聖書的な嫌いな人との付き合い方
聖書は、世界の創造主である神さまがイスラエル人を人類の代表として選び、
世界中の人に、神さまの存在と神さまの愛と計画を伝えるようにと、
歴代の預言者たちに書かせた約束の書物である。
人間を罪の裁きである地獄から救う方法を世界に広め、それによって
多くの人が罪を赦されて天国に行けるようにしたいという神さまの
目的によって古くからの預言の書に加えて
終末の預言がイエス・キリストの弟子によって書かれた。
また、イエス・キリストの言動を弟子が書き伝え、多くの人が陶器の破片や
パピルスや羊皮紙に、それを書き写した。それがまとめられたのが
新約聖書である。
イエス・キリストを信じる者は、イスラエル人だけに限らず、
異邦人でも救われるという福音は、弟子たちや伝道者たちによって、
世界中に伝わった。
古い約束はイエス・キリストによって成就し、新しい約束が与えられた。
旧約聖書の預言と新約聖書の預言はセットになっている。
イエス・キリストがメッセージに使った言葉も旧約聖書からである。
また、旧約の預言の救い主に関する330以上の預言は、すべて
イエス・キリストによって成就されている。
弟子たちや伝道者たちは、厳しい迫害に追い立てられるように
ローマから出て行き、その結果、世界中に福音が伝わった。
ローマは、当時、世界を統一し、ギリシャ語は世界共通の言語であった。
イエス・キリストの福音が世界に広まるには最適な時期であった。
その時から2千年の月日がたって、東洋の小さな島、日本にも
神さまの言葉である聖書が伝わってきている。
聖書から神さまが伝えたいメッセージはひとつである。
それは、神さまは、人を愛し、罪を赦そうとされているということである。
罪を赦された者は、永遠のいのちを得て、死後も神さまの国である
天国に行けるが、そうでない者は、生まれつき、罪を持っているので、
死後に裁かれ、天国に行けずに地獄で裁かれることが定まっている。
つまり、天国に行けるかどうかは、全ての人間が自分で決めることが
できるようになっているのだ。
罪の裁きは、神さまのひとり子である、イエス・キリストが終わらせて
しまっているからだ。
罪の無い神さまのひとり子であるイエス・キリストが、
父である神さまの右の座から人間として、この世に来られたのは、
罪がある人間を地獄という裁きから救うためである。
預言者たちが書きつづってきたとおりに、
イエス・キリストはダビデ王の家系に生まれた。
預言どおり、奇跡と不思議を行われ、
預言どおり、政治家や宗教家に捕えらて、罪の無い方が
罪に定められ、大勢の人の目の前で十字架にかかって苦しみを
受けて死なれた。
父である神さまは、人間の罪に対する裁きを
ご自分のひとり子に背負わせた。
イエス・キリストが人類の罪の身代わりに苦しみを受けて死んでくださったので、
そのことを信じる者は、信じるだけで罪を赦され救われるようにしてくださった。
クリスチャンは、そのことを自分の罪のためだたっと信じた人だ。
クリスチャンは、罪を神さまに赦していただいたので、
自分も他人の罪を赦すように神さまに言われている。
聖書によると、一日の内に、他人の罪を7の7倍、赦しなさいと書いてある。
他人に害を受けっぱなしになれというのではなく、他人が謝ってきたら
赦しなさいということである。クリスチャンは、嫌いな人がいても、
神さまが愛されているひとりの人として、大切にするように聖書から
言われている。また、迫害する者のために祈り、その人に迫害されても
善を行って、その人に対する裁きは神さまに任せなさいと書いてある。
また、下着をくれと言う者がいたら、上着も分けてあげなさいと
聖書には書いてある。一緒にどこか遠いところに行ってくれと頼まれたら
もっと遠くまで一緒に行ってあげなさいと書いてある。
クリスチャンが、イエス・キリストが十字架の上で
死んで、預言のとおりに三日目によみがえられた記念に、
日曜日に集まって神さまを礼拝しだしたり、イエス・キリストの言われた
とおりにパンとぶどう酒をみんなで分けていただくという聖餐式を行っていた
最初の教会ができた時、すでに、貧乏人や夫を亡くした年をとったやもめや
孤児は、教会で世話をしてもらっている。
アラム語を話すユダヤ人も、ギリシャ語を話すユダヤ人も、同じように
貧乏人は教会に保護されている。
このホスピタリテイーは、初代の教会から続いている。
どこにでも、キリスト教会のあるところには、弱い者や病人を世話する
仕組みができている。
キリスト教が伝わっている国や地域では、自然と福祉施設や病院、学校が
