中華民国というペテン (すごく、分かりやすいです。)
ようちゃん、おすすめ記事。↓
▼中華民国というペテン (マルコおいちゃんのシナにつける薬)
「アジアで最初の共和国」がご自慢の中華民国(Republic of China, これを「シナ共和国」と訳された林建良氏はまったく正しい)は、その成立から今に至るまで、つまり、清朝を倒しての建国から、シナ大陸での共産党との内戦に破れ、日本敗戦後から不法に占領していた台湾に逃げ込みそのまま居座りつづける現在までであるが、見事に一貫して虚構と幻想にささえられた国家体制であったし、いまもそうある。話は、日清戦争までさかのぼらねばならない。なぜならその戦争に敗れたことにより、シナにおいて国家意識が高まり、国民国家を建設しようといううねりが始まったからだ。
その当時のシナ大陸は、満洲人が漢・チャイニーズを奴隷支配する体制であった。満洲人は、モンゴル人の助けを借りてシナ亜大陸を軍事占領し、チベット、東トルキスタンなどとモンゴル同様の個別の同盟を結び、それぞれの民族と宗教の守護者としてふるまい、漢・チャイニーズにたいしてはシナ皇帝として君臨した。それは国家ではなくシナ古来の天下であった。そのシナ皇帝の軍隊(その実、李鴻章の私設軍隊だった)が、日本に敗れるというあってはならない事態となった。欧米の強力な帝国主義にあちらこちらと侵食されるのはおおめに見られても、格下とみなしていた日本に敗れたことは、シナ人にとっては相当な心理的衝撃であったことが容易に知れる。李鴻章
そこで、日本にできることなら自分にもできるはず、と短絡的に考え、清朝は国民国家へ脱皮することによりサヴァイヴァルを謀った。国民国家は、共和制でもいいし君主制でもよいのであるから、シナ皇帝を中心に国民国家を建設しようというアイデアそのものは悪くはない。
しかし清は、大きく分けてもモンゴル、東トルキスタン、チベット、漢・チャイニーズという異なる民族、言語、歴史、宗教、文化を有する地域を政治軍事的にまとめている帝国であったから、そのままでは国民国家と矛盾する。早くそこに気づいていればよかったのであるが、肥大した国家自我は、みずから縮小を選ぶことができず、日本の明治維新における天皇の役割をそのままシナ皇帝がはたせると考え「洋務派」「変法派」などが改革と「維新」を実行しようとした。国民国家という概念がよく理解できていなかった証拠がそこにある。ただ国民国家軍は戦争に強かったからその一点においてまねびする価値あり、と踏んだのであろう。 変法維新派の厳復、康有為、梁啓超
そのため日本へ学べとばかり大量の留学生を日本へ送り出し、帰国した者を官吏として採用もした。その中で重要なのが、軍事留学生である。日本政府は、シナからの留学生のために特別な援助をあたえた。まず柔道で有名な嘉納治五郎が設立した弘文学院などの日本語速習課で日本語を習得したのち、陸軍省がつくった振武学校という予備科を修めたものは、陸軍士官学校さらには陸軍大学へと進めた。この日本で軍事を学んで帰国した者たちが、新軍という日本式軍隊の軍事指導者となって大陸各地に散った。これらの日本留学生たちの高められた民族意識は、清朝改革ではなく、清朝打倒そして漢・チャイニーズ自らの国家建設へと向かうようになった。
そしてこれら日本留学帰りの新軍指導者たちが起こしたのがいわゆる辛亥革命である。孫文が指導したなどというのは、なんの現実的根拠がない大嘘である。ペテンの始まりであった。これについては黄文雄氏が一書を著しているからご参考あれ。(『中国が葬った歴史の新・真実』青春出版社、シナ語翻訳版は『国父與阿Q』前衛出版社、台北)この口からでまかせばかりで「孫大砲」とあだ名された口舌の徒を担いで、急ごしらえででっちあげられた中華民国であったが、初代大統領の地位は、順当にも北洋軍閥第一の実力者・袁世凱の手に落ちた。
