昔からチュウゴク人はお騒がせ者たちだったようだ。 | 日本のお姉さん

昔からチュウゴク人はお騒がせ者たちだったようだ。

ようちゃん、おすすめ記事
▼「ザ・プーチン」21世紀の皇帝論 序章(米流時評)
http://beiryu2.exblog.jp/6780774


国の時事週刊誌『TIME』の年末恒例の特集「今年を代表する人物=The Person of the Year」が昨日(米国時間19日)発表になった。今年の人物はプーチンである(略)
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★プーチンの本名はラスプーチンです。そうですあのロシア帝国末期にロシア宮廷現れ、血友病と言う、出血したら血液が凝固しない。詰まりちが止まらない遺伝病で覚醒遺伝して男子のみに現れる奇病です。そういうロシアの宮廷に付け入り、政治にまで口出ししてロシア帝国を滅亡させた主原因とも言われたりした事もあった。マー赤色革命・赤い共産主義・マルクス革命でロシア帝国は崩壊したのですが、怪僧ラスプーチン伝説は中々興味深い読みモノが多いです。そこを理解して血筋を隠したいのでしょうか、プーチンとお爺さんの時代に改名した。 でも血筋は争えないようです。後半の続きは楽しみです。プーチンは野望家である事は間違いないし非常にタフで頭脳も度胸も据わっています。
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▼中国の軍艦が東京湾にやって来た!(日経BP)
2007年11月28日午前9時28分、その船は筆者が勤務するビルの高層階から眼下に見下ろせる東京晴海埠頭に接岸した。全長153メートル、幅16.5メートル、吃水6メートルのその船は中国海軍のミサイル駆逐艦「深セン」(セン=土+川)である。
「親善訪問した中国の軍艦 」
「深セン」は海上自衛隊の招待を受けて11月21日に中国広東省南部にある湛江港を出発して、遠路はるばる日本を親善訪問したもので、12月1日までの4日間日本に滞在し、日中関係正常化のさらなる発展を印象つけた。 海上自衛隊と中国海軍による相互訪問は、2000年10月に森喜朗・朱鎔基の両首脳間で合意に達していたが、小泉純一郎内閣時代の両国関係悪化により凍結されていたものである。これが、2007年8月に曹剛川国防部長が訪日した際に高村正彦防衛大臣との間で改めて合意に達して、今回の「深セン」の訪日が実現したもので、返礼として2008年には海上自衛隊艦が中国を親善訪問することが予定されている。(写真1)
さて、筆者は中国駐日本国大使館からのご招待を受けて、その「深セン」を11月30日の午前中に見学させてもらった。当日は時折小雨が降るあいにくの天気だったが、「深セン」には招待客が次々と訪れ、埠頭で「深セン」に乗り組む中国海軍音楽隊が演奏する中を「深セン」に乗船して甲板の巡回コースを見学していた。船上ではビデオ撮影は禁止されていたが、写真撮影は自由で、乗員は記念撮影にも気軽に応じ、友好親善の雰囲気が十分にかもし出されていた。最も印象に残ったのは、乗員の誰もが活気に溢れ、軍人らしく引き締まった顔をしていたことである。さすがは、海軍の“外交スター艦”と言われる「深セン」に乗り組むエリート軍人の面目躍如と言ったところか。ちなみに「深セン」は、今回の訪日以前にも、太平洋、インド洋、大西洋をまたにかけ世界の15の国と地域を訪問している。

「戦艦の威力は」
「深セン」は1995年に大連造船所で建造が開始され、1997年10月に進水、1998年10月からのテスト航海を経て、1999年1月に南海艦隊の帰属となったもので、中国海軍が自前で建設した最大の戦闘艦船と言われている。「深セン」は“旅海型”のミサイル駆逐艦であり、排水量6600トン、速力30ノットで、対艦ミサイル(射程:120キロメートル)4基、対空ミサイル1基(射程:12キロメートル、最大射高:5000メートル)、100ミリ連装砲1基、37ミリ全自動高射砲4基を搭載している。(写真2)
これら兵器を目の前にしても、残念ながら素人の筆者には“どれほどの威力があるのか”は皆目見当がつかなかった。兵器の前には見学者用の説明板が中国語と日本語で掲示されていて、訪日に当たっての「深セン」の細やかな配慮と事前準備の徹底ぶりが感じられた。晴海埠頭入り口で中国大使館員から手渡されたパンフレット「中国人民解放軍(海軍) 軍艦の日本訪問時の簡単なご紹介」も中国語と日本語で印刷されていたが、これには今回の軍艦訪日の指揮官である肖新年・海軍少将と「深セン」艦長の朱健達・海軍上佐(=大佐と中佐の間の位)の写真と挨拶文が記載されていた。

