日本人の名誉のために!
┃▼▽ 寄稿記事 ▽▼ by 東京の老上海さん
┃
☆ 日本人の名誉のために! -------------- 2007/12/21
~~~読んでて面白いですよ。これが本当のところなんでしょう。
---【産経】気高き戦場の慰安婦たち[12/17]
【蛙の遠めがね】石井英夫 気高き戦場の慰安婦たち 2007.12.17 08:20
http://sankei.jp.msn.com/world/china/071217/chn0712170820000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/china/071217/chn0712170820000-n2.htm
いわゆる「従軍慰安婦」問題で、こんどはヨーロッパが騒ごうとしているらし
い。日本政府への謝罪要求決議は、この7月の米下院採決を皮切りに、11月
はオランダ、カナダ両下院と続いた。そしていま欧州議会も謝罪要求の動きが
活発になっているようだ。やれやれ。
こうした反日的な政治運動は、一切これを無視するのが最良の対応だという見
方がある。たぶんそうだろう。しかし、こんな時だからこそ、日本人のなかに
は慰安婦をこういう目で見ていた者もいた、ということを知ってもらいたい。
こんな時だからこそ、こういう視点を持った兵士もいたという事実を知らせて
やりたいと思う。
その視点とは、「戦場慰安婦は気高い存在だった。兵隊はこの女性たちのおか
げで人間性が浄化された」という、底辺の兵士だった作家・伊藤桂一氏の証言
である。近刊『若き世代に語る日中戦争』文春新書)で伊藤さんはそう語って
いる。
伊藤さんは、三重県生まれの今年90歳。日中戦争で中国大陸を転戦し、昭和
36年『蛍の河』で直木賞を受賞。戦争を舞台にした『静かなノモンハン』や
『雲と植物の世界』など多くの戦記文学を書いている。
本書は「日本はダメな国ではないことを若者たちに伝えたい」という一心で、
戦後生まれの女性ジャーナリスト・野田明美さんを聞き手に、日中戦争の実相
を語ったものだった。
戦場慰安婦----と伊藤さんは呼ぶ。そもそも従軍慰安婦というものは存在しな
かった----のくだりは、大要次のようだ。
┌--------
(慰安婦問題が騒がれる)根本には、娼婦[しょうふ]を醜業、賤業[せんぎょう]
とみる見方があるようにも思えます。だから強制連行されたことにしないとま
ずいのかもしれない。
たとえ一晩だけの付き合いでも、兵隊と慰安婦が互いに敬意と親しみを感じる
そういうことがざらにあったんです。兵隊は戦闘で明日には死んでしまうかも
しれない。そんな中で、喜びと悲しみを分かちあってくれたのが彼女たちだっ
た。
└--------
┌--------
兵隊と慰安婦が意気投合して一緒に逃げたりすることもありましたが、そうい
うときはたいがい中国女性でした。中国の女性は日本兵になじまないけれど、
一度なじむと一切を賭ける。
その点、朝鮮の女性は献身的だけど、日本兵に芯[しん]から溺[おぼ]れること
はなかったですね。お金を稼いで、その後、結婚するというのが彼女たちのほ
とんどの夢でした。
└--------
┌--------
戦場慰安婦というのは、兵隊と同じ。兵隊の仲間なんです。本当に大事な存在
だったんですね。‥‥兵隊たちは黙って働き、多くは黙って死にました。
慰安婦たちは悲劇的な不条理の中で生きたし、兵隊たちももっと不条理の中で
生き、死んでいかなければならなかった。だから、お互い心が通い合うことも
あった。彼女たちとの思い出を胸に死んでいった兵隊もある。
└--------
伊藤さんは「今の人には到底分かってもらえない気持かもしれないが、そうい
う兵隊たちに代わってあえて慰安婦賛美論をのべた」と語っている。とりわけ
若い女性の理解を得るのは難しいだろう。しかしここには確かな戦争の一真実
がある。
--【国内】南京入城・旧陸軍兵の証言...「城内は平穏だった」[12/17]
■城内は平穏だった 滞在1ヶ月半、銃声聞かず
旧日本軍が、中国・南京を陥落させて、中支那方面軍司令官の入城式が行われ
た昭和12(1937)年12月17日から、70年が経つ。事実と虚構が入り
乱れ「南京事件」の呼び名も定まらない中、事実を語り継ぐことができる軍人
や報道関係者の数は次第に少なくなりつつある。
三重県伊勢市に住む旧日本陸軍兵、稲垣清さん(97)は、平穏だった城内の様
子を証言、いわゆる"大虐殺"とは大きな開きがあると話した。(牛田久美)
稲垣さんは、昭和12年夏、27歳で獣医官として召集。上海派遣軍第16師
団(京都)で、食料輸送を担当する輜重[しちょう]兵第16連隊に配属され、南
京には12月16日から、翌年1月30日まで滞在したという。
自ら食料を運んだ体験から、
┌--------
食料は十分でしたから、農家から略奪、暴行という記述を戦後みるたび、違和
感を覚えました。
└--------
と話す。稲垣さんは行軍を8ミリフィルムなどで撮影している。
┌--------
蒋介石の妻の名を冠した建物『美齢宮』が、日本軍の標的とならないよう黒塗
りされた、という南京国際委員長ラーベの日記が知られていますが、のどかな
