悼む」との文字が刻まれている。
この式典には学生や解放軍兵士の5500人、海外から520人が
参列したと報じられた。しかし中国中央の要人は誰一人参列して
いなかったのはなぜか。
館内には銅板が掲げられ、3カ国語(日本、英語、中国語)で
「南京軍事法廷の調査によると、集団虐殺は28件で犠牲者は
19万人(中略)、個別的虐殺858件で犠牲者は15万」と
記されていた。
外観は日本刀が2つに折れた形に設計されている。
刀で殺害されたイメージを表現したものだ。
同記念館では、戦闘が終わる3週間で33万人の中国民間人を
虐殺したとしている。
これは6秒に1人殺害した計算になるが、人間一人殺すのに1つの
銃剣を使えば刃がボロボロで使えなくなる。いつどこで誰が殺したのか、
これらの大事件を証明する写真や証言はあるのか。
確固たる事実と根拠がない限り、この記念館はでたらめな
反日記念館だと思われても仕方なかろう。
南京大虐殺の展示内容
同記念館はテーマごとに11部に分けられ第1部~3部までは
人形の模型やスライド、映像による歴史の解説。
第4部~8部までは南京の大虐殺シーンを蝋人形や
等身大の模型で再現。
特大写真を使って執拗なまでに日本軍の残虐性を演出している。
展示館の模型には妊婦のお腹から胎児を取り出す日本兵、
若い女性に対する強姦と虐殺等、日本兵の凶暴性と野蛮性を見
せつける演出は見事な出来映えだ。
しかし、これらの日本軍人の残虐行為について疑問が残る。
ほとんどが中国人的発想で、中国史に出てくる残虐行為そのものの
再現ではないか、と中国史に詳しい見学者は感想を述べた。
当時の体験者や旧日本軍人の意見によると、日本軍は規律に厳しく、
このような行為があれば即座に逮捕され軍法会議で
死刑宣告だ。こんな馬鹿な兵士がいるであろうか。
ちょうど同じ頃の尼港事件や通州事件は、中国人が日本の
民間人を虐殺した大事件であった。
この事件と同記念館の模型や演出が全く類似している。
その殺し方は日本人の発想では到底考えられないほど残虐だ。
同記念館で見られる日本兵が人間の肝を食べたり、銃剣で
赤ん坊を皆殺しにする描写は、日本ではあり得ない手法である。
南京市民を保護する安全区
1937年12月、南京攻略に際して、民間人を巻き添えにしない
ため、日本軍は南京城内に国際安全区(中立地帯)を設定した。
これは南京に在住する外国の公館、商社マン、通信員、記者、
在留日本民間人等を保護することが目的である。
陥落前、馬超俊(南京市長)は市民20万人以上に「国際安全区」
への移住を命じた。
「国際安全区」で英、米、独による国際委員会が設立された。
日本軍は国際委員会の規制を順守し、安全区住民の安全を保護。
ラーベ委員長が日本軍に感謝状を贈ったのは有名なお話である。
国際委員会のラーベ委員長名で発表された詳細な記録によると、
日本兵の殺害事件は49件、暴行事件44件である。
これは日本兵に抵抗する便衣隊(民間人を装った中国兵)に向けた
ものであった。南京陥落後、南京市の人口は25万人以上に
増加している。「同胞30万人」が虐殺されたとするならば、
その死者はどこから来てどこに埋葬されたのか、中国人の証言録や
記録は一切見当たらない。
松井大将の極刑
「南京事件」に関するあらゆる証言や資料を調べたが、当時在留
していた日本人や外国人を問わず誰一人として虐殺現場を見た
という証言や記録はなかった。
南京攻略に関する大本営の中支那方面軍事司令官は、松井石根
陸軍大将であった。南京は中国の首都で、「国際安全区」は
外国人の在留拠点である。南京攻略に際して、国際社会の注視の
的になっているので軍の行動には入念な注意を促したと
「松井大将日記」に記されていた。
しかし東京裁判では松井大将は30万人の大虐殺を行った
張本人とされ、「思いもよらない」濡れ衣を着せられたものだ。
松井大将は戦後10年を全く心当たりのない事実無根の罪状に
負わされ極刑に処せられた。
3人の証言
この「南京事件」を検証するため、当時安全区にいたジャーナ
リストや元軍人、カメラマン等の証言を一部拾ってみた。