「中華人民共和国成立後初めての軍艦の訪日 」
さて、今回の「深セン」訪問は1949年10月1日の中華人民共和国成立後初めての軍艦の訪日であった。中国は筆者と同じ年齢なので計算は簡単なのだが、58年間にわたって中国軍艦の訪日はなかったことになる。そればかりか、それ以前の軍艦訪日の歴史をたどると、中華民国時代の1934(昭和9)年に遡ることができる。すなわち、1934年5月30日に日本海軍の東郷平八郎元帥が逝去したのに際し、中華民国政府は蕭毅粛少将と海軍魚雷遊撃司令の王寿廷少将を代表とする弔問団を派遣することを決定、6月2日に海軍第一艦隊の巡洋艦「寧海」(艦長:高憲申)が同弔問団を下関に運んでいる。これは今から73年前の出来事である。
東郷平八郎は日本海軍の「軍神」と称され、世界の海軍史上にもその名をとどめる偉人の1人だが、当時の中国海軍にとっては酷い屈辱を与えられた人物であった。1894(明治27)年7月25日、日本軍艦3隻(「吉野」「浪速」「秋津島」)が朝鮮の豊島沖で清国軍艦「済遠」「広乙」と遭遇したことで戦闘が勃発した。当時の東郷平八郎大佐は「浪速」の艦長であり、その「浪速」が逃亡を図った「済遠」を追撃中に、約1100人の清国兵を輸送していた英国旗を掲げる商船「高陞号」と遭遇、「浪速」が停船命令に従わなかった「高陞号」を撃沈した。 これが“高陞号事件”と呼ばれ、数日後に日・清両国が宣戦を布告した「日清戦争」の発端となった歴史的事件であり、清国海軍は900人以上の官兵が命を落としたのである。その憎き東郷平八郎の葬儀に清国海軍の後継たる中華民国海軍の弔問団が派遣されたというのは、歴史の皮肉と言わざるを得ないが、とにかく、これが中華民国時代(1911~1949年)を通じて唯一の中国軍艦の訪日であった。 それ以前、清国時時代はどうだったか? それでは、それ以前の清国時代には軍艦訪日はなかったのか? 1

「1934年から遡ること48年の1886年にありました。時は1886(明治19)年8月1日、清国軍艦が訪日して接岸した場所は長崎。」
それには次のような背景があった: 当時の清国はロシアが朝鮮に触手を伸ばしているとの情報を得た朝鮮が一度ロシアの手に落ちれば、清国に危険が迫るのは必定。そこで、清国政府は丁汝昌と呉安康にそれぞれ北洋艦隊と南洋艦隊を率いて朝鮮一帯を巡回するよう命じ、清国海軍の実力の巨大さを見せつけて、朝鮮への他国の侵略を防ごうとした。 命令を受けた北洋艦隊提督の丁汝昌は速やかに軍艦「定遠」「鎮遠」「済遠」「威遠」「超勇」「揚威」の6隻を率いて朝鮮半島東岸で海上演習を実施した。その後ウラジオストクに赴き、「超勇」と「揚威」を残留させたうえで、給油と修理、さらには海軍の力の誇示を目的に軍艦4隻で威風堂々日本へ向かったのである。清国軍艦4隻は横浜、呉などを親善訪問した後に長崎へ向かい、8月1日長崎港に入港した。 日本にはそのような巨大な鋼鉄船はなかった 軍艦「定遠」と「鎮遠」はドイツ製の大型鋼鉄船で、当時世界では最大級。当然ながら日本にはそのような巨大な鋼鉄船はなかったので、長崎港は清国軍艦を一目見ようと長崎市民が群をなしたという。こうした市民のありさまを見た清国軍艦の水兵は意気揚々で、“日本人何するものぞ”という意識があったと思われるが、これが大きな問題を引き起こすことになる。  8月13日、清国軍艦の水兵たちは買い物に上陸を許されたが、その内の5人が日本の娼妓と遊ぼうと丸山遊郭に出掛けた。ところが、遊郭では生憎と娼妓の空きがなく、待たされることとなったが、予約のある客が後から来て先に部屋に通されるのを見ているうちに清国水兵たちは切れた。「ふざけんじゃねえ。清国人だと馬鹿にしやがって、何で後から来た奴が先なんだ」といった調子で、長い航海で欲求不満の塊みたいなものだから、物は投げる、家具は壊すはで、その乱暴狼藉は手がつけられない。通報を受けた丸山町派出所からは2人の巡査が駆けつけたが、逆に殴られる始末で、やっとのことで2人を逮捕、残りの3人は逃亡した。  2人を派出所に連行してしばらくすると、10人以上の清国水兵が派出所に押しかけた。中に逃亡した1人がいるのを見つけた巡査が取り押さえようとしたところ、日本刀で斬りつけられる始末。巡査は負傷したが、応援に駆けつけた巡査の協力を受けてどうにか逮捕し、3人を濱町警察に送致して事件は落着した。その後、3人は清国領事館へ引き渡された。 これで話が終わればよかったのだが、2日後の15日夕刻に約300人の水兵が上陸して騒動が再燃、30人ほどの巡査と200人ほどの水兵が乱闘となったのである。これを見ていた一般市民数百人が、ある者は武器を持ち、またある者は石を投げて巡査に加勢して水兵に打って掛かると、さしもの水兵も算を乱し、ついには清国領事館へ逃げ込んだ。翌16日には2000人規模の日本人が武器を持って清国領事館を包囲したという。 とにかく、この事件で、日本側は巡査が死者2人、重軽傷者26人を数えたし、清国水兵は死者8人、重軽傷者42人の被害を出した。歴史上で「長崎清国水兵事件」と呼ばれるこの事件を契機に両国関係は一時的に悪化する