そして一世一代の大ペテンが行われる。
清朝が支配した帝国を、そのまま国民国家であるべきシナ共和国の領土としたことである。本来ならば、漢・チャイニーズだけで身の丈にあった独自の国民国家をこしらえていさえすればその後のシナの現代史はずいぶんとちがったものになっていたであろう。しかし清朝というシナ皇帝が、シナ支配と同時にシナの外部に有していた権力の大きさに魅せられたのか、中華民国はモンゴル、東トルキスタン、チベットをふくむ帝国をそのまま共和国の版図としてしまったのである。(幸いにも、モンゴル人たちはモンゴル北部にモンゴル人民共和国を成立させていたから、全土をシナ人にのっとられることをあやうく逃れた。それは辛亥革命直後、中華民国建国の直前、1911年12月のことであった。)この大ペテンが現在にもつづくモンゴル、東トルキスタン、チベットの悲劇の現代史の淵源である。中華民国は満清帝国の継承政権である、というのがそのペテンのいいわけである。ここにまずシナ国民国家建設の最初の失敗が期されることになった。
ありもしない各民族団結を宣伝するポスター
その後の軍閥割拠、さらにはソ連の扶持による(またもや「孫大砲」をかついでの)いわゆる北伐により軍閥割拠から軍閥同盟による安定に進むかと思いきや、北伐が生み出した鬼っ子、共産党軍による南部シナにおける割拠、さらにはソヴィエト政権樹立という分裂、軍事対決に進んだ。それ以降の、ソ連の陰謀によりシナ内戦への泥沼にひきずりこまれた日本とその役割、国共内戦の経緯はここではおもいきって省略する。簡略すれば、統一国家、国民国家としては、中華民国はこの間まったくといってよいほど機能しなかった、ということだ。襤褸のごとく乱れる、という言葉どおりの有様であった。そんなシナへ、ソ連の陰謀、米国の嫉妬による干渉がったにせよ、うかつにもオーヴァー・コミットメントさせられた日本はいい面の皮であった。またそれを回避できなかったことを日本の指導者は責められべきである。われらはそれを現在未来の戒めとしなければならない。そこにはソ連の援助を得られなくなった蒋介石たちの、英米をうまく利用してのペテンがあったのではあるが、むしろ英米が蒋をうまくのせて利用した、というのが妥当であろうか。英米も日本敗戦後その反共の砦としての役割の大きさに気づいたのであるが、すでに時遅し、自らが前線に立って共産主義と戦うはめになったのは小気味がよい。
閑話休題
さて日本敗戦後、連合軍司令部の指令のもと国民党軍は台湾を接収した。つかのまの大陸と台湾にまたがる中華民国の(主観的には)晴れ舞台であったろう。しかし中華民国はシナ大陸に建国された国家である。共産党との内戦をたたかう国民党軍は大陸支配もままならず、ついには大陸を追われ台湾へと逃げ込んだ。台湾の悲劇がはじまった。
228事件
それは台湾人にとってはまさに悲劇であったが、国際的には虚構に満ちた喜劇であった。サンフランシスコ講和条約により日本の台湾支配が国際法的に公式に終了したが、しかし台湾の帰属は明文化されなかった。国共対立の行方がさだかでなかったこともその理由であろう。国際法的には、台湾は日清戦争の講和条約である下関条約により「化外の地」(中華の感化およばぬ地)として清から日本へ割譲されたのであるから、日本が台湾を返還するなら清かその継承政権である中華民国へ、であるべきであった。ところが中華民国は、すでにシナ大陸の統治権力を共産党にうばわれている。そして蒋介石とともにやってきた中華民国が火事場泥棒のごとく台湾にいすわっていたから、そのまま台湾すなわち中華民国になってしまったのであった。
ここに第二の大ペテンがはじまる。
