消防士の新規職員の基礎訓練として、お寺で座禅を実施するのは、わたしは反対だ。
消防士の新規職員の基礎訓練で
お寺で座禅を実施するのは、わたしは反対だ。
新規職員というのは、立場が弱い存在だから、
教官からお寺で座禅をすると言われたら、
よっぽど、しっかりしたクリスチャン以外は断りきれないからだ。
長崎の被爆者の救援にあたった永井隆博士の葬儀が、
カトリックの浦上天主堂で、ミサ形式で行われたのは、
永井隆博士がカトリックだったからなのか、長崎では
教会に行く人が多くて、違和感が無かったからなのかは
しらないが、長崎市民が納得して執り行ったこと。
新規職員がお寺で座禅させられるのとは、
全然、違うことだと思う。
自由に意見を言える市民と、教官に教えられる立場の
新規職員では、圧迫感が全然違う。
従わなかったら、どんな目に会うのか分からない。
おとなしいクリスチャンだったら、嫌々でも従ってしまうだろう。
「参加は強制されたものではないようです」と書かれているが、
参加して嫌だった人がいたから、そんなことが発覚したのではないのか。
だから、わたしは、消防署の訓練所で、情緒教育のためといい、
お寺で座禅を組むのは反対。
「公的機関が特定の宗教行為に参加していることになるのではないか」
「参加した職員にはさまざまな宗教の人もいるはずで、精神的苦痛を
与えた可能性がある」
「信教の自由を侵している可能性がある」
と、いうキリスト教会の主張には全部賛成です。
イスラムの信者がいたら、もっと大騒ぎになったと思う。
お寺の境内に入るのも嫌な人もいるはず。
だから、情緒教育だからと言って、いろんな宗教を信じている人が
いるのに、特定の宗教機関を使う方が間違っている。
わたしは、反靖国運動をしていない。
あそこは、神社形式の宗教施設だと思っている。
元々は天皇が国のために死んだ人々を記念して祭る場所だし、
今は戦争に負けて天皇が拝みに行く場所ではなくなっている。
今は、日本独特の日本のために死んだ人々を記念して祭る場所だと
思っているから、別に靖国神社を潰せとか、別の場所を作れだとかは
言わない。死んだ日本兵は「靖国で会おう。」と言って死んでいった
わけだし、靖国神社に集まって、国のために死んだ人を思い出して
国を存続させていこうと日本人が心で誓うのは、かまわないと思う。
でも、わたし自身は日本政府が靖国神社が宗教施設ではないと、
はっきり言わないかぎり、行かない。
わたしは、宗教施設だと思っているから。
でも、本当は、あそこには特に位牌もなく、骨もなく、
名簿が置いてあるだけで、
国が修理代を出してくれないから、遺族が管理しやすいようにという
ことで、途中から宗教法人になったのであって、
本当の意味では宗教施設ではないのだ。
参拝している人は、勝手に拝んでいるだけなんだし、
特に礼拝の対象は置いていないのだ。
でも、今は宗教法人になっているから、宗教施設だとわたしは
思っている。
死んだ人が霊になって、戻ってくるという考え方は、
日本人独特の、神道っぽい土着のものだから、それを禁止したら
それも宗教の自由を妨げる行為であると思う。日本人は、靖国神社で
「ここで手を合わせて拝め。」と書いてあるから拝むのではなく、
自然に手を合わせているのだ。そのことについて、外人、特に中国人
がとやかく言うべきではない。「外国人は黙ってろ。」と、言いたい。
日本人の宗教観や死後観まで、管理する権利は外国人には無い。
ここは、日本人の国、日本なのだ。民主的な国なのだ。
自由に発言でき、自由に宗教を選べる国なのだ。文句を言うのも
自由だが、日本人に嫌われるのは、覚悟しておいてね。
「反ヤスクニ運動を展開しているキリスト教系市民団体」というのは、
韓国系偽キリスト教会の統一教会とかじゃないの?
