メイル・マガジン「頂門の一針」 1070号 まずは「日本国憲法第86条」の見直しから
□■■□政局を見る色眼鏡:渡部亮次郎□■■□
「政局には常にフィルター(色眼鏡)を掛けて見なけりゃ駄目だ」。こ
れは故島桂次(元NHK会長)に繰り返し教えられた事だ。とんでも無
い、想像もできないことが展開されているのでは無いか、常に疑惑の目
で政局を見ろ、と言う教えだった。
<フィルター(フィルタ、filter)とは、与えられた物の特定成分を取
り除く(あるいは弱める)作用をする機能をもつものである。ある成分
以外の全成分を弱めることにより、その成分だけを強調する効果を得る
場合もある。さらに、各成分に対し何らかの処理を施す場合もある。>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
若い頃、青空に浮かんだ雲を、白さを強調して撮影するにはレンズに黄
色いフィルターを嵌めて撮影した。すると青空と雲の白さのコントラス
トが強調してプリントできた。
そこで島論を現在の政局に当てはめてフィルターを用意するとなると、
如何なる事が想像できるだろうか。順不同で考えてみる。
!)自民党内に福田内閣打倒の動き。この不人気じゃ、とてもじゃないが
選挙にならない。人気を取れそうな麻生太郎を担ごう、という動きは無
いか。
!)「たかり」に終始する公明党を排除するために自民・民主「大連立」を
復活させる動きは無いか。
!)社会党復活への動きは無いか。
!)参院廃止を、憲法改正と関係なく実現する研究が進んでいないか。
!)小泉カムバック作戦は無いか。
!)小沢引退作戦は無いか。
!)共産党解党はあり得ないか。
!)考えれば切りがない。
しかし、若い政治記者と話してみると、目先の現象を追うばかりで、こ
うしたフィルターを1個も持ち合わせていない。だから渡邉恒雄構想に基
づく「大連立」の動きを知る由も無かったわけだ。
先輩記者{共同通信社}の古澤襄さんは!)の動きをとても注目している。1
月21日の夜、不倶戴天で不仲と見られている福岡県選出の代議士麻生太
郎、古賀誠両氏が、高村外相(高村派会長)、久間章生(津島派幹部)両氏
を交えたとはいえ会談した事は、少なくとも麻生政権阻止を掲げてきた
野中、古賀両氏に何らかの「決心の変更」があったのでは無いかという
わけだ。
古賀氏が自民党の中核に歩を進め得たのは野中廣務氏の推薦によって幹
事長のポストに座ったことがきっかけである。だから古賀氏が「中」宏
池会の親分になれても彼の「親分」は依然として野中氏なのである。
元共同通信記者のノンフィクション作家魚住昭『野中広務 差別と権力』
によると、
<麻生太郎は過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日
の麻生も同席する自由民主党総務会において、野中に以下のとおり批判
された。
「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で
『野中のような部落出身者を日本の総理にできないわなぁ』とおっしゃっ
た。そのことを、私は大勇会の3人のメンバーに確認しました。
君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについてい
く。こんなことで人権啓発なんて出来よう筈がないんだ。私は絶対に許
さん!」
野中の激しい言葉に麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたま
まだったと同書には記されている。>(「ウイキペディア」)
先に安陪晋三氏が総辞職を決意した際、後継に麻生の浮上する事に
危機 感を持った野中氏は政界を引退した身であるにも拘らず
郷里京都から急 遽、上京し、大車輪で麻生政権の芽を摘んだ。
それが半年も経たずして子分古賀氏に麻生氏との会談を許した事は
野中 氏に心境の変化をもたらす何事かがあったと推測したくなるの
である。
21日夜の4者会談は、古澤氏によれば「洞爺湖サミット前の衆院
解散はさ せない」ことで一致した。しかし勘繰ればサミット後は
福田首相に何も 「保障」はしないことで一致したとも取れる。
或いはサミットを花道にして福田氏を引退させ、後継は麻生と