風景に白い建物が写っています。
└--------
高い城壁に囲まれた南京に入ったときは、
┌--------
焼けた家もあるにはあったが、みじめな状態ではなかった。城内では、市民は
みんな難民区=安全区)へ入っていて、入城式でも市民の姿は見かけませんで
した。
└--------
多数の犠牲者を出したとされる"掃討作戦"も、稲垣さんは「当時、全く知り
ませんでした」と語る。
当時、馬の伝染病が流行していて、検疫や予防接種に奔走した。滞在した1ヶ
月半、銃声は一度も聞かなかった。入城後10日もしないうちに、中国人は安
全区から出るようになり、城内に市も立った。その映像もある。
「商魂たくましいというか、われわれを撮影しては、それを記念写真として売
ろうとする中国人もいました」。このころの写真や合成写真が後に「残虐行為
を働く日本兵」として広まっていく。
次期アカデミー賞の有力作品に挙げられている米映画『南京』への出演依頼も
あったという。「私の体験と、映画の方向性があまりにも異なるので断りまし
た」という稲垣さんは、反日史観に基づく映画について「全くのウソです。虐
殺のぎの字も、事件のじの字も、従軍した私たちは聞いたことがなかった」と
残念そうに語る。
虐殺30万人、婦女暴行8万人...などという極端な数字が定着しつつあること
についても、
┌--------
死体をどうやって運搬したのか非常に疑問です。当時トラックは貴重でした。
中国軍が、荷車で何十万という死体を運んだなど、考えにくいことです。
└--------
虚構が独り歩きした背景については、
┌--------
南京郊外の紫金山での戦闘では、日本兵949人が戦死した。中国側も多くが
戦死したことでしょう。そうした城外の戦闘が誇張されているのでは。多数の
死体を見たと証言する日本人は、城外の陸軍戦車隊や揚子江の海軍兵です。
└--------
と語る。
証言と通説に大きな開きがある南京攻略戦。実際に南京にいた人々の証言を聞
く機会がなくなったとき、史実はどう伝えられるのだろう。貴重な肉声に冷静
に耳を傾けたい。
産経新聞:
http://chinachips.fc2web.com/tiny/071221_1.html
http://chinachips.fc2web.com/tiny/071221_2.html
稲垣清さん画像:
http://chinachips.fc2web.com/tiny/071221_3.html
= おわり =
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☆ 日本人の名誉のために! -------------- 2007/12/21
~~~読んでて面白いですよ。これが本当のところなんでしょう。
---【産経】気高き戦場の慰安婦たち[12/17]
【蛙の遠めがね】石井英夫 気高き戦場の慰安婦たち 2007.12.17 08:20
http://sankei.jp.msn.com/world/china/071217/chn0712170820000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/china/071217/chn0712170820000-n2.htm
いわゆる「従軍慰安婦」問題で、こんどはヨーロッパが騒ごうとしているらし
い。日本政府への謝罪要求決議は、この7月の米下院採決を皮切りに、11月
はオランダ、カナダ両下院と続いた。そしていま欧州議会も謝罪要求の動きが
活発になっているようだ。やれやれ。
こうした反日的な政治運動は、一切これを無視するのが最良の対応だという見
方がある。たぶんそうだろう。しかし、こんな時だからこそ、日本人のなかに
は慰安婦をこういう目で見ていた者もいた、ということを知ってもらいたい。
こんな時だからこそ、こういう視点を持った兵士もいたという事実を知らせて
やりたいと思う。
その視点とは、「戦場慰安婦は気高い存在だった。兵隊はこの女性たちのおか
げで人間性が浄化された」という、底辺の兵士だった作家・伊藤桂一氏の証言
である。近刊『若き世代に語る日中戦争』文春新書)で伊藤さんはそう語って
いる。
伊藤さんは、三重県生まれの今年90歳。日中戦争で中国大陸を転戦し、昭和
36年『蛍の河』で直木賞を受賞。戦争を舞台にした『静かなノモンハン』や
『雲と植物の世界』など多くの戦記文学を書いている。
本書は「日本はダメな国ではないことを若者たちに伝えたい」という一心で、
戦後生まれの女性ジャーナリスト・野田明美さんを聞き手に、日中戦争の実相
を語ったものだった。
戦場慰安婦----と伊藤さんは呼ぶ。そもそも従軍慰安婦というものは存在しな
かった----のくだりは、大要次のようだ。
┌--------
(慰安婦問題が騒がれる)根本には、娼婦[しょうふ]を醜業、賤業[せんぎょう]
とみる見方があるようにも思えます。だから強制連行されたことにしないとま
ずいのかもしれない。
たとえ一晩だけの付き合いでも、兵隊と慰安婦が互いに敬意と親しみを感じる
そういうことがざらにあったんです。兵隊は戦闘で明日には死んでしまうかも
