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▼近衛家1000年の重み (大島 信三)
いま、上野の東京国立博物館(平成館)で、「宮廷のみやび――近衛家1000年の名宝」展がひらかれている(2月24日まで)。陽明文庫創立70周年記念の特別展だという。陽明文庫は、昭和13(1938)年、近衛家第29代の近衛文麿(元首相)によって設立された財団法人。近衛家に伝来した国宝8件、重要文化財59件をふくむ約20万点の文化財を保管している。


昨年10月10日から12月2日まで、同じ平成館で「大徳川展」が開催された。徳川将軍家、尾張・紀伊・水戸の徳川ご三家をはじめ、久能山、日光、芝、名古屋・紀州・水戸の東照宮、さらに輪王寺・増上寺・寛永寺といった徳川家ゆかりの社寺に伝えられた宝物を、はじめて一堂に会する展覧会で、そのきらびやかさに圧倒された。


ところが、先日、「近衛家1000年の名宝」をみて、あの「大徳川展」が小さく感じられた。江戸の大将軍といえども、5摂家筆頭のお公家さんには、とても適わないと思った。とにかく、歴史の重みがちがうのである。なにしろ、「大徳川展」がせいぜい16世紀から始まるのに対して、「近衛家1000年の名宝」展のほうは、7世紀に活躍した藤原鎌足の肖像からスタートするのだからすごい。近衛家では、戦争といえば、応仁の乱をさすそうで、徳川将軍家の関が原とは、比較にもならない。


驚いたのは、外国人の参観者が多かったこと。かれらの多くは、近衛家のことはもちろん、その歴史的背景も十分に知ったうえで、作品を鑑賞しているにちがいない。すくなくとも、わたしのまわりにいた外国人には、そうであることがはっきりとわかった。道長の「御堂関白記」をじっと覗き込んでいる外国人女性は、あきらかに道長の自筆を読んでいたのだ。近衛家が、時代の風雪に耐えてこれほどの文化財を保管してきたことに感動し、日本の文化の奥行きの深さをあらためて認識した。

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(国民年金の花柳な生活)

■2008/01/16 (水) 器物破損だって?国民年金の花柳な生活)

 《昨日(15日)11時頃、シナ人観光者が、国旗を持ち靖國神社を参拝しようとした日本人に対して、暴行を加えたうえに日本国旗を破り、国旗の棒を折るという事件があった。犯人は暴行と器物破損警察の容疑で麹町警察署員に逮捕された。なお、被害者は怪我をしているため、病院で診断書を取り次第、麹町署は容疑を傷害に切り替えて取り調べる方針だ。》

 これは「台湾の声」誌から送られて来たメルマガの記事である。(元のソース 二階堂ドットコム 
http://www.nikaidou.com/2008/01/post_877.html  )

 記事の終わりにはこんなコメントもついている。
《「完全黙秘なので10日間の拘留はつける予定ですが、対日シナ外交を重んじる福田政権が圧力をかけてきて・・・なんて事になると、釈放するしかないでしょうねぇ(警視庁幹部)》

 今のところネット情報である。昨日の出来事なら今日の新聞に載っている筈なので確かめたのだが、朝日にも産経にも載っていない。全国版ではなく、東京版なら載っているのかもしれないが、こういうニュースは取り上げない事も考えられる。

 記事の通りだとすると犯人は長期滞在者の研修・留学生ではなく観光客らしい。それにしてもシナ人が何故靖国神社に来たのかという疑問が浮かぶ。度々問題になる所だから一度見ておこうと好奇心でやって来たのか。或いは日本軍国主義の総本山に行って、暴れてやろうとワザワザ出掛けたのか。こちらが何もしなくても日の丸を見て忽ち凶暴になるのは幼児期から培った教育の成果であろう。国旗を破り旗ざおまで折ったというのは確信犯である。

 一方被害者はどんな人だったのか。この記事だけでは分からない。まさかと思うが特攻服などを着たツッパリではないだろうな。若しそうなら「軍旗」を奪われる様な見っとも無いマネをするな。

 犯人は器物破損だけではなく、暴力行為による傷害罪を犯したのだから黙秘のまま起訴し「牢屋に入って貰う」以外にない。
 それにしてもこの国は一体「国家」なのか。国旗を汚した者には厳罰で臨め。

■2008/01/15 (火) 朝日新聞非掲載コラム(1)


 15日の朝日新聞に定例の「定義集」が掲載された。どうやらこのコラムは毎月中旬に連載されている様だ。今まで目もくれなかったこの欄を注目する様になったので分かって来た。

 大江健三郎という人は意外に粘液質で一つの事にこだわる性質らしい。特に自分の体面に関る(と思える)事象に関してはしつこく絡む性格の様だ。今月もさり気なく「沖縄集団自決」に触れ、自説の正当化と補強に努めている。私は彼の生い立ちなどには興味ないから良く知らないが、多分挫折を経験する事無く今までの人生を歩んで来たのだろう。

 彼は私より少し年下だがほぼ同世代である。あの頃、大学に進学出来る家庭なら、少なくとも「花柳」ではない。食うに困った経験もないだろう。東大に合格し、在学中に芥川賞を受賞。更にノーベル文学賞を受賞するなど栄光に満ちた経歴の持ち主だ。思う通りに障害も無く歩んで来た人の常で、前途を阻むものは問答無用で取り除こうとするのである。

 さて、今月の「定義集」は『子供らの声と沈黙を表現する』いう副題のもと『耳澄ませ作る「真実の文体」』をタイトルにしている。《年頭、書庫にこもって‥‥》に始まり《「子供のための、できれば大きい本」を書こうとして、もう永年、その資料の箱を積み重ねています》と続く文章は柔らかくスマートだ。

