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▼虚構「南京事件」を打ち破れ!(博士の独り言) ↓

http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-1224.html
南京入城・旧陸軍兵の証言 「城内は平穏だった」
■城内は平穏だった 滞在1カ月半、銃声聞かず
 旧日本軍が中国・南京を陥落させて、中支那方面軍司令官の入城式が行われた昭和12(1937)年12月17日から、70年がたつ。事実と虚構が入り乱れ「南京事件」の呼び名も定まらないなか、事実を語り継ぐことができる軍人や報道関係者の数は次第に少なくなりつつある。三重県伊勢市に住む旧日本陸軍兵、稲垣清さん(97)は、平穏だった城内の様子を証言、いわゆる“大虐殺”とは大きな開きがあると話した。産経新聞12月17日付記事より参照のため引用/写真は「稲垣清さん」同記事より参照のため引用
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戦後「はるかな時間」を経て生まれた“南京事件”

有志ブログの多くがあつかわれている事柄と思う。諸氏の英邁な指摘と論及、周知の尽力に敬意を表し、小ブログからも短稿を呈する。 先般、「南京大虐殺は本当にあったと思う」と云う青年と話をしたことがあった。その時の概要を報告する。

筆者: どうして、本当にあった思っておられるのか?
青年: 何となく。それが正直な印象だ。
筆者: 人間にとって、印象があてになる時は確かに有るが、歴史上の「有無」については、印象では済まされない事柄は多い。実証的なものさしが必要ではないか。
青年: 印象? 南京大虐殺が本当じゃなかったら、中国があんなに騒ぐこともないのではないか?
筆者: それも「印象」操作だとしたら?
青年: どうして、そのように酷いことが云えるのか?
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 話を聞いていくうちに、この青年は、特定政党を支持する組合員の家庭に育った。幼い頃から、夕飯を食べながら、風呂に入りながら、いわゆる日本軍の悪行や残虐な話を聞きながら育った側面を持つ。そうしたバックグランドを持っていることが判った。一般に、ありがちなケースである。話は続いた。

筆者: 「中国」の教科書にも南京事件のことは記載されていなかったことをご存知か? 史実ならば、教科書にも載せていたはずだが。
青年: また、そんな。嘘だろ。
筆者: 南京事件があったとされる1937年から、42年間にもわたって「中国」の教科書には記載されていなかった。調べれば判る。
青年: では、なぜ、「中国」が今、あんなに大報道しているのか?
筆者: 朝日新聞の記事が発端だ。
青年: 朝日新聞? うちはずっと朝日新聞だけど。
筆者: ここで媒体(新聞)を云々するつもりはない。だが、事実として述べれば、“南京大虐殺”という宣伝のキャンペーンを始めたのは朝日新聞だった。昭和46年頃からだ。記者の本多勝一氏(講演の中で自ら「崔泰英」とカミングアウト)による『中国への旅』の連載が話題を呼んだ。そこから“南京大虐殺”の大宣伝が始まった。
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「事実」は迷妄を破る
資料を取り出して、説明を続けていくうちに、青年の顔色が次第に変わり、やや過剰反応気味になった。

青年: あなたは団体の人間なのか。それなら、もう話を聞きたくない。
筆者: いや、政治団体、宗教団体には属さないごく普通の国民だ。まして、もともと政治は専門外の理工系の人間だ。だが、そんな私でさえ、南京事件の話はまったくおかしな話だと判別している。
青年: なるほど、だから実証性云々とおっしゃるわけか。それなら、面白そうだから話を聞く。
筆者: 世の中には「迷信」が沢山ある。私も貴君も、事実ではないことを、案外と信じ込んでいることは身近にありはしないか。(しばし迷信の話に花が咲く)。で、それらが偏見にもなり、誤った知識に転化することもある。人間として、非常に勿体無いことではないか。

青年: なるほど。その「殻(から)」を打ち破る。新しく視野を広げることが、あなたの云う「事実を知る」ということか?
筆者: そう、人間は何歳になっても、自分の可能性を見限ってはいけない。そのスタンスで生きていれば、視界が開けることが随分ある。その意味から、専門外だけれども、「歴史」を紐解いてみれば、随分、我々の世代でさえ、「迷信」を植えつけられて来たものだと。