しれない。そんな中で、喜びと悲しみを分かちあってくれたのが彼女たちだっ
た。
└--------
┌--------
兵隊と慰安婦が意気投合して一緒に逃げたりすることもありましたが、そうい
うときはたいがい中国女性でした。中国の女性は日本兵になじまないけれど、
一度なじむと一切を賭ける。
その点、朝鮮の女性は献身的だけど、日本兵に芯[しん]から溺[おぼ]れること
はなかったですね。お金を稼いで、その後、結婚するというのが彼女たちのほ
とんどの夢でした。
└--------
┌--------
戦場慰安婦というのは、兵隊と同じ。兵隊の仲間なんです。本当に大事な存在
だったんですね。‥‥兵隊たちは黙って働き、多くは黙って死にました。
慰安婦たちは悲劇的な不条理の中で生きたし、兵隊たちももっと不条理の中で
生き、死んでいかなければならなかった。だから、お互い心が通い合うことも
あった。彼女たちとの思い出を胸に死んでいった兵隊もある。
└--------
伊藤さんは「今の人には到底分かってもらえない気持かもしれないが、そうい
う兵隊たちに代わってあえて慰安婦賛美論をのべた」と語っている。とりわけ
若い女性の理解を得るのは難しいだろう。しかしここには確かな戦争の一真実
がある。
--【国内】南京入城・旧陸軍兵の証言...「城内は平穏だった」[12/17]
■城内は平穏だった 滞在1ヶ月半、銃声聞かず
旧日本軍が、中国・南京を陥落させて、中支那方面軍司令官の入城式が行われ
た昭和12(1937)年12月17日から、70年が経つ。事実と虚構が入り
乱れ「南京事件」の呼び名も定まらない中、事実を語り継ぐことができる軍人
や報道関係者の数は次第に少なくなりつつある。
三重県伊勢市に住む旧日本陸軍兵、稲垣清さん(97)は、平穏だった城内の様
子を証言、いわゆる"大虐殺"とは大きな開きがあると話した。(牛田久美)
稲垣さんは、昭和12年夏、27歳で獣医官として召集。上海派遣軍第16師
団(京都)で、食料輸送を担当する輜重[しちょう]兵第16連隊に配属され、南
京には12月16日から、翌年1月30日まで滞在したという。
自ら食料を運んだ体験から、
┌--------
食料は十分でしたから、農家から略奪、暴行という記述を戦後みるたび、違和
感を覚えました。
└--------
と話す。稲垣さんは行軍を8ミリフィルムなどで撮影している。
┌--------
蒋介石の妻の名を冠した建物『美齢宮』が、日本軍の標的とならないよう黒塗
りされた、という南京国際委員長ラーベの日記が知られていますが、のどかな
風景に白い建物が写っています。
└--------
高い城壁に囲まれた南京に入ったときは、
┌--------
焼けた家もあるにはあったが、みじめな状態ではなかった。城内では、市民は
みんな難民区=安全区)へ入っていて、入城式でも市民の姿は見かけませんで
した。
└--------
多数の犠牲者を出したとされる"掃討作戦"も、稲垣さんは「当時、全く知り
ませんでした」と語る。
当時、馬の伝染病が流行していて、検疫や予防接種に奔走した。滞在した1ヶ
月半、銃声は一度も聞かなかった。入城後10日もしないうちに、中国人は安
全区から出るようになり、城内に市も立った。その映像もある。
「商魂たくましいというか、われわれを撮影しては、それを記念写真として売
ろうとする中国人もいました」。このころの写真や合成写真が後に「残虐行為
を働く日本兵」として広まっていく。
次期アカデミー賞の有力作品に挙げられている米映画『南京』への出演依頼も
あったという。「私の体験と、映画の方向性があまりにも異なるので断りまし
た」という稲垣さんは、反日史観に基づく映画について「全くのウソです。虐
殺のぎの字も、事件のじの字も、従軍した私たちは聞いたことがなかった」と
残念そうに語る。
虐殺30万人、婦女暴行8万人...などという極端な数字が定着しつつあること
についても、
┌--------
死体をどうやって運搬したのか非常に疑問です。当時トラックは貴重でした。
中国軍が、荷車で何十万という死体を運んだなど、考えにくいことです。
└--------
虚構が独り歩きした背景については、
┌--------
南京郊外の紫金山での戦闘では、日本兵949人が戦死した。中国側も多くが
戦死したことでしょう。そうした城外の戦闘が誇張されているのでは。多数の
死体を見たと証言する日本人は、城外の陸軍戦車隊や揚子江の海軍兵です。
└--------
と語る。
証言と通説に大きな開きがある南京攻略戦。実際に南京にいた人々の証言を聞
く機会がなくなったとき、史実はどう伝えられるのだろう。貴重な肉声に冷静
に耳を傾けたい。
産経新聞:
http://chinachips.fc2web.com/tiny/071221_1.html
http://chinachips.fc2web.com/tiny/071221_2.html
稲垣清さん画像:
http://chinachips.fc2web.com/tiny/071221_3.html
= おわり =
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