日本兵に成りすました中国兵でした。 | 日本のお姉さん

日本兵に成りすました中国兵でした。

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原敬が暗殺された日
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         渡部亮次郎

11月4日は「平民宰相」原敬(はら たかし)が東京駅で刺殺された日で
ある。1921年(大正10年)11月4日のことだった。

犯人は、鉄道省(当時)山手線大塚駅職員であった中岡艮一(なかおか
 こんいち)。殺人犯にも拘らず3度もの大赦で1934年には早くも釈放さ
れた

大塚駅の転轍手であった中岡は、以前から原敬首相に対して批判的な意
識を持っていた。中岡の供述によれば、原が政商や財閥中心の政治を行
ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、ま
た尼港事件が起こったことなどによるとされている。

その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であっ
上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、中岡は首相暗殺
を考えるようになった。

かくて1921年11月4日、京都での政友会大会へ向かうため東京駅に来た原
は、午後7時25分頃、突進してきた中岡に凶器を胸に突き刺された。傷は
右の肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。

逮捕された中岡は、死刑の求刑に対して、東京地裁で無期懲役の判決を
受けた。その後の東京控訴院・大審院でも判決は維持され確定した。

しかもこの裁判は異例の速さで進められ、また調書等もほとんど残され
ていないなど「謎」が多い裁判として知られ、その後の中岡の“特別な”
処遇(3度もの大赦で1934年には早くも釈放された、戦時中には比較的安
全な軍司令部付の兵となっていたなど。

本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多い。

無期懲役の判決を受けたが3回の恩赦により1934年出獄。獄中で回想録
「鉄窓十三年」を書いた。出獄後は目立った政治活動はしていないが頭
山満と関係を持ったとされる。

また満州で陸軍司令部に勤務したといわれる。戦後復員したとの情報も
あるが詳細は不明。中岡が原を暗殺するに至ったきっかけははっきりと
はわかっていないが、前述した原の政治に対する不満の他に、以下のよ
うな話もある。

玄洋社などの当時の右翼勢力と関係があったという説。有名な右翼テロ
リスト五百木良三が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとさ
れる短刀での犯行手口などが根拠となっている。

犯行の1か月前、中岡と上司・橋本との政治談義の中で原政治の批判に
なり、橋本が「今の日本には武士道精神が失われた(政治家は悪いこと
をした時に、責任を取るという意味で)腹を切ると言うが、

実際に腹を切った例はない」というような趣旨のことを言ったのに対し、
中岡が「腹」と「原」を誤解し、「私が原を斬ってみせます」と言明し
たという。

このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、
橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった(求刑は懲
役12年)。

原は65歳の生涯であった。彼の政治力が余りに卓抜していたために、原
亡き後の政党政治はバランスを失ってしまうことになる。原こそは卓越
した政治感覚と指導力を有する政治家であった。

当時の政治の裏側を知るには、原の残した『原敬日記』(はらけいにっ
き)が格好の史料であるが、一個人としての原敬の実像を知るには、原
の養子である原圭一郎(本名原貢)の回想録『ふだん着の原敬』が格好
の資料である。

『原敬日記』は、一般には1875年に帰省した際の日記から、暗殺直前の
1921年10月25日までに書かれた日記の総称であるが、暗殺を予期して

認めた遺書の中で「当分世間に出すべからず」と厳命しており、公開され
たのは1950年のことである。

近年では、原敬が大正天皇と近かったことから、大正天皇と『原敬日記』
の関係についても研究されている。

原敬は、1856(安政3)年2月9日、盛岡藩盛岡城外「本宮村」(現在の盛
岡市本宮)で盛岡藩士 原直治の次男として生まれた。

後に「平民宰相」と呼ばれた原は、実は祖父・直記が家老職にあったほ
どの上級士族の家柄だが、20歳のときに分家して戸主となり、平民籍に
編入された。彼は家柄についての誇りが強くいつの場合もみずからを卑
しくするような言動をとったことがなかったとされる。

また、後年、号を「一山」あるいは「逸山」と称したが、それは原の薩
長藩閥への根深い対抗心を窺わせる。戊辰(ぼしん)戦争で「朝敵」とな
った東北諸藩(除く秋田藩)の出身者が、「白河以北一山百文」と薩長出
身者から嘲笑、侮蔑されたことへの反発に基づいているからである。

白河とは福島県白河市のことで、古来より「白河関」がみちのくへの入
り口であった。白河で天気が北国に変わる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2007・11・02



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話 の 福 袋
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 ◎米国人講師の窮状伝える NOVA破たんで米紙

【ニューヨーク2日共同】2日の米紙ウォールストリート・ジャーナル
は、経営破たんした英会話学校NOVAで働いていた米国人講師らの窮
状ぶりを東京発の1面記事で伝えた。