すなわち中華民国の領土は、うばわれたとはいえモンゴル、東トルキスタン、チベットをふくむシナ亜大陸であり共匪に暫時占領されて入るが、かならずまた奪い返す、というものだ。それを理由に蒋介石政権は、台北を臨時首都とする虚構の中華民国体制を再建し反共の新しい砦として日米の経済軍事援助を得て生き延びることに成功した。
この体制こそ台湾がそこから独立しなければならない桎梏そのものである。この虚構の体制があるからこそ、シナ大陸を占領した中共軍閥政権が、台湾は「中国の一部」というでたらめを主張できる根拠となっているのだ。そして中共は、この台湾における中華民国体制の虚構をうまく利用して、連合国の中華民国の席次を政権継承者として奪取することに成功し、中華民国を「国際的孤児」へと追い込んだのだ。
連合国に「復帰」した中共政権代表団
中華民国は、台湾とはもとより一切関係がなかった。中華民国が建国されたときには、台湾はすでに下関条約により日本の領土となっていたからだ。台湾は日本敗戦という悲劇により放り出されて、そして中華民国という強盗にむりやり押し込まれ有無を言わさずすべてを奪われ、そしてそのまま居座られてきたのだ。台湾人こそ台湾における中華民国体制という第二の大ペテンの最大の被害者である。この非道なペテン師・中華民国とその虚構の体制から独立をはかる台湾人に、われわれ日本人はこころからの声援をおくらずにはいられない。
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▼台湾における「中国病」患者(マルコおいちゃんのシナにつける薬)
シナ人特有の、世界の中心すなわち「中国」でありたい、「大国」でありたい、という誇大妄想的意識を、「シナという病」と名づけておいた。それは、異民族に武力統治され奴隷として虐げられ見下された長い歴史によるものに発し、意識下に抑圧されたルサンチマンの発露として一挙に奴隷の主人となりたいという幼稚な心理的不安の表れである、と述べておいた。それを、ここでは少し言葉をかえて、「シナにおける「中国病」」と名づけよう。これで概念がより明確になると思う。
元来、「中国」とは、「自国」「中原」、などが原義であって、「シナ、China」の意で用いられるようになったのは、日清戦争に敗北して、日本に学べとばかり大挙おとずれた清国留学生が、日本には元来はシナから漢訳仏典とともに輸入した「支那」という言葉があり、「唐」「宋」「明」「清」などと王朝ごとに呼び名を変えてきた自称にくらべて、シナ全体を指す便利なものであることにきづき、それにならったものである。すなわち「支那」では意味が理解しにくいため、ふるい「中国」という語をひっぱりだしたものである。(岡田英弘氏の諸著作による)その呼称の自称他称としての使用法と、それをめぐるあれやこれやの愚弄な変遷はここでは問わない。
わたしは、「支那」よりもむしろ「シナ」を用いている。ひとつには漢字による誤解を避けること、そしてまた学問用語としての「Sina」による。念のため。さて、前回≪中華民国というペテン≫で述べたように、日本敗戦後に火事場泥棒のの「中華民国」に占領され今日にいたっている台湾には、二つの大きな理由により、シナ大陸と同様の「中国病」患者がやはり存在する。そのひとつは、シナ大陸からやってきたシナ人そのものが、失われた大陸を夢見て、あるいは故郷から放逐された者のひがみか、その惨めさをごまかすためか、自己欺瞞のために自らを「中国人」と自称していること、がまずある。(全部がそうだとはいわないが)いわゆる外省人である。
彼らは、占領者、統治者として台湾人を奴隷とみなし、ながくその奴隷主としての特権を享受してきたが、李登輝先生の国民党権力を利用しての巧妙な内部からの改革、すなわち民主化と本土化により、2000年の総統選挙で敗北し下野した。しかしそれまで彼ら「中国人」は、台湾を「中華民国台湾省」としてあつかい、台湾とは元来関係のなかった北京語を「国語」として強制し、「中国人」としての洗脳教育をさらには反日教育を行ってきた。