 主題はドイツの作家ギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」に触れ、グラスとの往復書簡の経緯の中では《グラスが、第2次世界大戦の終わりにフランスから敗走する街道で、ドイツの少年兵たちが戦線から逃亡したとして自国軍に処刑され、並木に吊るされたことを書き、その名誉回復をもとめる運動を呼びかけたのに私も署名しました》と述べている。

「ブリキの太鼓」は映画化されているので御存知の方も多いと思うが、3才の誕生日に貰ったブリキの太鼓を叩き、何才になってもその姿のまま成長しないオスカルを通じてナチスを批判した作品である。

 本文はこの後もグラスと「ブリキの太鼓」についての記述が続くが大江氏が書きたかった本当の主題はそれに続く次の部分であろう。

■2008/01/15 (火) 朝日新聞非掲載コラム(2)


 《30年前に書きとった『沖縄県史』第十巻からのカードもありました。渡嘉敷島で島民の集団自決が行われた後、軍が降伏するまでに起こったことを、守備隊長の副官だった知念朝睦元少尉の書いた手記。『‥‥米軍の捕虜になって逃げ帰った二人の少年が歩哨線で日本軍に捕らえられ、本部につれられて来ていました。少年たちは赤松隊長に、皇民として、捕虜になった君たちは、どのようにして、その汚名をつぐなうかと、折檻され、死にますと答えて、立木に首をつって死んでしまいました。』
 私は夜の木陰の、少年たちの声に耳を澄ませたかったのです。》

 抜け目なくと言おうか、性懲りもなくと言おうか、「沖縄ノート」の補強をしているのである。何の知識も無く、此処だけしか読まない人は「残酷物語」として理解し、赤松隊長を非難する側に立つだろう。

 だが、ここでも重大な、そして恐らくは意識的な「脱落」がある。この文章には時間の経過がある様で、実は全く無いのだ。それは「集団自決が行われた後、軍が降伏するまで」という単純な書き方によってもたらされている。

 「集団自決」の悲劇はこの島に米軍が上陸した翌日の3月28日に起きている。赤松隊が「停戦」の事実を確かめる為に山を降りたのは8月16日で、軍の停戦命令を確認して降伏したのは更に後である。この間戦闘が繰り返されていた事を忘れてはならない。

 ついでに言うと「敵前逃亡」は何処の国の軍隊でも最も重い罪で銃殺は免れない。敵が眼前に迫った時、逃げ出したい衝動に駆られたとしても決して不思議ではないし、それを思い止める意識の中に軍法会議があったとしても人間として寧ろ普通の心理である。

 又、歩哨が動くものを認めて誰何した時、答えが無ければ発砲するのも当たり前の事である。島に上陸した米軍は集落のある低地部分を制圧し、赤松隊は高地に追い上げられた形で戦線は膠着状態になった。本島に兵力を集中したい米軍は赤松隊との決戦は避け、封じ込め作戦を取っている。元々水上特攻隊でろくな火器を持たない赤松隊が何も出来ない事を知っていたのだ。

■2008/01/15 (火) 朝日新聞非掲載コラム(3)


 大江氏の挙げる知念元少尉の手記というのは「鉄の暴風」の一節と思われる。「鉄の暴風」がかなり杜撰な情報を元に編纂されたものである事は今日では常識だ。曽野綾子氏の「集団自決の真実」によると類似の事件は何回か記録されており、それらしき事件は4月半ばに起きているし、8月にもある。当時の村長が戦後書いた手記の中で「赤松の処刑命令が出て殺された」と書いているが信憑性は薄い。

 この時分には村人達は米軍占領下の部落に帰っており、そこから出て来るのだから日本軍も警戒したのであろう。赤松氏は曽野氏の質問に「‥‥どうもはっきり、わからんのですが歩哨あたりに面罵されたらしい。歩哨線のすぐ近くに米軍が電話線を引いておりましたが、それを松の木に引っかけて、それで首をくくったらしいのですが、詳しいことは私も見ていないのです」と答えている。

 もう一つの例は「8月16日の朝、米軍から手紙を貰って、4人が投降を勧告に来たらしいんですね。そのうち二人は兵隊の経験があったから、竹の棒の先に手紙を挟んで、それを地面に突っ立てて帰ってきた。ところが後の二人はぜんぜん(軍隊の)経験がないから歩哨線で殺されたらしい。‥‥逮捕して処刑したんじゃなくて、誰何して逃げ出したので、あくまでそのまま射殺したようです」

 「その事は私もこの前沖縄へ慰霊祭に行くまでは知らなかったんです。ひたすら、竹ざおの先にはさまれた手紙が歩哨線の前に残されたとばかり思っていた。ところが沖縄へ行った時、亡くなった方の遺児という方が現れて、これこれしかじかだと‥‥。その事実がわかった以上、いくらこちらの記憶にない事でも(陣中日誌に)入れねばいかん、という事で後からつけ加えたのです。

 ‥‥部隊の歩哨は、16日の朝では未だ終戦になっている事を知りませんから、そうなるとやはり「作戦要務令」の歩哨の一般守則の通りに行動している。歩哨が3度誰何して相手が逃げれば殺すか逮捕するか、これはやむをえないんじゃないでしょうか。住民だから撃ったんじゃありません。」

 物事はあくまでも正確に伝えなければならない。ホンの一寸した言葉のあやで事態は大きく変わるのだ。この出来事はグラスの見たドイツ少年兵の場合とは事情が異なる。共通するのは「戦争は悪」という点だけである。