できている。神さまの作られた人間はみな神さまの前にみな平等であると
いう精神は聖書から出ている。
しかし、ローマ時代の末期にローマがキリスト教を国教にした後では、
聖書の教えから離れたカトリックという宗教が政治と結託していった。
クリスチャンは無い者が聖職者になって政治的な力を持つようになった。
また、イエス・キリストの福音を伝えずに、宗教行事を行い、聖書を
封印して、一般人の目から遠ざけ、免罪符を売ったり、勝手な理由で
一般人や一風変わった服装をしている女性を魔女と決め付けて
拷問にかけて殺したりした。またあちこちに植民地を作って、支配した。
聖書が書かれた時代にも、ローマ時代にも奴隷はいた。
生まれつきの奴隷と戦争に負けた民族が奴隷になった。
また勝った国の属国になった民族普通は奴隷であった。
ローマ時代には、ローマの市民権を持った者は、特別の保護を受けていた。
ローマ市民で無い者は、ローマの保護は受けておらず、裁判を受ける
権利も無かった。
神さまはイスラエル人に、奴隷は、7年目には自由にさせるように命令
されている。
また、奴隷が主人の女奴隷と結婚していて、その主人から離れたくない
場合は、主人は柱に奴隷の耳をつけて穴を開け、ピアスをつけるようにと
書いてある。
ピアスがついている奴隷は、主人の下で一生働きたいと自ら願った者である。
その奴隷は、家族のために一生を奴隷の身分でいることを決めたという
ことである。
聖書に書かれている命令には、実は神さまの愛と惠みが現れている。
ひずめの割れていない動物は食べるなとか、豚は食べるなという命令は
イスラエル人が寄生虫や病気に犯されないように配慮してのことで、
現代の豚は衛生的に育てられているし、寄生虫も良く焼けば大丈夫なのだ。
そういう知識が無い場合、食べるなと言うのが一番手っ取り早い。
また、子牛をその母の乳で煮るなと書いてある。
そういうかわいそうなことをしてはいけないと、神さまはイスラエル人に
命令された。子牛を殺してさっきまで子牛が飲んでいたミルクで
クリームシチューを作るのは残酷なことだと、神さまはイスラエル人に
言われた。「目には目を、歯には歯を」という言葉も聖書の言葉で、
ひどいめにあっても、それ以上の罰を与えるなと言う配慮だ。
目を潰されたら、罰は目を潰すことで、とどめなさいということだ。
命まで奪うなということだ。
まちがって、人殺しをした者は、逃れの町に逃げ込めば、殺されない。
ただし、逃れの町から一歩でも出たら、親族の復讐を受けることになる。
聖書的な嫌いな人との付き合い方は、
「迫害されても善行を積みなさい。燃える炭火をその人の頭に積むことに
なるのです。」
「罪を犯す人にはひとりきりの時に、彼に忠告しなさい。それで止めてくれ
なかったら、2、3人の前で忠告しなさい。それでも、聞いてくれなかったら
教会のみんなの前で忠告しなさい。それでも止めなかったら相手の心から
の反省を促すために教会の群れから追い出しなさい。」
「ケンカになって、裁判沙汰になる前にその人と話し合って、解決するように
しなさい。」などの言葉がある。
また、旧約聖書には他人の悪にかかわって被害を受けないようにしなさい。
友達が悪ければ自分の生活も悪くなります。
言葉のなめらかな女に注意しなさいなどの、いろいろな細かい忠告が
書かれている。
中には、クリスチャンに悪いことをして、
「クリスチャンは、何でも許してくれるんだろ?」などと言う人がいるが、
なんでも自分にやらせることを許可するのではなく、
悔い改めて謝ってきたら赦しなさいと書いてあるので、じっとしている必要は
なく、悪を行う人から逃げるべきだ。
また、右のほおを打たれたら左のほおも出しなさいと書いてある箇所を差して
クリスチャンを叩こうとする人がいたら、その人は普通の人では無い。
別に、犯罪者にされるがままになっていなさいと言う意味ではないので、
逃げるべきだ。
クリスチャンを拘束して迫害しようとする人は、いつの時代にもいるので、
迫害に耐えなさいという意味だと思う。
クリスチャンは、嫌いな人がいたら、その人のために祈るように聖書に
書いてある。主権は神さまにある。復讐をするのは、神さまだし、
正しい裁きをするのは、神さまに選ばれた行政者の仕事だ。
行政者は、常に正しい裁きを行うべきだし、全ての行動の責任を負う。
クリスチャンは、神さまに仕えるように、王さまなどの行政者に従い、税金を
きちんと払い勤めを果たしなさいと聖書には書かれている。
また、きちんと仕事をして落ち着いた生活をするようにと書かれている。