言う事で 阿吽の呼吸、と言う事も勘繰れる。しかし、新聞、
TVには「フィルター」のかかった観測記事は1行も出ていない。
2008・01・24
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裁判員制度をなぜ書かない
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山堂コラム 201
来年の5月までに実施に移される予定の「裁判員制度」――今のうち
だからはっきり本音を言っておく。この裁判員に選ばれてもオラはやり
たくない。
やりたくなくても拒否することは許されない。制度がそういう仕組みに
なっているのだから。
人を裁くのは厭だ。兵隊に引っ張られて敵を殺すのも厭。判事も兵隊も、
なりたくないからならなかった。なりたい者がなればいい。それは職業
選択の自由である。なりたくもない者を強制的にならせる・・・憲法違
反じゃねえのか。
裁判員にさせられてそこで何をしたかを喋ると「漏洩の罪」が待ってい
る。これも怖い。ブンヤのはしくれだった身として、世に向かってなん
でも喋り、なんでも書く。習い性だ。我慢できそうもない。
なのにだ、なりたくもない裁判員にさせられて、あとで喋ったら「おま
え罪人!」・・・これって冗談じゃなく本当に憲法違反じゃないか。
ほとんどの国民がよく知らないままに、この「裁判員制度」が実施され
る――、その信じられない現実。オラにはそこに、わが国の行く手に得
体の知れない不吉なものが、ぶら下がったような感じがするのである。
それは近代のわが国の歴史を紐解けば分かる。
そもそもこの制度は公明党の主導、つまり公明党が死刑廃止の党是から
提案したのだとされてきた。その点にオラにはいまいち腑に落ちないと
ころがあるのだが、公明党だろうが何党であろうが、こんな「国民の側
からは誰もやって欲しいと思わないもの」が、いつの間にか国会で成立
し、実施に向けて密かに、そして着実に進行している・・・このこと。
はっきり言うが、多くの国民は知らなかった。いまでも知らない。その
理由は明確で、新聞・テレビ・雑誌等がきちんと報道しないからだ。
日頃、偉そうに正義を標榜する「朝日新聞」がまず書かない。ましてや
他の新聞・テレビにおいてや。みな腰が引けている。オラが冒頭記した
不安に全く答えないし一行も触れない・・・たまに投書蘭で「やっぱり
裁判員制度はいいなと思う」などという小学生の作文のようなのをチョ
ロッと載せてハイおしまい。
この制度を練り上げた法務省・最高裁(実体は最高裁)は「国民への周
知はタウンミーティングなどで済んでいる」の姿勢である。そのタウン
ミーティングが実はひどいのだ。
平成13年度に始まった(小泉内閣)「タウンミーティング」なるもの。
国民の生の声を広く聴取する、などとの触れ込みだが、それは嘘八百。
本当は大手マスコミへの世論操作以外の何物でもなかった。
最初の平成213年度は随意契約で「電通」がこれを請負い、48回の「タウ
ンミーティング」に約9億4千万円の税金が「電通」に――
以後、平成14年度以後は一般競争入札の形はとったが、「電通」と「朝
日広告社」、平成16度以後は「朝日広告社」がほぼ独占している。「朝
日広告社」というのは「朝日新聞」の子会社である。
この「タウンミーティング」については、その「やらせ」などが問題に
なって新聞も「教育改革」のそれは結構熱心に叩いた。これに対し、
「司法制度改革タウンミーティング」の扱いは小さい。「裁判員制度」
と絡んでいることを報じる新聞は殆どなかった。オラはそのころから
「この制度は何かおかしい」と思い始めたのである。
この「裁判員制度のタウンミーティング」について最高裁長官が昨年、
大谷剛彦事務総長(当時の経理局長)以下4人を注意処分にした。
新聞への発表は「師走」。せわしなくて記事など読んでられない「どん
詰まり」。各紙記事にはしたが、ほんの数行。おざなり。20億円以上
(14件21億円―共同記事。37件25億円―時事配信)の不正契約
があった というのだが、契約先が「電通」とか「朝日広告社」とか
書いた記事は 勿論1本もなし。
テレビも民放のニュースでは一度もお目にかからなか った。
「裁判員制度」が是か非かの問題を糾す前に、新聞・テレビがこの体た
