シナの世界では近代化が成立していない。
ようちゃん、おすすめ記事。↓
▼シナにモラルがない、とは誤解である (マルコおいちゃんのシナにつける薬)
http://marco-germany.at.webry.info/200712/article_8.html
シナにだってモラルはある。だがわれわれの考えるモラルとはことなっているだけのなのだ。以下、それについて述べよう。共同体とはコミュニテイ(Community)、あるいはコミューン(Commune)の訳語であるが、コミューンの場合は「公社」(Gong She)というシナ語があるので、コミュニテイを共同体の原義としておこう。しかし日本語で、コミュニテイとは「地域コミュニテイ」とか「ネット・コミュニテイ」とかまるで同好会とか仲良しクラブのように使用されるので紛らわしい。
ここでは独語ゲマインデ(Gemeinde)を使用しておこう。中高の教科書にも記述があると思うが、ゲゼルシャフト(Gesellschaft, 社会)と対立し相補う社会学用語である。
たとえば、家族、教会、スポーツ・クラブなどはゲマインデである。会社や一般公共社会はゲゼルシャフトである。ゲマインデは私的、ゲゼルシャフトは公的。ゲマインデは暖かく、ゲゼルシャフトは冷たい。ざっと簡略して分類すれば以上のようであろうか?
近代社会とは、ゲマインデが崩壊しゲゼルシャフトに置き換わって行く。それが欧州で発生した近代というものである。
たとえばドイツで有名な話がある。16歳になった息子が家から独立したい、しかし独自の部屋を借りる収入がない。親に援助を申し出たが断られた。そこで裁判所に親を訴えでた。息子は独立する権利があり、親は息子の独立を援助する義務がある、というわけである。結果は息子の勝訴となった。晴れて独立した息子は、週末ごとに親元へかえり食事をする。
これが近代社会というものである。個人の権利という一般社会規範が、家のルールを超越している。そして家族間の訴訟という事態になったら前近代的社会においては、家族は崩壊する。しかし近代社会では平気なのだ。家族さえ個人と個人に分解されてしまう。我が家でも、夕食に家族三人がそれぞれちがう食物を摂取する、ということが間々ある。これはドイツでは普通である。家族が好きなときに別々の時間に食事することさえある。一家そろって楽しい夕食、さえないのである。前近代社会であれば、家族内の問題は家のルールによって処理されるべきである。それはゲマインデ内の規範である。しかし、いわゆる公衆道徳といわれるゲマインデ外の規範もある。
日本社会を考えてみよう。あるサラリーマンの奥さんが買い物に行ったら、だんなの上司の奥さんにあった。丁寧に挨拶をしレジの順番を先にゆずった。これなどもゲマインデの規範である。してみると日本の会社はゲマインデのようである。しかし知らない奥さんにはぜったい順番などゆずりはしない。しかし知らない同士でも体を触れ合ったときは、「失礼」とか「すいません」というくらいのマナーはある。二重規範である。これも日本が欧州の基準による(ことの良し悪しの判断は別として)近代化が完全には成立していない証明かもしれない。
シナではこのゲマインデとそれ以外の二重規範は存在しない、といってよいだろう。なぜならゲマインデ内の規範しかなく、ゲマインデ外はルールなしの無法地帯と化す、といってもよいからだ。これは前近代というよりは、やはり古代的社会というべきだろうか。私的社会とそれ以外、という区別しかなく公衆社会が存在していないのだ。
さてシナのゲマインデといえば、家、宗族(Clan)である。つまるところ同姓で先祖を同じくするものたちの集団が決定的に重要で、そしてそれだけが人間関係をきづくべースなのだ。その集団以外はもう人間社会ではない。だから宗族以外の人間が毒入り食品で死のうが自分には関係ないとして平気でいられるのである。
よくこれを社会道徳の問題として勘違いするむきが多いが、まったくの誤解である。
モラルとは、シナにおいては宗族あるいは擬似宗族の内だけで機能するものであって、それ以外にモラル機能が及ぶことはないのである。
すなわち宗族以外の、つまりモラルがおよぶ範囲以外の場所で宗族以外の人間となにごとかのかかわりが生じた際にも、そこにはモラルの要求がない。
だから他人を騙したり、利用するだけ利用したり、損害をあたえたりしてもなんら罪悪感を持つこともないし、持つ必要がないのである。なにしろそこにはモラルの要求がないのであるから。しかし宗族内においては厳格なモラルが要求される。子の父に対しての、分家の本家に対しての、宗族の長に対してのなどなどいちいち細かく規定されたモラルがあり、それに違反したもにはそれに応じた罰が与えられる。家族のメンバーにたいしてもその関係によって細分化されたよび方がある。
父方か母方かにより祖父母、おじおば、いとこなどの呼び方が違っている。また年齢にかかわらず世代によって呼び方がきまる。祖父が若い何番目かの夫人に息子を生ませた。父にとっては弟にあたる。わたしはその新しい父の弟より年上であるが、その子を叔父としてうやまわねばならない。
このような厳しい規範でしばられた宗族こそが社会単位であって、またそれしかないのである。表向きは、宗族より上位の行政府が地方から中央までピラミッドのように作られているものの、宗族とくに家族が決定的な役割をシナ人社会にはたしていることは間違いのないところである。
これを支えるイデオロギーと宗教が儒教である。近代革命以来、儒教イデオロギーが目の敵とされてきたことに理由がないわけではないのだ。しかし今に至るも儒教が死滅したわけではない。イデオロギーとしては抑圧されて社会底部に潜むことになったが、宗教としてはどんなに抑圧されようとも生き延びている。それはシナ社会の宗族あるかぎり絶対に必要なものであるからだ。しかしそれは、いわゆる宗教とはややことなっているだけなのだ。このこと別稿で述べるとしよう。
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ようちゃんの意見。↓
★つまり公的な場所は 圏外なので無法地帯で皆が 勝手な行動をする。
無秩序で当たり前ですか・・。しかし棄民のようにこういう野生の猿が海外で迷惑行為をしたり、犯罪に走るのも当然なわけですね。
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日本のお姉さんの意見。↓
つまり、シナ人にとっては、宗族だけが大事で
チュウゴクは大事ではないということ。だから
政府の言うことを聞かない。
シナ人にとっては、宗族だけが「人間」で、
他の人間は、「人間ではない」。
だから、あんなに他人に残酷になれるのだね。
シナ人にはモラルが無いのではなく、
シナ人は、自分の宗族しか見ておらず、宗族の中では
厳しいモラルと厳しい罰が存在するが、それ以外には
モラルが要求されないから、
全く、他の世界の連中のことは眼中に無いってわけですね。
人間とも思っていないのかもしれないですね。ある意味
恐ろしい連中です。だから、日本に来ても、同じ出身地同士で
結束しあうんだ。だから、シナ人が恐ろしい犯罪を犯して
日本人を殺そうが、同じ故郷の出身ではないシナ人の犯罪なら、
誰が誰を殺そうが、
「そんなの関係ネェ。オッパッピー!」な連中なんだ。
だから、ケロッとしているんだ。
「さてシナのゲマインデといえば、家、宗族(Clan)である。
つまるところ同姓で先祖を同じくするものたちの集団が
決定的に重要で、そしてそれだけが人間関係をきづくべース
なのだ。その集団以外はもう人間社会ではない。
だから宗族以外の人間が毒入り食品で死のうが自分には
関係ないとして平気でいられるのである。 」