その結果、幾世代もまえから台湾に住み「中国」とは関係のなかったにもかかわらず、自らを「中国人」として認識する者もでてきた。台湾人の意識調査で、自己を台湾人、あるいは中国人、さらには台湾人であり中国人であると認定する人々の割合は、台湾人とする者が年々増加してはいるものの、それでも「中国人」とする自己意識するものも根強く残っている。その理由には、激しい思い込み、すなわち信仰、ショーバイのため、ただなんとなく、など諸々であろうが、上記した外省人と、その思想的奴隷たちが主であろう、と考える。
台湾人が自らをシナの思想的奴隷から解放するについては、李登輝先生が端緒をつけた台湾人としてアイデンティティを高めるための歴史教育もおおいに効果があったろう。また洗脳教育をうけながら、それにもかかわらず、洗脳から自らぬけだし見事に台湾人としてのアイデンティティを確立された林建良先生のような方もおられる。
李登輝先生が唱えられた「早くに来たものも、遅くにきたものもみな台湾人だ、われわれはみな新台湾人」とする外省人と本省人(すなわち台湾人)との融和政策のかいもなく、多くの外省人には台湾人としての意識は希薄である。もう外省人と本省人などというごまかしはやめて、「中国人」と台湾人としたほうがよいのではないか?そのほうが、よほど問題の所在がはっきりする。自らが大陸から台湾に逃げ込んできたシナ人自身はともかく、その者たちの子や孫でさえあいもかわらず「中国人」意識を持ち続けているのは、イデオロギーか信仰によるものであると考えざるを得ない。あるいはまさに「中国病」という心の病なのだ。
彼らはいう、「われらは台湾に住む中国人」である、と。つまり台湾は仮の住まいに過ぎない、といっているのだ。
わたしが自ら体験したことを以下に述べよう。あるとき、仕事で台湾にいた。台湾人、「在台中国人」を含んでの会食のとき、どうにも理解しにくいことがあった。会話は北京語で行われていたからまず問題はなかったのだが、「在台中国人」諸君の用語法が一風かわっていたのだ。「国内の経済発展に乗り遅れるな」とか「国内の民主化はまだ遠い」とか、どうも彼らの言う「国内」とは台湾国内のことを語っているとは思えないのだ。そして彼らのいう「国内」とは「中国内」すなわち大陸のことである、と腑に落ちたのはしばらくしてのことだった。
ことほど左様に、かれらの意識は大陸にあり、自らを「中国人」とする自己規定は強固なものがあるのだ、と知れた。
また在独華僑商工会議所のような組織の旧正月にあったっての挨拶文を目にする機会があった。そこには、「中国人も台湾人もともに両岸統一のためともに努力しよう」などという文面があった。その「中国人」とは前後の文脈から大陸のそれではなく、台湾の「中国人」であることがあきらかだった。その組織は国民党主導のものであったから、その意とするところは明確である。今年三月の総統選挙には、国民党が権力の座に復帰し強力に「国共合作」を推進しようとしているのだ。馬英九がいま言葉でどうごまかそうと、国民党の願いは、権力を再び奪い返し昔のような甘い汁を吸おう、大陸に大いにコミットしてさらに大きな利権を拾い上げよう、そのためには他人の土地である台湾を売り渡してもかまわない、という事にあることは間違いがない。
彼らこそ、シナからその病原菌を台湾にもちきたった「中国病」患者にほかならない。こんな精神に病をもつものたちに国を託しては危険極まりない。ある台湾人が日本語でわたしに語った。「あいつらそんなにシナが好きなら、みんなそろってシナへ帰ってしまえばいいのだ。」けだし名言であろう。台湾がいつまでも台湾人のものであるために、理想的とはいえずとも国民党よりもはるかにましな民進党の奮起を期待し、そして応援しよう!