青年: 学校で習わなかったことだ。ためになるね、あなたの話。確かに、云われてみれば、この資料の通り、“南京大虐殺”というのには疑問が出て来る。
筆者: 「中国」の実体は中国共産党だ。その中国共産党の党是として、日本を延々と“歴史問題”で責めよ、という方針がある。江沢民もそう発言していた。それで日本を傅(かしず)かせる。賠償や経済支援を引き出す。いわゆる「第二期対日工作要綱」もその「国策」と符合している。先ず、その本質を見抜く。“南京大虐殺”の大宣伝もその一環であることを。
青年: おっしゃる主旨がよく解った。もう55年体制の時代ではないし、1人の人間として、日本はどうあるべきか、国民はどうすればよいのか、あれこれ考えては絶望していた。これから時々一緒に勉強させてもらえないか。
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長々と引用し失礼。「仁義無き啓蒙」活動の1つである。書簡を書き、また、1人、1人と語り合うことには、時には、忍耐と気が遠くなるほどの辛労を要する。人間として、最も難しいことではないか、との疲労感に襲われたことも正直あった。だが、日教組、創価学会らによって噴霧された自虐の迷妄から「日本の尊厳と名誉」を守るためには、コミュニケーションを通じて、願わくば個々を「国思う」存在に変えて行く。これが、小ブログが重視する行動基点である。
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「証言」は物語る
日中戦争の局地戦の1つとして「南京」があった。だが、夢にも“大虐殺”などは存在し得なかった。「参戦勇士が語る『南京事件の真実』」(12月6日・東京九段会館)は盛会であった。参加された読者からもコメントを数多くいただき、感謝する。登壇され、あるいは書簡で証言を寄せられた元日本兵士方々によれば、いわゆる南京入城後も、やはり南京市街は平穏であった。少なくとも戦後42年間にわたり、支那の教科書さえ記述していなかったその「逆証」が、高齢の諸氏の証言によってなされ、「史実」の一端があえて確認された催しであった。
「参戦勇士が語る『南京事件の真実』」の催し(週刊新潮)
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表題の稲垣清氏も、またその中で最後に証言された1人であった。稲垣氏の証言の一部(同)
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表題には、『自ら食料を運んだ体験から「食料は十分でしたから、農家から略奪、暴行という記述を戦後みるたび違和感を覚えました」と話す。稲垣さんは行軍を8ミリフィルムなどで撮影している。「蒋介石の妻の名を冠した建物『美齢宮』が、日本軍の標的とならないよう黒塗りされたという南京国際委員長、ラーベの日記が知られていますが、のどかな風景に白い建物が写っています」。高い城壁に囲まれた南京に入ったときは「焼けた家もあるにはあったが、みじめな状態ではなかった。城内では、市民はみんな難民区(安全区)へ入っていて、入城式でも市民の姿は見かけませんでした」』と稲垣氏の証言が紹介されている。 また、『入城後、10日もしないうちに中国人は安全区から出るようになり、城内に市も立った。その映像もある。「商魂たくましいというか、われわれを撮影しては、それを記念写真として売ろうとする中国人もいました」。このころの写真や合成写真が後に「残虐行為を働く日本兵」として広まっていく』とある。貴重な証言の他に、8ミリ(動画)で当事の情景を撮影されていたこと。さらに、支那人が売っていた「合成写真」の指摘。その悉(ことごと)くが、筆者が他の元兵士(故人)から以前に伺った話と一致する。諸賢に許しをいただき、海外向け版のDVD(またはCD)を作りたい。 “南京大虐殺”とは、戦後はるかな時間を経て、朝日新聞から生まれた虚構であり、その罪は重大である。元兵士、および軍属方々にとっても、まさに「寝耳に水」であり、途方もなく大きな「濡れ衣(ぎぬ)」を着せられたのである。明年にかけて、特定国による宣伝は激化するであろう。だが、万一にも、それを日本政府が認めるようなことがあってはならない。 証言された諸氏のますますのご健勝を願い、幾多の先人の恩功に、国思う活動を捧げる。
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【筆者記】
仁義無き啓蒙と果て無き議論の末、先年、日教組を辞め、教員まで辞めた知人が語っていた。日教組にいた頃は、失望、絶望が充満していた。日本を貶める教育活動をいくら重ねても、良心の呵責で悩むこともあり、心が満たされることはなかった。だが、今は日本国民として、日本の未来は国民が築くものだ、という希望と喜びがある、と。国思うみなさまの存在が、感謝される時は必ず到来する。
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▼創価「遺棄化学兵器」か(博士の独り言) ↓

http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-1223.html
遺棄化学兵器を確認  外務省、内閣府