らくである。莫大の国費を使った大手マスコミへの世論操作によって出
来た制度であるというだけでも、この制度の前途にオラは不吉な予感が
するのである。(了)
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台頭する保守的傾向
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古澤 襄
米民主党のヒラリーとオバマが泥試合を演じれば、米共和党はジュリア
ーニでも勝てると昨年秋に来日した日系アメリカ人が言っていた。ユダ
ヤ社会に滅法強い人物で、筋金入りの保守主義者なので話半分に
聞いて いた。
女性礼賛主義者の私は初の女性大統領を期待している。2年前にはヒラ
リーとライスの一騎打ちを期待していた。自分の国ではないから、多分
に野次馬的な気分がある。アメリカ社会は少数のパワーエリートが牛耳っ
ているという偏見を持っているので、ヒラリーになっても大きな政策変
更がないと思っている。
旧友の松尾文夫氏のアメリカ大統領選分析では、アメリカの保守的傾向
は変わらないとみている。一気にリベラル左派のアメリカにはならない
という松尾分析論には、大いに賛成するものがある。
松尾氏は昨年のかなり早い時期から、ブッシュ政権内でネオコンが一斉
に退場すると予見していた。ネオコンの退場は保守主義の衰退を意味し
ない。むしろ保守主義的な傾向が強まるという分析であった。同じ時期
にキッシンジャーは、イラク情勢は年末までに沈静化すると予見してい
た。
今になってみると、これらの分析論は先見性に満ちた大胆なものであっ
たが、この当時は少数意見であまり顧みられなかった。私自身も多分に
懐疑的であった。半分は疑いつつも杜父魚ブログで松尾分析を数回にわ
たって掲載したら、帰米した松尾氏から電話があった。
私が共同通信社の役員を退任して以来、松尾氏とはしばらく会っていな
かった。以前は赤坂の全日空ホテルの寿司屋で昼食をともにしながらア
メリカ分析論を聞かされたものである。
古い付き合いで、福岡支社長時代には帰米した松尾氏を招いて、アメリ
カ政治の現状と将来という講演会をセットしたことがある。
電話で「一度、東京に出ておいでよ。ご馳走するから・・・」と松尾氏
は私に言ってくれたが、生憎、骨髄腫の告知を受けた私は、感染症に罹
りやすい身体になっていたので、お断りせざるを得なかった。その代わ
り長電話になった。松尾氏の方も日本の政界分析を私の口から聞きたか
ったのであろう。
私が今、興味を持っているのは、共和党のジュリアーニが米大統領選の
指名争いで大きく後退していることである。「ヒラリーとオバマが泥試
合を演じればジュリアーニでも勝てる」という話のジュリアーニそのも
のが姿を消す可能性が濃厚となった。
このことはアメリカ政治で保守主義が強まった兆候ではないかと思って
いる。ネオコンが衰退したら保守主義が強まったという現象には興味が
ある。
日本でも同じような現象がある。安倍政治を支えた新保守主義的な傾向
が、政権の挫折によって後退を余儀なくされた。代わって登場した福田
首相はリベラルと称されている。だがリベラル左派なのだろうか?私は
保守主義者だと思っている。
平沼赳夫氏ら新保守主義の側からみれば、福田氏はリベラル左派と映る
かもしれないが、多少は左にスタンスを移した程度の保守主義者に過ぎ
ない。むしろ小沢一郎氏の方が、政権奪取のために共産党や社民党とも
共闘をはかるリベラル左派の衣を着ていると思う。
福田・小沢の大連立騒ぎも、この視点でみると面白い。リベラル左派が
日本政治で定着するのか、しないのかということは、大連立騒ぎが再燃
するかどうかで、ある程度は予見できる。衆参ねじれ現象を凌ぐための
大連立なら成立する筈がない。
民主党の中でリベラル左派の旗手は菅直人氏であろう。道路特定財源の
暫定税率を維持する政府案に賛成の意向を示している大江康弘参院
議員 に議員辞職を迫り、大江氏が断固として反発したのは、この脈絡
でみる と理解される。
来るべき総選挙で民主党が勝てば、リベラル左派の流れが加速し、負け
れば民主党の保守派との対立が顕在化する。それは新保守主義を除外し
た保守主義者の政界再編に向かうのではないか。その意味で27日に迫っ