「アジアで最初の共和国」がご自慢の中華民国(Republic of China, これを「シナ共和国」と訳された林建良氏はまったく正しい)は、その成立から今に至るまで、つまり、清朝を倒しての建国から、シナ大陸での共産党との内戦に破れ、日本敗戦後から不法に占領していた台湾に逃げ込みそのまま居座りつづける現在までであるが、見事に一貫して虚構と幻想にささえられた国家体制であったし、いまもそうある。話は、日清戦争までさかのぼらねばならない。なぜならその戦争に敗れたことにより、シナにおいて国家意識が高まり、国民国家を建設しようといううねりが始まったからだ。
その当時のシナ大陸は、満洲人が漢・チャイニーズを奴隷支配する体制であった。満洲人は、モンゴル人の助けを借りてシナ亜大陸を軍事占領し、チベット、東トルキスタンなどとモンゴル同様の個別の同盟を結び、それぞれの民族と宗教の守護者としてふるまい、漢・チャイニーズにたいしてはシナ皇帝として君臨した。それは国家ではなくシナ古来の天下であった。そのシナ皇帝の軍隊(その実、李鴻章の私設軍隊だった)が、日本に敗れるというあってはならない事態となった。欧米の強力な帝国主義にあちらこちらと侵食されるのはおおめに見られても、格下とみなしていた日本に敗れたことは、シナ人にとっては相当な心理的衝撃であったことが容易に知れる。李鴻章
そこで、日本にできることなら自分にもできるはず、と短絡的に考え、清朝は国民国家へ脱皮することによりサヴァイヴァルを謀った。国民国家は、共和制でもいいし君主制でもよいのであるから、シナ皇帝を中心に国民国家を建設しようというアイデアそのものは悪くはない。
しかし清は、大きく分けてもモンゴル、東トルキスタン、チベット、漢・チャイニーズという異なる民族、言語、歴史、宗教、文化を有する地域を政治軍事的にまとめている帝国であったから、そのままでは国民国家と矛盾する。早くそこに気づいていればよかったのであるが、肥大した国家自我は、みずから縮小を選ぶことができず、日本の明治維新における天皇の役割をそのままシナ皇帝がはたせると考え「洋務派」「変法派」などが改革と「維新」を実行しようとした。国民国家という概念がよく理解できていなかった証拠がそこにある。ただ国民国家軍は戦争に強かったからその一点においてまねびする価値あり、と踏んだのであろう。 変法維新派の厳復、康有為、梁啓超
そのため日本へ学べとばかり大量の留学生を日本へ送り出し、帰国した者を官吏として採用もした。その中で重要なのが、軍事留学生である。日本政府は、シナからの留学生のために特別な援助をあたえた。まず柔道で有名な嘉納治五郎が設立した弘文学院などの日本語速習課で日本語を習得したのち、陸軍省がつくった振武学校という予備科を修めたものは、陸軍士官学校さらには陸軍大学へと進めた。この日本で軍事を学んで帰国した者たちが、新軍という日本式軍隊の軍事指導者となって大陸各地に散った。これらの日本留学生たちの高められた民族意識は、清朝改革ではなく、清朝打倒そして漢・チャイニーズ自らの国家建設へと向かうようになった。
そしてこれら日本留学帰りの新軍指導者たちが起こしたのがいわゆる辛亥革命である。孫文が指導したなどというのは、なんの現実的根拠がない大嘘である。ペテンの始まりであった。これについては黄文雄氏が一書を著しているからご参考あれ。(『中国が葬った歴史の新・真実』青春出版社、シナ語翻訳版は『国父與阿Q』前衛出版社、台北)この口からでまかせばかりで「孫大砲」とあだ名された口舌の徒を担いで、急ごしらえででっちあげられた中華民国であったが、初代大統領の地位は、順当にも北洋軍閥第一の実力者・袁世凱の手に落ちた。
そして一世一代の大ペテンが行われる。
