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▼「特定国妻」にご用心! (博士の独り言)
【記者ブログ】ウイークエンダー・中国3面記事 福島香織
 最近の中国で猟奇犯罪が増えていると思うのは私だけだろうか。ネットをみれば、砕屍(スイシー=バラバラ死体)、雇凶(グーション=委託殺人)、大学生殺人…。というわけで、週末のエントリーは、ときどき、3面記事の猟奇犯罪を掘り下げてみようかな、と。今エントリーは、中国全土が注目する凶悪事件、雲南麗江女子大生委託殺人事件を、ゴシップ紙とネットにあふれる不確かな情報をもとに、編集、再構成、ちょこっと脚色して、ご紹介しつつ、中国の世相にせまってみたいと思います。ぱっぱらっぱっぱっぱ~(なつかしのテレビ3面記事ウイークエンダーのアイアンサイドのテーマを口ずさんでみよう)。産経新聞1月14日付記事より参照のため引用/写真は「国際結婚斡旋業者のウソを指摘するサイト」の一例参照のため引用
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目立つ残虐な事件
日本国内でも目立ちはじめている支那(中国の敬称)人女性による残虐な殺人事件に関連して、支那国内の猟奇的な事件の数々も「傾向性」が符合している、との指摘とともに、憂国者殿より表題の記事情報を教えていただいた。感謝する。 記事中に登場する事例は、そのメンタリティを識る上で、貴重な資料とできるのかもしれない。また、記事に採り上げる事例の「重苦しさ」を緩和するためか、福島香織記者はあえて軽いタッチでの記述を心がけられておられるようだが、日頃、支那の貴重な情報を提供される福島氏にありながら、表題のスタンスは、採り上げる事例(殺人)に対して果たして適切なのか、どうか。あくまでも筆者の感想に過ぎないが、15日に別件で電突する際に、産経新聞に一言提案申し上げるつもりだが。
それはさておき、記事の中に採り上げられている事例だが、やはり、人を「人」とも思わない残虐性が潜んでいるようだ。先稿に触れた、支那人妻による保険金目当ての殺人事件もそうであった。あるいは男性であっても、JR御茶ノ水駅のホームから警察官を突き落とし、重傷を負わせる殺人未遂事件も昨年末にあった。支那の人倫観の欠如を思わせる事件であった。
一昨年(2006年)8月には、山形県舞岡市で、支那人妻が夫を包丁で殴り、自宅に放火して焼死させるという事件があった。また同年2月には、黒龍江省出身の支那人妻が、娘と同じ幼稚園に通う園児2人を刃物で刺殺するという事件もあった。また、同年春には、支那人妻による、夫へのインシュリン投与による殺人未遂事件があった。その間、自らは風俗店で働くという目に余る事件であった。「日本で暮らしたいために愛情なく結婚した」(要旨)との同被告の自白は、多くの支那人妻に大なり小なり共通した「思い」であろう。
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足元を観られる日本人男性
支那人妻を斡旋紹介する業者は、日本側に500社以上存在しているという。業者に支払う斡旋料については、あくまで参考値として引用するが、『支那へのツアー代込みで300万円が相場。大半のツアーは2~4日で、男性はその間に妻を決めることになる」(ポスト誌11月25日号)とのことだ。支那人女性が結婚に応じると、『結納名目で実家に30万~50万円が支払われるケースが多い。中国の貧しい地域では、結納金や日本からの仕送り目当てに、娘を“送り出す”家があるという」(同)とのことだ。 各人各様に、さまざまな事情はあるだろう。「結婚」相手の選択はあくまで自由であり、その後も幸せに暮らしている事例も中にはあるだろう。だが、言葉が悪くて恐縮だが、足元を観られての結婚。その傾向性は否定できないのではないか。業者が多数はびこる実態に触れ、支那のみならず特定国女性全般の日本国籍取得。そのための「偽装結婚」の温床ともなっていることにも気づく。そうまでにして妻を娶(めと)る意味が本当にあるのだろうか、とふと疑問に思う次第である。
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石平氏の書籍