た大阪府知事選挙の結果にも興味がある。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト(1月24日現在1435本)
2008.01.26 Saturday - 07:24 comments(0) trackbacks(0) by 古沢 襄
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無駄の単年度主義を廃せ
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内田一ノ輔
古来、日本人の美徳の一つに「節約」と言うものがあり、最近では「も
ったいない」という言葉が復古している。
一般の家庭に於いては、「主の稼ぐ毎月の収入」を予算ごとに振り分け、
その範囲内で生活するもので、そこでは当然、無駄を省き、節約して、
将来の為に出来れば貯蓄している。
企業に於いても同様で、年間予算に対し、無駄を省き、経費節減するこ
とは利益に直決するため普通に行われている。
しかし、この様な「無駄を省く」とか「節約」といった事と、本質的に
「真逆」であり「無縁」の組織がある。それは役所である。
年度末になると日本中で道路工事が始まり、恒例の渋滞の季節がやって
来る。これらの内、不必要な工事と言えるものは少なくない。つまり年
度予算の使い切りと調整のための工事であり、予算の使い切りの為の不
必要な工事が発注されている。イコール税金の無駄使いであることは間
違いない。
ここには、「予算の単年度主義」という使い切りシステムが存在し、結
果、財政の健全化を逆行させている。
何故この様な「予算の使いきり」が行なわれているかと言えば、日本国
憲法第86条で「内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、
その審議を受け議決を経なければならない」と定められており、数ヵ年
にわたる予算は原則として認められないのである。
予算の分配についても、大元の主計局の人的資源が足りていない事が、
毎年度の予算分配の柔軟性を奪っている。また「予算を余らせるとその
分削られ」、「新規・増額の要求を認めてもらう為にはとてつもない手間
がかかる」という現実が、取りあえず、より多く予算を獲得し、使い切る
という国民不在の行政を生んでいる。
無駄を無くすことより、獲得した予算の使いきりが行政の第一の命題で
あるという感覚麻痺が、社会保険庁を初めとする箱物行政やお手盛り行
政を当然の事と思い込ませてしまった。
各省の予算主旨は、官僚の実態を表しており、「権限を拡大した役人は
いい役人」であり、「権限」の中には予算も含まれるので、「少しでも
多く予算を分捕ってきた役人は優秀」であると評価される。この時点で
公僕は官僕となり下がるのである。
そこには、「節約」という美徳や「国民の血税」の有効活用という発想
は存在せず、官僚の既得権の維持、即ち「天下り」は当然という発想が脈
々と続いてきた。
地方自治体についても、歳入・歳出は、各種の補助金や交付金の配布を
通じて中央政府によって、事実上コントロールされている為、同様に予
算の単年度主義が行なわれていて、前述の道路工事発注となってしまう
のである。
このシステムは、日本が古来から培ってきた、節約、勤勉、正直といった
国民国家の根幹を踏みにじるものであり、健全な国家経営資源の運用と
言えるものではない。
このように国民を裏切っている行政が、増税しないと福祉が疎かになる、
教育が満足に出来なくなると、政治家を介して脅してくる始末だ。結果
は、国の借金が約900兆円、国民1人当たり700万円である。
この様な無様な結果を生んでしまった元凶が、「60年以上も大切に守っ
てきた憲法」と言っても過言ではない。
日本国憲法が施行されて以来、一度も憲法の改正が行われていない。世
界を見ても、この様な国家はまれである。原因は「憲法改正イコール、
憲法9条の改正」というサヨク思想が、憲法改正論議をタブーとしてきた
ことにある。
闇雲な憲法改正反対は、日本を弱体化してしまった。憲法であろうと必
要であれば前向きに改定すべきであり、これが法治国家である。
その道筋は険しいが、まずは「日本国憲法第86条」の見直しから始めて
はどうか。