清朝が支配した帝国を、そのまま国民国家であるべきシナ共和国の領土としたことである。本来ならば、漢・チャイニーズだけで身の丈にあった独自の国民国家をこしらえていさえすればその後のシナの現代史はずいぶんとちがったものになっていたであろう。しかし清朝というシナ皇帝が、シナ支配と同時にシナの外部に有していた権力の大きさに魅せられたのか、中華民国はモンゴル、東トルキスタン、チベットをふくむ帝国をそのまま共和国の版図としてしまったのである。(幸いにも、モンゴル人たちはモンゴル北部にモンゴル人民共和国を成立させていたから、全土をシナ人にのっとられることをあやうく逃れた。それは辛亥革命直後、中華民国建国の直前、1911年12月のことであった。)この大ペテンが現在にもつづくモンゴル、東トルキスタン、チベットの悲劇の現代史の淵源である。中華民国は満清帝国の継承政権である、というのがそのペテンのいいわけである。ここにまずシナ国民国家建設の最初の失敗が期されることになった。
ありもしない各民族団結を宣伝するポスター
その後の軍閥割拠、さらにはソ連の扶持による(またもや「孫大砲」をかついでの)いわゆる北伐により軍閥割拠から軍閥同盟による安定に進むかと思いきや、北伐が生み出した鬼っ子、共産党軍による南部シナにおける割拠、さらにはソヴィエト政権樹立という分裂、軍事対決に進んだ。それ以降の、ソ連の陰謀によりシナ内戦への泥沼にひきずりこまれた日本とその役割、国共内戦の経緯はここではおもいきって省略する。簡略すれば、統一国家、国民国家としては、中華民国はこの間まったくといってよいほど機能しなかった、ということだ。襤褸のごとく乱れる、という言葉どおりの有様であった。そんなシナへ、ソ連の陰謀、米国の嫉妬による干渉がったにせよ、うかつにもオーヴァー・コミットメントさせられた日本はいい面の皮であった。またそれを回避できなかったことを日本の指導者は責められべきである。われらはそれを現在未来の戒めとしなければならない。そこにはソ連の援助を得られなくなった蒋介石たちの、英米をうまく利用してのペテンがあったのではあるが、むしろ英米が蒋をうまくのせて利用した、というのが妥当であろうか。英米も日本敗戦後その反共の砦としての役割の大きさに気づいたのであるが、すでに時遅し、自らが前線に立って共産主義と戦うはめになったのは小気味がよい。
閑話休題
さて日本敗戦後、連合軍司令部の指令のもと国民党軍は台湾を接収した。つかのまの大陸と台湾にまたがる中華民国の(主観的には)晴れ舞台であったろう。しかし中華民国はシナ大陸に建国された国家である。共産党との内戦をたたかう国民党軍は大陸支配もままならず、ついには大陸を追われ台湾へと逃げ込んだ。台湾の悲劇がはじまった。
228事件
それは台湾人にとってはまさに悲劇であったが、国際的には虚構に満ちた喜劇であった。サンフランシスコ講和条約により日本の台湾支配が国際法的に公式に終了したが、しかし台湾の帰属は明文化されなかった。国共対立の行方がさだかでなかったこともその理由であろう。国際法的には、台湾は日清戦争の講和条約である下関条約により「化外の地」(中華の感化およばぬ地)として清から日本へ割譲されたのであるから、日本が台湾を返還するなら清かその継承政権である中華民国へ、であるべきであった。ところが中華民国は、すでにシナ大陸の統治権力を共産党にうばわれている。そして蒋介石とともにやってきた中華民国が火事場泥棒のごとく台湾にいすわっていたから、そのまま台湾すなわち中華民国になってしまったのであった。
ここに第二の大ペテンがはじまる。
すなわち中華民国の領土は、うばわれたとはいえモンゴル、東トルキスタン、チベットをふくむシナ亜大陸であり共匪に暫時占領されて入るが、かならずまた奪い返す、というものだ。それを理由に蒋介石政権は、台北を臨時首都とする虚構の中華民国体制を再建し反共の新しい砦として日米の経済軍事援助を得て生き延びることに成功した。