これは南京事件で日本人48人の証言、図書出版社
(小学館文庫)で刊行された『聞き書 南京事件』より、3つの
証言を抜粋した。
・山本治、大阪朝日新聞社上海特派員
まずジャーナリストとして現地で活躍した記者への質問である。
―――虐殺があったと言われていますが…。「見たことも聞いたこと
もありません。夜は皆集まりますが、
そんな話は一度も聞いたことはありません」
・岡田酉次、元少佐、上海派遣軍特務部員
―――虐殺があったと言われていますが…。「虐殺とは無抵抗の
人を集めて射殺することだと思いますが、全く見ていません」
・小柳次一、陸軍報道班員
―――南京にはいつ行ったのですか…。「昭和12年の暮れから
元旦です。」
―――日本軍の虐殺行為を見ていませんか。「南京は落ち着いて
いて、見たことはありません」
―――噂などは。「虐殺という言葉は聞いたこともありません」
誰も知らない南京事件
これらは当時南京に滞在する日本人に取材したものであるが、
「30万人の大虐殺」を見たという人は48人中1人もいなかった。
弊会には資料室があり、南京事件の書籍もたくさん保管されているが、
やはり誰1人として見たという記録はない。
誰も見ていない、知らないという「南京大虐殺記念館」が、一体
何を展示・演出するというのか。それをあたかも事実かのように
旧日本軍の残虐性を強調する展示館は、「日中友好」の精神に
反するものである。
このような結果になったのは歴代政権が東京裁判史観を受け入れ、
占領政策を改正しないからである。
日本は中国や韓国からの圧迫と侮辱に屈し、無用の謝罪外交を
展開してきたが、同記念館に関しては外務省はすでに中国政府に
抗議していると聞く。1月16日、上海の日本総領事館の隈丸優次
総領事館は同記念館の30万人犠牲者数など事実関係が疑わしく
展示内容にも問題があるとして館長や南京市幹部に見直しを求めた。
平和条約で主権回復
1945年8月14日、ポツダム宣言の承諾によって大東亜戦争
(第二次世界大戦)は終わった。1951年9月、サンフランシスコ
講和条約の締結によって、日本国は主権を回復。
第二次大戦中に交戦した国々(50余国)との関係も白紙解決した
のである。日本は他国との一切の債権、債務もなく自主独立国家
となったもので、他国から干渉されることは何もない。
それならなぜ中国や韓国からの干渉に対して日本は卑屈な謝罪と
反省を繰り返すのであろうか。
戦後日本は「日韓条約」で韓国の近代化に貢献した。
日本は官民が一体となって中国の経済発展に取り組んできたが、
日本政府はなぜ「南京虐殺記念館」に到るまで対日敵視政策を
野放しにしているのか。
日中共同研究での南京事件
日中両国の有識者による「歴史共同研究」は、安倍晋三元首相の
訪中(06年10月)で胡錦涛国家主席と会談した際決められたものだ。
同年12月、日中歴史共同研究の初会合が開かれた。この
共同研究会は両国の政府は関与せず、歴史問題の専門家がメンバー
となり歴史の真実に迫るという趣旨で始めたものだ。
同会で取り上げられた最たる議題が南京大虐殺事件であった。
そこで中国側の学者は「旧日本軍による中国人犠牲者の数を
『30万~40万人』と主張」(毎日新聞06.2.27朝刊)。
中国側学者は根拠と事実を示すこともなく「一方的に主張する
ばかりでは議論にならない」と、日本側出席者から語られはじめた。
この共同研究会は、中国国内で過激に活動する対日強硬勢力を中
国政府がけん制するのが目的とする見方もある。
日中の正しい歴史問題を議論するには南京での虐殺人数30万人に
対する事実と根拠を示さねばならない。つまり学者同士の議論で、
中国側の学者が事実と根拠に基づいた議論を明確にできないなら、
学者としての資格がないも同然だ。
『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html
『日本之声』 http://groups.yahoo.com/group/nihonnokoe
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