 以上と関連し、先稿にも触れたが、現在の支那を認識する上で、石平氏の著書はまさに的確な一書と考え、短稿でも紹介する。
著者/訳者名 石平/著
出版社: ビジネス社 (2007/11/13)
ISBN-10: 4828414010
ISBN-13: 978-4828414010
発売日: 2007/11/13
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書籍の概要
 07年は、「南京大虐殺」発生の70周年に当たり、中国は大々的に展開しようとしている。しかし「南京大虐殺」の信憑性は疑わしいが、18年前に丸腰の学生や一般人に対し、戦車や部隊を出動させ無差別虐殺を断行した「天安門事件」と言う名の「北京虐殺」は確実に実行された。本書は、中国共産党の犯した数々の虐殺を掘り下げながら、始皇帝以来の「中国大虐殺史」を綿密にまとめあげた。 「天安門事件で倒れた」、わが心の戦友に捧げる。 (書籍紹介より引用)
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目 次
第1章 大量殺人から身を起こした中国共産党(革命とは「破落戸たちとの共謀殺人」である「一村一焼一殺」の恐ろしい実態 ほか)
第2章 自国民への大屠殺を楽しむ共産党政府(200万人の命を奪った「土地改革運動」71万人を即時処刑した「鎮反」という名の大虐殺 ほか)
第3章 「殺人者の楽園」を作り出した文革時代(毛沢東最後の「地痞流氓革命」「迫害致死」という全国規模の大量殺戮 ほか)
第4章 中華帝国史を飾った殺戮の残酷物語(「三種の殺戮」をやり遂げた秦帝国の暴虐陰謀と殺し合いで綴られる漢帝国400年史 ほか)
第5章 中国史上の戦慄すべき無差別大屠殺(100万人殺しから始まった「四川大屠殺」人口の絶滅をもたらした張献忠軍の「殺人競争」 ほか)
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ある意味で「チベット」と同じか

支那人妻を迎える。その国際結婚の例は、この15年間で3倍に増えているという。言葉は悪いが、支那が収奪したチベットに同国民を大量移住させ、チベット人と結婚させ、その「血筋」の希釈、ひいては絶滅を目論む。そう指摘される中国共産党の解放(支那で謂う解放とは侵略)政策と、上述の国際結婚の事例とは「相似形」ではないのか。地球儀の生産。その情報規制には圧力と恫喝を以って関与する中国共産党政府が、支那人妻斡旋業者の増殖は許している。その事由を考察すれば、その延長線上に、形を変えた「ジェノサイド」の可能性さえ伺える。そう思うのは筆者の考え過ぎであろうか。
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■ 主な関連記事:

・ 人倫無き「特定国」妻

・ 線路に落とされた警官
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【筆者記】

移動中のため、短稿にて失礼申し上げる。週中から全開で活動を再開するつもりだ。みなさまよりお見舞いをいただき感謝する。  ところで、ある識者は独身を通しておられる。失礼ながら、事由をうかがったことがあった。伴侶を人質に取られるようなことがあれば、論筆が鈍るからだ、万一、殺されるのであれば、それは私だけでよい(要旨)、と応えられた。不謹慎だが、尊く思えて涙が止らなかった。これほどの覚悟を決めたジャーナリストが日本に何人いるだろうか。世界中で、毎年100名近くのジャーナリストが殉職している。
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▼護憲派は舟に刻みて憲法を求む (外交と安善保障をクロフネ・・)

今日は昔話をしよう。

昔、中国の楚という国の人が舟で川を渡っていた。舟が川の中ほどに差し掛かったころ、その人は自分の剣を川に落としてしまった。しかし、その人は慌てず騒がず舟の自分が座っていた場所にしるしをつけて、「ここが剣を落とした場所だ」と言った。舟が向こう岸に着くと、剣を拾うためにその人は舟を降り、川の中にじゃぶじゃぶ入って行って、舟のしるしをつけた場所のちょうど真下を探し始めた。だが、いっこうに剣は見つからなかった。

普通の人なら、剣が見つからないのは何故か容易に理解できるだろう。剣を舟から落とした時に、舟にいくらしるしをつけたところで、舟自身が動いてしまっているのだし、川の水だって流れているのだから、川に落ちた剣がいつまでも落ちた場所に留まっているとも限らない。これは、紀元前三世紀・秦の時代に成立した中国の古典・呂氏春秋(呂覧とも)に載っている話なのだが、「頭が柔軟でない人は、これほどまでにお馬鹿さんなのですよ、だからこうなっちゃいけませんよ」という教訓を示しているのではないかと思う。私はこの「舟にしるしをつけて剣を探した人」から「日本は憲法を絶対に変更してはダメだ」と主張する、いわゆる護憲派の人達を、いっつも連想してしまう。