この体制こそ台湾がそこから独立しなければならない桎梏そのものである。この虚構の体制があるからこそ、シナ大陸を占領した中共軍閥政権が、台湾は「中国の一部」というでたらめを主張できる根拠となっているのだ。そして中共は、この台湾における中華民国体制の虚構をうまく利用して、連合国の中華民国の席次を政権継承者として奪取することに成功し、中華民国を「国際的孤児」へと追い込んだのだ。
連合国に「復帰」した中共政権代表団
中華民国は、台湾とはもとより一切関係がなかった。中華民国が建国されたときには、台湾はすでに下関条約により日本の領土となっていたからだ。台湾は日本敗戦という悲劇により放り出されて、そして中華民国という強盗にむりやり押し込まれ有無を言わさずすべてを奪われ、そしてそのまま居座られてきたのだ。台湾人こそ台湾における中華民国体制という第二の大ペテンの最大の被害者である。この非道なペテン師・中華民国とその虚構の体制から独立をはかる台湾人に、われわれ日本人はこころからの声援をおくらずにはいられない。
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▼台湾における「中国病」患者(マルコおいちゃんのシナにつける薬)
シナ人特有の、世界の中心すなわち「中国」でありたい、「大国」でありたい、という誇大妄想的意識を、「シナという病」と名づけておいた。それは、異民族に武力統治され奴隷として虐げられ見下された長い歴史によるものに発し、意識下に抑圧されたルサンチマンの発露として一挙に奴隷の主人となりたいという幼稚な心理的不安の表れである、と述べておいた。それを、ここでは少し言葉をかえて、「シナにおける「中国病」」と名づけよう。これで概念がより明確になると思う。
元来、「中国」とは、「自国」「中原」、などが原義であって、「シナ、China」の意で用いられるようになったのは、日清戦争に敗北して、日本に学べとばかり大挙おとずれた清国留学生が、日本には元来はシナから漢訳仏典とともに輸入した「支那」という言葉があり、「唐」「宋」「明」「清」などと王朝ごとに呼び名を変えてきた自称にくらべて、シナ全体を指す便利なものであることにきづき、それにならったものである。すなわち「支那」では意味が理解しにくいため、ふるい「中国」という語をひっぱりだしたものである。(岡田英弘氏の諸著作による)その呼称の自称他称としての使用法と、それをめぐるあれやこれやの愚弄な変遷はここでは問わない。
わたしは、「支那」よりもむしろ「シナ」を用いている。ひとつには漢字による誤解を避けること、そしてまた学問用語としての「Sina」による。念のため。さて、前回≪中華民国というペテン≫で述べたように、日本敗戦後に火事場泥棒のの「中華民国」に占領され今日にいたっている台湾には、二つの大きな理由により、シナ大陸と同様の「中国病」患者がやはり存在する。そのひとつは、シナ大陸からやってきたシナ人そのものが、失われた大陸を夢見て、あるいは故郷から放逐された者のひがみか、その惨めさをごまかすためか、自己欺瞞のために自らを「中国人」と自称していること、がまずある。(全部がそうだとはいわないが)いわゆる外省人である。
彼らは、占領者、統治者として台湾人を奴隷とみなし、ながくその奴隷主としての特権を享受してきたが、李登輝先生の国民党権力を利用しての巧妙な内部からの改革、すなわち民主化と本土化により、2000年の総統選挙で敗北し下野した。しかしそれまで彼ら「中国人」は、台湾を「中華民国台湾省」としてあつかい、台湾とは元来関係のなかった北京語を「国語」として強制し、「中国人」としての洗脳教育をさらには反日教育を行ってきた。