でも、消防士の基礎訓練として、お寺で座禅させるのは間違っている。
このキリスト教系市民団体の言うことは、正しい。
クリスチャンでなくても、これぐらいのことは言えるし、
お寺で座禅させられるのを嫌がるのは、仏教以外の
他の宗教の人でも同じだろう。
クリスチャンの「日本のお姉さん」の意見でした。
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▼消防士の座禅をやり玉に挙げるキリスト者 (斎藤吉久のイザ! ブログ)
「『訓練で座禅』是か非か」
12月17日、「asahi.com」
http://
記事によると、静岡県消防学校が新規職員の基礎訓練で「情操教育」として、お寺で座禅を実施しました。これに対して、反ヤスクニ運動を展開しているキリスト教系市民団体が「公的機関が特定の宗教行為に参加していることになるのではないか」「参加した職員にはさまざまな宗教の人もいるはずで、精神的苦痛を与えた可能性がある」「信教の自由を侵している可能性がある」と主張し、学校側の説明を求めているのだそうです。公的機関が特定の宗教行為に参加することが、信教の自由や政教分離規定に反するのではないか、というのがこのキリスト教系団体の問いかけですが、公的機関がキリスト教の宗教行事に参加するケースもかなりあります。
□公機関がキリスト教行事に参加するケースもある
歴史的にさかのぼれば、すでに何度も書いてきたことですが、昭和26年5月14日、みずから被爆しながらも医者として最後まで被爆者の救援に当たった永井隆博士の葬儀は、長崎市名誉市民葬というかたちで浦上天主堂で、もちろんミサ形式で行われました。葬儀委員長は市長が務め、各界代表ほか1万5000人の信者が列式しました。ミサのあと教会前で4万の市民が参列する告別式が行われ、ローマ教皇の弔電、吉田首相や衆参両院議長、文相らの弔電、弔辞が読まれ、教会やお寺の鐘だけではなく、市内のサイレンや船の汽笛が鳴り響き、市を挙げて1分間の黙祷をささげ、博士を見送ったのです(カトリック新聞、昭和26年5月20日号)。日本国憲法は厳格な政教分離主義を採用しているといわれますが、それならなぜこうした公葬が可能になったのかといえば、占領後期になって、占領軍が厳格主義から緩やかな分離主義へと転換したからです。そのことをほかならぬGHQで宗教政策を担当した職員のウッダードが解説しています。
□GHQは厳格分離主義をとらない
じつはちょうどこの年、日本で発行されている英字新聞紙上で「信教の自由」「政教分離」をめぐって大論争が繰り広げられました。永井博士の公葬の3日後、貞明皇后が亡くなり、斂葬当日の6月22日、全国の学校で「黙祷」が捧げられたのですが、これを「戦前の国家神道への忌まわしい回帰」と見るアメリカ人宣教師の投書がきっかけとなり、宗教論争が延々と続いたのです。のちにウッダードはこの黙祷論争をある論攷に取り上げています。極端な反対派を代表する宣教師がGHQにやってきたのに対して、宗教課は次のように説明したというのです。
「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは昭和二十年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない。……米国の世論は非宗教主義に終わる可能性のある政策を支持しないだろう。米国では明らかに宗教と国家との間に密接な関係がある。民間情報教育局は宗教と国家の分離より、むしろ宗教団体と国家の分離を主張した。非宗教主義だけを目的とする計画はすべて成功するはずがない」(「宗教と教育─占領軍の政策と処置批判」国際宗教研究所紀要4、昭和31年12月)
占領後期になるとGHQは厳格な政教分離政策を採らなくなり、その結果、永井博士のミサ形式の公葬も認められたのです。公機関が宗教儀礼に参加することが信教の自由を侵し、政教分離規定に違反する、というような考えは占領後期のGHQは採用してはいません。
□神の御心にかなうのか
憲法学者の小嶋和司教授は書いているように、憲法は信教の自由を保障し、宗教を悪とは考えてはいません。今回の事例でいえば、少なくとも記事によれば、座禅は入信を促すものではなく、参加は強制されているわけでもないようです。お寺での座禅も修道院での瞑想も憲法は認めていると見るべきではないでしょうか。そうではなく、あくまで国家は宗教的無色中立性を貫くべきだというのであれば、長崎市の市有地に立っている二十六聖人記念館や奥州市のキリシタン領主・後藤寿庵廟での市長の祈願祭参列、あるいは、やはり長崎県が県をあげて進めている教会群の世界遺産登録推進運動などを率先して取りやめるべきではないのでしょうか。そうでなければキリスト者の反対運動は二枚舌の偽善行為にしか映らないでしょう。しかし宗教の否定につながるような運動が果たして神の御心にかなうことなのかどうか。
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▼靖国神社を世界遺産に (斎藤吉久)
「四国遍路、世界遺産へ再挑戦。県が提案書」
12月18日、「四国新聞」
http://
四国八十八カ所霊場と遍路道を世界遺産にしようと香川県が意気込んでいます。記事によると、提案では、四国遍路を「空海ゆかりの八十八カ所霊場を巡る全長1400キロに及ぶ壮大な寺院巡拝で、地域社会と共存し、千年を超えて継承されてきた生きた文化遺産」と強調しているのだそうです。
世界遺産といえば、長崎県も教会群などの世界遺産登録に向けて運動を展開しています。
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宗教施設の文化的価値を認めて、公共団体が支援するのはけっこうなことです。とすれば、世界最古の戦没者追悼施設として靖国神社を生きた世界遺産として、この際、世界にアピールしてはいかがでしょうか。
ご参考までにこちらをどうぞ。
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