同紙によると、28歳の米国人講師の男性は9月から賃金支払いがなく、
預金口座には20ドル(約2300円)を残すだけになった。帰国の航空券購
入に借金が必要で、身動きが取れない状況だという。

同紙は「多くの講師が日本に残りたいと望んでおり、他の仕事を探して
いる」と指摘した。

また、キャラクター「NOVAうさぎ」を使ったテレビCMが人気で、
NOVAが急速に事業を拡大したことを紹介。レッスンの予約が取れな
いなど生徒からの苦情が増え、
6月に経済産業省から一部業務停止の処
分を受けた後、業績が悪化した経緯を説明した。

2007/11/03 08:14 【共同通信】


 ◎台北・出雲チャーター便相互運航

台湾・台北市と島根県松江市の旅行会社が連携し、台北-出雲両空港間
で二日、観光客を乗せたチャーター便を相互に運航した。台湾からの観
光客は全行程の4日間、島根県内を周遊。両社は年2回、同様のチャー
ター便旅行を企画する予定で、山陰と台湾の観光交流拡大の起爆剤とし
て期待される。

松江市の一畑トラベルサービスと台北市の東豪旅行社が、中華航空機
(百五十五人乗り)をチャーター。両社がそれぞれ、2日から3泊4日
の島根、台湾ツアーを組んだ。

同日午前10時ごろ、台湾からの157人が出雲空港に到着。約1時間後、
128人が台北に向かった。

台湾の一行は出雲空港で、しまね観光大使らの歓迎を受けた後、県立古
代出雲歴史博物館などを訪問。古代出雲歴史博物館では、出雲大社境内
で出土した宇豆柱(うづばしら)や荒神谷、加茂岩倉両遺跡の青銅器な
どに見入った。

3日以降は、足立美術館や奥出雲・鬼の舌震、松江堀川遊覧船などを
周遊する。

06年度に台湾から松江・出雲地区の主な有料観光施設を訪れた観光客は、
延べ8590人。海外の国・地域別では最も多かった。

一畑トラベルは、台湾からの山陰ツアーの草分けである東豪旅行社との
連携を深め、客数の一層の増加を図りグループ企業などに波及効果を広
げたい考えだ。('07/11/03 )山陰中央新報


 ◎秋田県内タクシー、12月から全面禁煙 東北で初


秋田県ハイヤー協会(107社加盟、約1720台)は、112月1日から協会所
属のタクシーを全面禁煙とする方針を決めた。全国乗用自動車連合会
(全乗連、東京)によると、都道府県単位での全面禁煙は全国10番目、
東北では初めてとなる。

秋田市個人タクシー協同組合(72台)と同市個人タクシー協会(9台)
も同月から、全面禁煙としたい考えだ。

県ハイヤー協会は、平成15年の健康増進法施行を機に、公共機関で禁煙
が広がっていることや受動喫煙が及ぼす運転手への悪影響を重視。車内
のたばこのにおいを嫌う乗客が女性を中心に多いこともあり、全面禁煙
はサービス向上にもつながると判断した。

秋田市などではすでに、禁煙開始を知らせるステッカーをタクシーに張
り、周知を図っている。

同協会は客とのトラブルを防ぐため、運転手用のマニュアルを作成中。
我慢できずに喫煙したくなった客がいた場合は、安全な場所にタクシー
を止めて携帯灰皿を渡し、車外で吸ってもらうようにする予定だ。
秋田魁Web (2007/11/03 14:24 更新)


 ◎ペルー福島県人会が記念式典 移住100年、盛大に祝う

福島県出身者のペルー移住100周年を祝うペルー福島県人会(中村ギエル
モ会長)主催の「ペルー県人移住100周年記念式典」は1日夕(日本時間
2日午前)、リマ市のホテルで行われた。

県からは佐藤雄平知事、遠藤忠一県議会議長ら北南米訪問団が出席、移
住1世紀を振り返るとともに、県人の100年間の労苦をねぎらった。知事
の出席は1997(平成9)年の県人移住90周年式典以来、10年ぶり。

先人の慰霊法要に続いて行われた式典には、約300人が出席した。中村会
長は「私たちは両親や祖父母たちからさまざまな苦労話を聞かされて育っ
た。

今日あるのは先輩方のおかげで、先駆移住者には、ペルー日系人の今日
の繁栄は想像し難いと思う。あらためて『おじいちゃん、おばあちゃん
どうもありがとう』とお礼をいいたい」と先人の努力に感謝の意を示し
た。