その結果、幾世代もまえから台湾に住み「中国」とは関係のなかったにもかかわらず、自らを「中国人」として認識する者もでてきた。台湾人の意識調査で、自己を台湾人、あるいは中国人、さらには台湾人であり中国人であると認定する人々の割合は、台湾人とする者が年々増加してはいるものの、それでも「中国人」とする自己意識するものも根強く残っている。その理由には、激しい思い込み、すなわち信仰、ショーバイのため、ただなんとなく、など諸々であろうが、上記した外省人と、その思想的奴隷たちが主であろう、と考える。
台湾人が自らをシナの思想的奴隷から解放するについては、李登輝先生が端緒をつけた台湾人としてアイデンティティを高めるための歴史教育もおおいに効果があったろう。また洗脳教育をうけながら、それにもかかわらず、洗脳から自らぬけだし見事に台湾人としてのアイデンティティを確立された林建良先生のような方もおられる。
李登輝先生が唱えられた「早くに来たものも、遅くにきたものもみな台湾人だ、われわれはみな新台湾人」とする外省人と本省人(すなわち台湾人)との融和政策のかいもなく、多くの外省人には台湾人としての意識は希薄である。もう外省人と本省人などというごまかしはやめて、「中国人」と台湾人としたほうがよいのではないか?そのほうが、よほど問題の所在がはっきりする。自らが大陸から台湾に逃げ込んできたシナ人自身はともかく、その者たちの子や孫でさえあいもかわらず「中国人」意識を持ち続けているのは、イデオロギーか信仰によるものであると考えざるを得ない。あるいはまさに「中国病」という心の病なのだ。
彼らはいう、「われらは台湾に住む中国人」である、と。つまり台湾は仮の住まいに過ぎない、といっているのだ。
わたしが自ら体験したことを以下に述べよう。あるとき、仕事で台湾にいた。台湾人、「在台中国人」を含んでの会食のとき、どうにも理解しにくいことがあった。会話は北京語で行われていたからまず問題はなかったのだが、「在台中国人」諸君の用語法が一風かわっていたのだ。「国内の経済発展に乗り遅れるな」とか「国内の民主化はまだ遠い」とか、どうも彼らの言う「国内」とは台湾国内のことを語っているとは思えないのだ。そして彼らのいう「国内」とは「中国内」すなわち大陸のことである、と腑に落ちたのはしばらくしてのことだった。
ことほど左様に、かれらの意識は大陸にあり、自らを「中国人」とする自己規定は強固なものがあるのだ、と知れた。
また在独華僑商工会議所のような組織の旧正月にあったっての挨拶文を目にする機会があった。そこには、「中国人も台湾人もともに両岸統一のためともに努力しよう」などという文面があった。その「中国人」とは前後の文脈から大陸のそれではなく、台湾の「中国人」であることがあきらかだった。その組織は国民党主導のものであったから、その意とするところは明確である。今年三月の総統選挙には、国民党が権力の座に復帰し強力に「国共合作」を推進しようとしているのだ。馬英九がいま言葉でどうごまかそうと、国民党の願いは、権力を再び奪い返し昔のような甘い汁を吸おう、大陸に大いにコミットしてさらに大きな利権を拾い上げよう、そのためには他人の土地である台湾を売り渡してもかまわない、という事にあることは間違いがない。
彼らこそ、シナからその病原菌を台湾にもちきたった「中国病」患者にほかならない。こんな精神に病をもつものたちに国を託しては危険極まりない。ある台湾人が日本語でわたしに語った。「あいつらそんなにシナが好きなら、みんなそろってシナへ帰ってしまえばいいのだ。」けだし名言であろう。台湾がいつまでも台湾人のものであるために、理想的とはいえずとも国民党よりもはるかにましな民進党の奮起を期待し、そして応援しよう!