舟にしるしをつけて剣を探した人は、まず”しるし”ありきで、舟が動いているので自分の位置が刻々と変化していることや、川の水が常に流れ、剣もそれによって押し流されるという、まわりの環境もまた変化していることをまったく無視してしまっている。つまり現実がまったく見えていないということだ。この場合大切なのは、舟につけたしるしではなくて、剣の沈んでいる場所という現実そのものである。舟につけたしるしに剣がついてくるのではない。剣の沈んでいる場所にしるしの位置を従わせなければならないのである。まず基準とすべきは剣の沈んでいる場所という現実である。

護憲派の人達もまず憲法という”しるし”ありきで、日本自身が変化し日本がおかれている国際環境も変化しているにもかかわらず、憲法という”しるし”に、現実の方がついてくると勘違いしている。それはあべこべの話である。法は、刻々と変化する現実社会の必要性から生み出されるものであって、必要なくなれば削除されたり変更されたりするものでもある。

やはり基準とすべきは、現実だ。 法は決して「一度つくったら絶対に変更の許されない神聖不可侵のもの」ではない。かつては、現代の価値観からすれば絶対に許されない奴隷制度が合法だった時代・国があった。もし法が「一度つくったら絶対に変更の許されない神聖不可侵のもの」であったのなら、奴隷制度が永遠に続いても良いということになってしまう。

しかし、現実の社会が人権を重視するように変化したことによって、法も変更が加えられ奴隷制度が非合法になったわけだ。日本の改憲問題で最大の注目を浴びるのは、やはり九条であろう。護憲派の人達はしばしば、「非武装をうたった憲法九条のおかげで日本は平和だったのだ」と言う。だが、私は自分の良心に誓って、そんなウソをつくわけにはいかない。憲法九条を素直に読めば、日本は一切戦争はしないし、陸海空あらゆる軍隊を持つことも出来ないとしか読めない。


日本国憲法第九条

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ところが、現実の日本には陸海空あわせて総兵力二十五万弱のれっきとした軍隊があり、世界最強のアメリカ軍と同盟も結んでいるそうした現実こそ戦後の日本がずっと平和だった最大の理由であり、憲法九条という”しるし”が平和な日本という現実を生み出したわけではない。むしろ憲法九条という”しるし”の下をいくら探したって、落とした剣(軍隊が全く存在しない日本)なんて出てこない。

現実と憲法九条のそのような矛盾を、政府の苦しい”解釈改憲”で乗り切ってきたのが、戦後の日本だった。本当に遵法精神と良心を持つ人間なら、護憲派のように”解釈改憲”の現実から目をそらし、「憲法九条を絶対に変えなければ間違いは無いんだ!九条バンザイ!」なんてとても言えないだろう。たとえば「日本は自衛目的に限って、最低限度の戦力を保持することを認める」といったように潔く憲法を改め、一刻も早く違憲状態を解消すべきである。それが本当の意味での憲法を守るということだ。

一見憲法を大切にしているようでいて、最も日本の憲法を粗末に扱い、ないがしろにしているのは護憲派の人達であると言わざるを得ない。

きょう五月三日は憲法記念日。


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2008年1月14日 加筆
護憲派と呼ばれる人達は、しばしば「憲法九条をなくすと日本は再び侵略戦争を始める」などと主張する。これって冷静に考えてみると「自分達日本人は武器を持つと何をしでかすか分かりませんので、絶対に武器を与えないでください」と言っていることと等しいわけで、こういう主張って、実はかなり病んでいる考え方だと思う。

また、「憲法を改正すると自動的にアメリカと一緒に戦争をしなければならなくなる」という主張もおかしいのであって、例えば、護憲派がしばしば「過去をしっかり反省した理想的な国」と主張する、フランクフルト空港の反対側に巨大なアメリカ軍基地のあるドイツは、94年以降ユーゴ戦争の時にはアメリカ軍に協力して派兵したが、03年のイラク戦争のときには拒否した。現在アフガニスタンには派兵している。これは憲法の問題ではなくて別の問題、つまりその国がいかに「主張する外交」ができるか、独立国家として当然もっていなければいけない外交戦略があるかどうかの話であろう。

問題は「いかに日本が独立した大人の国になるか」であるのに、護憲派の言っていることは「大人になるとろくなことしないから、日本はいつまでも子供の国で良い」ということであり、やはり病んでいるなと言わざるを得ない。私自身は、憲法九条があろうが無かろうが、侵略戦争が悪いっていうことは充分わかっているし、そうしたことを踏まえ、責任を持って投票しようと考えている