中国黒龍江省での調査報告 党プロジェクトチーム
 公明党の遺棄化学兵器処理問題対策プロジェクトチーム(PT、斉藤鉄夫座長=衆院議員)は11日、参院議員会館で会合を開き、中国黒龍江省の佳木斯市と寧安市で見つかった遺棄砲弾について、外務省と内閣府から現地調査の報告を受けた。これには、斉藤氏のほか、丸谷佳織衆院議員、西田実仁、沢雄二の両参院議員、大滝正雄横浜市議が出席した。公明新聞2006年7月12日付記事より参照のため引用/写真は「外務省と公明党による協議」同記事より参照のため引用
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「検証」無き「支援」プロジェクト
有志ブログの多くがあつかわれている事柄と思う。諸氏の英邁な指摘と論及に敬意を表し、小ブログからも短稿を呈する。また、先稿に対し、読者のみなさまより的確なコメント、新たな情報をいただき、感謝する。 表題については、国内で多数の「引渡兵器目録」が発見され、“遺棄”したとされる「化学兵器」は、終戦時の武装解除にともなう「譲渡」である事実が指摘されている。だが、その“遺棄化学兵器”発掘費用拠出の見直しを求める議論が無い。このままでは、国庫から巨額の拠出を余儀なくされるが、それでいいのだろうか。
引渡兵器目録(産経新聞)
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外務省が、「当時、兵器が中国、ソ連の同意の下に引き渡されたことを確実に裏付ける証拠、資料があるとは承知していない」(要旨)と勝手に事を進め、化学兵器禁止条約にもとづいて日本政府がすべての必要な資金、技術を提供する、と支那の要求を全面的に受け入れてしまった。総工費は「約3000億円」ともいわれている。これまででさえ、2000年以降、政府は「旧日本軍遺棄化学兵器処理費用」に970億円超を拠出。総費用ではすでに1兆円程度に膨らんでいる、との識者の指摘がある。 今後も、総じて間接費や支那の「新たな要求」を含めれば、その10倍程度に膨れ上がるのではないか。 例えば、最近、吉林省敦化市林業局が『周囲の景観が損なわれたとして「景観費」補償の名目で「数千万元(1元は約15円)」を日本側に新たに要求、交渉が長引く一因となっていることが分かった』(12月7日付産経新聞)もその1つで、理由のつけ放題、要求のし放題である。これを助長しているのが外務省であり、その外務省を支えている隷中政党・公明党である。表題(参照)引用する「プロジェクト会議」は、まさにあるべき「検証」と「国庫」の痛みを蚊帳の外に置き、支那のために尽くす御用会議でしかない。

云く、『会合で、外務省は6月27日から7月3日の間で現地調査を行ったことを報告。佳木斯市では、中国が事前に回収していた砲弾87発のうち10発について外観鑑定を行い、8発が旧日本軍の化学兵器であると確認した。また、寧安市では、発掘した18発の砲弾のうち6発を外観鑑定し、5発を旧日本軍の化学兵器と確認したと述べた』と。また云く、『一方、内閣府は外務省の調査での現存確認を受け、7月5日から11日まで寧安市での現地調査を実施、発掘した695発のうち210発が旧日本軍の化学兵器と確認したと報告した』とある。

日本軍の兵器と「判定」する「外観鑑定」の基準、判定プロセスは国民の前に明らかにされているのだろうか。情報公開が不十分ではないのか。まして、すべてが「日本軍の兵器」ではない。その発掘費用を、日本が「すべて」拠出する必要があるのだろうか。内閣府に専門的な調査・検証能力は無い。外務省が「白」を「黒」と報告すれば、それを「受け」ざるを得ない立場にある。言葉を換えれば、事の主導権は外務省にあり、その“調査”に「そうか、そうか」とうなずき役を演じる公明党なのである。国害の1つがまたここにある。
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参戦国が保有していた化学兵器
誤解されやすい点だが、戦時中の「化学兵器」は日本のみの所有ではなかった。米英をはじめ、独伊仏など、欧米諸国は開発に力をいれ、旧ソ連、支那にいたっても「化学兵器」を保有していたのである。明らかに「日本製」ではない化学兵器が発掘作業で「多数派」を占めているとすれば、それらがどの国の製造のものであるか。第三者機関を通じて「国籍」別に検証する必要もあるだろう。何でもかんでも支那に「右へならへ」では、日本国民の血税は際限なく支那と権益業者を潤すのみだ。
外務省と公明党(創価学会)による「隷中屈中」プロジェクトの実態について、1人でも多くの方に気づいていただきたい。
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・創価「外務省」か

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