「ところで、清国軍艦「定遠」と「鎮遠」には後日談がある。」
北洋艦隊の旗艦「定遠」は日清戦争で幾度となく日本軍の攻撃を受けても不死身のように復活して戦闘に参加し続けたが、1895年2月10日に日本軍の捕獲を避けるべく自沈した。2004年、北洋艦隊の拠点であった山東省威海市は「定遠」の復元艦(長さ91メートル、幅19.5メートル)を建造し、この「定遠」2世は現在北洋艦隊を偲ぶ記念物として威海港に展示されている。 一方、「鎮遠」は日清戦争中に日本軍に鹵獲(ろかく)され、戦後に日本海軍に編入されて、日露戦争にも参加。1911年に除籍となった後に艦砲射撃の標的として破壊され、翌12年に売却されて解体された。


上述したように、中国軍艦の訪日は、清国時代に1回(1886年)、中華民国時代に1回(1934年)、そして中華人民共和国の「深セン」が1回で各時代1回ずつの都合3回に過ぎない。 日中両国は一衣帯水の隣国と言いながら、正式な国交が始まった遣隋使の昔まで遡って見ても、中国の軍艦が訪日したのは1400年間にたった3回しかないということになる

2008年には日本の海上自衛隊が中国を返礼訪問する予定だが、今回の「深セン」訪日を契機として、日本の自衛隊と中国の人民解放軍の交流をより密接なものとすることで、相互不信を取り除き、真の平和を確立してほしいものである。  今から120年前の長崎清国水兵事件も遊郭の“予約システム”を知らなかった清国水兵の誤解から始まったようだが、両国間の誤解を解くことこそが、21世紀の新たな日中関係の礎になるものと信じる。中国メディアは、今回の「深セン」訪日を日本のメディアの報道は低調であったとしているが、これも誤解であると筆者は考えたいのだが、どうだろうか。 (北村豊=住友商事総合研究所 中国専任シニアアナリスト)  (註) 本コラムの内容は筆者個人の見解に基づいており、住友商事株式会社 及び 株式会社 住友商事総合研究所の見解を示すものではありません。 
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筆者の希望は全くの 自分の自己見解の夢想的観測でしょう! 日本の到着後の彼らが一番にやった事は、日本の自衛隊の艦を 片端から写真は言うに及ばず、自艦へのビデオ撮影は禁止しておきながら、彼ら中国海軍乗員はビデオ撮影しまくりの自由化勝手暴虐無人のように 港湾施設から、海上自衛隊宿舎内のあらゆる場所を勝手に移動して撮影、撮影のスパイ行為に余念が無かったそうです。日本にはスパイ法が 無い事を百も承知の上で、海軍軍人の礼儀などそっちのけ。流石自己中心の中国人です。よく見てあげようと言う


ヨイショ記事が日経は朝日に負けず多いです


日本企業が多数、中国に進出してるので、産経新聞の福島香織記者の二の舞いは」避けようと」いう魂胆が丸見えですね。嘘を書くのが仕事となってるようです。中国の日経新聞なら名前を変えて 中国経済新聞・日本版と言うのが正式名称でしょう。中経新聞・日本語版でしょうが!” 何でもチュー・チューとネズミ年ブームですねー。
「朝雲新聞」「親鳩新聞」「自衛隊ニュース」を読んでいるので、日系新聞が嘘を書いてもすぐ分かってしまいます。新聞記者がウソを書くのは駄目ですよ。