土亀エルネストペルー日系人協会長、石田仁宏在ペルー日本大使が祝辞。
佐藤知事は県人会の長年の労苦に敬意を表した後、海外在住の特別功労
者、功労者、高齢者に表彰状や知事賀寿を贈った。県人会には県が会津
漆器屏風(びょうぶ)時計、県旗や祝い金を贈った。

式典では、民族舞踊や故郷の音楽が響く中、出席者たちが杯を酌み交わ
しながら和やかに交流を深め合った。

福島県のペルー移住は1907(明治40)年、県人52人を乗せた笠戸丸がカ
リャオ港に到着したのが最初とされ、今年で100周年の節目を迎えた。
(ペルー・リマで佐藤掌記者)(2007年11月3日 福島民友ニュース)


「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 11月5日(月曜日) 
通巻 第1989号  (11月4日発行) 

 愚かなり、新日鐵の選択
   近未来の最大のライバル宝鋼集団と業務提携を拡大
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 新日本製鉄は中国上海が拠点の鉄鋼企業「宝鋼集団」と提携の拡大で合意した。
両社が出資して設立する合弁会社で自動車用亜鉛メッキ鋼板の生産能力を倍増させるのが主な内容だが、このほかに環境保全で最大限の協力をするという。
「宝鋼新日鉄自動車鋼板」(上海市)はすでに自動車鋼板を年に180万トン生産しているが、中国市場の自動車生産は年間600万台に迫る勢いで、新しく45万噸工場を拡大する。

問題は次の契約内容。
「宝鋼が海外で株式を上場した後、株式の相互取得も検討する」。

両者の提携拡大は表向きの目的として、「収益拡大」、「生産性向上」「国際競争力強化」だが、本当の目的は世界最大の鉄鋼企業「アルセロール・ミタル」(本社ルクセンブルク)に対抗するためである。アルセロールはインド系の鉄鋼企業だが、合併、買収によりアレヨアレヨという間に世界最大となって新日鐵を脅かしている。

一方宝山製鉄とは過去三十年にわたって新日鐵が技術を教え込み、同社を中国最大の鉄鋼メーカーに育てた。
 中国の商法は「右手に算盤、左手に論語」ではなく、「孫子の兵法」をもじった「孫子の商法」であり、奇襲、裏切りがもっとも得意とする特徴がある。仇で返すのは、中国においては常識であり、最悪の懸念は、提携企業をある日、ごっそりと乗っ取ることにある。
プーチンのロシアが、日米が参加した国際コンソシアム「サハリン2」を、プロジェクトが完成するや、環境問題に難癖をつけて、ごっそりと乗っ取ったように。

       ○●◎み◎や◎ざ◎き●◎○ま◎さ○ひ◎ろ●◎

(読者の声1) 貴誌1988号(11月2日発行)(読者の声1)MC氏の「例2:<続いて質問したのは、TVタックルや太田総理の番組辺りに登場する滞日40年以上の米人ジャーナリストS氏で、南京で日本軍は何人殺したのかと、その数字を北村氏に問い質しました。これに北村氏は、丁寧に「そういう調査はしていないのです」と答えましたが、数字を挙げろと、傍から見ていても辟易するほどしつこく食い下がっていました。 回答:ベトナム戦争では米国はどのくらいベトナム民間人を殺したのか、知っていますか? と逆襲する。これで分からないとなります。なおそれは別だといったら、別ではありません、二重基準は許されませんとピシャリと言えばよい。
欧米人は討論術(ディベート)に長けているので、基本の返し技を覚えておきましょう」は逆効果です。
「あなたは南京事件の専門家であるが私はベトナム戦争の専門家ではない」と言われておしまいです
こういう場合は、「神様が知っている(God Knows)」という「誰にも分からない」という意味の英語の常套句で切り出してからこういうのです。南京陥落の時点で南京に住んでいたドイツ人エンジニアのヨン・ラーベ氏の日記が出版されています。その中に三人の日本人兵士が女学校に侵入して女子生徒を人質にとり略奪を行なったと書いてあります。ひどい話ですね。
三日後に三人が降参したところ、彼ら日本兵に成りすました中国兵でした。当時のニューヨークタイムズ紙(1月6日号)に書いてあります。
確かに日記は良い資料ですが、書いたことが間違っていたことに気づいても後で訂正するなんて事はまずしません。こういったように歴史的資料を解析して何が起こったかを組み立てなおすことは大変なことです。
「南京で日本兵が大虐殺をした」というようなスローガンをいいたてるのとは全く違った作業です。オオニシ記者に頼んで、NYT紙の資料室からその記事を取り寄せて読まれてはいかがですか。有効な反論をするには、多くの知識と、公平で論理的な議論が重要です。
   (ST生、神奈川)

(宮崎正弘のコメント) 

ノリミツ・オオニシ記者に頼む? 最大の皮肉ですね。